大能のちから
✝エペソ 6章 10節 2017新改訳
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
ここでの「大能の力」とはなんでしょうか? それは同じ言葉が出ているエペソ書1章17節以降によると、次のように説明されています。「信じる者に働く神のすぐれた力」であると。私の理解ではそれは<聖霊の賜物>のことであって、信じられないほど偉大なものであるとパウロは述べているのです。もちろん私も全く同感します。ところがこの賜物に関して、多くのキリスト教徒は信仰の告白やバプテスマと同義語と見做し、神の「信じられないほど偉大」なこの恵みに与っていないのです。神の力を知らない、これは神と人にとって由々しき事です。その上現代では聖霊を知らない信者が圧倒的多数となり、聖霊の賜物について「熱狂的、狂信的」とか「カルト」視されている時代でもあるのです。しかし神にある者は、人から動かされることはありません。
「大能の力」を求める者には、すべての栄光を神に帰す者になるべく、個々人に相応の道(神に己を明け渡す試練の過程)を通されることでしょう。したがって、神は人の心をご存じなので、神に対し、ご利益的な求めの段階の方は決して受ける事ができません。しかしそうでない方にも、もし不思議なわざが現されるとしたら、その方は悪霊に用いられている可能性が高いのです。
大能の力は神である聖霊の力であり、人への賜物を通して現されるものです。それは決して聖書の範囲を超えるものではなく、個々への具体的な適用として用いられます。そうでないと、サウル王のように神が悔やまれることになりますし、終末が近い今となっては、神が悔やまれるケースはまず起こり得ないはずです。
私たちの教会のアイデンティティは、まさに「大能の力」です。これを牧師である私は、一般のプロテスタント教会の誤解を解き、生ける神を崇める聖書信仰の上に、「聖霊の賜物」を用いる教会であるというイメージを追求し過ぎていたと反省させられています。それは年度末のタイミングで、かつて私が所属していた同じ教団の教会を訪れ、そこで痛切に感じさせられたのです。「お前はどこから出てきたのか?」と。
ああ、みなさん、この群れの看板に偽りがなければ、私たちは「大能の力」ある教会なのです。立派な会堂も墓地もくつろげるスペースも、ついでに宗教法人資格も、世的なものは何もないかも知れませんが、主なる神が、聖霊なる神が居られ住まわれておられる教会なのです。神が主任牧師であり、神が聖霊を通して直接導かれる神の教会なのです。これ以上の大切なアイデンテティが他にあるでしょうか。そしてこのアイデンティティに堅く立たなければならないのです。
ですから私は言います。賜物の代表である「癒やし」と「預言」をこの教会のこれからの看板にします。私たちは「癒やし」と「預言」の教会、これをこれからはあからさまに積極的に押し進めて参ります。
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