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2022年12月

2022年12月25日 (日)

感謝する

エペソ 5章19~20節   2017新改訳

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 クリスマスは名前からして、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いする、楽しく喜ばしい日という意味になります。しかしいくつかの理由があって私たちの教会は、キリスト教会であるのにほとんど祝わないのです。

まず12月25日という日、これは聖書の記述から正しくありません。この時期、ベツレヘムの山地に雪が降ることがあるぐらいですから、羊飼いたちが野宿ができるような気候ではありません。5月から10月の間なら可能でしょう。
なぜこの日にかと言うと、冬至が過ぎ、太陽の復活が始まる太陽を崇める異教の祭りの日に因んでいるからです。関連するのはミトラ教、サトゥルナリアです。ひいらぎなどの常緑樹、それへの装飾などがそうです。これには教会が異教徒の取り込みのために、キリストの降誕日が明らかでないのを利用した経緯があります。
キリストが受肉され、世に降臨されたことについて、慎んで感謝する日であるべきです。決してお祭り騒ぎにすべきものではありません。すでに学んだようにイスラエル民族の歴史を通して、キリスト来臨の必然がありました。偶像崇拝から律法遵守へとイスラエルは前進しましたが、それでも肝心の「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神を愛しなさい」は形骸化し、どうあっても神を自分以上に愛することは、人間自身の力では不可能であることが明らかになりました。そこで神ご自身が人間を救うための自己犠牲の愛の決断をされたのです。この後イエス様は十字架への苦難の道を歩まれます。それならば、救い主を送ってくださった神に心から喜び感謝はしても、儀式のように飾ったり、お祭りのように騒ぐのは本筋から外れています。神の愛に感謝する日なのです。

キリストが十字架で死なれたことは、罪と死が滅ぼされた勝利の瞬間になりました。三日後昇天され、天の神の右の座に着かれ、一切をさばかれる大能の君となられたのです。このキリストによって救われた私たちが本当に喜んで良いのは、大患難の中頃のラッパの響きによる空中携挙の時と、最後の審判後、新天新地が降り立った時ではないでしょうか。私たちはその時、心から喜び祝いましょう。今はまだ「全てのことについて、神に賛美し、感謝」しましょう。
その感謝はクリスマスの今日に限らず、朝目が覚めた布団の中で、食事の前に、体調が良きにつけ悪しきにつけ、すべてのことについて、神に心から感謝をしましょう。良かったことを感謝する時よりも、悪かったこと、一例を挙げれば交通違反で青切符をきられても、ステージ4のガンにかかっても、心から感謝するするのです。世で言うクリスマスの今この瞬間から、感謝に溢れる日々を歩んで参りましょう。 

2022年12月18日 (日)

彼の打ち傷によって

イザヤ 53章5節   新改訳第3版
 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ことが多いと思われる。しかしキリストへの打ち傷が私たちの癒やしに、どうしてなるのかわからずに祈っている方も多い。<キリストへの懲らしめの鞭、それが私の癒やしになった>意味を、クリスマスまでの数日間をかけ、学んで行きましょう。

 まず天の高き御坐に居られ、多くの天使たちと軍勢に囲まれておられたイエス様が、滅ぶべき被造物の世界に受肉されなければならなかったかについてです。はっきりわかること、これは創造以来の神の計画であり、必然であったことです。神は人を造られましたが、人が罪を犯すことをも予期しておられました。そうでなければ、これだけの広大無辺な宇宙世界の創造は不要でした。
 またアブラハムから始まったイスラエル民族は、キリストの必然性を民族単位で証明するものでした。見えるものしか信じない人間の罪性は、偶像崇拝の罪の土台です。しかしこの偶像崇拝を断ち切るために、イスラエルを打ち、捕囚の民とし、国と神殿を失わせました。信仰の拠り所としての見える神殿を失った反面、民は律法という、救いに至る素晴らしい道に気づかさせられたのです。イスラエルの民は各地におけるシナゴーク(会堂)で律法に聞き従う民となりました。イスラエルの民は偶像崇拝の罪から脱することができたのです。

 ところがイスラエルはまたもやつまずいてしまいました。それも根本的なところでつまずいたのです。律法は福音書でも分かるように<神と隣人への愛>が主題です。しかし律法はその神の御心から離れ、文言を細かく規定し、表面的にそれをなぞるものだけとなったのです。いわゆる形骸化です。ここに至っては神の愛を実際的な形で教えて示し、人間の罪性を神の愛<=罪の身代わり>神ご自身が引き受けられ、赦し、もはや人の力ではなく、神の力(聖霊)で変えられるしかなかったのです。

 従ってこのイザヤ書53章の「打ち傷」による「癒やし」とは、私たち人間が神によって罪が赦され、内住される聖霊様によって御心がわかり、神を心から愛する信仰に至る、つまり神との正しい関係に直されることが<癒やし>であるのです。それが人間にとっての真の癒やしであり、救いなのです。その結果として体の癒やしもあることでしょう。しかし肉体が癒やされても霊と心が癒やされていなくては、その肉体の癒やしはただの時間稼ぎのメリットでしかありません。ここでの<癒やし>とは神を愛する者に変えられるということです。

アーメンでしょうか。

2022年12月11日 (日)

父の愛

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

5:「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
6:主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられるのだから。」
7:訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

 多くの人にとって神のイメージは、穏やかで優しく、怒るに遅くすべてを受け入れ赦してくださるといったものでしょうか。しかし同時に神は義であり聖であるので、罪に関わる一切は赦されても、罪を犯し続ける罪性まで受け入れられることは決してありません。

 ですから神はご自分の子に対して、例外なく訓練をされます。それは当然です。なぜなら私たち血肉の体を持つ者は、例外なく罪人であり、十字架の恵みに与ったとしても、容易には罪の性質から逃れられないからです。もしその罪の性質のまま天国に入ったとしたら、聖と義を汚し、即外の暗闇に追放されてしまうことになるでしょう。根本的に、新しく作り変えられなければならないのです。

 しかしそれは自分の力、努力、修行、精進とかの類では不可能です。根本的に自己愛から逃れられない人間の弱さ、罪深さがあります。ですからこれは神の力に依るしかないのです。これこそ「神の試練」であり、一人一人に注がれている神の愛です。試練に苦しんでいる我が子に対し、親は子以上に辛い思いしますが、その後のはるかに素晴らしい結果を知って耐えてくださっているのは神です。
 従って神からは訓練があり、時にはムチがくだされます。聖訓練を通らされています。アブラハムは生涯、イサクと墓地以外、約束のものを得ることはありませんでした。 ヤコブやヨセフ、モーセやダビデに至るまで、彼らに訓練が止むことはありませんでした。新約の時代においてすら、ペテロやパウロは常に迫害や困難な中に生きてきました。神からの試練は全能の確かな守りがあり、確実に成功することを信じなければなりません。

 しかし皆さん安心してください。神は全知全能な方ですから、赤ちゃんや幼な子に訓練やムチはありません。ちゃんと成長段階に従って訓練されます。また大事なことですが、基本的に志願制だと言うことです。神の御心を行いたい熱い愛にある方と、神の御心の人にあるのであって、望まない方にはありません。
 ですから試練にある方は喜んでください。あなたは神に愛されている子であり、神の国はあなたのものなのです。

2022年12月 4日 (日)

万能の存在の目的

ヘブル 2章10節   2017新改訳

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

 ヘブル書2章10節の「万物の創造の目的」とは、神がキリストの十字架とその救いを実現するため、全世界、宇宙すべての万物を創造されたと私は理解する。神には救いによる聖徒たちと共に、来るべき新宇宙、天の御国創造の計画があるはずである。
 私たち人間は、自分の力で真の信仰・・・自分の命より神を、永遠のいのちを選べる力がある・・と思ってはならない。その実例として、イスラエルの民との2千年にわたる旧約の歴史がある。神がエジプトで為された十の災い、海を分けての大脱出、さらにシナイの荒野で毎日マナやうずら。岩を割っての水。またアマレク人と戦い。このような神の威光と恵みの奇跡を日々体験しても、イスラエルはカナンの占領にあたっては神を信じず、つまづいた。
 これらのことから、神を信じるとはどういうことかを示している。それは自分の判断ではなく、神の言葉に命をかけて聞き従うということである。私たちの群れの年間主題「あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て」も同様である。主が示された方向に向きを変え、委ね信じて歩み出さなければならない。

 <信じる>ということは人間同士の友情でも言えるが、信じるならば<委ねる>こともできるはずである。それはスポーツでも、仕事でも、あるいは人生の大事な決断においても同じ。特に<神を信じる>信仰においては、条件無しに信じること、自分を委ねることが信じたことになる。ユダヤ人は自分たちの見方、判断を神の約束の上に置いた。それで四十年間荒野をさまようことになった。これはどんなに時代が下がってキリストの時代から今日に至るまで、ユダヤ人は神に自分を委ね、信じることができないでいるのは変わらない。
 ーすべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず【ロマ 3:23】ー
とある通り、罪人どんなに努力しても義とされないばかりか、偽善に落ちいるばかりである。神の子イエス・キリストが地上に来られ、十字架によって罪の力を打ち砕き、信じる者をその縄目から解放してくださった恵みは、計り知れない恵みである。

 本年度のみ言葉によって、私たちは真に「信じる」という信仰にもう一度立ち返り、「向きを変え」て旅立たなければならない。それは自分の力ではなく、全面的に神に自分を明け渡し、委ね、信頼することである。そうすれば約束の地、リバイバルを私たちは占領できる。そこには私たちがこれまで見たことない景色がそある。私たちはこれまでに多くの奇跡やわざを見てきた。それらを見ても信じることができなかったイスラエルの民ではなく、信じ、踏み出せる民となろう。
 万物が創造され、それが存在する目的とは、私たち人間が救われ、聖とされ、神の最終的な目標である天のエルサレムに入れられ、神と親しく交わり、崇め賛美し、神と共に永遠に生きるためだ。その一翼として私たちは用いられて行くのだから。

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