フォト
2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »

2023年1月

2023年1月29日 (日)

神のあわれみに生きる

出エジプト 34章6~7節   2017新改訳

は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 ある時「神はあわれみ深いというけど、私にはよくわからない」という声を以前聞きました。しかし神ご自身で自己紹介されたこの御言葉を読むと、いの一番に「あわれみ深い」が出て来るのです。つまりあわれみがわからなければ、神がわからない、ということになりかねません。これは一大事ですので、本日はこのあわれみについて、共に学び、その恵みを分かち合って行きたいと思います。
 まず<あわれみ>とは<子宮>を意味する言葉でもあるようです。子を宿した母は、我が子の成長と誕生を心から願う存在です。胎の中で安心し、スクスク育つ我が子のためには、どんなことでもしようと強く思うのが母性です。私たちの神も同様です。
 またそのような神が私たちに対して、主観的な激しい心の思いを持つのが当然です。神を信じない者は、子なのに親に向かって「あなたは親と違う」と言っているようなものです。神を信じない人たちは、どれほど神を悲しませ苦しめていることでしょうか。

 罪がわからない人がいます。また、自分の真の姿がわからず、聖書の罪とはどういうものなのか、理解に苦しむ人がいます。さらに自分が本当は罪そのものなので、罪を認めると自分の価値や生きてきた意味が無くなる・・・そんな恐ろしいことなんてできない人もいることでしょう。いずれにしても、実際に行動として犯罪を犯さなくても、人の心の中は欲望や妬み、よこしまな思いで満ちており、神にそぐわない本質的に罪の存在なのです。本当の自分の姿を見たくない思いに乗じて、世の霊、悪霊はあなたを世の見方で持ち上げ、真の自分の姿から遠ざけ、偽り、あたかもいい者のようにだましているのです。

 しかし神の愛は聖霊によって聖を示し、目を覚ませます。聖霊によって自分の真の罪の姿が分かった時、私たちはまず、自分の力できよくなろうとします。修行とか精進とか戒律や律法を守るとか、断食とかをするのです。しかしそれで自分が清くなる目的を達した人はまず居ないと思われます。絶望した者は最後にどうするでしょうか。<あわれみ深い神にあわれみを請う>しか他に道はないのです。神はあわれみ深い方ですので、ここに至って、そのような人々を惜しみなくあわれんでくださるのです。
 あわれんでもらった人は、自分の力できよめられたのではありませんから、誇ることはできません。すべての栄光を神に帰すのです。もしきよめられれば、ますます神を畏れ敬うことでしょう。

2023年1月22日 (日)

私を見いだす

エレミヤ 29章13~14節   2017新改訳

 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
 わたしはあなたがたに見出される─

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリストで、今日に至るまで大きな影響を与えている主の器としてチャールス・フィニーがいる。エレミヤ書29章13節の御言葉(下記)は、彼が29歳の時、森の中で膝まずいて祈っていた時に示されたもの。おそらく誰一人として見る者のいない静まり返った中、若きフィニーが心を尽くして(with all your heart)祈っていた中、神は御言葉を通して彼に触れられたのであろう。

あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される─主のことば─

この御言葉は神が直接フィニーに、これから与える聖霊のバプテスマを予告したものであって、彼は神に触れられ、神が実存することを確信したはずである。

 私も聖霊のバプテスマを受ける前に、フィニーのような御言葉ではなかったが、突然このように触れられた体験がある。それは運転中だったが、全くことばで現しようのない驚天動地の体験だった。それは神がリアルに居られることがわかった瞬間であり信仰のコペルニクス転回点であった。もちろんそれまでにも神を、どちらかといえば熱心に信じていた方だと自負していたというのに。
 それが前妻の精神の病から神癒を求めるようになり、探し求め続けて十年、信仰の放浪を続け、空しく時が経ち、もはやそれも諦めかけていた・・・神に失望し、自暴自棄の心境になったこの時、自分の罪性が深く示され、私は三日間、これまでにないほどの悔い改め続けていた時だった。

 フィニーもこの時「私は何という堕落した罪人なのだろう」と深い悔い改めに導かれている。その時、神はこの御言葉をフィニーに示し、彼に触れられたのだった。

 聖霊のバプテスマを求める人は多い。しかし偽りの聖霊のバプテスマでは、神の教会を貶めるサタンの手先、協力者に落とされてしまう。あの一見華やかな聖霊のバプテスマは、それ以前に、深い悔い改め、つまり深刻な自己の罪性、自分に希望をなくす、の認識が前提となることを忘れてはいけない。
 その認識は、この罪人をも十字架の愛によって身代わりの犠牲となってくださった神の愛がわかった瞬間であり、同時に神を愛することであり、献身の時でもあるのだ。聖霊のバプテスマは自分のそれまでの既成の価値観が一変した後に、神の交わりの開始、入学式のようにしてプレゼントされるものだろう。

2023年1月15日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 4章17節   新改訳2017

この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 イエス様は公生涯を始めるにあたり、その第一声は「悔い改め」であった。マタイ4:17の御言葉から、悔い改めには「天の御国が近づいた」という時があり、その天の御国に入るためのは悔い改めが前提となっているという風に読み取れる。
 確かに神を信じたので、その神に悔い改めるのだ。その悔い改めは、自分に絶望し、それまでできなかった自分を主に明け渡そうとするものだ。つまり「自分のいのちを憎む」という御言葉のの成就となり、新生し、絶大な神からの霊的な恵みにあずかる者となって行く土台だ。

 <祈り>について、これもクリスチャンの特権だが、多くの場合、自分の願いの実現を求めて祈ることが祈りだと思われている。それは決して否定されるべきではないが、本日は新しい視点で、「祈りとは」を示されたので、それを明らかにしたい。
 それは本来の<祈り>は神との交わりの局面において御心を知る、聞くことが祈りであるという点だ。これには薄々気づいていたが、確かにこのようにはっきりと聞き、確信が湧いても来た。

 祈りは最初、幼く赤児のように要求しかできな段階からスタートする。しかし徐々に父を知り、交わりを深め、訓練と薫陶を受けて成長し、やがては成長した子として、意思や感じていることを聞かれたり、逆に父の考えや意思を知るようになる。それを聖霊のバプテスマ、新生という。子はやがて父の意思を自分の意思とし、それをさらに実現しようと身命を賭するようになる。愛する父がそれを望んでいるからだ。祈りとはこのように父との深い交わりそのものなのだ。
 常に流転し滅ぶべきものと、神の神性、永遠との関係はないように、人間の肉的な求めや祈りに、何ほどの価値があるのだろうか。ただ唯一価値があるのは神の御心でしかない。私たち神の子どもは、神の御心のみに生きるのだから、次のような特徴を持つ。

○「神と親しく交わり、神の声を聞く人」は基本的には世と分離させられている。
○世の権威に従うが、神が世より上なので、従属していない。
○ 外見や権威を重んじない。真の権威は神だけ。神の目から全てを判断しようとする。
○人の評判や風評、悪口に左右されない。それは相対的なものだとわかっているから。
○見せかけの謙遜やへり下りを極度に忌避する。
○どんな失敗をしても、神がそれを神の目的のために、あるいは教え導くために許されたのだとわかる。
○つい、自分を守ためとか、言い訳をする、その人の弱さによる<嘘や弁護>を許されない。
Capha

2023年1月 8日 (日)

何のために生きている?

Ⅰペテロ 4章2節   2017新改訳

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。

「あなたには生きる目標があって生きていますか?」とカリスマ派の教会員に問うなら、ペテロ4章2節からの「神のみこころを生きるため」と即答される方が多いことでしょう。しかしさらに重ねて、「ではあなたへの神のみこころは何でしょうか」と問いますと、これには何人の方が答えられるでしょうか。各個人への純粋に神から示されての召しのことを聞いています。

 自分への神のみこころを知らないで、「みこころに生きる」と答えても、それは御題目ということになるでしょう。神は皆さんひとり一人に、異なるみこころをお持ちのはずです。今日ここで取り上げたいのはその中で、みこころの共通する部分です。
 私が示されていること ➡︎神は私たちが意思も感情も必要とせず、ただ命令されたことだけを忠実に行なわせるためだけにお造りになったわけでは決してありません。「聞き従い」とか「しもべ」のイメージが強いのかも知れませんが、そんなことならロボットで良いではありませんか。いや、それよりもっと良い働き手である忠実な天使たちがいます。天地万物を創造し膨大な時間と手間暇かけて、人間なんかを創られる必要なんかないのです。

 では、どういうことでしょうか?人は罪を犯すまでは、たとえ血肉のからだを持っていても滅ぶ存在ではありませんでした。もちろん神は罪を犯すことは予知されていました。キリストは第二のアダムであり、罪の故にアダムが失った御霊のからだを回復させるための神の形でした。十字架を信じる者の罪を赦し、聖霊を送り、時がくれば御霊のからだになると言う、エデンの園を再来させる壮大な神の計画でした。

 次に私たちはいつまでも、神の僕(しもべ)ではありません。確かに子としてくださる神に、全ての栄光を神に帰す訓練を受ける期間はあります。しかし神は私たちを愛していてくださり、子として私たちを遇してくださり、私たち人間の個性と意思を尊重してくださる方です。私たちが喜ぶことを喜んでくださいます。最終的に天国では、完全な自由があり、私たち一人一人の個性が神の栄光を讃え、礼拝するために生かされ、用いられていくはずです。つまり最初のエデンの園では果たし得なかった、数多くの自由意志を持った聖徒たちと共にある楽園が完成する時、それは千年王国の終わりに来るがやがて来る進展新地、天国のはずです。
 このように神のみこころの理解をしていますので、これは私の妄想かもしれませんが、神のみこころの土台となる共通事項として以上を申し上げました。この上に一人一人の召しが合わさって、神の国、天のエルサレムが降臨して来るはずでしょう。

2023年1月 1日 (日)

信じる人々に伴うしるし

マルコ 16章17~18節   2017新改訳

 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。

☆はじめに〜すべてのことについて土台となる事柄があります。サタンは己を良い者とだまし偽らせます。しかし人が自身の罪深さに気づいたなら、その人は神に近いと言えます。クリスチャンとは罪の奈落の底から、十字架の神の愛によって救われた人のことです。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」と言いましたが、罪がわからずして悔い改めることができず、救いもありません。

🔖「わたしの名によって悪霊を追い出し」→これは悪霊の支配からクリスチャンは解放されるということです。
サタンに従う悪霊は、人に対して己の罪深い真実から目を背けさせようとしますが、救いの神を信じ義とされた人は、これを見破り、戦って勝利する力が与えられます。不安や恐れ、自己欲との戦いは血肉の命がある間中、絶え間なく続きます。しかし勝利後の解放された喜びは、悪霊に対する怒りと、真に生きていると実感できる喜びです。

🔖「新しいことばで語る」→確かに聖書を読んでも、信じる前後ではまったく分かりが違ってきます。聖書の一つ一つの御言葉が神のことばであることがわかるのです。み言葉に命があり、自分に語りかけてくることが分かります。「アーメン」にこもる心が違ってきます。そして信じたあなたが神を関して語れば、聞く人には「別人の新しいことば」として伝播し、わかるのです。

🔖「その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」→パウロの例を見るなら、蛇とはマムシのような毒蛇でしょうし、毒とはトリカブトのようなものでしょうか?しかし仮に殉教に終わったとしても、即天国直行ですから神の栄光です。生も死も御心の結果であって、すべて神の最善の実です。ただ一つ、自分の意思で同じ事をして神を試してはいけません。

🔖「病人に手を置けば癒やされます」→これは私たち自身が、自分の体でまず体験しているのではないでしょうか。神に癒やしを求め、ただ単に体が直っただけなら、実は何の意味もないどころか、御心を無にしています。そうではなく、癒やしがその人を悔い改めや神への心からの感謝に向かわせ、信仰を堅くさせたのであれば、真に癒やされたと言うべきでしょう。クリスチャン病は許された病であって、すべて神の計画、御心の故なのですから。

 以上、聖書を神の言葉として信じる方にとって、この聖書箇所は信仰のチャンレンジそのものです。果たして自分に「しるし」があるだろうか? ではなぜ自分にないのだろうか? 本日の解き明かしが参考になれば幸いです。 

« 2022年12月 | トップページ | 2023年2月 »