神のあわれみに生きる
✝出エジプト 34章6~7節 2017新改訳
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
ある時「神はあわれみ深いというけど、私にはよくわからない」という声を以前聞きました。しかし神ご自身で自己紹介されたこの御言葉を読むと、いの一番に「あわれみ深い」が出て来るのです。つまりあわれみがわからなければ、神がわからない、ということになりかねません。これは一大事ですので、本日はこのあわれみについて、共に学び、その恵みを分かち合って行きたいと思います。
まず<あわれみ>とは<子宮>を意味する言葉でもあるようです。子を宿した母は、我が子の成長と誕生を心から願う存在です。胎の中で安心し、スクスク育つ我が子のためには、どんなことでもしようと強く思うのが母性です。私たちの神も同様です。
またそのような神が私たちに対して、主観的な激しい心の思いを持つのが当然です。神を信じない者は、子なのに親に向かって「あなたは親と違う」と言っているようなものです。神を信じない人たちは、どれほど神を悲しませ苦しめていることでしょうか。
罪がわからない人がいます。また、自分の真の姿がわからず、聖書の罪とはどういうものなのか、理解に苦しむ人がいます。さらに自分が本当は罪そのものなので、罪を認めると自分の価値や生きてきた意味が無くなる・・・そんな恐ろしいことなんてできない人もいることでしょう。いずれにしても、実際に行動として犯罪を犯さなくても、人の心の中は欲望や妬み、よこしまな思いで満ちており、神にそぐわない本質的に罪の存在なのです。本当の自分の姿を見たくない思いに乗じて、世の霊、悪霊はあなたを世の見方で持ち上げ、真の自分の姿から遠ざけ、偽り、あたかもいい者のようにだましているのです。
しかし神の愛は聖霊によって聖を示し、目を覚ませます。聖霊によって自分の真の罪の姿が分かった時、私たちはまず、自分の力できよくなろうとします。修行とか精進とか戒律や律法を守るとか、断食とかをするのです。しかしそれで自分が清くなる目的を達した人はまず居ないと思われます。絶望した者は最後にどうするでしょうか。<あわれみ深い神にあわれみを請う>しか他に道はないのです。神はあわれみ深い方ですので、ここに至って、そのような人々を惜しみなくあわれんでくださるのです。
あわれんでもらった人は、自分の力できよめられたのではありませんから、誇ることはできません。すべての栄光を神に帰すのです。もしきよめられれば、ますます神を畏れ敬うことでしょう。
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