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2023年1月15日 (日)

悔い改めの恵み

マタイ 4章17節   新改訳2017

この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 イエス様は公生涯を始めるにあたり、その第一声は「悔い改め」であった。マタイ4:17の御言葉から、悔い改めには「天の御国が近づいた」という時があり、その天の御国に入るためのは悔い改めが前提となっているという風に読み取れる。
 確かに神を信じたので、その神に悔い改めるのだ。その悔い改めは、自分に絶望し、それまでできなかった自分を主に明け渡そうとするものだ。つまり「自分のいのちを憎む」という御言葉のの成就となり、新生し、絶大な神からの霊的な恵みにあずかる者となって行く土台だ。

 <祈り>について、これもクリスチャンの特権だが、多くの場合、自分の願いの実現を求めて祈ることが祈りだと思われている。それは決して否定されるべきではないが、本日は新しい視点で、「祈りとは」を示されたので、それを明らかにしたい。
 それは本来の<祈り>は神との交わりの局面において御心を知る、聞くことが祈りであるという点だ。これには薄々気づいていたが、確かにこのようにはっきりと聞き、確信が湧いても来た。

 祈りは最初、幼く赤児のように要求しかできな段階からスタートする。しかし徐々に父を知り、交わりを深め、訓練と薫陶を受けて成長し、やがては成長した子として、意思や感じていることを聞かれたり、逆に父の考えや意思を知るようになる。それを聖霊のバプテスマ、新生という。子はやがて父の意思を自分の意思とし、それをさらに実現しようと身命を賭するようになる。愛する父がそれを望んでいるからだ。祈りとはこのように父との深い交わりそのものなのだ。
 常に流転し滅ぶべきものと、神の神性、永遠との関係はないように、人間の肉的な求めや祈りに、何ほどの価値があるのだろうか。ただ唯一価値があるのは神の御心でしかない。私たち神の子どもは、神の御心のみに生きるのだから、次のような特徴を持つ。

○「神と親しく交わり、神の声を聞く人」は基本的には世と分離させられている。
○世の権威に従うが、神が世より上なので、従属していない。
○ 外見や権威を重んじない。真の権威は神だけ。神の目から全てを判断しようとする。
○人の評判や風評、悪口に左右されない。それは相対的なものだとわかっているから。
○見せかけの謙遜やへり下りを極度に忌避する。
○どんな失敗をしても、神がそれを神の目的のために、あるいは教え導くために許されたのだとわかる。
○つい、自分を守ためとか、言い訳をする、その人の弱さによる<嘘や弁護>を許されない。
Capha

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