私を見いだす
✝エレミヤ 29章13~14節 2017新改訳
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
わたしはあなたがたに見出される─
19世紀のアメリカの偉大なリバイバリストで、今日に至るまで大きな影響を与えている主の器としてチャールス・フィニーがいる。エレミヤ書29章13節の御言葉(下記)は、彼が29歳の時、森の中で膝まずいて祈っていた時に示されたもの。おそらく誰一人として見る者のいない静まり返った中、若きフィニーが心を尽くして(with all your heart)祈っていた中、神は御言葉を通して彼に触れられたのであろう。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される─主のことば─
この御言葉は神が直接フィニーに、これから与える聖霊のバプテスマを予告したものであって、彼は神に触れられ、神が実存することを確信したはずである。
私も聖霊のバプテスマを受ける前に、フィニーのような御言葉ではなかったが、突然このように触れられた体験がある。それは運転中だったが、全くことばで現しようのない驚天動地の体験だった。それは神がリアルに居られることがわかった瞬間であり信仰のコペルニクス転回点であった。もちろんそれまでにも神を、どちらかといえば熱心に信じていた方だと自負していたというのに。
それが前妻の精神の病から神癒を求めるようになり、探し求め続けて十年、信仰の放浪を続け、空しく時が経ち、もはやそれも諦めかけていた・・・神に失望し、自暴自棄の心境になったこの時、自分の罪性が深く示され、私は三日間、これまでにないほどの悔い改め続けていた時だった。
フィニーもこの時「私は何という堕落した罪人なのだろう」と深い悔い改めに導かれている。その時、神はこの御言葉をフィニーに示し、彼に触れられたのだった。
聖霊のバプテスマを求める人は多い。しかし偽りの聖霊のバプテスマでは、神の教会を貶めるサタンの手先、協力者に落とされてしまう。あの一見華やかな聖霊のバプテスマは、それ以前に、深い悔い改め、つまり深刻な自己の罪性、自分に希望をなくす、の認識が前提となることを忘れてはいけない。
その認識は、この罪人をも十字架の愛によって身代わりの犠牲となってくださった神の愛がわかった瞬間であり、同時に神を愛することであり、献身の時でもあるのだ。聖霊のバプテスマは自分のそれまでの既成の価値観が一変した後に、神の交わりの開始、入学式のようにしてプレゼントされるものだろう。
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