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2023年2月

2023年2月26日 (日)

神のみ心

Ⅰテサロニケ 5章16~18節   2017新改訳

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 「神のみ心~神が望んで居られる事」 ~ 副題 喜べ・祈れ・感謝せよ
 「いつも喜んでいなさい」から始まる有名なこの御言葉は、この世の人からは理解され難い言葉かも知れない。しかし、神を信じる私たちにとってはそうではない。天啓のことばである。罪がわかり、そのすべてを贖ってくださった十字架の主の愛に触れた人々にとって、いつも神様に喜び絶えず祈り感謝することは、むしろ当然だと言ってよい。

 これは、額に入れて飾っておくものではなく、「実際にそのような人に自分がなっていなければ」と心に迫られる言葉でもある。なぜなら、これが神が望んでおられる、つまり御心のクリスチャンの姿なのだから。神の子どもである私たちは、神様のご意志を無視するどころか、積極的にそれを体現する者となりたいからだ。
 さらに「喜ぶ・祈る・感謝する」この三つの中で、最も土台になるのは<感謝>であると思われる。なぜなら感謝がなければ喜びはもちろん、祈ることにも臨在が伴わないからだ。すべてを感謝する、それは自分の過去のあらゆる困難や傷に思えたことが、自分を低くされ、神にあわれみを受けた土台に思えるからだ。むしろ救われた勲章ですらある。今の恵みを受けるための大切なものだと思えるからだ。だから自分のすべてが、心からの喜びと賛美の霊に、感謝に溢れているのだ。

神の御心を行う者は、実際につぎのようになる

①  罪を贖ってくださった感謝

②(平安)不安や恐れ、死の行き先の心配からの解放の喜び

③(許し許され)世の霊、悪霊から解放された喜び

④ 永遠のいのちを与えられた賛美と感謝…死を恐れることなく、血肉の命をもって神に聞き従う道を選ぶ。自分よりまず神を愛する。 

 

2023年2月19日 (日)

貧しい人

マタイ 5章3節  2017新改訳

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 これは私の記憶に残るマザーテレサの言葉です。「カルカッタの街に、八人の子を抱えてお腹を空かしている家族がいたので、お弁当を作ってもって行ったところ、その母親は押し戴いて喜んだ後、すぐどこかへ出て行きました。やがて戻ってきた母親は、『実は隣の家族も、このところ食うや食わずの毎日だったので、半分あげてきました』と言う話です。

 マザーは、この話をしてから、「貧しく飢えを経験した人には、他人の苦しみもわかるので、偉大な愛の存在です」と言われました。豊かな人々は貯め込み、惜しみます。しかし貧しい人は分け合い、惜しみなく与える、受ける喜びを知っているので、はるかに優っているのです。真の豊かさとは、このように、独占するのではなく、他人に与える心をもっている心を指すことに私も同感します。
 ハイディ・ベイカーも「多くの場合、貧しい人は与えてことはすぐに忘れ、受け取ったことは決して忘れない。貧しい人々は、単純に与えることを知っている点で、本当は富んでいる」と言っています。

 イエス様もマタイの5章3節、あの有名な山上の垂訓の冒頭「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と語られました。
これはBlessed are the poor in spiritという霊的な貧しさ(=飢え渇き)という意味である。私はこの御言葉に接すると、<罪>意識が有るか無いかの大きな違い、それは神の選びと言ってもよいものであることを思う。すなわち、己の罪がわからなければ、救いを求める気持ちにならないし、悔い改めて救いの恵みを受けることができないからである。それゆえに貧しさ(poor in sprit)の幸いは絶大である。

 なまじっか金持ちであると、分け合い、与えることができない。寂しく孤立した人生、そのような意味で同じ<貧しさ>という言葉を使っても、真逆な意味なので明確に区別して受け取らねばならない。私たちが神に触れた体験を持つと、豊かさや財が肉の思い煩いとなり、またそのしがらみとして、天への霊的な妨害となり、敵対するものとしてわかるようになる。だから一刻も早く捨てなければと思うようになる。そして真の豊かさを得ようとするのである。このように貧しい人は、絶大な神の愛によってあらゆる面で実際には富んでいるのである。

2023年2月12日 (日)

罪人の祈り

マタイ 6章7節  2017新改訳

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

 神を信じる者にとって祈りは非常に大切で、信仰生活の生命線と言って良いでしょう。しかしその祈りが「お百度参り」や「お寺の境内で鈴を鳴らして祈願する」ような、ただ誰にでもある宗教心満足させるだけような、気休めのような祈りであってはなりません。そもそもどうしてそうなるかと言えば、祈りが神に答えられないからです。それに慣れていて、どうせという、諦めムードで祈る。また、ただ習慣的に祈りをしているだけ・・・これらは神を真に信じた者の祈りではありません。

 どうして祈りが答えられないのでしょうか?それは、祈る者が次のような者だからです。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します(ルカ18章11節)
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』ルカ16章30~31節
 ここで述べられているのは、他者を裁き、あわれみを欠いた生き方をした人々の例です。両者に共通しているのは、自分の罪がわかっていなかったということです。このような方々がどんなに祈っても、神を知り、体験することは不可能です。

 では私たちにとって罪とは何でしょうか?刑法という法律上の罪はもちろんですが、聖書のイエスさまの言葉からは、心の中の悪しき思いである妬み、憎しみ、恨み、よこしまな思い(要説明)だけにとどまらず、高慢や自己中心性、あるいは自分自身のプライドですらも罪に当たる。とすれば、この世の人々は、いや自らをクリスチャンと称している人であっても、神から見ればすべての人に罪があり、ゲヘナに落ちるべき存在なのです。

 それゆえ、聖なる神に祈り、近づこうとする者は、先ずもって自分の罪を告白し、徹底的に悔い改めねばならない。そして罪を赦されるため、神のあわれみを願い求める真摯さが前提となる。そうすれば、もしかして、神があわれんでくださるかもしれないのだ。祈りの答えは祈る者の霊性が問われるのだ。そのように祈る者には一つの特徴がある。祈りにおいて、ただ神の御心のみを求める点である。「罪人の祈り」とは、罪人が、それでも私たちを愛しあわれんでくださる神に感謝し、ただ御心を求め続ける祈りに終始する。そしてそれに神は答えてくださるのである。

2023年2月 5日 (日)

世の霊に打ち勝つ

ヤコブ2章19節  

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。 2017新改訳

 霊的な存在には大きく三つあります。そして人間は血肉の命と霊的ないのちを併せ持ったハイブリッドです。そして人間の霊をめぐってこの世は、天とサタンや悪霊という地の勢力との争奪戦、刈り場になっています。確かなことは、血肉の命のある間に、お一人お一人の行き先、勝負が決まるということです。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と申します。ここで一度、サタン側の策略についても一考してみたいと思います。

<血肉の命>のある間でなぜ、霊の行き先が決定されるのだろうか?それはゲヘナという事実を見て判断しても、それは信仰とは言えません。聖書には「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」(ロマ1:2節)にある通りです。また「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とも聖書は言っています。

 信仰がなければ神の国に入ることはできません。黙示録によれば、この世の見えるもの(物的な世界)は滅びます。しかし神の言葉は滅びません。見えないものに目を留め、創造主を血肉の弱さの中から求める者こそ、神の国を受け継ぐにふさわしい者とされるのです。

 しかしただ単に神を認めるだけでは、はるかに悪霊たちの方が知っていますし、彼らは震え上がっています。しかしまことに神を信じる者は、聖霊に触れられて神を知ったのであり、神を畏れてはいますが、神を敬い、愛しており、神に自分を捧げています。神の御心を行おうと、天使と同じように神の側に属しているのです。

 しかし神を信じていると言いながら、神に自分を委ねず、自分の判断や理解で突き進んでいるなら、主人は自分であって、この世の霊である悪霊たちと大きく変わりません。神を認めるのは悪霊たちですらするのです。自分が自分の主人である人たちはいったい、どちらの陣営に属していると言えるのでしょうか?しかし聖霊の体験無しに神を知り、従うことは困難です。

私たち人間は滅ばない霊を持っていますが、聖霊によらなければ自分の罪が本当には分かりませんし、十字架の赦しとその力の恵みに預かることは困難です。同時に血肉の体がある間、どうしてもその弱さが伴うので信仰を強め、支えてくださる聖霊様なしには不可能です。神に従がうことなしに、世での戦いに勝てると思うことは高慢です。ですから私たちはキリストの枝に留まり続け、その滋養を受け、豊かな実を実らして行くしかないです。

 

 

 

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