世の霊に打ち勝つ
✝ヤコブ2章19節
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。 2017新改訳
霊的な存在には大きく三つあります。そして人間は血肉の命と霊的ないのちを併せ持ったハイブリッドです。そして人間の霊をめぐってこの世は、天とサタンや悪霊という地の勢力との争奪戦、刈り場になっています。確かなことは、血肉の命のある間に、お一人お一人の行き先、勝負が決まるということです。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と申します。ここで一度、サタン側の策略についても一考してみたいと思います。
<血肉の命>のある間でなぜ、霊の行き先が決定されるのだろうか?それはゲヘナという事実を見て判断しても、それは信仰とは言えません。聖書には「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」(ロマ1:2節)にある通りです。また「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とも聖書は言っています。
信仰がなければ神の国に入ることはできません。黙示録によれば、この世の見えるもの(物的な世界)は滅びます。しかし神の言葉は滅びません。見えないものに目を留め、創造主を血肉の弱さの中から求める者こそ、神の国を受け継ぐにふさわしい者とされるのです。
しかしただ単に神を認めるだけでは、はるかに悪霊たちの方が知っていますし、彼らは震え上がっています。しかしまことに神を信じる者は、聖霊に触れられて神を知ったのであり、神を畏れてはいますが、神を敬い、愛しており、神に自分を捧げています。神の御心を行おうと、天使と同じように神の側に属しているのです。
しかし神を信じていると言いながら、神に自分を委ねず、自分の判断や理解で突き進んでいるなら、主人は自分であって、この世の霊である悪霊たちと大きく変わりません。神を認めるのは悪霊たちですらするのです。自分が自分の主人である人たちはいったい、どちらの陣営に属していると言えるのでしょうか?しかし聖霊の体験無しに神を知り、従うことは困難です。
私たち人間は滅ばない霊を持っていますが、聖霊によらなければ自分の罪が本当には分かりませんし、十字架の赦しとその力の恵みに預かることは困難です。同時に血肉の体がある間、どうしてもその弱さが伴うので信仰を強め、支えてくださる聖霊様なしには不可能です。神に従がうことなしに、世での戦いに勝てると思うことは高慢です。ですから私たちはキリストの枝に留まり続け、その滋養を受け、豊かな実を実らして行くしかないです。
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