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2023年3月

2023年3月26日 (日)

聞き従いVS御心を行う

詩篇40篇7~8節  2017新改訳  

7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 本日のテーマをわかりやすい人物で例えるなら、アブラハムとダビデです。アブラハムはモリヤの山で、唯一無二の息子イサクを神に聞き従って捧げようとしました。私ならそれは絶対不可能です。「神様、お気は確かですか?」とか「いくら何でも約束のものを反故にするなんて」と拒絶したでしょう。しかしアブラハムは従ったのです。彼はまさに信仰の人、聞き従いの代表です。

 一方ダビデはみこころを行う人の代表です。彼は今に至ってもイスラエルの象徴とでも言うべきです。キリストはダビデの子孫から出ました。イスラエルの版図を最大限広げたのもダビデです。神殿建築こそ許されませんでしたが、ダビデほどひどく神から愛された人物はいません。たとえ部下を殺してまでその妻を奪おうとも、晩年にも民の数を数えようとも、普通なら断罪されておかしくないケースですが、ダビデは許され、神の祝福は変わることがありませんでした。

 どうしてでしょうか。彼は神を愛していたからです。神もまたダビデを愛しておられました。ダビデがみこころを行う者だったからです。互いの気持ちというものは、それが通じ合うためには一定の期間が必要です。一朝一夕では不可能です。相当期間ふれあい、交わっていなければなりません。ダビデは人の弱さから罪を犯しながら、即座に悔い改める二心のない者でした。そのような存在であったからこそ、神が愛され、いつも交わられていたのです。そしてみこころがわかる者とされたのです。
 そのことがよくわかる例は、契約の箱をエルサレムに迎えた時、その喜びを裸になって踊った姿にあります。彼は王の娘にして妻ミカルの、侮の目を意に介しませんでした。ダビデは人からどう見られようと、ただ神に対していたのです。このような人物を神が愛されないわけがありません。どんな過ちを犯そうとも、悔い改めるダビデを神は赦すのです。ダビデもまた、みこころを行うこと最上の喜びとしました。

 神に「聞き従う」者は祝福されます。しかし「みこころを行う」者は御国入りが確かなだけでなく、愛されて「わたしの兄弟、母」(マルコ3:35)と呼んでくださるのです。両者を分けるものは何でしょう。真に神が人に求めておられるのは、上下関係的なものでなく、対等的なものです。それは交わりが土台となります。交わりとは何でしょう?聖霊によるバプテスマ以降のものです。わたしの経験では、それを遮っているものは、神の都合やタイミングもあるでしょうが、ほとんどの場合、人にあります。私たち人間は自分が一番自分のことをわかっていると思っていますが、そうではありません。あなたを造られた神が一番わかっておられるのです。ですから、神との交わりを遮っているのは、他ならぬその人にあるのです。「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)悔い改めるべきことが見当たらないような皆さん、この喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。

 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。
 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。ことに気づけておられるでしょうか。神はあなたの横で、交わりの手を差し伸べ、それを待っておられるのです。

2023年3月19日 (日)

神の声を聞く

Ⅰサムエル 3章10節   2017新改訳

主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。
 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。

 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。

 

 

 

 

2023年3月12日 (日)

御霊に満たされなさい

✝ エペソ 5章18節   2017新改訳 

また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。

 酒は世の楽しみを意味し、一時のものであって、醒めた後は空しいものです。また酔ったが故に失敗することがどれほど多くあることでしょうか。そのようなものに頼るのは滅び行く人たちの業です。確かに聖書では飲酒を全面的に否定してはいません。しかこのエペソ5章18にあるように、基本酔うことを戒めています。この点我が国では酒は酔うために飲むのです。飲酒の背景がまったく異なるのです。御言葉の「そこに放蕩がある」とは酔うことを指しているのです。半砂漠地帯で乾期が長く続くこのパレスチナの地では生水が腐りやすく、葡萄酒が保存飲用として必用な事情もあるのです。
 特に個人的な体験から言いますと、かつて「酔うために」飲んでいた酒が、御霊に満たされること、つまり聖霊に触れられ信仰を増された時、酒を必用としない体に変えられ、いつの間にか数ヶ月も経っていたという経験をしました。御霊は、酒に酔うことをお嫌いなのです。御霊を受けた信者に酒は無縁のものです。逆に言うと、酒を必用としている限り、その人は御霊に満たされていないのです。

 さてこの御言葉、「御霊に満たされる」ということは、聖霊によるバプテスマを受けると言うことと同義です。確かにペンテコステの際、弟子たちは昼間から酔っているかのように誤解されました。確かに私たち人間というものは、すぐに醒める酒に空しさを感じます。最近発売されたマーリンさんの「獄中からの讃美」にもとづいた漫画「PRISON to PRAISE」が出版されたのを機に、その元本の方を読んで、この聖霊に満たされる有様に深く感動しました。ではこれからはその4章を中心に語らせていただきます。

  ここでは「今、信じなければ手遅れになる」という神からの一方的な語りかけに、マーリンは神の実在に震え、応じます。これは母や祖母の祈りが叶えられたとも、神の計画の御手が動いたとも読めます。マーリンが信じた時、御言葉が生きて語りかけたりし、牧師への道を歩むことになります。しかしクリスチャンの落とし穴とでも言うべきものにマーリンは陥ってしまいます。つまり動機は人助けしたいという純粋なものであれ、聖潔への道を自分の努力で掴もうとしたのです。

 しかし結論から言えば、それはまったく逆行するものでした。信仰の奥義とは、キリストが私たちの内に住んでくださり、内側から私たちを変えてくださることです。内住される神を信頼し歩んでいくなら、当然ながらその神と私たちが似たような者になるのです。

さらに神はへりくだられて、「わたしを用いてほしい」と仰っておられるのです。

 

 

 

 

2023年3月 5日 (日)

信仰の戦い

Ⅰテモテ 6章12節  新改訳2017

信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。

 私たちは肉と骨だけでできている存在ではありません。スポーツでもウクライナでの戦いでも実証されているように、正義と意思、心が実際には真のポイントです。人間はその霊・たましいで生きている存在なのです。そしてそれは血肉で表すことができないのと同じように、血肉が消滅しても存在します。ただ別の、二つに別れた永遠の世界に舞台を移して生き続けて行くのです。

 本日皆さんと分かち合いたいと願っていることは、ありのままの姿を確かめ、共に良い選択をし、そしてそれを妨げようとする闇の力に打ち勝って栄冠を得ることです。

 みなさん、自分を受け入れられない、愛せない人がいるのはなぜでしょうか? きっと要求水準が高く、ありのままの自分ではダメなのでしょう。子どもの時から勉強を「がんばれ、がんばれ。現状で満足するな、努力して引き上げろ」と金科玉条のように言われて育ったためでしょうか。しかし私は根本的には、その人たちは、親から愛されていたとしても、自分が愛されていると心から感じる経験が無かったのだと思います。私にも思い当たるので言っていますが、それは本人にとって不幸なことです。
 この愛の欠乏感の解消は、疑いようもなく真に愛されること、それが本人に分かることでしか解消されることはない、そう私は思います。これは肉の両親にとってはその人なりのやり方を大転換するものですから、よほどの指導的オーソリティがついていなければ不可能です。可能であるのは、その絶対的なオーソリティ、つまりその者の創造者、神にしかできないことです。神にはそれができます。神は全知全能であり、すべての人間の肉の親にはるかに優る、真の創造者ですから。神は人間というものが、同じ人間の見方・評価・価値観を基準にしてでしか自分を推し量れなかったのに対し、根本的に異なった目的を持っておられるのです。

 最近、自分の顔をアプリで好きなように変えて楽しむことから、最終的に整形にまで進んでしまうことが流行っているそうです。ありのままの自分を受け入れ、愛することができないようです。神の愛を知らず、自己中心の罪のただ中に居ると、私たちの魂・霊は惨めな状態になります。しかし神の愛、造られた方の意図、愛を知ったならそうではありません。

 神は人を愛し、尊重されるからこそ、自由意志を与え、その中から真の愛に目覚めるよう期待してくださっています。ただそれだけでなく、十字架によってはっきりと愛を示してくださいました。私たちは十字架を我がためと気づき、信じることによって自分自身の罪、自己中心の生き方の誤り、人間基準の見方や価値観から解放され、神に愛されている自分から始めて、その愛に満たされてはじめてありのままの自分を愛せるようになるのです。それは信仰からの平安であり、幸せです。

 

 

 

 

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