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2023年4月

2023年4月30日 (日)

まことのブドウの木 Part2

ヨハネ 15章1節  2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味であることは先週お話ししました。

 ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。大地を耕やし豊かにされているのは農夫である神、その大地の栄養はぶどうという木であるイエス様を通し聖霊として吸い上げられ、幹から枝を通してぶどうの房への養分として注がれて行く。では実とは何でしょう?聖霊様の働きによる<愛>では無いでしょうか。ぶどうの一粒一粒の実とは、その愛の現れだと言えます。
 つまり誰であっても神とイエス様を通してでなければ、また聖霊様を通してでなければ誰一人、証しとなる実、またその実がもたらす永遠のいのちと言う<実>を得ることはできないのです。Img_1194_20230506204901

 そして今回特に示されたのは、大粒の実を実らすための刈り込みを<行うのは誰か?>ということです。

「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」 (ヨハネの福音書 15章2節)

 神です。考えてもみてください。ヨブに考えられないほどの困難を許されたのは神です。全知全能の神にしか許可を与えることはできないのです。逆に言えば、刈り込みは直接神が選ばれた、愛された人であって、その結果も完全に見通された絶対的なものだと言うことです。ですから刈り込みにあった人は、そのことに甘んじ、感謝し、下記の(ヨブ記 1章21節)のように告白しましょう。

そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

 

 

 

2023年4月23日 (日)

まことのブドウの木

ヨハネ 15章1節   2017新改訳

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味です。ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。

 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。(ヨハネ10章11節・15節)
 このイエス様こそ真の牧者であり、私たちに滋養を注ぎ入れてくださる方です。世界には色々な宗教があると思いますが、教祖が自分の民のために死ぬなんて宗教は他にありません。どこも崇高な死に方をされているのですが、キリストだけは全く別な最後を遂げられました。
 それは当時の宗教的な権力者によって極悪な犯罪人として殺されるという、壮烈な最後でした。彼らこそ、真っ先にイエス様を神として崇め、仕えなければならなかったはずの人々だったのです。このことを、虚飾と書き換えの無い聖書が証しています。この真の神は、あらかじめ予告しておられただけでなく、次のことから真実であることがわかっています。

   ⭐️四千年も前からの最も古くから在る神
   ⭐️最も多くの人類が信じている神
   ⭐️神自らが、人のために命を捨てた神
   ⭐️復活によって罪と死を滅ぼした神           以上で、この方が真の神とわかるのです。

 しかし私たちがキリストの神を信じたのは、修行などの努力で得たわけでも、色々な雑念を捨て自分を超えることができたからでもありません。また、ひどく良心があり自分がはっきりとゲヘナに行く罪人だと悟ったからでもないでしょう。

 私たちがイエス様が神であることがわかったのは、ただ神のあわれみであり、あらかじめ選ばれていただけのことなのです。信じるまでは、あるいは信じても聖霊をうけるまでは、この世の人とは、何も変わるところはなかったのです。ただ一つ、時が来た時、私たちはこの方が真実の神であることを信じたのです。それは自分の力ではないことは明白です。

 ただ、麦は麦の実を結びますが、毒麦は毒麦の実を結びます。実によって真か偽りかを判断できるのです。私たちが救われたのは、すべて神の御心に拠るのです。決して高ぶることの無いようにしましょう。

2023年4月16日 (日)

わたしを愛してる人

ヨハネ 14章21節   2017新改訳

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

 ここでいう戒めとは、イエス様が答えられた「主を愛し隣人を愛する」ことに他ならない。特に隣人を愛することは具体的な事項であって、教会内おいてまず実践されていなければならないはずだ。しかし時たま、このイエス様の戒めと逆の場面を目撃するのはなぜだろうか? それは信じている土台に、聖霊の有無があるかどうかの違いだと私は思える。
 聖書のすぐ後には次のようにある。 わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14章16節)
 この助け主に依らないでは、私たちはこの世の人々となんら変わらない存在である。主イエスを主と告白しても、側の人間には判別できなくとも、神はその人の心をその人以上に知っておられる。神の判別は聖霊の付与となって明確だ。それは実とも呼べるものである。

 それに関連して、次のような誤解が聖句に関連して多くある。
 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15章7節)
 このような聖句から、神はあたかもドラえもんのポケットのように、何でもお望み通り願いを叶えてくれる存在のように受け取られるかもしれない。確かに神に願い求めることは大切なことであるが、ただし、条件が一つ付けられていることを忘れてはならない。それは<わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら>である。
 ここで«とどまっている»という意味の理解が重要である。これはぶどうの木で喩えられているように、実を結ばせるもの、つまり神からの聖霊を指しているとわたしは理解する。ここでも信じる者への聖霊の付与がポイントになっている。

 使徒時代は、信者が聖霊の注ぎを受けていることは特別なことではなくて、むしろ前提だったと言っていい。したがってマルコ伝16章の「信じる人々には」が「悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば癒やされる」のは、常に聖霊に聞き従って、御心通りに語るからであることがわかる。しかし聖霊が多くの場合失われてしまっている現代では、それが橋脚が脱落した橋のようになってしまっているのが現状なのだ。

 繰り返すが、本日のヨハネ14章21節も全く同様に、神を愛し、戒めを保って守り、その人を通してあたかも神が顕現されるよう なクリスチャンとは、聖霊が注がれているかどうかが決定的な前提であることを理解したい。

2023年4月 9日 (日)

レマ、サバクタニ

マタイ 27章46節  2017新改訳

わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。

本日は復活祭(イースター)の主日です。復活祭はクリスマスよりもはるかに大切な日です。聖書には核心的に書かれ、もし復活がなかったら十字架も不完全なものです。復活によって死への勝利と御霊のからだの希望、永遠のいのちがあるのです。あらためて復活を整理しましょう。
二千年前、神が受肉されて地上に人となって来られるという、空前絶後のことが起こりました。
イエスという名のユダヤ人として生まれ、聖書の預言をすべて成就されるにあたって、その数々のされた事柄を通して、神さまを具体的に知ることができるようにしてくだされました。
 残された四つの福音書、いわば四つの視点から、私たちは神を立体的にイメージできるのです。聖書を読んでイエス様が神であることが分かるなら、あらかじめ選ばれていた神の子です。
受肉さらた神の最終的な目的は、人間の罪を身代わりになることでその罪を赦し、聖なる神との交わりを回復させる事でした。聖霊様はその回復後の交わりの役目をになっておられます。

 神が人となってこの世に来られたということを疑う、つまりキリストの神性を信じない人たちがキリスト教誕生の初期から数多くいました。使徒信条は最も古く、かつ土台的な信仰告白ですが、キリストの神性について多くが割かれているのはこのためです。しかし疑った人々はことごとく失敗しています。映画にもなったベン・ハーの著者もそうでした。疑った結果、逆に真実であることを知りました。もし真実でなければ、今日でも何十億人も信じる人がいる世界最大の宗教であり続けることは歴史的にも、実際的にもあり得なかったことでしょう。

 さてこうして公生涯をでのイエス様を通し、私たちは神様というお方がどのようなお方であるかがわかる恵みを得ました。イエス様はピリポに向かって次のように言われました。
「わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(ヨハネ14章9節)と、私たちは言われないようにしましょう。

 私には神様のお人柄は次のように見えます。まず、自分を「正しい(義)とし、他者を裁く」人や悔い改めようとしない高慢な人たち、例えばパリサイ人や律法学者、祭司長のような宗教的に指導者に対しては厳しく対応されました。その反面、意外と罪や弱さを自覚している人には愛とあわれみで対応をされました。社会的な弱者である貧しい人、差別されている人、病や障害がある人、性的な罪を犯している人などに対しては特にそうでした。
 聖書を読んで、イエス様が生ける神であることがわかるなら、なんと祝福でしょうか。私たちを愛してその独り子さえ惜しまれなかった神の愛を信じる方は、復活の恵みをすべて受けるのです。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

2023年4月 2日 (日)

死んでも生きる

ヨハネ 11章25節  2017新改訳

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。

「死んでも生きる」とは、死後四日経ったラザロをよみがえらせる空前絶後の大奇跡の直前、主イエスがマルタの信仰告白に対して語られたことばです。「死んでも」とは肉体の死を指し、「生きる」とは「御霊のからだ」の意味です。血肉の体をはるかに超える永遠の御霊の体のいのちが待っているのです。「老い」とは血肉の体への希望を断ち切り、この後に来る素晴らしい神の備えを告げ知らせる恵みです。それ故に今、血肉のからだである私たちが、老いを感謝して受け、次への希望に満ちて歩む、その証人でありたいと思うのです。
 折しも本日から「棕櫚の日曜日」が始まります。私たちに十字架によって罪の赦しを与え、死から永遠のいのちを与えるためエルサレムに入場された日に当たる日です。

 当然ですが、血肉の命のある間に、罪がわかり、悔い改めて十字架を受け入れなければ永遠のいのちと御国に入ることは与えられません。老いはこの肉体が永遠ではないことを教えてくれます。若い頃には、永遠に続くと思っていた命だったのですが、そうではないのです。神を信じない人は健康教室に通い、健康食品に気を使い、肉体の維持に涙ぐましい努力をされますが、所詮それは無駄な抵抗です。老化とその先にある死は、時間の長短はあっても、確実に万人に来るのですが、そんな話題は「不吉」として避けようとします。こんな長寿の歌があります。「70歳でお迎えが来た時にゃ、ただ今留守ですと云え。80歳でお迎えが来た時にゃ、まだ早いと追い返せ。」これはほんとど笑い話ですが、神を信じない人々の死への恐れをよく物語っているではありませんか。
 本日の聖句ですが、意外かも知れませんが、主はマルタのこの信仰告白を引き出すために語られたことばです。
「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」✝ヨハネ11章26~27節
 このように神の聖なる力やわざは、「決して死ぬことがない」、これは血肉の命のことでなく、永遠のいのちへの信仰を表す告白のもとに現されるのです。私たちはクリスチャンと称していますが、もし一般人と変わらないで死を恐れたり、あるいは衰えていく老化に逆らい若さだけにこだわるなら、みこころを損なっていると言えるでしょう。現実だけを見、信じる者に用意されている天の御国を待ち望んでいないからです。クリスチャンとは、リアルに次のことばを信じ、そのように待ち望んで生きています。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

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