死んでも生きる
✝ヨハネ 11章25節 2017新改訳
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
「死んでも生きる」とは、死後四日経ったラザロをよみがえらせる空前絶後の大奇跡の直前、主イエスがマルタの信仰告白に対して語られたことばです。「死んでも」とは肉体の死を指し、「生きる」とは「御霊のからだ」の意味です。血肉の体をはるかに超える永遠の御霊の体のいのちが待っているのです。「老い」とは血肉の体への希望を断ち切り、この後に来る素晴らしい神の備えを告げ知らせる恵みです。それ故に今、血肉のからだである私たちが、老いを感謝して受け、次への希望に満ちて歩む、その証人でありたいと思うのです。
折しも本日から「棕櫚の日曜日」が始まります。私たちに十字架によって罪の赦しを与え、死から永遠のいのちを与えるためエルサレムに入場された日に当たる日です。
当然ですが、血肉の命のある間に、罪がわかり、悔い改めて十字架を受け入れなければ永遠のいのちと御国に入ることは与えられません。老いはこの肉体が永遠ではないことを教えてくれます。若い頃には、永遠に続くと思っていた命だったのですが、そうではないのです。神を信じない人は健康教室に通い、健康食品に気を使い、肉体の維持に涙ぐましい努力をされますが、所詮それは無駄な抵抗です。老化とその先にある死は、時間の長短はあっても、確実に万人に来るのですが、そんな話題は「不吉」として避けようとします。こんな長寿の歌があります。「70歳でお迎えが来た時にゃ、ただ今留守ですと云え。80歳でお迎えが来た時にゃ、まだ早いと追い返せ。」これはほんとど笑い話ですが、神を信じない人々の死への恐れをよく物語っているではありませんか。
本日の聖句ですが、意外かも知れませんが、主はマルタのこの信仰告白を引き出すために語られたことばです。
「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」✝ヨハネ11章26~27節
このように神の聖なる力やわざは、「決して死ぬことがない」、これは血肉の命のことでなく、永遠のいのちへの信仰を表す告白のもとに現されるのです。私たちはクリスチャンと称していますが、もし一般人と変わらないで死を恐れたり、あるいは衰えていく老化に逆らい若さだけにこだわるなら、みこころを損なっていると言えるでしょう。現実だけを見、信じる者に用意されている天の御国を待ち望んでいないからです。クリスチャンとは、リアルに次のことばを信じ、そのように待ち望んで生きています。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
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