まことのブドウの木 Part2
✝ヨハネ 15章1節 2017新改訳
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味であることは先週お話ししました。
ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。大地を耕やし豊かにされているのは農夫である神、その大地の栄養はぶどうという木であるイエス様を通し聖霊として吸い上げられ、幹から枝を通してぶどうの房への養分として注がれて行く。では実とは何でしょう?聖霊様の働きによる<愛>では無いでしょうか。ぶどうの一粒一粒の実とは、その愛の現れだと言えます。
つまり誰であっても神とイエス様を通してでなければ、また聖霊様を通してでなければ誰一人、証しとなる実、またその実がもたらす永遠のいのちと言う<実>を得ることはできないのです。
そして今回特に示されたのは、大粒の実を実らすための刈り込みを<行うのは誰か?>ということです。
「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」 (ヨハネの福音書 15章2節)
神です。考えてもみてください。ヨブに考えられないほどの困難を許されたのは神です。全知全能の神にしか許可を与えることはできないのです。逆に言えば、刈り込みは直接神が選ばれた、愛された人であって、その結果も完全に見通された絶対的なものだと言うことです。ですから刈り込みにあった人は、そのことに甘んじ、感謝し、下記の(ヨブ記 1章21節)のように告白しましょう。
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
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