わたしを愛してる人
✝ヨハネ 14章21節 2017新改訳
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。
ここでいう戒めとは、イエス様が答えられた「主を愛し隣人を愛する」ことに他ならない。特に隣人を愛することは具体的な事項であって、教会内おいてまず実践されていなければならないはずだ。しかし時たま、このイエス様の戒めと逆の場面を目撃するのはなぜだろうか? それは信じている土台に、聖霊の有無があるかどうかの違いだと私は思える。
聖書のすぐ後には次のようにある。 わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。(ヨハネ14章16節)
この助け主に依らないでは、私たちはこの世の人々となんら変わらない存在である。主イエスを主と告白しても、側の人間には判別できなくとも、神はその人の心をその人以上に知っておられる。神の判別は聖霊の付与となって明確だ。それは実とも呼べるものである。
それに関連して、次のような誤解が聖句に関連して多くある。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネ15章7節)
このような聖句から、神はあたかもドラえもんのポケットのように、何でもお望み通り願いを叶えてくれる存在のように受け取られるかもしれない。確かに神に願い求めることは大切なことであるが、ただし、条件が一つ付けられていることを忘れてはならない。それは<わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら>である。
ここで«とどまっている»という意味の理解が重要である。これはぶどうの木で喩えられているように、実を結ばせるもの、つまり神からの聖霊を指しているとわたしは理解する。ここでも信じる者への聖霊の付与がポイントになっている。
使徒時代は、信者が聖霊の注ぎを受けていることは特別なことではなくて、むしろ前提だったと言っていい。したがってマルコ伝16章の「信じる人々には」が「悪霊を追い出し、新しい言葉で語り、蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば癒やされる」のは、常に聖霊に聞き従って、御心通りに語るからであることがわかる。しかし聖霊が多くの場合失われてしまっている現代では、それが橋脚が脱落した橋のようになってしまっているのが現状なのだ。
繰り返すが、本日のヨハネ14章21節も全く同様に、神を愛し、戒めを保って守り、その人を通してあたかも神が顕現されるよう なクリスチャンとは、聖霊が注がれているかどうかが決定的な前提であることを理解したい。
« レマ、サバクタニ | トップページ | まことのブドウの木 »
「聖霊」カテゴリの記事
- どんな罪も癒やされるが(2023.11.12)
- 大切なものと、こと(2023.09.17)
- 聖霊と悪霊(2023.08.07)
- ペンテコステ(2023.05.28)
- わたしを愛してる人(2023.04.16)
コメント