まことのブドウの木
✝ヨハネ 15章1節 2017新改訳
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」(ヨハネ15章1節)と言われました。この「まことの」とは英語でtrueになり、真実の、本当のと言う意味です。ご承知のとおり、ぶどうの実は大地を通し、幹と枝を通しての豊かな滋養を受けなければ実ることはできません。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。(ヨハネ10章11節・15節)
このイエス様こそ真の牧者であり、私たちに滋養を注ぎ入れてくださる方です。世界には色々な宗教があると思いますが、教祖が自分の民のために死ぬなんて宗教は他にありません。どこも崇高な死に方をされているのですが、キリストだけは全く別な最後を遂げられました。
それは当時の宗教的な権力者によって極悪な犯罪人として殺されるという、壮烈な最後でした。彼らこそ、真っ先にイエス様を神として崇め、仕えなければならなかったはずの人々だったのです。このことを、虚飾と書き換えの無い聖書が証しています。この真の神は、あらかじめ予告しておられただけでなく、次のことから真実であることがわかっています。
⭐️四千年も前からの最も古くから在る神
⭐️最も多くの人類が信じている神
⭐️神自らが、人のために命を捨てた神
⭐️復活によって罪と死を滅ぼした神 以上で、この方が真の神とわかるのです。
しかし私たちがキリストの神を信じたのは、修行などの努力で得たわけでも、色々な雑念を捨て自分を超えることができたからでもありません。また、ひどく良心があり自分がはっきりとゲヘナに行く罪人だと悟ったからでもないでしょう。
私たちがイエス様が神であることがわかったのは、ただ神のあわれみであり、あらかじめ選ばれていただけのことなのです。信じるまでは、あるいは信じても聖霊をうけるまでは、この世の人とは、何も変わるところはなかったのです。ただ一つ、時が来た時、私たちはこの方が真実の神であることを信じたのです。それは自分の力ではないことは明白です。
ただ、麦は麦の実を結びますが、毒麦は毒麦の実を結びます。実によって真か偽りかを判断できるのです。私たちが救われたのは、すべて神の御心に拠るのです。決して高ぶることの無いようにしましょう。
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