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2023年5月

2023年5月28日 (日)

ペンテコステ

使徒 2章1~4節  2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

✝使徒 2章1~4節
「ペンテコステ」
ペンテコステはどのようなものであったかを使徒2章は記しています。イエス・キリスト復活の日からちょうど50日目のことでした。その時、エルサレムで120人全員が聖霊に満たされ、直ぐに異言を語り出したと聖書は記しています。聖霊のバプテスマを受けたかどうかは、異言がバロメーターだと言われます。しかし、異言はれっきとした外国語でありました。「ラーラーラー」とかの意味の通らない繰り返しではなく、その聞く人が聞けば通じるのが異言です。聖書がそう言っています。

 次にいくつか聖霊のバプテスマについて誤解がありますので、それをはっきりさせておきましょう。まず「エルサレムから離れないで」という指示があったのに、どうして弟子たちはガリラヤ湖周辺に行ったのか、と言うことです。これは単にこの指示が復活のイエス様が40日間居られた最後の頃に言われた指示だったはずで、何の問題もありません。
 次に水と聖霊のバプテスマ問題ですが、これはイエス様も言及された「あなたがたは間もなく、(水ではなく)聖霊によるバプテスマを授けられる(使徒1章5節)」の約束の成就です。聖なる聖霊様は罪と同居ができません。それを可能にするために罪を赦す十字架を負われたのです。全ては聖霊のバプテスマを受けさせるためのものだったとも言えるでしょう。事実、ペテロたちはそれまででもイエスを信じていました。しかし聖霊のバプテスマは受けていなかったのです。そして教会は、聖霊のバプテスマを受けて誕生したのです。聖霊のバプテスマが教会の土台なのです。
 熱心な伝道者でアポロがいましたが、彼は聖霊のバプテスマを受けていませんでした。従って彼が導いた人々も、パウロが会ってみると水のバプテスマしか受けていませんでした(使徒19章2~6節)。今日、水のバプテスマだけのクリスチャンが圧倒的な多数派になりました。しかし本来、教会は聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンの集まりです。多くの教会で、水のバプテスマと聖霊のバプテスマは同じであるようなことを言っていますが、これは知らないからで別物です。

 以上聖霊のバプテスマについて述べてきましたが、私自身の体験から申しますと、40歳の時、「聖霊のバプテスマ」という言葉を知って、天啓のように私は「これだ!」とわかり、狂ったように何としてでも受けようと、求め続けました。しかしどんな求めて探しても受けることができませんでした。10年経つとさすがに諦めるようになり、自暴自棄になり、罪100%に陥りかけました。惨めに信仰を失おうとしたある朝、突然に神のあわれみが降ったのです。
 みなさん、自分の力では自分に死ぬことはできません。聖霊のバプテスマも神様の御心次第です。今あの十年は、神さまが肉的な私を刈り込んでくださった、産みと整えの苦しみの時であったことがわかります。それが絶対に必要だったことも、感謝を持ってわかります。みなさん、どうか諦めずに熱心に求めてください。しかし努力や熱心でも不可能です。神は求める者をご存知ですし、あなた以上にあなたを知られる神は、神の時タイミングでそれを与えてくださいます。

 

 

 

2023年5月21日 (日)

ヨベルの年

レビ 25章10節   2017新改訳

あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。

 本日、創立50周年を迎える私の勤務先では、スタッフは皆このTシャツを着て頑張っていると思います。しかしこのTシャツに<Golden Jubilee>と大きなロゴが印刷してあります。Jubilee?ということを調べてみますと、50周年記念という一般的な意味と、聖書でレビ記のヨベルの年というのが語源であることがわかりました。さらに昨年の大贖罪日から今年のその日まで、現在が50年に一度のヨベルの年らしいことがわかりました。

 ヨベルとは雄羊の角の意味です。赦しを象徴するこの年は、レビ記によると7年目ごとに地を休める七度目、つまり49年後に来るあらゆる回復の律法であることがわかりました。地は2年続けて休耕し、土地は元の持ち主に返され、奴隷など人もその縄目から解放される、つまりあらゆる回復が成される年なのです。

これは世界を創造された神が7日目に休まれ、聖なる日とされたこと、ペンテコステが七週の祭りとされた50日目であることと関連しています。しかしヨベルの年は50年に一度なので、おそらく人が生きている内には、ただの1回しかないチャンスでしょう。このヨベルの年はただの休息という意味ではなく、人は霊的な存在であって、休息とは神と共に生きるシンボルであり、7の7倍、つまりペンテコステ(5旬節)やヨベルの年(50年)には、それらの集大成としての意味があることがわかります。

 私たちはヨベルの年を通して、神がエデンという最初の罪なき世界を回復されようとしておられること、それはキリストの十字架と再臨よる罪なき世界の再創造(神の国)であり、そこに魂の大収穫をもってより巨大な楽園を創造しようとされる神の意図を感じます。

Jubilee(ヨベルの年)は50年に一度の、神の祝福の年なのです。

2023年5月14日 (日)

いつでも感謝

エペソ 3章16節   2017新改訳

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

 私たちの教会ではマーリンさんから受け継いだ 「感謝」を徹底している。だがそれと同時に感謝での注意点も浮き上がっている。それは以下の3点である。

〈1〉口先だけの感謝  〈2〉感謝に気づかない  〈3〉不純な感謝  
 順に説明していこう。
〈1〉では全然感謝していないのに、瞬間的に「感謝します」と言い替えたり、多分に〈口癖〉で習慣的に呟いているだけの人がいることである。
 例を上げれば、交通違反切符を切られて「頭に来ている」のだが、そばにいる人のために、悔しさを押し隠して「か、感謝しま~す」と言い換えただけの場合などである。

〈2〉では、自分の身に起こった悪い出来事(会社の倒産、罹患して入院など)を感謝しないでいることである。神を信じる人に起こるすべての物事は、すべて主の許しなしには起こり得ない。全ては後に最善な結果になる。それゆえ私たちは神を信頼し、全てにおいて徹底感謝をするのである。感謝なしに、私たちは主が期待される信仰者とは言えない。        

〈3〉不純な動機。これはいうまでもなく、感謝の誤った姿勢である。主イエスの十字架によって私たちの命が贖われているにも関らず、感謝しているからと、神様と取り引きをしているのである。例えば、「今私たちは、この苦しみと混乱のさなかにあって、感謝し、あなたを賛美しましたから、私たちをこの状態から出してください」等と。また

「これだけ感謝したんだから、きっと報われる」と期待することも同様である。

 このような感謝は、全く神へ感謝しているのではなく、ただ功利を求めているだけに過ぎない。そのような方たちは、試練に耐えられず、やがて絵のように信仰からも脱落する。私たちは不純な動機や隠されたたくらみから、己に死に、清められて、真に感謝する者とならなければならない。ダニエルは、命を狙われているはかりごとだと知りながら神に祈り、感謝を捧げることを止めなかった(ダニエル6:7−10)。どんな状況になろうとも、全幅の神への信頼を持って感謝する、これが私たちの感謝である。

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙 5章20節)

2023年5月 7日 (日)

癒やし~回復の時

使徒 3章16節   2017新改訳

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

真に癒されるとは、神様との関係の回復である。

足が不自由な人の<美くしの門>での奇跡について                  

○神殿内にあった<美しの門>の場所についての二つの説とその図。
○この四十代の男は、ある意味、神を信じ神殿詣をするユダヤ人にとって、誰もが知る超有名人だったはずである。
○最近起こったイエスの事件を、彼が知らなかったはずがない。そして癒やされるに足りる信仰があったと見るべきである。
○神はペンテコステの後、最初の奇跡としてペテロを通し、この奇跡を行われた。萎えていたはずの足の筋肉とくるぶしが、差し出されたペテロ  の手をとって立ち上がろうとした瞬間に回復した。ここにこの男の信仰を見ることができる。その結果、即座に躍り上がって立って歩けた。さらに歩けただけでなく、飛び跳ねて歩けたことは、もはや奇跡である。
この男は、即座に証人としての活動に入った。二人と一緒に宮に入って、歩きながら神を賛美している姿を見た人々は、「ものも言えないほど驚いた」のである。ペテロはこの奇跡を通して説教し、信じた男の数が五千人にも上った大収穫となったのである。

このように神に触れられた体験は、即座に「歩きながら賛美し」サンヒドリンの議会では、「二人と共に証人として立った」など、信仰の大きな力を伴うものだった。

 誤解してはならないこととして、神に触れられる体験と癒やしの違いである。イエス様がガリラヤからサマリヤとの境を通られた時、十人のツァラアトに冒された人がいて、祭司に行く時に十人とも癒されたのであったが、そのことをイエスに報告に来たのがサマリヤ人の一人だけであったことである。神による癒やしが即座に信仰に結びつかないのであれば、それは神の恵みを全くの無駄にしたわけで、かえって裁きの一つの理由になってしまいかねない。

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