癒やし~回復の時
✝使徒 3章16節 2017新改訳
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
真に癒されるとは、神様との関係の回復である。
足が不自由な人の<美くしの門>での奇跡について
○神殿内にあった<美しの門>の場所についての二つの説とその図。
○この四十代の男は、ある意味、神を信じ神殿詣をするユダヤ人にとって、誰もが知る超有名人だったはずである。
○最近起こったイエスの事件を、彼が知らなかったはずがない。そして癒やされるに足りる信仰があったと見るべきである。
○神はペンテコステの後、最初の奇跡としてペテロを通し、この奇跡を行われた。萎えていたはずの足の筋肉とくるぶしが、差し出されたペテロ の手をとって立ち上がろうとした瞬間に回復した。ここにこの男の信仰を見ることができる。その結果、即座に躍り上がって立って歩けた。さらに歩けただけでなく、飛び跳ねて歩けたことは、もはや奇跡である。
この男は、即座に証人としての活動に入った。二人と一緒に宮に入って、歩きながら神を賛美している姿を見た人々は、「ものも言えないほど驚いた」のである。ペテロはこの奇跡を通して説教し、信じた男の数が五千人にも上った大収穫となったのである。
このように神に触れられた体験は、即座に「歩きながら賛美し」サンヒドリンの議会では、「二人と共に証人として立った」など、信仰の大きな力を伴うものだった。
誤解してはならないこととして、神に触れられる体験と癒やしの違いである。イエス様がガリラヤからサマリヤとの境を通られた時、十人のツァラアトに冒された人がいて、祭司に行く時に十人とも癒されたのであったが、そのことをイエスに報告に来たのがサマリヤ人の一人だけであったことである。神による癒やしが即座に信仰に結びつかないのであれば、それは神の恵みを全くの無駄にしたわけで、かえって裁きの一つの理由になってしまいかねない。
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