いつでも感謝
✝エペソ 3章16節 2017新改訳
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。
私たちの教会ではマーリンさんから受け継いだ 「感謝」を徹底している。だがそれと同時に感謝での注意点も浮き上がっている。それは以下の3点である。
〈1〉口先だけの感謝 〈2〉感謝に気づかない 〈3〉不純な感謝
順に説明していこう。
〈1〉では全然感謝していないのに、瞬間的に「感謝します」と言い替えたり、多分に〈口癖〉で習慣的に呟いているだけの人がいることである。
例を上げれば、交通違反切符を切られて「頭に来ている」のだが、そばにいる人のために、悔しさを押し隠して「か、感謝しま~す」と言い換えただけの場合などである。
〈2〉では、自分の身に起こった悪い出来事(会社の倒産、罹患して入院など)を感謝しないでいることである。神を信じる人に起こるすべての物事は、すべて主の許しなしには起こり得ない。全ては後に最善な結果になる。それゆえ私たちは神を信頼し、全てにおいて徹底感謝をするのである。感謝なしに、私たちは主が期待される信仰者とは言えない。
〈3〉不純な動機。これはいうまでもなく、感謝の誤った姿勢である。主イエスの十字架によって私たちの命が贖われているにも関らず、感謝しているからと、神様と取り引きをしているのである。例えば、「今私たちは、この苦しみと混乱のさなかにあって、感謝し、あなたを賛美しましたから、私たちをこの状態から出してください」等と。また
「これだけ感謝したんだから、きっと報われる」と期待することも同様である。
このような感謝は、全く神へ感謝しているのではなく、ただ功利を求めているだけに過ぎない。そのような方たちは、試練に耐えられず、やがて絵のように信仰からも脱落する。私たちは不純な動機や隠されたたくらみから、己に死に、清められて、真に感謝する者とならなければならない。ダニエルは、命を狙われているはかりごとだと知りながら神に祈り、感謝を捧げることを止めなかった(ダニエル6:7−10)。どんな状況になろうとも、全幅の神への信頼を持って感謝する、これが私たちの感謝である。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙 5章20節)
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