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2023年6月

2023年6月25日 (日)

主は御霊

Ⅱコリント 3章17~18節  2017新改訳

 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。

 三位一体について、直接言及した聖書本文はありませんが、聖書の随所でそのことは明らかにされています。本日の箇所もその一つと言うべきでしょう。御霊なる聖霊は、父なる神、子なる神イエス・キリストであると明言しています。

 次に自由という言葉も、肉的なクリスチャンがよく思うような <好きなことをなんでもして良い>と受け取ってはなりません。大前提として、キリストを信じる者は、キリストが贖ってくださった、買い取られた者です。いわば奴隷市場で、新たなご主人に買われたのです。しかしこのご主人は私たちを奴隷として扱わず、子としてくださる方なのです。ですから子として、保護者である親から養育され、成人するまでは聞き従う必要があります。勘違いしてはいけません。
 では自由とは何の自由でしょうか。強制でも命令でもなく、御心を行える自由です。確かに聖書には命令形の言葉がたくさんあります。「悔い改めなさい」とか「感謝しなさい」のような言葉です。しかしそれは、聞き従って恵を受けるための、父からの戒めであり訓育です。悔い改めない者、感謝しない者に対してのものです。

 しかし子として父を愛する者には自由があります。聖霊によって普段に父と交わり、父がどのような考えをし、対応をしているかを知っていますので、子も進んで父のように行おうとします。すでに何が良いことでいけないことかを知っており、わきまえているので、父もある程度の自由を許して、子に色々な経験を積ませようとするのです。
 それは家庭と同じように、子は父の家の中で安心し、恐れなく、嗣子として自由に振るまいます。神の下にある時、人は罪の縄目から解放され、愛する父の御心を行おうとするので、自由があるのです。

 文字は殺し、御霊は生かす。この聖句も(Ⅱコリント3:6)で出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

2023年6月18日 (日)

赦されるために赦す

ルカ 6章37節  2017新改訳

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

 聖書で使われる「赦す」ということばですが、これは「水に流す」という意味ではありません。ルカ15章の放蕩息子の話ですが、過ちに気づいた息子はきちんと反省し、過ちを認めその上で、「もう息子ではなく、使用人の一人に」と償いをすることを言い表しています。「水に流す」というような、あったことを無かったことにするとは一言も言っていません。
 一方、赦す側としては、聖書のマタイ6:14-15でもし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。と言っています。これが今日のテーマである<赦されるために赦す>という根拠になっています。

 人はなぜ赦すことができないのでしょうか。口先では赦すと言っても、それは真実ではなく、後々恨み言を呟く人がなんと多いことでしょうか。幼い時に受けた心の傷やいじめ、先ほどの証のように、まったくの誤解をしつこく言いふらされるパワハラ的なことが起こったとして、それを赦すと言うのは、通常は困難です。しかしまず第一に留意したいことは、それらを抱え込んでいる内に、やがて恨み、憎しみとなり、自分が一番じくじくと大きなダメージを受けることです。
 自分を正当化し、晴れない思いにくすぶり続け、時に「仕返し」とかの相手への懲罰を願うということは、自分が裁判官になって相手を断罪するということと同義です。しかしあなたはその時の相手側の事情や起こった背景について正しくは知っていません。ただあなた自身の一方的な被害者意識があるだけで裁いているのであって、決して公正ではありません。そのよりも一番大事なことは、それを神が許されたということです。あなたが神に代わって裁いてはいけません。あなたもその人と同じ、罪人の一人に違いないのです。
重要なポイントは、神がすべてを見ておられ、最終的に裁かれるのです。また赦さなければ赦さなかったことから来ることが、人格や信仰の形成に大きな影響を及ぼしてしまうのです。他者を断罪する大きな罪があるなら、神はその人の罪を赦さないし、聖霊の注ぎかけは困難です。その人にとってこれが最大の損失でありましょう。この地上でのことはやがて過ぎ去り、取るに足りないことになります。私たちは永遠の天に生きる者でありながら、赦さない人の正体は、実はこの滅ぶべき地に属していることを証明しているのではないでしょうか。

 本当に天国に所属する人たちは、イエス・キリストも、ステパノもパウロ三木も、目前の自分を殺そうとする人たち皆に罪を着せなかったのです。今みなさんはおそらく、自分の赦さない罪に気づかれていないかも知れません。これからもし、聖い聖霊様が聖霊のバプテスマとしてみなさんに臨む時、おそらく聖霊様ご自身によってみなさんの罪を改めて教えてくださることでしょう。その時はじめて悔い改め、赦され、一段と完全な者とされて行くことでしょう。

 

 

 

 

2023年6月11日 (日)

真の祝福

コロサイ 3章1-4節  2017新改訳

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、
コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。
私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

 世の人には、今のこの世にしか希望がありません。しかしこの世で生きることは、多くの煩いー食べることや健康など、血肉の体の必要や、社会という人間同士の関係に伴う困難なことなど、ー一つ一つが大変です。
 しかし世の人たちにとっては、今のこの世がすべてであり、ここで終わりでこの先にある世界を知りません。ですからどんなに高齢になっても、八十歳や九十歳になっても、生き続けることに執着します。また若さだけが希望そのものですから、「おばあちゃん」と呼ばれることを拒否したりします。肉体は死んで滅びることが頭ではわかっていても、その事実を受け入れられないのです。
 そういうわけで、「長寿数え歌」で喜寿では「命の七十七に迎えがきたら、せくな老の楽しみこれからだ」など、死は不吉なこととして考えないことにし、いつまでも避け続けるのです。

 このように今の命が全て生き続けることだけが希望ですから、健康に関心が非常に高いのです。私はかなり前に、市が主催する健康体操に一度だけ参加したことがあるのですが、皆さん背筋をピンとはって、とにかく健康に良いことに努めていらっしゃる。私など姿勢が悪いと何やっても酷評され続けました。私から見れば、参加する皆さんが失礼ながら、ゾンビのような健康オタクに思え、二度と参加する気にはなりませんでした。

 この世の人々と神を信じる私たちとは、決定的な違いがあります。それはいつも天を仰ぎ、天にいのちを見出し、そこに永遠のいのちと真の希望を見出しているからです。つまりこの世は仮の世、本番の生活は天にある天国人なのです。この世は私たちが神の御心を行って、天の国で誉を得るための使命を果たす場なのです。私たちは神イエスによっていのちを贖われ、買い取られて永遠のいのちに生きているのです。

 神を信じる者の使命といっても、十人十色でしょうが、世での基準がクリスチャンに適用され、大きな働きをした人が大きな報いを得るとは限りません。タラントの喩えがあるように、ただ忠実に神からの使命を果たした者に、同じ報いが与えられるのです。ですから私たちは目を天にあげ、上にあるものをひたすら思いましょう。地にあるものを思ってはなりません。

 神の計画を妨害するため、サタンは神を信じる者に狙いをつけています。目を天に向けさせまいと、肉の体と世への思い煩いや困難を、ひっきりなしに大きく取り上げさせ、刺激してきます。しかしそれに乗ってはいけません。キリストの命によって救われた私たちには、神への愛と感謝しか残っていないのですから。

 

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

信仰と癒やし

マタイ 11章5節  【新改訳2017】
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。

 昨日の船橋カリスマ聖会で、秋元牧師は「信仰のない人に癒やしは起こらない」と語られました。確かに聖書を見ると、癒やされた人たちには、イエス様、神様に対する信仰が本人に、あるいは周囲の人たちにあったことは読み取れますし、確かなことです。

 確かに癒やしは信仰者に与えられるものです。私たちの群れではその大きな御わざを見ています。例えばM牧師夫妻においての精神の病が癒やされたりしています。本日私が証したい癒やしの証は「歯の再創造」です。

 51歳で聖霊のバプテスマを受け、続いて牧師へ召命を受けました。何のためらいもなく喜んでその招きに応じたのですが、私には気になる事柄がありました。それは牧師としての使命を果たすのに、<フガフガ歯>で喋りに差し障りがあるということでした。

 50代に入る前に、私は右奥歯大臼歯3本を歯槽膿漏で失ったのですが、その際、どんなに痛み止めの薬を飲んでもまったく効かず、以来歯医者に行くことがトラウマになってしまいました。それで私は、自分にとって都合の良い歯医者に行かなくて済む、自然に歯がまた生え出てくるよう「歯の再創造」を神に祈るようになりました。ただ、客観的に見るならば私の両親は五十代で総入れ歯になっており、おそらく私も同じ轍を踏むことになっていたことでしょう。

 再創造の熱い祈りは二年経っても答えられず、半ば諦めかけていた頃、田舎の小さな学校に転勤していました。毎年この時期には学校では歯科検診があります。その時のことでした。検診を始めた医師は、記録を教師にさせず、連れてきたスタッフにさせた上、少しでも引っかかった児童は、隣室の歯科衛生士からブラッシング指導を受けさせられていました。その時、私の脳裏に「この歯科医に行きなさい」という明確な指示が来たのです。それが断固たるものだったので、トラウマなんぞは言っておれず、聞き従ってその日の夕方には、私はその歯科医院で診察を受けていた。
 その時から私は歯科医院に毎週通うようになり、私の口腔環境は劇的に回復して行ったのです。それから3年が経って、私はインプランの手術を受けられるまでになり、歯の再創造はかないませんでしたが、ほとんどそれと変わらない歯を得ることが出来ました。私は未だに自分の歯で、りんごやピーナッツを齧れている恵みに預かっています。神は私の願った通りではなかったのですが、神から語られたことに恐れず、忠実に聞き従った結果、実に願った以上の恵みを受けることができたのだ。

 

 

 

 

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