赦されるために赦す
†ルカ 6章37節 2017新改訳
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
聖書で使われる「赦す」ということばですが、これは「水に流す」という意味ではありません。ルカ15章の放蕩息子の話ですが、過ちに気づいた息子はきちんと反省し、過ちを認めその上で、「もう息子ではなく、使用人の一人に」と償いをすることを言い表しています。「水に流す」というような、あったことを無かったことにするとは一言も言っていません。
一方、赦す側としては、聖書のマタイ6:14-15でもし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。と言っています。これが今日のテーマである<赦されるために赦す>という根拠になっています。
人はなぜ赦すことができないのでしょうか。口先では赦すと言っても、それは真実ではなく、後々恨み言を呟く人がなんと多いことでしょうか。幼い時に受けた心の傷やいじめ、先ほどの証のように、まったくの誤解をしつこく言いふらされるパワハラ的なことが起こったとして、それを赦すと言うのは、通常は困難です。しかしまず第一に留意したいことは、それらを抱え込んでいる内に、やがて恨み、憎しみとなり、自分が一番じくじくと大きなダメージを受けることです。
自分を正当化し、晴れない思いにくすぶり続け、時に「仕返し」とかの相手への懲罰を願うということは、自分が裁判官になって相手を断罪するということと同義です。しかしあなたはその時の相手側の事情や起こった背景について正しくは知っていません。ただあなた自身の一方的な被害者意識があるだけで裁いているのであって、決して公正ではありません。そのよりも一番大事なことは、それを神が許されたということです。あなたが神に代わって裁いてはいけません。あなたもその人と同じ、罪人の一人に違いないのです。
重要なポイントは、神がすべてを見ておられ、最終的に裁かれるのです。また赦さなければ赦さなかったことから来ることが、人格や信仰の形成に大きな影響を及ぼしてしまうのです。他者を断罪する大きな罪があるなら、神はその人の罪を赦さないし、聖霊の注ぎかけは困難です。その人にとってこれが最大の損失でありましょう。この地上でのことはやがて過ぎ去り、取るに足りないことになります。私たちは永遠の天に生きる者でありながら、赦さない人の正体は、実はこの滅ぶべき地に属していることを証明しているのではないでしょうか。
本当に天国に所属する人たちは、イエス・キリストも、ステパノもパウロ三木も、目前の自分を殺そうとする人たち皆に罪を着せなかったのです。今みなさんはおそらく、自分の赦さない罪に気づかれていないかも知れません。これからもし、聖い聖霊様が聖霊のバプテスマとしてみなさんに臨む時、おそらく聖霊様ご自身によってみなさんの罪を改めて教えてくださることでしょう。その時はじめて悔い改め、赦され、一段と完全な者とされて行くことでしょう。
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