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2023年7月

2023年7月30日 (日)

礼拝は最強の伝道

エペソ 1章23節   2017新改訳

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。

 私たちは<伝道>というと、外に出て行って、駅前とか大学のキャンパスでトラクトを配ったり、聖会の開催に合わせてやはりトラクトとか、呼び込みをしたりするのが伝道のイメージです。ところがオン・ザ・ウェイのジャック・ヘイフォードさんは違うんです。礼拝こそが最高、最強の伝道だと。伝道というものは非常に霊的なものだと言われるのです。確かに神の霊に触れなければ、神がわからず、本当に信じて救われることはかなり困難です。

 では神に触れられる所とはどこか?ここなんです。霊的な礼拝をしている今この時、この場、そう、教会の礼拝が答えなんです。私たちが霊とまことをもって真に神に礼拝しているなら、この場に聖霊が臨在し、満ちて人々を倒し、魅了し、神を信じる者とされるのです。

 このことがペンテコステの日に起こりました。大きな音がしたわけですが、実際には聖霊が三千人の人々を超自然的に集め、異言やペテロのメッセージに霊感された礼拝によって最初の教会が発足したのです。男性だけで三千人は現在でも大きな人数ですが、昔の狭いエルサレム市街に、過越の祭から居残って人々の三千人というのは、途方もない数のように私は思われます。
 またパウロとバルナバを召して異邦人伝道に向かわせたのも、礼拝中、聖霊の指示によるものです。これは今日に至る世界史的な転回点となった出来事です。このように礼拝における臨在が、霊によって信じる者を起こし、神に聞き従って神の計画、伝道の御業をはじめられた場そのものなのです。

 皆さんの中に、礼拝って毎週同じことばかりを繰り返して、形式的で新味がなく、退屈だと思っている方がおられるかも知れません。牧師にも相当の責任があると思いますが、中には余りにも平安があり過ぎて、メッセージ中に居眠りされる方も。ですが昔から、そして現在に至るまで、逮捕されたり拷問を受けるリスクを冒してまで、クリスチャンは命懸けで礼拝を守ってきました。どうしてでしょうか?

 逆にサタンは何とかして礼拝に行かせまいとし、あらゆる策略を用いて来ました。世人が日曜日にレジャーで楽しむのをうらやましく思わせ、教会の人間的な負の側面から心に傷を負わせたり、などです。また礼拝後の交わりが楽しく、それが教会に行く主目的になってしまうこともあるでしょう。しかしそれらはサタンの罠に縛られているのです。

 そうでなく、教会は神を礼拝し愛し、隣人を兄弟の愛でもって交わるところです。そこには臨在の恵みがあり、あふれる祝福の場となのです。そうなっていないのであればまず第一に悔い改めるべきは牧師です。そして教会全体で主の霊、臨在の恵みを追い求めてください。応えてくださる神を信じましょう。

 

 

 

 

2023年7月23日 (日)

信仰とは何か

マタイ15章28節   2017新改訳

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 本日の聖書箇所(マタイの福音書 15章22~28節)でシドン人の女性が登場する。群衆が押し寄せることのない異教の隣国で、静かに弟子訓練を続けたかったイエス様にとって、この叫び続ける女は大迷惑の存在だった。「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」とあるように、当時の国際語ギリシャ語が話せるということは、隣国ユダヤの事情にも通じており、イエス様のことをも相当聞き及んでいたと思われる。そして彼女にとって困難と絶望の中、唯一の希望の灯火はイエスによる癒やしであった。そうでなければ、ここまで叫び続けてまとわりつかなかったはずだ。彼女にとってイエスの一行の到着は、これぞ神の導きと確信したはずである。
 聖書には「汚れた霊」「悪霊に憑かれて」と表されている精神の病は、現代においてもどんな病名がつこうと、治癒が困難な病である。私の体験では、当人が苦しむだけでなく、身近な母や子、或いは伴侶も、正常であるだけに本人同様かそれ以上の苦しみがあったはずである。

 さてこの女性はイエス様に通されると、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」と真っ先に言っている。「ダビデの子よ」は、彼女の信仰が正当なものであることを告白している。娘本人は悪霊に憑かれているので信仰はない。しかし母親の信仰によって家族の癒やしを願っているのだ。
 この異邦人の女に対し、イエスは、これ以上にないほどの辛辣な試しを投げかけられた。救いや癒やしなどはイスラエルのもので、異邦人にはお門違いだと一蹴する。しかしそれでも「主よ、私をお助けください。」と引き下がらないので「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないこと」と侮辱的なまでの拒絶の言葉を投げかけられた。
 普通はこれまでである。憤然と怒りのあまり、期待外れのイエス様を罵って席を立つのが人間ではなかろうか。愛する娘が、存在の価値が極めて低い<小犬>呼ばわりされたのである。多少でもプライドがある人なら、必ずそうしたはずである。しかしこの女はそうしなかっただけでなく、「小犬でもこぼれ落ちたパン屑はいただきます」と食い下がったのである。

 聖書でイエス様から信仰をほめられた人物は二人だけで、その両方とも異邦人であった。特にこの女性に対しては「あなたの信仰は立派です」と最上級の賛辞を贈られている。もし現在において私がこの時のイエス様のような試しの言葉を言ったなら、きっとレイシストとして社会的に抹殺されるだろう。しかし神であるイエス様は、この女性の信仰を見抜いておられ、弟子たちの前で信仰とその酬いというものを鮮やかにお見せになったのである。後になってみればこれも、弟子訓練の一貫であったと言えるのである。
 どんなに彼女は拒絶され、侮蔑されても怯まなかった。神の大きな恵みの前に、一切のプライドは剥がれ落ちていて、ただ主の憐れみと恵みを信じていた。信仰は立派な行いや人品を装うものではなく、ただ追い求める必死さ懸命さ、憐れみを信じ求め続けるひたむきさの中にあることを、主は教えられたのである。私たちもそのような信仰でなければならないのだ。

 

 

 

 

 

2023年7月16日 (日)

「ルツ前田さん孤児院報告会」から

✝ 詩篇118篇22節     2017新改訳

家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。

 東京アンテオケ教会で行われたカンボジア孤児院報告会で、開設25年が経過したとのことだった。私も2004年8月にほぼ一ヶ月訪問したが、この時は開設からまだ6年しか経っていなかった。
 20年にわたる内戦が、1993年のカンボジア国民議会選挙でようやく終わったのだが、この国におどろくほどの孤児が増えることになった。何しろ国民の2割近くが同国民同士が争って犠牲になったのだ。
2004年に私が訪れた時でも戦後十年ぐらい。戦争の爪痕はようやく整理されかけていても、メインストリートにバラックが多く、報告会の話にあったようにほとんどが二階屋であり、あちこち破壊された都市はアジアの最貧国に見えた。

 それ以上に気になったのは、人々の目の鋭さ、あるいは貧しさである。街の辻々には、なぜか鋭い目をした青年や成人らしい若者が立っており、常に何かに警戒して目を光らせている。私は彼らの目を非常に意識して歩くことになった。また目に付いたのは道に磁石を転がし、鉄屑を探して歩く母子の姿。住宅街はどの家も高い塀で囲い、中を見せないように警戒していた。そうでなければ街のあちこちに丸太の柱を突き立て、五、六十センチもの土台の上に、吹きっ晒しのようなバラック建ての家も目立った。市場では男たちが昼間っからTVゲームに群らがっていたように、概して仕事にあぶれている感じだった。

 私よりも5、6年前に来たルツ前田さんの時代は、さらに物騒だったのも分かる。ルツさんが到着し孤児院を始めて間もなく、近所を戦車が通り、銃声が聞こえたと言うから、おそらく街に潜入してくるポルポト派のゲリラに対し、軍の掃討作戦が行われたのだろうと思われる。そのような困難な時代だからこそ、ルツ前田さんが命の危険を感じても、預かった子ども達を守って踏みとどまられ、その使命を全うされたのはすごいことだと思わされる。

 今回、孤児院の子供達が立派な社会人として、次々に巣立って行った報告を聞いた。大学を出て就職したり、中には結婚した子もいる。これらの子ども達は四半世紀の大きな収穫である。心から孤児院の働きと神を崇めた。彼らが神の証人としても用いられるよう、これからも祈り続けて行きたい。

(7月15日東京アンテオケ教会での報告会より)

2023年7月 9日 (日)

備える信仰

Ⅱテサロニケ 2章3節  2017新改訳

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。
マタイ 24章13節 (補足) しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

いきなりですが皆さん、「患難時代への信仰の備え」できていますか? 

 これまで「黙示録」「ダニエル70週の預言」などを学んできましたが、その中で大いに気になることがあります。それはみなさん、と言っては失礼になる方もいらっしゃるでしょうが、ご容赦願います。
 杞憂に終わる心配ですが、知識としてどんなに学ばれても、単に知識や教養だけに終わっていては、いざその時が迫って来てからでは遅すぎると言えましょう。
 マタイの24章48節以降では、悪いしもべとして、次のように述べられています。「しかし彼が悪いしもべで、『主人の帰りは遅くなる』と心の中で思い、仲間のしもべたちをたたき始め、酒飲みたちと食べたり飲んだりしているなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ報いを与えます。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです」

 ですから今自分が「主の日は当分来ない」と思って、その備えを怠るなら、その日には「泣いて歯ぎしりする」ことになりかねません。「これは大変だ。このままではいけない」と危機意識というか、悔い改めてやがて来る次の時代に備えようとする心構えが大切なのです。もっと言えば、これは2000年前の使徒の時代から、私たちが常にアイデンティティーとして持ち続けなければならないことだと言えましょう。日本の有名な格言で、<泥棒を捕らえて縄をなう>ように、間に合わないのです。
 私たちの目は常に天を仰いでいます。「主の日は当分来ないだろう」と勝手に決められるのはそれぞれの判断ですが、聖書はそのような事を言ってはいません。いつ主が来られても良いように、しもべとして与えられたタラントを用いて行くのです。勿論人によってはたった1タラントの人もいるでしょう。しかし1タラントでも、その1タラントを恐れずに用いて行くことで、10タラントの人と全く同じおほめにあずかるのです。
 特に今の時代、ロシアがウクライナにする野蛮な戦争をし、地球規模で疫病や温暖化など気候変動が起こり、これらは時が近づいている兆候は確実です。礼拝、証、献金などの基本的なことはもとより、対抗心や自尊心を廃し、いつもこころに主に感謝する喜びの表情でおられることが大切です。

 

 

 

 

2023年7月 2日 (日)

みこころを行う

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
 「キリストを信じて信仰告白をすれば、誰でもみな天国に行ける」と多くのクリスチャンは思っているはずですが、そのような人たちは、本日のこの箇所 --「みな」ではない-- をどう読み取るのでしょうか。
 このような不安を払拭できないからでしょうか、この重要な箇所であるにも関わらず、過去においてメッセージにおいて、私は一度も聞いたことがありません。しかしこれを避け、このまま不安を残したまま時を迎えるのであれば、牧会者として大きな問題であります。

 神のみこころを行なわなければ、天の御国に入れない。では<みこころ>とは何か? これは聖書では明確にイエスの言葉として次のように言っている。
第一に神を愛しなさい。」「第二に隣人を愛しなさい」と。さらに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19−20)という使命も語られています。神のみこころが分からないという人は、これらのはっきりしたみこころを行おうとしていない‥‥つまり本当に救われた神を愛する実が、実際に実っていないのではないか、と私は疑っています。本当に救われていれば、自分ができる、できないではなく、行えるよう神の助けを真剣に祈り求めるはずです。

 次に神のみこころは具体的に個々人にあらわされていきます。自分の努力や働きで霊的な救いを得るということでもありません。それは勿論聖書の範囲内のことであり、聖霊との日々の交わりを通して明らかにされて行きます。神はご自分を愛される者にご自分をあらわされるのです。それは聖霊のバプテスマのような、肉なる心を滅ぼし、聖霊がその人の中で主となり、宮を築いておられる人限定になります。いわば神への献身者を通して神は具体的な指示や慰め、励ましを与え、みこころを行わせて神の計画を前進させられます。
神はみこころのままに、あなた方のうちに働いて志を建てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ12:13)
文字は殺し、御霊は生かす」この聖句も(Ⅱコリント3:6)に出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。

 

 

 

 

 

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