みこころを行う
✝マタイ 7章21節 2017新改訳
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
「キリストを信じて信仰告白をすれば、誰でもみな天国に行ける」と多くのクリスチャンは思っているはずですが、そのような人たちは、本日のこの箇所 --「みな」ではない-- をどう読み取るのでしょうか。
このような不安を払拭できないからでしょうか、この重要な箇所であるにも関わらず、過去においてメッセージにおいて、私は一度も聞いたことがありません。しかしこれを避け、このまま不安を残したまま時を迎えるのであれば、牧会者として大きな問題であります。
神のみこころを行なわなければ、天の御国に入れない。では<みこころ>とは何か? これは聖書では明確にイエスの言葉として次のように言っている。
「第一に神を愛しなさい。」「第二に隣人を愛しなさい」と。さらに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19−20)という使命も語られています。神のみこころが分からないという人は、これらのはっきりしたみこころを行おうとしていない‥‥つまり本当に救われた神を愛する実が、実際に実っていないのではないか、と私は疑っています。本当に救われていれば、自分ができる、できないではなく、行えるよう神の助けを真剣に祈り求めるはずです。
次に神のみこころは具体的に個々人にあらわされていきます。自分の努力や働きで霊的な救いを得るということでもありません。それは勿論聖書の範囲内のことであり、聖霊との日々の交わりを通して明らかにされて行きます。神はご自分を愛される者にご自分をあらわされるのです。それは聖霊のバプテスマのような、肉なる心を滅ぼし、聖霊がその人の中で主となり、宮を築いておられる人限定になります。いわば神への献身者を通して神は具体的な指示や慰め、励ましを与え、みこころを行わせて神の計画を前進させられます。
「神はみこころのままに、あなた方のうちに働いて志を建てさせ、事を行わせてくださる方です」(ピリピ12:13)
「文字は殺し、御霊は生かす」この聖句も(Ⅱコリント3:6)に出てきます。文字とは直接的には十戒のことですが、律法の意味です。律法によっては人は罪を知るばかりです。(使徒13:38−39)が、十字架によって罪から解放された私たちは新たな主、御霊が与えられました。この御霊によって私たちは肉の心から解放され、父と交わる者とされました。世の霊、肉の自分からはじめて自由になりました。それを御心のために用いることによって、<永遠に生きる>存在とされ、自由の意味を知ることになりました。御霊は私たちをそのように教え育て、真に生かすという意味です。
「神のみこころ」カテゴリの記事
- わたしの母、わたしの兄弟とは(2024.07.28)
- 後の方が良いに決まっている(2024.06.23)
- 心理的中毒症状(2024.06.16)
- 地獄に天国をもたらす(2024.05.05)
- 天に行く確かな歩み(2024.04.14)
コメント