信仰とは何か
✝マタイ15章28節 2017新改訳
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
本日の聖書箇所(マタイの福音書 15章22~28節)でシドン人の女性が登場する。群衆が押し寄せることのない異教の隣国で、静かに弟子訓練を続けたかったイエス様にとって、この叫び続ける女は大迷惑の存在だった。「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」とあるように、当時の国際語ギリシャ語が話せるということは、隣国ユダヤの事情にも通じており、イエス様のことをも相当聞き及んでいたと思われる。そして彼女にとって困難と絶望の中、唯一の希望の灯火はイエスによる癒やしであった。そうでなければ、ここまで叫び続けてまとわりつかなかったはずだ。彼女にとってイエスの一行の到着は、これぞ神の導きと確信したはずである。
聖書には「汚れた霊」「悪霊に憑かれて」と表されている精神の病は、現代においてもどんな病名がつこうと、治癒が困難な病である。私の体験では、当人が苦しむだけでなく、身近な母や子、或いは伴侶も、正常であるだけに本人同様かそれ以上の苦しみがあったはずである。
さてこの女性はイエス様に通されると、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」と真っ先に言っている。「ダビデの子よ」は、彼女の信仰が正当なものであることを告白している。娘本人は悪霊に憑かれているので信仰はない。しかし母親の信仰によって家族の癒やしを願っているのだ。
この異邦人の女に対し、イエスは、これ以上にないほどの辛辣な試しを投げかけられた。救いや癒やしなどはイスラエルのもので、異邦人にはお門違いだと一蹴する。しかしそれでも「主よ、私をお助けください。」と引き下がらないので「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないこと」と侮辱的なまでの拒絶の言葉を投げかけられた。
普通はこれまでである。憤然と怒りのあまり、期待外れのイエス様を罵って席を立つのが人間ではなかろうか。愛する娘が、存在の価値が極めて低い<小犬>呼ばわりされたのである。多少でもプライドがある人なら、必ずそうしたはずである。しかしこの女はそうしなかっただけでなく、「小犬でもこぼれ落ちたパン屑はいただきます」と食い下がったのである。
聖書でイエス様から信仰をほめられた人物は二人だけで、その両方とも異邦人であった。特にこの女性に対しては「あなたの信仰は立派です」と最上級の賛辞を贈られている。もし現在において私がこの時のイエス様のような試しの言葉を言ったなら、きっとレイシストとして社会的に抹殺されるだろう。しかし神であるイエス様は、この女性の信仰を見抜いておられ、弟子たちの前で信仰とその酬いというものを鮮やかにお見せになったのである。後になってみればこれも、弟子訓練の一貫であったと言えるのである。
どんなに彼女は拒絶され、侮蔑されても怯まなかった。神の大きな恵みの前に、一切のプライドは剥がれ落ちていて、ただ主の憐れみと恵みを信じていた。信仰は立派な行いや人品を装うものではなく、ただ追い求める必死さ懸命さ、憐れみを信じ求め続けるひたむきさの中にあることを、主は教えられたのである。私たちもそのような信仰でなければならないのだ。
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