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2023年8月

2023年8月27日 (日)

恐れるな

創世記 15章1節   2017新改訳

これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。

イエス・キリストを信じ、霊の目が開かれて来ると、「恐れる」ということがサタン、悪霊の働きであることが見えてきます。聖書では「恐れるな」という言葉が39回出てきます。恐れは神の働きを止め、妨害します。なぜでしょうか?
 それは人間の生存し防衛する本能そのものであり、一切考える必要のない、何ものにも優る強い動機である。本来人を生かすためのものだが、逆にこれが強く働くと不安と恐れに支配され続けてしまい、正しい生き方、判断ができなくなります。
 例えていうならそれは、木に取り付いて絡みつき、最終的にはその木を弱め枯らしてしまうつる、蔦のようものに例えられるでしょう。蔦のように恐れで人を支配するものを私たちは悪霊という。
 悪霊の存在は、主なる神を信じている霊的なクリスチャンだけがわかるもので、一般の人には認識できない。神の霊、聖霊がわからなければ、真札を知らないで偽札を見分けることが困難であることと同じです。つまり原因である悪霊を見分け、その上で追い出す権威がある神に頼らなければ、恐れのあらゆる類、不安神経症からいわゆる統合失調症などの病に対して、陰で働く主因の悪霊を追い出すことはできません。つまりこの種の完全な癒やしは無いと私は思っています。ただしこれは、人の努力や意志によるものではなく、神の御心、信仰の領域になります。

私の失敗談の一つ〜広島の片田舎から献身して、東京は高円寺の単身者のアパート暮らしを始めました。献身の際に一つ心に決めていたことがありました。それは神様のために用いることにした人生なので、「世的な労働はしない」ということでした。さてなんとか献身生活も半年経った頃のことです。ある夜、不安が私を支配することになりました。退職金の蓄えが思ったより早く目減りしていくんですね。これで計算すると、あと何年保つか、十年はないんじゃないか、不安になって来たのです。なんとかこれをもっと保たせたい、そう思った時、脳裏に思い出したのは銀行がやっている外国債の投資でした。これで月々十万以上の利息が配当されると、ほとんど目減りしません。これに飛びついたわけなんです。
 そんな旨い話がこの世の中にあるはずもなく、国際情勢の急転で半年後には、逆に元金を割り込むことになりました。「神の戒めであった。これは授業料だった」と悔い改めて即解約しましたが、発端は「先行きの不安」から出た愚かな判断でした。神に委ねて献身したはずなのに、祈りもせず、自分の知恵で判断した愚かさを本当に思い知らされました。みなさん、不安に駆られてすることは、ろくなことがありません。不安なら不安を、経済なら経済を神様に委ね、とことん祈って御心を確かめ、平安が来たら決断しましょう。

 みなさん、もう一度申し上げます。不安から来るものは悪霊、もしくは悪霊的なもので、これに動かされてはなりません。クリスチャンは平安、愛、喜びなのです。

2023年8月20日 (日)

刈り込まれた者

ヘブル 12章6節   2017新改訳

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
 
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
 家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。

 これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
 私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。

 イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

 刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。

 私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。

2023年8月13日 (日)

Restart (再出発)

申命記 6章4~5節   2017新改訳

聞け、イスラエルよ。は私たちの神。は唯一である。
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

 本日はちょうど13年前の15日(日)、船橋に着任後、勤労市民センターセンターで初めての礼拝を持った日になります。その時の出席者は牧師夫妻にK姉、つまり今日のメンバーそのままでした。そしてなんということでしょうか、あらゆる面で、再びここから14年目に向けて原点に戻っての再出発をすることになりました。「原点に戻って」とは、それまでいた教会員が主日礼拝直前に、創設時のメンバーにまで減らされ戻されたということです。
 こんな偶然があるものでしょうか。私は心中不安覚えて(※三つの無い)祈っていたものの、具体的は何らそのことにお応えや指示はなく、脱会通告が一斉に来てはじめてことの成り行きを知りました。SNSを同時に閉鎖されたので遺留のための対応は不可能でした。ですからちょうど14年目の出発というタイミングで、最終的に残されたメンバーが最初の三人であったことなど、これが神のみこころであり、「ここから再出発をせよ」の指示であることをはっきりと受け取るのです。

 ひとことだけここで確認しておきたいことがあります。出られた姉妹が退会理由として、TLEAのことを異端であり、カルトだと断定されました。これはまったく誤った判断です。こんな一方的な思い込みによる自分の判断と主張をし、それに対する相手の言葉は一切聞かないというのは、取り返しのつかない過ちをされている恐れがあります。
 異端とはキリスト教と称していても、使徒信条で特に触れられている神であるイエス・キリストを認めない教団・教会を指します。三位一体を前提とするキリスト教から逸脱しているわけです。エホバの証人や旧統一原理などがこれに当たります。
 次にカルトというのは、カリスマ的指導者を中心とするマインドコントロール中心の集まりを指し、現在では犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して言います。確かにTLEAは偏見を持ち外見だけを見るのであれば、一見そのように見間違う人がいるかも知れません。しかし別にマインドコントロールがあるわけではなく、信仰と聖霊にもとづく歩みが実体なのです。ですから私たちはカルト教団ではありません。実際いつでも退会は自由です。そしてカリスマ派、ペンテコステ派など、全ての聖霊派の教会に言えることですが、どうしてもリーダーにはカリスマ的傾向はあるのですが、問題はそこに神の臨在があるのかという点であり、各人に与えられた賜物が正しく運用されているかどうかです。

 本日からこの船橋キリスト教会は14年目の働きに入ります。神はこの地に私たちを立てさせ、ご自分の証人として用い、日本のリバイバルに用いると語っておられます。したがってこれまでの13年間は、霊的にですが、イスラエルの民がシナイの荒野で訓練を受け、約束の地を獲ち取る戦士にされたような期間であったと考えましょう。さあ、Restartの賛美に載せて、この約束の地を占領しましょう。

2023年8月 7日 (月)

聖霊と悪霊

エペソ6章12節   2017

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 精神の病は、代表的な統合失調症であれ、私がそばで見続けた摂食障害であれ、重症化すれば病識がないのが特徴である。この病識がないことで陽性症状と陰性症状を繰り返し、次第に重症化する。重症化すると深夜、自分に呼びかける声が聞こえたり、本人とは全く別な人格が見え隠れするのが特徴と言える。
 医学では重症化すると患者を隔離病棟に入院させ、寛解(完治ではない)に向けて治療を行う。しかし退院すると再発率高く、完全治癒はあり得ない前提である。病の原因がわからず、対症療法であるためだと私は思う。

 以上は精神科医が概略述べてくれたことだが、牧師としてこのような病状を聞くと、これは悪霊の働きだと見ることができる。悪霊に対し、神の霊でなければ追い出す事は不可能であって、治癒の可能性があるのがキリス教だけである。神の霊である聖霊のみが、取り憑いだ悪霊を追い出すことができ、精神の病を完全に癒やすことができるのだ。

 聖書によると、今から2千年前のシドンで、イエス・キリストは「悪霊に憑かれた娘」を癒やされた。本人には病識がないので、この場合は母が信仰によってイエス様のもとへ来た。イエス様がイスラエルで起こされた癒やし、悪霊の追放は隣国にも聞こえていた。堅い信仰を持っていた異邦人の女は、イエス様から拒まれたり、小犬だと娘ともども貶められようと、全く怯まなかった。信仰による癒やしの確信があったからである。それゆえ女は、イスラエル人が聞いたこともないほどの最上級のほめことばにあずかり、望みの癒やしを受けることになった(マタイ15:28)。
 次にマグダラのマリヤは、「七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人」(マルコ16:9)であるが、癒された後には、イエスら使徒の群れを実質的に支える働きをしていたが、十字架の死の証人となり、最初に復活のイエスに会い、最初に声をかけていただく栄誉にあずかった女になった。

 このように精神の病には世人に対し、悪霊の存在を明らかにし、悪霊をも用いて神の計画と栄光を明らかにされる。精神の病だからこそ、その原因である悪霊の追い出しによって、神の栄光と力の証人とされたのである。このことを主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」と言い表したのである(ヨハネ9:3)。

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