刈り込まれた者
✝ヘブル 12章6節 2017新改訳
主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
神は愛する者を刈り込まれる。その刈り込みとは何か?
家の庭が、伸び放題の木や高い雑草で覆われていたら、その家は空き家に見えます。もしそれが自宅だったら恥ずかしく思うだろう。自然のまま放っておけば、必ずそうなるものだ。そこで刈り込んで手入れする。樹木には痛いことであろうが、結果として美しくなり、風通しが良く、病害虫も防いで生長も良くなる。手入れされることは美しく快適で、持ち主の庭への愛を感じる。
これは神と人との関係に同じことが言える。天地万物を造られた神は、人をその管理者として置かれた。しかし人もまた神の被造物であって、自然のままでなく刈り込みを受け、整えられなければ野性のままである。刈り込みを受ける人は、神に愛されているのである。
私たちクリスチャンへの刈り込みとは、真に神を「主」とするための試練困難のことである。肉のクリスチャンはいつまでも自分が主であり、逆に神をしもべとしていることに気付かない。人間の努力や力では、真に神を主とすることは困難なのだ。そこで神は愛する者に刈り込みをされるのである。神からの刈り込みによって、自分自身の誇りや高ぶりが打ち砕かれ、人ははじめてへりくだって自分の人生を神に明け渡し、神を文字通り主とすることができる。
イエス・キリストは弟子たちに重ねて次のように教えた。(ヨハネ 12章24~25)
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
刈り込まれた者は、父の愛を知り、父を愛し、慕う。喜んで自分を神に捧げ、「主」として聞き従うようになる。自分がどんなに肉の人間であったかを知って、心から悔い改める。そして初めて平安を得る。刈り込みを恐れてはならない。それは神を信頼していないことになる。アブラハムに神が「子イサクを燔祭として捧げよ」と言われた時、神はアブラハムが実際に捧げる信仰があるのを確信していたと私は信じる。できないことを神は試されたり、困難に陥れられない。全知全能の神に失敗はなく、すべては愛する者をより愛そうと、愛から発しているのだから。
私たち人間は刈り込まれることによって、真に神との正しい関係に入り、神の愛の内に憩い、喜び、御心を何としてでも行いたい熱意を持つ。肉の果てる命に優る永遠の霊のいのちは、その人の中で宮となり、栄光の神の計画と共に歩む。刈り込まれた者は、世では惨めで呪われた者に映るかも知れないが、実際には素晴らしい恵みであり祝福された人のことである。
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