恐れるな
✝創世記 15章1節 2017新改訳
これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。
イエス・キリストを信じ、霊の目が開かれて来ると、「恐れる」ということがサタン、悪霊の働きであることが見えてきます。聖書では「恐れるな」という言葉が39回出てきます。恐れは神の働きを止め、妨害します。なぜでしょうか?
それは人間の生存し防衛する本能そのものであり、一切考える必要のない、何ものにも優る強い動機である。本来人を生かすためのものだが、逆にこれが強く働くと不安と恐れに支配され続けてしまい、正しい生き方、判断ができなくなります。
例えていうならそれは、木に取り付いて絡みつき、最終的にはその木を弱め枯らしてしまうつる、蔦のようものに例えられるでしょう。蔦のように恐れで人を支配するものを私たちは悪霊という。
悪霊の存在は、主なる神を信じている霊的なクリスチャンだけがわかるもので、一般の人には認識できない。神の霊、聖霊がわからなければ、真札を知らないで偽札を見分けることが困難であることと同じです。つまり原因である悪霊を見分け、その上で追い出す権威がある神に頼らなければ、恐れのあらゆる類、不安神経症からいわゆる統合失調症などの病に対して、陰で働く主因の悪霊を追い出すことはできません。つまりこの種の完全な癒やしは無いと私は思っています。ただしこれは、人の努力や意志によるものではなく、神の御心、信仰の領域になります。
私の失敗談の一つ〜広島の片田舎から献身して、東京は高円寺の単身者のアパート暮らしを始めました。献身の際に一つ心に決めていたことがありました。それは神様のために用いることにした人生なので、「世的な労働はしない」ということでした。さてなんとか献身生活も半年経った頃のことです。ある夜、不安が私を支配することになりました。退職金の蓄えが思ったより早く目減りしていくんですね。これで計算すると、あと何年保つか、十年はないんじゃないか、不安になって来たのです。なんとかこれをもっと保たせたい、そう思った時、脳裏に思い出したのは銀行がやっている外国債の投資でした。これで月々十万以上の利息が配当されると、ほとんど目減りしません。これに飛びついたわけなんです。
そんな旨い話がこの世の中にあるはずもなく、国際情勢の急転で半年後には、逆に元金を割り込むことになりました。「神の戒めであった。これは授業料だった」と悔い改めて即解約しましたが、発端は「先行きの不安」から出た愚かな判断でした。神に委ねて献身したはずなのに、祈りもせず、自分の知恵で判断した愚かさを本当に思い知らされました。みなさん、不安に駆られてすることは、ろくなことがありません。不安なら不安を、経済なら経済を神様に委ね、とことん祈って御心を確かめ、平安が来たら決断しましょう。
みなさん、もう一度申し上げます。不安から来るものは悪霊、もしくは悪霊的なもので、これに動かされてはなりません。クリスチャンは平安、愛、喜びなのです。
« 刈り込まれた者 | トップページ | 主は今生きておられる »
「信仰」カテゴリの記事
- 主は今生きておられる(2023.09.03)
- 恐れるな(2023.08.27)
- 信仰とは何か(2023.07.23)
- 真の祝福(2023.06.11)
- 神の声を聞く(2023.03.19)
コメント