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2023年9月

2023年9月24日 (日)

真の幸福な人

マタイ 25章34節  2017新改訳

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 
真に主を信じるクリスチャンは、いつも喜びに満ちています。人間の一番の不幸は淋しさですが、親子、夫婦などどんなに大切な人であっても、人間であればいつかは別れが来ます。しかしクリスチャンは全く異なります。死も無く、変わらない愛と永遠の祝福に生きるのです。

 本日のマタイ25章には三つの裁きのたとえ話集といえます。「十人の乙女の話」「タラントの話」そしてこの「最後の審判」の話です。それぞれポイントがありますが、このたとえには、以下の重要なメッセージが込められています。天国へと祝福される人たちは、自分たちを義とせず、最後の審判まで山羊の群れの中に居ることです。それにつれて、私には思い出されることがあります。

 イスラエルをツアーしていた時の光景です。家畜は普通どちらかの群れになりますが、その時は山羊も羊も混在した群れでした。山羊の中に羊が並んで歩いていたのですが、山羊だけははみ出てついているものが多いのです。私も子供の時山羊を飼っていたのですが、山羊は飼い主に忠実ではありません。

 山羊も羊も飼われているのですから、これは牧会されている集団、つまりこの三つのたとえすべてがクリスチャン、教会員の群れであったことがわかります。主に牧されているはずのクリスチャンにも、全員が無条件に天国に凱旋するのではなく、最後に可否を決める審判があるようです。つまりクリスチャンと自称していても、「もっとも小さい者たちの一人にした」という信仰の実が問われていることです。この隣人への「空腹」「渇き」「旅人のもてなし」「裸や病気の者」への世話は、聖霊のクリスチャンなら当たり前のこととして見返りなしにすることでしょう。

 この「最も小さい者たちの一人にしたこと」が選り分けのポイントになるのですが、ここからいくつかの実際例を見ていきましょう。一番はチョー牧師から聞いた話ですが、ある時「家族を捨てて献身して来ました」という人物が弟子になりたいと来たそうです。彼に対し、チョー牧師は叱りつけたそうです。最も身近で小さき者を捨てる、そんなことはあり得ないのです。

 イエス様は30歳になってから公生涯に入られました。父親が早世したため、大工として一家を背負っておられましたが、その頃には弟のヤコブが家族を十分養える状態でした。
 私が献身したのは55歳の時です。献身するにはかなりの問題がありました。自宅や実家にある先祖代々の墓地や土地や家屋でした。しかし真に召命されたことを確信したのは、なんと主がすべての問題を解決してくださり、後顧の憂なく出発することができ、その際、何かを切り捨て犠牲にしたということはないのです。

 主は人の心を見られます。同じような親切行為であっても、主は見分けられるのです。心から信じて従うならば、地上においても祝福され、真に幸福な道を歩む人になるのです

2023年9月17日 (日)

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

大切なものと、こと

ピリピ 1章10-11節   2017新改訳

あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。

 たった一つのものを除いて、すべては滅んでいきます。また、たった一つのものを除いて、自分のものは存在しません。あらゆるものの内で、大切なものは一つしかありません。多くの人は知らず、また知っていても自分のものにできず、結局は失って行く。そのことを皆さんはご存知でしょうか。
 謎解きをしているのではありません。私たちが自分のものだと思っている自分の体も実は自分のものではありません。体は神から私たちが預かったもので、その管理者として私たちに委ねられたものです。
 しかし多くの人はそうは思っていませんし、やがて命が尽き腐って滅ぶ体と共に自分も滅ぶのだと思っています。しがみついています。体以上の価値のあるものを知らないのです。滅ばないものこそ、真実の価値があります。

 それは霊です。霊は滅ぶことがありません。なぜなら私たちは、黙示録で千年王国の時代の終わりに、すべての人の霊がよみがえり、神に裁かれること(最後の審判)を知っています。霊だけが肉体の時代にあったことを問われ、神に裁かれます。つまり霊だけが永遠であり、問われるたった一つのものだと聖書は記しています。

 その霊には三つあります。神と神に属するもの、人に属するもの、サタンに属するものの三つです。天使は霊的な存在ですが、神に従う霊であって、神に属するものです。同様に悪霊はサタンに従い、属する霊です。この両者にあって、人だけが中間的な存在です。けれども人は皆罪を背負っています(原罪)ので、十字架を信じなければ全ての人は皆、地に落とされる存在です。
 この原罪がわかっているかどうかが、福音を聞いて信仰の道に入るかどうかの非常に大きな違いを生むことになります。罪性に苦しむことは一見不幸なようですが、後に莫大な天の恵みを受け継ぐ土台になるのです。

 最後の審判時にすべての人がよみがえって、新しい体を着せられますが、天の国に迎えられた者は素晴らしい<御霊のからだ>を着、ゲヘナに行く多くの人々もまた、いわば永遠に苦しむための、滅ばない体を与えられるれます。
 このような人間の霊の裁きを見るなら、肉体の命がある私たちが今、何を思い、何をすべきなのかは明らかです。神と交わり、神の子として、父の御心を常に知り、その御心が行える者として歩まなければなりません。
 大切なもの、また大切なことは次のように明らかです。私たち人の体に住まう霊であり、聖霊と共に歩むことであります。他に何の大切なことがあるでしょうか?無いのです。

 

2023年9月10日 (日)

主を信頼し主に委ねよ

詩篇 37篇5節  2017新改訳

 あなたの道をにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

 クリスチャンには、なぜか期待する平安や祝福どころでなく、試練や困難が続くことが多い。私の身近に聞く話でも、教会を支えるような篤信な信徒の家庭に、結婚式直後数日で新郎が事故死したケースや、牧師を支えて教会を再出発しようとした直後、息子が車に轢かれて即死したケースがあります。タイミングといい、若かった私には「どうしてこんなことが許されるのか?」と嘆息せざるを得ませんでした。

 その根底には「天知万物を創造された全知全能の神に守られて、恵まれ祝福された人生のはずなのに、なぜ?」という思いがありました。「神にはこれらの不幸を防ぐ力はないのか」とも思ってしまいました。幸いこのことで不信仰になることはなかったのですが、疑問は当分続きました。
 しかしそのような、世的には<不幸>としか思えないようなことが、やがて私にも訪れ、直面する事態が来ました。十数年も続いたこの試練、困難の期間を通じて、私の人格、人生設計など、家族の破壊を通して何もかも大きく悪い方向に変わりました。
 祈っても祈っても、全然願いが叶わない。「こんな病気や不幸を与え続けるような神は、神じゃない!」とまで思うこともあり、危うく信仰まで失いそうになりました。

 しかしこの試練や困難が許され、通されたのは、私が自分自身に死ぬためには、絶対に必要であって、どうしても通らなければならない道だったのです。みなさん、自分に対して死ぬ、ということは、どんなに頑張っての努力や精進では不可能だということをご存知でしょうか。しかし「死ななければ、身を結ぶことができない」という御言葉もまた真実です。この唯一の突破口が神からの試練・困難なのです。それは、恐ろしいまでの自分の罪深さを気づかされ、無価値さに絶望することでした。

 それゆえ、私たちの教会の今直面している大きな困難<教会員が半減した、会堂を出て行かなければならない>に対しても、私は次の神の大きな計画が控えていることがわかるので、Restart だと確信しているのです。これを御言葉通り「このうえもない喜びと」(ヤコブ1:2)思いましょう。「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか(ヘブル10:23)。

2023年9月 3日 (日)

主は今生きておられる

黙示録 1章17~18節   2017新改訳

この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。

 本日のテーマを英語で言えば「Because He lives」です。実は同名の英語讃美に数日来ハマっておりまして、頭の中にずっと流れ続けて止まらないのです。特にBecause He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is goneの歌詞(和訳:主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る)のImg_1270 くだりが繰り返され、会場の数千人の全聴衆が立ち上がって讃美する、その圧倒的な情景に、心から感動するのでした。

この讃美は、聖霊派なら誰でも知っていそうな、かなり有名な曲のようです。日本でこのようなことが起こったなら、「リバイバルが起こった」と感動することでしょう。
 特に「主が生きておられるから‥明日に立ち向かえる‥全ての恐れは逃げ去る」に深く同感するのです。私がこれまでの人生経験から最も導き出されるのは、人の行動原理は<恐れ>だということです。むろん、かねて申し上げている通り、恐れはサタンから来ており、サタン・悪霊は恐れを支配の道具にしています。障害と精神の病は厳密には分離し難いところもありますが、以後のことは聖書から見ての見地です。 生まれつきの障害は「神の栄光」のため。逆に後天的な障害は幾分か本人の罪のせいであろうかと推察されます。しかしほとんどの精神の病については、ほぼほぼ悪霊の本質である<恐れ>が宿主に憑依した結果だというのが聖書的に見れば言えるでしょう。代表的な統合失調症など、実情は薬による寛解が治療の目的になるようです。寛解ですから治ることはあり得ません。治るのは主イエス・キリストを信じ、神の力による悪霊の追い出し以外にあり得ません。
 つまり「全ての恐れは逃げ去る」こと、真の癒やしや解放は、悪霊に対し、唯一の勝利者、聖霊による追い出しと神の支配の確立だということです。ですから真のクリスチャンは恐れに聖霊に頼って対抗し、追い出し勝利を得るのです。その結果は神の愛、平安、喜びです。
 繰り返しますが、十字架による罪の赦し、聖霊の支配によって私たちは<見えない闇の力が見え、見分けることができ、神の道を選ぶ=悪霊を追い出す>勝利を得ることができるのですから、真に神を信じていない人には、神の御心がわからず、肉のクリスチャンにあっては、いくら自分はクリスチャンだと称していても、持続的な平安はあり得ません。<肉の死>を超えて永遠のいのちへの確信も、残念ながら持てないのです。

 

 

 

 

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