真の幸福な人
✝マタイ 25章34節 2017新改訳
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
真に主を信じるクリスチャンは、いつも喜びに満ちています。人間の一番の不幸は淋しさですが、親子、夫婦などどんなに大切な人であっても、人間であればいつかは別れが来ます。しかしクリスチャンは全く異なります。死も無く、変わらない愛と永遠の祝福に生きるのです。
本日のマタイ25章には三つの裁きのたとえ話集といえます。「十人の乙女の話」「タラントの話」そしてこの「最後の審判」の話です。それぞれポイントがありますが、このたとえには、以下の重要なメッセージが込められています。天国へと祝福される人たちは、自分たちを義とせず、最後の審判まで山羊の群れの中に居ることです。それにつれて、私には思い出されることがあります。
イスラエルをツアーしていた時の光景です。家畜は普通どちらかの群れになりますが、その時は山羊も羊も混在した群れでした。山羊の中に羊が並んで歩いていたのですが、山羊だけははみ出てついているものが多いのです。私も子供の時山羊を飼っていたのですが、山羊は飼い主に忠実ではありません。
山羊も羊も飼われているのですから、これは牧会されている集団、つまりこの三つのたとえすべてがクリスチャン、教会員の群れであったことがわかります。主に牧されているはずのクリスチャンにも、全員が無条件に天国に凱旋するのではなく、最後に可否を決める審判があるようです。つまりクリスチャンと自称していても、「もっとも小さい者たちの一人にした」という信仰の実が問われていることです。この隣人への「空腹」「渇き」「旅人のもてなし」「裸や病気の者」への世話は、聖霊のクリスチャンなら当たり前のこととして見返りなしにすることでしょう。
この「最も小さい者たちの一人にしたこと」が選り分けのポイントになるのですが、ここからいくつかの実際例を見ていきましょう。一番はチョー牧師から聞いた話ですが、ある時「家族を捨てて献身して来ました」という人物が弟子になりたいと来たそうです。彼に対し、チョー牧師は叱りつけたそうです。最も身近で小さき者を捨てる、そんなことはあり得ないのです。
イエス様は30歳になってから公生涯に入られました。父親が早世したため、大工として一家を背負っておられましたが、その頃には弟のヤコブが家族を十分養える状態でした。
私が献身したのは55歳の時です。献身するにはかなりの問題がありました。自宅や実家にある先祖代々の墓地や土地や家屋でした。しかし真に召命されたことを確信したのは、なんと主がすべての問題を解決してくださり、後顧の憂なく出発することができ、その際、何かを切り捨て犠牲にしたということはないのです。
主は人の心を見られます。同じような親切行為であっても、主は見分けられるのです。心から信じて従うならば、地上においても祝福され、真に幸福な道を歩む人になるのです