私は何をお返ししよう
✝マタイ 18章26節 2017新改訳
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
マタイの18章21~35節で、イエス様がペテロの問い、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」に対して七十回と答えられましたが、実は回数の問題ではないこと、「ゆるす」ことの真の意味を続けて語られたのです。
それがこの、王に対し、一万タラントの負債をした家来のことです。家来ですから、当然クリスチャンで、立場としては神から相当の責任を任される牧師とか、会計執事のような人に相当するでしょう。ところがこの家来は主に対して忠実な者ではなく、能力はあっても私腹を肥やすような不正な者でした。数ある教会では、主の声を聞き、従うのではなく、自分が良かれと思う自分の思いと考えで牧会する牧師は多いと思われます。しかしそれは不正なのです。
この家来の不正な額は、今の相場で言えば6千億円相当になり、途方もないものです。私にとって大金である百万円の何倍でしょうか?六万倍です。これを返すには家を処分し、家族を奴隷に売っても全然足りません。そこで彼は王様に泣きつき、許しを願ったので、あわれみ深い王にゆるされました。神のゆるしは1万タラントに象徴される途方もないゆるしです。
普通でしたらこの裏切りに対して厳罰が当然です。教会に当てはめれば、神の権威を利用できる立場にある者が、実は自分の栄光や財を蓄積していたようなものでしょうか。しかし、あわれみを求められると、なんと神はゆるされるのです。ですから神のゆるしは、途方もないゆるしであることがわかります。
しかし重要なことがこの後続きます。ゆるされた家来の帰り道、自分から百万円借りていた者を見つけ、返済を迫って牢屋に入れたのです。百万は王に許してもらった六千億の六万分の一です。あわれみのないこの家来に、王が怒って、先の許しは取り消されました。
これは私たちが神のあわれみによって、どれほど赦されているか、またその恵みの故に、私たちも同じ罪人を決して恨まず、ゆるし続けなければいけないことを教えています。それどころか主は「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。(ルカ6章27~28節)」とさえ語られたのです。
これは自分の罪が本当にわかっている人、または主から<わからされている人>なら、心から「アーメン」と言えることです。どうでしょうか皆さん、心の底から「アーメン(真摯にその通り)」と言える人こそ、神から愛され、あわれみが何であるかを体験された恵みの人ではないでしょうか。「主に何をお返ししようか」と思うなら、まず自分を赦された膨大な主の愛、また自分自身を始め、すべてをゆるし、そのただ中で主を賛美しましょう。<私は賛美の声を上げます!>
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