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2023年11月

2023年11月26日 (日)

信仰義認

✝ ローマ 1章17節   2017新改訳

 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 私たちプロテスタントが、カトリックからどういういきさつで別れ出てきたのか、そのことを知らなかったとしたら、自分の正体が不明という由々しき問題です。本日は宗教改革を取り上げます。

 プロテスタントの誕生、いわゆる宗教改革はルターによって、1517年、ヴィッテンベルク城門に95ヶ条の論題を張り出されたことによって始まりました。ルターは親の希望通り、法律家を目指していましたが、ある日雷に打たれて死にそうになり、現世より永遠の世界に目覚めて修道会に入りました。修道士から司祭になっていく中で、救いについて大きな悩みを持つようになりました。裁き主である神の義の前に、人間の罪深さがどこまでキリストによって赦されるのか、と言う疑問です。
 ご存じのとおり、カトリックでは礼拝堂の中に告解室があります。信者は司祭を通して神に罪を告白することよって罪がゆるされるとしていますが、すべてを告解しないと罪が残る訳で、救われて天に行きたい人々にとって、これは重要な課題でした。この罪のゆるしについて、ちょうどこの頃、教皇レオ10世によって贖宥状(免罪符)が販売されました。罪のゆるしを金で買う贖宥状の誤りを、城門に張り出したルターが触れていたため、教皇に逆らう宗教改革が始まったのです。しかしながらルターは、贖宥状自体は主題ではなく、具体的な例でのおまけのようなものでした。

 実際はルターが悩んでいた神の二面性についての答えを啓示によって見い出し、その観点からカトリック信仰の内部改革を目指したものでした。神には裁き主、義なる神という面と、十字架で愛し、罪をとりなし赦す神イエス・キリストの両面があります。神を愛すると言っても、恐れが含まれていれば、真に神を愛したとは言えません。この問題はカトリックだけでなくプロテスタントの多くのクリスチャンが、神の義と聖による裁きの恐れを排除できていないと私は見ています。

 私の見解ではこの時ルターへの啓示とは聖霊の満たし、聖霊のバプテスマを受けて恐れを解決したと思われます。聖霊が己の内に臨在され住まわれる大いなる出来事によって、完全な義が自らの内に存在されたのです。義と聖は自分がつかみ到達するものではなく、神の一方的なプレゼントによって神の内に見い出され実現するのです。そのことを「福音のうちには神の義が啓示されていて‥‥『義人は信仰によって生きる』」(ロマ1:17)とパウロが言ったのです。
 こうしてルターは、罪のゆるしの難問を一気に解決し、カトリック信仰の罪を告解や行いでゆるすという反聖書性を暴いたことが贖宥状批判に結びつき、一気に宗教改革が始まったのです。

2023年11月19日 (日)

三日で建てられた神の宮殿

マルコ 14章58節   2017新改訳

「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
 本日はエルサレム、特に神殿と聖墳墓教会について語らせていただきます。これらは全世界のクリスチャンにとって非常に聖なる所ですが、少々誤解も含まれているようなので、改めて説明をいたします。まずエルサレムは聖なる所です。そのことは✝歴代誌第二7章16、✝詩篇99篇1~5、そして✝ヨエル書3章17節にはっきりと書かれています。

 その足台となるエルサレム神殿がありますが、ここはアブラハムがその子イサクを捧げたモリヤの山、ダビデがアラウナの打ち場の傍で主の御使いに、罪と民の代わりに自分を罰するよう告白した所です。そこに主がガドを通し、祭壇を築きなさいと命じられたのです。イエス様もここを「父の家」と言われました。

 そのイエス様の使命は神殿を支配する者たちの手にかかって十字架に架かり、ご自身が贖罪の子羊となられることでした。なんと神ご自身が私たちの罪を背負ってくださったのです。その場所がほぼ間違いなく、聖墳墓教会です。この場所はA.D.300年ごろコンスタンチヌス帝の母ヘレナによって発見された所です。その後何度もイスラム勢力によって破壊され、再建されての歴史を経て今日に至っています。このような長い歴史の結果、現在はキリスト教6派の共同管理の下に運営され、世界中のクリスチャンの聖地となっています。

 歴史的な建造物ですから薄暗く、香料の匂いもあり、私達の群れには霊的に良くないと入らないという方がおられます。しかしこれは余りにももったいないことであって、ゴルゴタの丘、「エディクラ」と呼ばれるキリストの埋葬場所を同時に見学できる所は、この地球上で唯一、ここだけです。この二つの場所を見て回れるよう、巨大な建物で覆って当時の面影を完全に作り変えた面はありますが、救われるすべての魂にとっては、霊的に良くないの超反対の所です。

 ぜひエルサレムを訪問できる機会があれば、神殿の丘が難しくてもこの聖墳墓教会だけには入れます。ぜひ御わざの痕跡が残る現場で、改めて信仰を堅くする機会に恵まれますようお勧めします。

2023年11月12日 (日)

どんな罪も癒やされるが

マルコ 3章28節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 十字架を真に信じているなら、どんな罪も赦していただけます。その赦しの程度も、たとえ神を冒涜するようなことを言ったとしても、赦していただけるのです。「すごい」と思われませんか?しかし、続いて「聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」とあるではありませんか。これって、気になりませんか?私は大いに気になりました。

 すべての罪は赦されます。これは十字架を信じる人々への神の言葉です。ですからクリスチャンの罪は、罪を告白し、心からそれを悔い改めるならばすべて赦され、あたかも罪を犯さなかったかのように、完全に忘れてくださる恵みにあずかります。ですから、クリスチャンと称していても、生きるのがしんどいとばかりに暗い顔をしていたり、過去の重い罪を背負っている風な人は、基本おかしいのです。ひょっとして十字架の赦しと神の愛を、本当には信じておられないのかも知れません。クリスチャンは明るく前向きで、秘めた喜びを隠しきれないような顔をするはずです。
 ただし、過去にあったことではなく、今現在、聖霊様に示されてはじめて気づいたような過ちとか、知らず知らずのうちに人を見下したり、さばいていたりとか、つい小さな嘘を言ってしまったような罪に対しては、ただちに告白し、赦されて行かなければなりません。ですから神に向かうとき、私は胸を叩き、告白し、悔い改める姿勢から祈りを始めるのが常です。

 私が感じるのは、高ぶる意識はない方でも、自分はちゃんと生きていて、まっとうに生きていると認識している人、いわば普通の人に聖霊を感じることはまずありません。罪意識の乏しさが共通しています。しかし真に謙遜な人にはそれを感じました。それは性悪説とかいろいろ言い方はありますが、原罪を認識している人、つまり救いを必要としているところに共通点があります。
 ところで本題の聖霊を冒涜することについては、明快な答えがあることに気づくようになりました。自殺者は天国に行けないと聞くことがありますが、死んでしまっては、自分の侵した罪(自分の命も神から預かったもの)を赦される道が無いわけですから、これは理解できます。

 では聖霊様に対してはどうでしょうか。三位一体の神様にあって、聖霊様の役割は神と人とを直接繋ぐパイプのような働きをされます。したがって、聖霊なる神を冒涜することは、神の働きの断ち切りになります。これではそのひとは救われる可能性が全くのゼロになります。人は原罪があり、そのままでは永遠に滅びに至ります。人は聖霊なしには誰も「イエスは主」と言えないわけですから、聖霊を冒涜する=信仰へのパイプを失い、信じることが出来ないので永遠の罪に定められることになるのです。

2023年11月 5日 (日)

十字架の愛

マタイ 11章11節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。

今、イスラエルとハマスの戦いが地上戦という形で激化しています。時間が経つにつれ、イスラエルを非難する人が増えています。これまでにないフェイク情報合戦の結果、イスラエルを非難する国や人が増えています。クリスチャンにとってこれは看過できないことです。まずこれは、ハマスが残虐で非道な殺人と拉致から始まった戦いであるということを揺るがせないようにしましょう。その上でテロリストの犠牲となるガザの人々、その命が少しでも守られるように祈りましょう。

 さて本日は「十字架の愛=ゆるす」というテーマです。解決策がどこにあるのだろうか、人間の罪深い争いの中、神はどのように人を見ておられ、どう解決の手を差し伸べられておられるのか、です。

 2000年前キリストが来臨された当時のユダヤ社会は、イスラエル史上最高の信仰的社会でした。今のガザでの紛争とまるで逆です。しかしその結果は、神が看過できないほどパリサイ人やサドカイ人に代表される偽善の世界になっていました。人間の営み、努力では戦いの中はもちろん、非常に宗教的な世界にあっても、人が救われることは不可能であることを実証したのです。このタイミングで神の計画、神の子が地上に人となって来られました。
 人間の絶望的な罪性に対する神の解決策は、神ご自身による贖い、つまり十字架による赦しでした。宇宙の創造者が被造物である人間のために、身代わりの子羊となられたのです。十分に全人類の罪を贖ってあまりある犠牲でした。
 バプテスマのヨハネがイエス様が来られる前備えとして「悔い改めよ」と説きましたが、これは己の救い難い罪を自覚しなさい、そしてメシアに己が罪を告白し、赦されて生きなさいと言う意味です。従って自分を義とする者は罪が分からず、悔い改めることができないので救われません。
 十字架の素晴らしさは、最高の預言者バプテスマのヨハネを凌駕します。それだけでなく、何よりも生きながらに、聖霊の神と共に生きることは、人間の罪性が清められ、根本的に変えられます。十字架の力は偉大です。悔い改める者の罪を拭い、きよめ、一度も罪を犯さなかった者に、天国人にふさわしく変えるからです。
 イスラエルはこれから終末にかけて、一時は和平を楽しむことがあっても、第三神殿を建設しながら、最終的には世界中の軍に囲まれて絶滅の危機に陥ります。その時、悔い改めてメシアがすでに到来していたことに気づくのでしょう。ここに至って初めて十字架の恵みに気付くのです。みなさん、イスラエルのために祈りましょう。神は十字架によって、すべての人を愛しておられ、悔い改めて信じ、罪赦されて平和が訪れることを望んでおられるのです。世界の平和は究極的には今よりもっと悪い患難の時代の後に来ます。信仰によって現実の悪、罪深さに立ち向かいましょう。

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