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2023年11月12日 (日)

どんな罪も癒やされるが

マルコ 3章28節   2017新改訳

まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
 十字架を真に信じているなら、どんな罪も赦していただけます。その赦しの程度も、たとえ神を冒涜するようなことを言ったとしても、赦していただけるのです。「すごい」と思われませんか?しかし、続いて「聖霊を冒涜する者は、だれでも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」とあるではありませんか。これって、気になりませんか?私は大いに気になりました。

 すべての罪は赦されます。これは十字架を信じる人々への神の言葉です。ですからクリスチャンの罪は、罪を告白し、心からそれを悔い改めるならばすべて赦され、あたかも罪を犯さなかったかのように、完全に忘れてくださる恵みにあずかります。ですから、クリスチャンと称していても、生きるのがしんどいとばかりに暗い顔をしていたり、過去の重い罪を背負っている風な人は、基本おかしいのです。ひょっとして十字架の赦しと神の愛を、本当には信じておられないのかも知れません。クリスチャンは明るく前向きで、秘めた喜びを隠しきれないような顔をするはずです。
 ただし、過去にあったことではなく、今現在、聖霊様に示されてはじめて気づいたような過ちとか、知らず知らずのうちに人を見下したり、さばいていたりとか、つい小さな嘘を言ってしまったような罪に対しては、ただちに告白し、赦されて行かなければなりません。ですから神に向かうとき、私は胸を叩き、告白し、悔い改める姿勢から祈りを始めるのが常です。

 私が感じるのは、高ぶる意識はない方でも、自分はちゃんと生きていて、まっとうに生きていると認識している人、いわば普通の人に聖霊を感じることはまずありません。罪意識の乏しさが共通しています。しかし真に謙遜な人にはそれを感じました。それは性悪説とかいろいろ言い方はありますが、原罪を認識している人、つまり救いを必要としているところに共通点があります。
 ところで本題の聖霊を冒涜することについては、明快な答えがあることに気づくようになりました。自殺者は天国に行けないと聞くことがありますが、死んでしまっては、自分の侵した罪(自分の命も神から預かったもの)を赦される道が無いわけですから、これは理解できます。

 では聖霊様に対してはどうでしょうか。三位一体の神様にあって、聖霊様の役割は神と人とを直接繋ぐパイプのような働きをされます。したがって、聖霊なる神を冒涜することは、神の働きの断ち切りになります。これではそのひとは救われる可能性が全くのゼロになります。人は原罪があり、そのままでは永遠に滅びに至ります。人は聖霊なしには誰も「イエスは主」と言えないわけですから、聖霊を冒涜する=信仰へのパイプを失い、信じることが出来ないので永遠の罪に定められることになるのです。

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