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2023年12月

2023年12月31日 (日)

これはひどい話だ

ヨハネ 6章60節   2017新改訳

これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」

 福音書の中に、なかなか私たちには理解できないイエス様の行動がいくつかあります。本日はその一つ、自分に従われる大勢の弟子たちが一斉にイエス様から離れて行く事件がありました。本日はそのことについて語らせていただこうと思います。

 ヨハネによる福音書の6章にそのことが書かれています。場所はガリラヤ湖畔のカペナウムです。それまで付き従っていたたくさんの弟子たちは、イエス様のこの言葉によって去ったのです。
 かつて荒野でイスラエルはマナを食べたが、彼らは死んだ。しかし「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」と言われ、群衆からそれを求められると「わたしがいのちのパンです」と答えられたのだった。そして決定打は「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」とさらに明言されたことだった。
 これを聞いた弟子たちは<人肉嗜好>だと思い、「これはひどい話だ」と去って行ったのです。どうしてこのような誤解されることをあえて言われたのでしょうか。背景とその後を見るなら、実に深い計画があっての言葉だとわかります。

 まず第一にイエス様は二つの理由によって、群衆から追いかけまわされていました。一つは奇跡見たさの群衆です。直前に五千人の給食という大奇跡をされていたからです。群衆はエリヤの再来だと思っていたのです。もう一つは最も危険な、イエスを王に担ぎ上げようとする政治的な陰謀です。またそこまでではなくても、弟子たちが本当にイエス様を信じて従おうとしているのか、試しが必要でした。「これはひどい話だ」と思った弟子たちは、自分の常識や判断でイエス様のことばを捉えました。そして自分の判断に従ったのですから、これは本当の弟子ではなかったのです。
 現在でもクリスチャンと称しながら、すべて物事を自分の判断で為し、教会に集っていながら、自分に何がしかの益を得ようとする人々は多いのです。このような目的で付き従う弟子の存在は、十字架に向けての宣教には、かえって妨害になるのです。

 さらに本日もありました<聖餐式>において、見かけはパンとぶどう酒ですが、そうではなく、イエスの体を食べ、その血を飲んでいます。私たちイエスを主と告白したので、永遠のいのちを受けているので聖餐の恵みに与るのです。人肉嗜好のように聞こえたイエス様のことばは、人智では測り難い、神の真実でした。

2023年12月24日 (日)

キリストに望みをおく者

Ⅰヨハネ 3章2~3節   2017新改訳

2:愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

使徒2章で、イエス様がご自身を信じる者は証人として「地の果てまで、わたしの証人となる」と語られました。

 一昨日の金曜日の夜、私が勤めている学校の慰労会があり、その時、同席していた同僚からいきなり「本職はなんですか?」と聞かれました。以前私が今の仕事は副業で、別に本職があると言っていたようなのです。私はすぐに「牧師です」と答えました。するとみなさん、一様に驚かれていました。牧師が珍しいのか、私が意外だったのか、どちらかでしょうけど。

 そこで「はた」と気づかされました。「今まで教室の子どものためには、あれこれ祈らされてきたが、同僚たちのことはまったく祈っていなかった」と。世の人々への証し人としては、何たるうかつなことでした。証人として私には、何の能力も資質もありませんが、それで引っ込んでしまっていては、何のための世との関わりだったのでしょうか。これからは証人として主に用いられるよう祈ることを強く示されました。力のない者であっても、神の力は祈る者を通して流されて行くからです。
 それでかなり反省し感謝もしていたのですが、今年の歌集ガラテヤ人への手紙5章22−23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」とあります。今年の歌集にちょうどこの賛美があるように、それらはわたしにはないし、どこまでもレンタルですが、神が注いでくださるものです。自分が証し人として足りない力や、過去に打ちひしがれるのではなく、み心を行うために、上から受けるものです。それはちょうど子がお遣いに行くようなもので、神はちゃんとお金や何を買うかの商品知識を持たせてくださるのです。イエス様もこのことを「わたしは、自分からは何も行うことができません」(ヨハネ5:30)。つまりやることも、やれる力も主から来るのです。来てもいないのに無いことを悲観してはいけません。
 今回のことも、これが主の示しでしたら、私は同僚の救いのために熱心に祈ることができ、その力が与えられ、実際主が働かれて行くのを見ることでしょう。
 明日のクリスマスを迎えるにあたり、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストがきよい方であるように、自分を清めます」とある通り、今は私はこのように、祈りたちなかったり、御霊の現れ、その証に乏しい者です。しかし、だからと言ってこのままではありません。神の時には、主が九つある御霊の必要な力を注いでくださるでしょうし、天に行く時には「望みをおいている」限り、必ず清くされて引き上げられるのです。
 今、御霊の現れがそうでなくても、真に信じている者は必ず救われ、天で清くされるのです。主に感謝しましょう。

2023年12月17日 (日)

彼らはわたしの民となる

ヘブル 8章10節   2017新改訳

それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 私たちの教会は、イスラエルに重荷がある教会です。聖書は神のことばなので、そこで語られて来た預言は、これまで外れたことがないばかりか、これから起こる事を知らせ続けるのです。今ほど聖書で語られた終末に「世界は非常に近づいている」と感じさせられることはありません。

 さて私たちの教会は「イスラエルに重荷がある教会」です。重荷とはなんでしょうか。それは終末期、二つのことが起こると預言されている二つ目のことです。つまり一つ目はありえない出来事ですが、二千年の時を経て、再びイスラエルの国が再興されたことで、1948年に成就しました。
 次は未成就の預言ですが、エルサレムに第三神殿が建ち、イスラエル人がとうとうメシアニックジューになるというものです。従って私たちはユダヤ人のメシアニック化に向け、現在ではまだ少数派の彼らと連携を取り、毎年イスラエルを訪問しながら関係を深めて協力体制をとっています。終末の最後段階では、全世界に福音が、そして日本がリバイバルが興り、仕上げにイスラエルが主イエスをキリストとして信じるリバイバルが起こされることを期待して祈り続けているのです。
 10月7日、イスラエルにとって驚くべき悲劇が起きました。ハマスによる奇襲攻撃であり、その虐殺の手口から、憎しみに支配されたテロリストの本性、非人間性が明らかになっています。これは今やイスラエル国の存亡をかけた戦いとなって二ヶ月余り、ガザでは2万人以上の犠牲者が出て、国連でイスラエルへの避難決議がされています。そんな中、私たちはイスラエルへの重荷をどのようにして担えば良いのでしょうか?

 まず第一にはっきりさせたいことは、どちらが始めたか、ということです。イスラエルの歴史上独立戦争に次ぐ犠牲者を、それも民間人に対する残虐な奇襲攻撃をしたのはハマスです。日本も真珠湾攻撃をして奇襲しましたが、軍に対しでした。しかしハマスは音楽祭に参加していた人々、ガザ近くに住んでいた一般市民を1500人あまり犠牲にしたのです。しかも250人の捕虜までぶんどりました。日本は東京大空襲や広島、長崎への原爆まで落とされ無慈悲な数十万の犠牲者を出しましたが世界にアピールなどしません。しかしガザの状況はニュースで映し出します。犠牲者が増えることには痛みを覚えますが、しかしこれはテロ組織ハマスに利用されているのです。
 爆撃したところの地面によく大穴が空いていますが、これは地下に大きな空間があったことを意味します。そして建物内での死者が多いのは、警告されても避難しないよう脅されるからです。つまり、純粋な戦闘員以外の死者は、守ってくれるはずのハマスによって間接的に殺されていると見るべきでしょう。民主主義国のマスコミを利用し、有利な状況を作り出そうとするテロリストの戦略です。日本と違って欧米のマスコミが報道に控え目なのはこの点からです。

 私たちはテロ組織のハマスが倒されること、ハマスによってガザの人々がこれ以上犠牲になることがないように祈り、またマスコミがハマスに加担することなく、報道することをも祈りましょう。

2023年12月10日 (日)

万人祭司

マタイ 16章18節   2017新改訳

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 マタイ16章18・19節の箇所は、カトリック教会にとっての生命線です。なぜなら、「わたしはこの岩(ペテロ)の上に、わたしの教会を建てます」の御言葉を適用して、教会の正当性と救いが、ペテロの後継者であるローマ教皇にあるとしているからです。

 しかしそれは一般の人が聖書を読めなかった時代はともかく、印刷技術が発展し、誰でも聖書が読めるようになった時点で、文の流れを読むなら誰でも分かるこじつけ(曲解)です。聖書を利用して、自らを絶対的な権威にしようとし、それは聖書の真理と十字架の神の御心をないがしろにする罪とすら思えます。
 この箇所をここまでの流れを読むなら、文脈上、弟子の代表であるペテロの「あなたは神」という信仰告白に対して語られたことばです。またイエス様はよく「岩の上に自分の家を建てた賢い人(マタイ7:24)」のように、信仰を岩にたとえられることが多いのです。さらに、終わりにイエス様が弟子たちに口封じをされたことからも、これは皆に語られたことであることは確かです。
 重要なことは、イエス様が福音書全体で語っていることから察して、これはペテロ個人だけに教会と天国の鍵を‥‥と受け取ることは無理があります。普通に自分に従う者全体に対して語られ、岩のような堅い信仰と告白の上に立つよう語られた‥‥ことに疑いの余地はありません。

 パウロは晩年にローマに到着して、ローマ教会の礎を築きましたが、その後ペテロが来たとは、聖書ではない外典・偽典や伝承として残っているだけです。ローマの教会の土台はパウロです。カトリックは本日の聖書箇所を基にして、伝承にもとづいて、神と人との仲介者(聖職者)の地位、人間でありながら、神に等しいほどの権力をぶんどろうとしたのであって、その根拠にしたのが唯一、本日の聖書箇所に過ぎません。
 百歩譲って、ペテロは確かに語られるのにふさわしい弟子でした。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」のイエス様のことばに多くの弟子たちが離れ去っても、ペテロは揺らぎませんでした。ゲッセマネで、捕縛のために来た大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としたのもペテロです。イエス様がガリラヤ湖においてもペテロに「わたしを愛するか」と問われ「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
 しかしたとえそうでもはっきり言えることは、神の言葉である聖書にそのような仲介者、聖職者を記した記事はありません。むしろ信じる者、誰にでも聖霊が住まい、聖霊さまが祭司として私たちは神と交わることができるのです。プロテスタント教会に教役者、牧師は必要ですが、聖職者では決してありません。務めを終われば、ただの信徒です。仲介者は一切要らないのです。人と神との間に仲介者不要であって、どこまでも人は罪人に過ぎません。

2023年12月 3日 (日)

罪深さからの救い

コロサイ 3章12節

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

本日の聖句前半の「神に選ばれた者、聖なる者、選ばれた者」とは、クリスチャンのことです。後の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、個人としてはうなだれるしかありません。

 この二節前には「新しい人を着た」(3章10節)とあるので、聖霊のバプテスマを受けた者に語られていますが、その結果恵、聖なる方を知るにつけ、私は自分をますます罪深く感じ、まず神にあわれみを乞い、その赦しの中で平安を得るようになりました。私に慈愛とか、謙遜、寛容の心は一切なく、それらは全て神のものであることが分かるのでした。

 信仰義認とは一般的に、秘蹟奇跡路線で罪をゆるす儀式宗教カトリックに対して「信仰によってのみ神から義とされる」と理解されています。十字架を信じる信仰によって、自分は赦され義とされるとほとんどのクリスチャンは信じているのです。しかしそのような自分を義とする自得的な信仰では、実は危ういと私は思っています。聖とされ義であるのは、ただ神のみで人ではありません。私に義は無いのです。そのことは「着る」と表現されているように、私はただそれを一時的に着させていただくだけであって、私そのものではないのです。ここを勘違いしてはいけません。簡単に言えば、聖霊のバプテスマによって神と交わるのですが、その結果、いかに自分が救いようのない罪人であるかがますます分かるのです。ですから自分がわずかでも聖化されるとか、義人とされるなどとは決して思えないのです。

 もし他人が見て、あなたに聖と義のかけらがあるように見えたとしたら、着ると言われているように、神からの借り物ですから、神に栄光を完全にお返しするべきです。ほんのわずかでも盗んで自分のものとしてはいけません。それは大きな罪になり、天国行きは閉ざされることでしょう。遠藤周作の作品「沈黙」における神の「沈黙」は、まさにこの故であると私には思えるのです。
 とは言え、これは借用して大いに用いるべきです。一時の住まいであるこの世で「着る」恵みは大きく、寒風から守られ、神の愛の温かさの中で安息できます。もはや飢えや寒さはなく、証しとなります。世への不安や死への恐れなどは全く無いのです。
 これはなんという恵みを着ているのでしょうか。神ご自身のあわれみと恵みからくる守りと解放の奇跡、これが信仰義認です。いささかの高慢や選民意識は無く、信仰義認とは栄光の神の義と力が、何の努力も、何の価値もない私、そして皆さんに現れていることなのです。

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