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2023年12月24日 (日)

キリストに望みをおく者

Ⅰヨハネ 3章2~3節   2017新改訳

2:愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

使徒2章で、イエス様がご自身を信じる者は証人として「地の果てまで、わたしの証人となる」と語られました。

 一昨日の金曜日の夜、私が勤めている学校の慰労会があり、その時、同席していた同僚からいきなり「本職はなんですか?」と聞かれました。以前私が今の仕事は副業で、別に本職があると言っていたようなのです。私はすぐに「牧師です」と答えました。するとみなさん、一様に驚かれていました。牧師が珍しいのか、私が意外だったのか、どちらかでしょうけど。

 そこで「はた」と気づかされました。「今まで教室の子どものためには、あれこれ祈らされてきたが、同僚たちのことはまったく祈っていなかった」と。世の人々への証し人としては、何たるうかつなことでした。証人として私には、何の能力も資質もありませんが、それで引っ込んでしまっていては、何のための世との関わりだったのでしょうか。これからは証人として主に用いられるよう祈ることを強く示されました。力のない者であっても、神の力は祈る者を通して流されて行くからです。
 それでかなり反省し感謝もしていたのですが、今年の歌集ガラテヤ人への手紙5章22−23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」とあります。今年の歌集にちょうどこの賛美があるように、それらはわたしにはないし、どこまでもレンタルですが、神が注いでくださるものです。自分が証し人として足りない力や、過去に打ちひしがれるのではなく、み心を行うために、上から受けるものです。それはちょうど子がお遣いに行くようなもので、神はちゃんとお金や何を買うかの商品知識を持たせてくださるのです。イエス様もこのことを「わたしは、自分からは何も行うことができません」(ヨハネ5:30)。つまりやることも、やれる力も主から来るのです。来てもいないのに無いことを悲観してはいけません。
 今回のことも、これが主の示しでしたら、私は同僚の救いのために熱心に祈ることができ、その力が与えられ、実際主が働かれて行くのを見ることでしょう。
 明日のクリスマスを迎えるにあたり、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストがきよい方であるように、自分を清めます」とある通り、今は私はこのように、祈りたちなかったり、御霊の現れ、その証に乏しい者です。しかし、だからと言ってこのままではありません。神の時には、主が九つある御霊の必要な力を注いでくださるでしょうし、天に行く時には「望みをおいている」限り、必ず清くされて引き上げられるのです。
 今、御霊の現れがそうでなくても、真に信じている者は必ず救われ、天で清くされるのです。主に感謝しましょう。

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