罪深さからの救い
✝コロサイ 3章12節
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
本日の聖句前半の「神に選ばれた者、聖なる者、選ばれた者」とは、クリスチャンのことです。後の深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容には、個人としてはうなだれるしかありません。
この二節前には「新しい人を着た」(3章10節)とあるので、聖霊のバプテスマを受けた者に語られていますが、その結果恵、聖なる方を知るにつけ、私は自分をますます罪深く感じ、まず神にあわれみを乞い、その赦しの中で平安を得るようになりました。私に慈愛とか、謙遜、寛容の心は一切なく、それらは全て神のものであることが分かるのでした。
信仰義認とは一般的に、秘蹟奇跡路線で罪をゆるす儀式宗教カトリックに対して「信仰によってのみ神から義とされる」と理解されています。十字架を信じる信仰によって、自分は赦され義とされるとほとんどのクリスチャンは信じているのです。しかしそのような自分を義とする自得的な信仰では、実は危ういと私は思っています。聖とされ義であるのは、ただ神のみで人ではありません。私に義は無いのです。そのことは「着る」と表現されているように、私はただそれを一時的に着させていただくだけであって、私そのものではないのです。ここを勘違いしてはいけません。簡単に言えば、聖霊のバプテスマによって神と交わるのですが、その結果、いかに自分が救いようのない罪人であるかがますます分かるのです。ですから自分がわずかでも聖化されるとか、義人とされるなどとは決して思えないのです。
もし他人が見て、あなたに聖と義のかけらがあるように見えたとしたら、着ると言われているように、神からの借り物ですから、神に栄光を完全にお返しするべきです。ほんのわずかでも盗んで自分のものとしてはいけません。それは大きな罪になり、天国行きは閉ざされることでしょう。遠藤周作の作品「沈黙」における神の「沈黙」は、まさにこの故であると私には思えるのです。
とは言え、これは借用して大いに用いるべきです。一時の住まいであるこの世で「着る」恵みは大きく、寒風から守られ、神の愛の温かさの中で安息できます。もはや飢えや寒さはなく、証しとなります。世への不安や死への恐れなどは全く無いのです。
これはなんという恵みを着ているのでしょうか。神ご自身のあわれみと恵みからくる守りと解放の奇跡、これが信仰義認です。いささかの高慢や選民意識は無く、信仰義認とは栄光の神の義と力が、何の努力も、何の価値もない私、そして皆さんに現れていることなのです。
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