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2024年1月

2024年1月28日 (日)

神に用いられる

Ⅱテモテ 2章21節  2017新改訳

ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。

 私たち神を信じる者は、まずもって神に愛されていたからです。そして神を愛しています。愛は一方的なものではなく、相互的なものですから、なんとかして私たちも神の愛に応えて行きたいと思うのが自然な感情でしょう。。
 その愛しているので、愛する方の御心を行なおうとします。例えば小さな子どもが親におつかいを頼まれたとします。子どもは親の役に立つことが嬉しく、ちょっと不安もあリマスが誇らしいものです。が、親にとっては心配です。ですから、まず子どもの成長や特性を見定め、実際にできる能力があるかどうか、道のりや金銭感覚、所定のものがわかるかどうかなど、熟慮した上でできることを確信してお使いに出すことでしょう。私たち神の子どもは安心して役目を果たすことができます。人間の親とは異なって神は完全であり、私たちの能力(タラント)を私たち以上に正確にご存知です。ですから5タラントだろうが2タラントだろうが、言いつけに従って言われたことをやれば必ず成功します。しかし、もしかして不首尾に終わるとすれば、1タラントを地中に隠したしもべのように、しもべの側に自分の考えを優先する問題があったからです。

 つまり神の側は完全で誤りがないのですから、私たちの側の行なう決心や意志の方が決定的に重要です。またせっかく全うするための道具として賜物を与えられていても、それをただ地面に埋めて隠し持っていただけでは使命を果たせず、信頼せず不服従の報いを受けることになります。ピアノが弾ける、会計やコンピュータができるなど、世的な賜物の力も、決して偶然と考えてはいけません。神があらかじめ備え、御心に従って用いるためのものであることがほとんどです。実際、この群れでは音楽とか映画というジャンルで多くの証人がいます。これらの世における賜物と合わさって、九つの聖霊の賜物が用いられて行くのです。

 このように神に用いられた人々の実例を見ましょう。そこに一つの共通点があることに気づきます。パウロ、アウグスティヌス、ジョージ・ミューラー、マザー・テレサなどからわかるのは、用いられる器にふさわしく、たとえ信じる前に汚れた過去があったとしても、本人の意思と神の恵みによって<きよめられて>いることです。本日の聖書箇所、だれでもこれらのこと(世的なこと)から自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります(1テモテ2:21)はそのことを示しています。聖霊が住まわれ、人を通して働かれるには、その人の自分に死に、神に明け渡したきよい人であることです。ですから神を愛し、神に応え、御心を行なう器として神に用いられようとするならば、神の聖さにふさわしいきよめを求めましょう。神への愛が、その願いを起こさせ、神がその願いに応え、神の方法できよくしてくださるのです。
 ですからまず祈り求めましょう。「主よ、どうか私を罪の縄目から解放し、汚れた私を洗ってきよくしてください、それによってあなたの御心を行なう者に私を造り変えてください」と。

2024年1月21日 (日)

御霊の実と賜物

Ⅰコリント 12章31節   2017新改訳

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
 私たちはカリスマの教会で、異言や預言、癒やしなどに熱心な教会です。九つあると言われる御霊の賜物(Ⅰコリ12章)を用いて、世における神の計画の進展を願っているのです。
 しかし聖書には同時に御霊の実(ガラテヤ5章22~23)ということばが存在します。賜物と実、これを今までは横並びで理解していたのですが、最近になって「順序があるのではないか」と思うようになりました。つまり「御霊の賜物の前に、先ず実ありき」ではないかと。そこで聖書を詳しく調べてみたところ、以下のことがわかりました。賜物については、A信仰、救いと理解されるべきものと、B癒やしや預言などの九つの特別な賜物と理解すべき二つがありました。

 実については、「悔い改めて身を結ばねば火に」と迫るものや、聖霊の働きによって神の品性を表すような九つの実が併記されていますが、基本、愛が中心となるものでした。これら実も賜物も、自分が死んでいない肉的な人に現れることはあり得ません。働きがその人自身のように見えても、その中身、働きは聖霊である神です。ですから、通り良き管となっている人の思うがままに使えているわけでも、自分の意思で用いているわけでもありません。

 これがよくわかる話に、七人の執事の一人、ピリポの話があります。彼はステパノ以後の迫害によってエルサレムを追われ、遣わされたサマリアで伝道をします。そこでは聖霊の賜物が大いに用いられ、バプテスマを多くの人が受けました。現地で評判の高かった魔術師のシモンまで本物のしるしと不思議に、ピリポに付き従うようになります。ところがピリポには、聖霊のバプテスマまでは授けられなかったので、エルサレム教会のペテロとヨハネが遣わされ、聖霊のバプテスマを施しました。「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て」(使徒 8章18節)それを二人から買おうとします。

 シモンは金で得ようとしたので「悪事」と呼ばれました。シモンのように金を持って来ないまでも、聖霊のバプテスマを<受けたい>と願う人は多いことでしょう。しかし勘違いしてはいけません。肉が死んでいないのに求めるなら、それは自分の栄誉のためであって、シモンと同じ「悪事」に他なりません。

 先ず、聖霊のバプテスマを求めましょう。これこそ御霊の賜物と実の土台であって、聖霊ご自身が分与され注がれるものです。自分に死に、完全に明け渡していなければ聖霊のバプテスマはありえません。悪霊や肉の霊と神が同居されることはあり得ません。また自分に死ぬことは自分の力でできません。悔い改め、心から神に自分が捧げられるよう祈ることしかありません。道のりを歩き、時が来たら与えられるでしょう。また貸与であって、サウル王のように、従えなくなれば取り去られます。結局、神が人を通して働かれる外面的なものが「賜物」であり、神の実質を見る内面的なものが「実」です。その土台は「聖霊のバプテスマ」です。

2024年1月14日 (日)

恐れるな

ヨハネ 14章20節   2017新改訳

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 最近マザーテレサの手紙というものを知る機会がありました。以下、その内容です。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実でない。」・・・この手紙はごく親しい司祭に宛てたもので、本人からは非公開にしてほしいと要望されたものでした。  
 この手紙を読んでみると、彼女は神の存在を一時的にせよ、疑う時があったことがわかります。もちろん神の存在を疑うことは天的なものではありませんが、この世に肉体をもって存在している限り、惑わしは逃れられないものです。むしろ、その揺るがせの中で、堅く信仰を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。つまり、マザーテレサも弱い肉体を持った人間であった、その中でことごとく惑わしを断ち切り、打ち破ってあの偉業を成し遂げたのです。

 さて視点を聖書に戻してみますと、偉大な預言者エリヤでも死を願ったり、聖霊のバプテスマを受ける直前の弟子たちも、同じような疑いと不安の中で集まり、必死に祈っていたはずです。現代でも明らかに神を声を聞いたマザーでも、こうした疑いを抱かされるのです。私は幸い、聖霊の注ぎを受けた以後、存在を疑うことはなくなりましたが、それでも神を身近に感じたり、時に遠く感じたりします。クリスチャンには次のような段階というものが存在します。

聖化の段階
①無味乾燥の不毛状態が続く
②全ての被造物との離脱に導かれる
③その後は神の御手に適合した道具となって、純粋に私心なく神に使える
④キリストとの高い一致に到達する

 私は③や④のような段階に至るまでの、②の段階であり、かなりひいき目に見ても、③の初心段階ではないかと思います。それでもキリストや神を決して否定することなく、老化という神が導かれる恵み、肉体の衰えが肉体への希望を失わせつつあるという恵み‥‥それは全ての被造物との離脱に向けての大きな希望を抱くのです。
 それゆえ聖書には、いったい幾度神は「恐れるな」と語られているのでしょうか。疑い、恐れてはなりません。自分自身への疑いや惑わしに乗らず、③の段階である、神が用いてくださる私への使命を、神は全うさせてくださることを確信しているのです。
 神を信じ、神を追い求め続けましょう。その先にあるのはただ天への希望であり、神の光です。さあ、祈りましょう。

2024年1月 7日 (日)

聖別~この世のものでは無い

ヨハネ 17章16~17節  2017新改訳

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です
 古来から「諸行無常の響きあり」と、この世の全ては移り変わっていくことは知られていました。人間だって、曾孫の代になれば、ほぼほぼ忘れ去られてしまっているでしょう。世、世界は流転しています。しかし、ただ神のことばだけが永遠に、時を超えて確かに存在し続ける唯一のものです。
 実際、ここにおられる皆さんは、おそらく美しいステンドグラスの光の下、荘厳な礼拝堂に魅せられて来られたわけではなく、また天使のような素晴らしい人に憧れて来られたわけではないかと想像しています。

 そもそもこうした教会と、その真実な信仰を持っていらっしゃることが奇跡です。まず神が人の形をとってこの世に来られた。これは結構神話なんかにありますが、処女から聖霊によってお生まれになったというのは、かなりハードルが高いです。常識ある人は信じないでしょう。そのイエス・キリストという人は、死人を三人も、最後には腐っていたのですが蘇らせ、あらゆる患い病気を癒やされ、海の上を歩き、嵐を鎮め、五つのパンと二匹の魚で数万人の食事を賄われたというのですから、これを信じるには、人間を捨てないと難しいかも知れません。その上、崇められる教祖様が酷い十字架刑で苦しみ抜いて死なれ、三日目に復活し、その後大勢の人の前に現れ、共に食事をしたりした、という極め付けの出来事が、神のことばである聖書に書かれています。これを信じる皆さんとは、本当に自分自身の価値観、在り方を捨てていらっしゃるのです。これは自分の力ではできません。そうです、自分では信じられなくても、皆さんの内に御住みなっていらっしゃるご聖霊様が、助けてくださったのです。

 皆さんはすでに聖別されています。父母の間から生まれて来ましたが、実は天地万物の創造の直前、神の計画によって霊がすでに神の子として生まれていたのです。したがって皆さんはすでにこの世のものではありませんから、世から迫害を受けるのが当然です。多くの苦しみを通して完全なものとされるのは、天に属する者として、ふさわしいことなのです(ヘブル2:11から)。
 ですからみなさん、賜物を持っている人は賜物を用いて感謝しましょう。しかし恐れてはなりません。ハレルヤ!主は十字架ですでに勝利を取っていらっしゃるのです。堅くたってみことばを忠実に守りましょう。(2テサ2:15)

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