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2024年1月21日 (日)

御霊の実と賜物

Ⅰコリント 12章31節   2017新改訳

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。
 私たちはカリスマの教会で、異言や預言、癒やしなどに熱心な教会です。九つあると言われる御霊の賜物(Ⅰコリ12章)を用いて、世における神の計画の進展を願っているのです。
 しかし聖書には同時に御霊の実(ガラテヤ5章22~23)ということばが存在します。賜物と実、これを今までは横並びで理解していたのですが、最近になって「順序があるのではないか」と思うようになりました。つまり「御霊の賜物の前に、先ず実ありき」ではないかと。そこで聖書を詳しく調べてみたところ、以下のことがわかりました。賜物については、A信仰、救いと理解されるべきものと、B癒やしや預言などの九つの特別な賜物と理解すべき二つがありました。

 実については、「悔い改めて身を結ばねば火に」と迫るものや、聖霊の働きによって神の品性を表すような九つの実が併記されていますが、基本、愛が中心となるものでした。これら実も賜物も、自分が死んでいない肉的な人に現れることはあり得ません。働きがその人自身のように見えても、その中身、働きは聖霊である神です。ですから、通り良き管となっている人の思うがままに使えているわけでも、自分の意思で用いているわけでもありません。

 これがよくわかる話に、七人の執事の一人、ピリポの話があります。彼はステパノ以後の迫害によってエルサレムを追われ、遣わされたサマリアで伝道をします。そこでは聖霊の賜物が大いに用いられ、バプテスマを多くの人が受けました。現地で評判の高かった魔術師のシモンまで本物のしるしと不思議に、ピリポに付き従うようになります。ところがピリポには、聖霊のバプテスマまでは授けられなかったので、エルサレム教会のペテロとヨハネが遣わされ、聖霊のバプテスマを施しました。「シモンは、使徒たちが手を置くことで御霊が与えられるのを見て、使徒たちのところに金を持って来て」(使徒 8章18節)それを二人から買おうとします。

 シモンは金で得ようとしたので「悪事」と呼ばれました。シモンのように金を持って来ないまでも、聖霊のバプテスマを<受けたい>と願う人は多いことでしょう。しかし勘違いしてはいけません。肉が死んでいないのに求めるなら、それは自分の栄誉のためであって、シモンと同じ「悪事」に他なりません。

 先ず、聖霊のバプテスマを求めましょう。これこそ御霊の賜物と実の土台であって、聖霊ご自身が分与され注がれるものです。自分に死に、完全に明け渡していなければ聖霊のバプテスマはありえません。悪霊や肉の霊と神が同居されることはあり得ません。また自分に死ぬことは自分の力でできません。悔い改め、心から神に自分が捧げられるよう祈ることしかありません。道のりを歩き、時が来たら与えられるでしょう。また貸与であって、サウル王のように、従えなくなれば取り去られます。結局、神が人を通して働かれる外面的なものが「賜物」であり、神の実質を見る内面的なものが「実」です。その土台は「聖霊のバプテスマ」です。

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