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2024年2月

2024年2月25日 (日)

いのり

マタイ 6章6節   新改訳2007

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 私たちの神、創造主は広大な宇宙やその中で唯一水の惑星である地球、そこにありとあらゆる生き物を造られ、最後の最後に人を造られました。人はそれまでの特別な存在、霊肉合わせもった被造物(創世2:7)でした。霊だけの天使もありますが、霊肉を併せ持つという点に最大のポイントがあります。
 肉は必ず終わりますが、終わるまではその命を懸命に守ろうとします。これは肉の命を持つものすべてに備わっている強固な本能です。しかし霊にとって罪に当たります。霊は肉には見えませんが、見えない霊は滅びず永遠の存在です。物質でないからです。そこで肉体の命という限定条件下で、十字架によって肉体にある罪を赦され、神と和解して霊を回復できるかどうかが最大のポイントになります。人は誰でも永遠の霊を持っていますが、死後、天と地への二分(黙示20:12ー15)は避けて通れません。聖書ではこれを最後の審判と言います。
 では霊肉併せ持った人の命を創造された、神の創造の目的とはなんだったのでしょうか?それはズバリ、子として交わる者を得るためです。天に行く人の子は全員、誘惑や試練困難を受けてパスした子ですから、そんな試験の無かった天使よりも地位は高い(ヘブ1:14)のです・・・

 神は愛と聖のお方です。そのお方の子として交わるには、当然同様な性質が必要です。そのために神はイエス・キリストを地上に送り、十字架上で人類のすべての罪を背負わされました。悔い改めて信じるならば罪赦され救われるのです。ただ一つ、問題は本当に罪がわかり、悔い改めて肉に死んだか、です。しかしこれにも明確なしるしが伴います。聖霊のバプテスマに続いて注がれる神の愛(ガラ5:22-23)、その結果として聖霊の賜物(1コリ12:1-10)という実が結ばれていくことです。
 天の父との交わりを、この地上で営むことを<祈り>と言います。地上の親子でも、顔を合わすたびに「○○欲しい、○○してくれ」とばかり要求する関係はいびつです。たまにはあるでしょうが、祈りは要求し、引き出す交渉の場ではありません。何よりも愛する神と交わる場なのです。ただ生まれたての赤子が「おっぱいが欲しい、お尻を快適にして欲しい」と絶えず要求ばかりしますが、赤ちゃんのままのクリスチャンも同様な傾向があります。人の子どもが成長するように、クリスチャンも成長し、交わりの中から父の御心がわかり、父の御心が行えるように成長しなければ、天の父をがっかりさせてしまうのです。祈ることがどんなに楽しく素晴らしい恵みか、それは皆さんの「祈り」の成長にかかっています。

 最後にお勧めしますが、一日の内で祈る時間を最優先にしましょう。就寝前の祈りから1時間の早天の祈りを大切にしましょう。それには就寝時間がポイントです。「明日のことは明日が心配します」(マタ6:34)。クリスチャンは御言葉と祈りに生きるのです。

2024年2月18日 (日)

さばくな

マタイ7章1節   2017新改訳

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

 月曜日ごろ聖書を何気なく読んでいるとマタイの7章の「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」の御言葉が目に刺さるように飛び込んできた。瞬間的にこれは天からの警告、注意であることも理解していた。それは日頃から、ある特定の方の言動を不正義に感じ、<許せない>思いを感じていたからに違いない。最近はむしろ怒りに近い感情さえ持つようになっていた、そのタイミングでこの御言葉が来たからだ落ち着いて考えるならば、このような怒りは冷静さを失ない、相手の事情も構わず、自分を絶対的な義の存在としてさばくからだ。そしてそれは神の主権を奪うことにもなっている。これは自分が裁判官になってしまい、「さばきは神のもの」(申命1:17)への明白な違反であった。この<自分が一番正しい>とするのは、エバから始まった罪、神をないがしらにして聞き従おうとしない罪そのものだ。

 人は自分が正しいと信じることを信じて生きようとするものだが、実はそのほとんどが間違っているのだ。誰が間違った人生を歩もうとす流だろうか。私はこれまで、短いとはもはや言えない人生で、唯一神を選んで信じた以外、自分が正しい決断や選択ができたと言う経験はほとんどない。唯一と言ったが、この唯一というのは神の哀れみと愛の導きの結果であって、真実は可能な限り私は抵抗して抵抗して、追い込まれて仕方なく<信じた>というのが真相なのだ。この群れではほとんど耳タコのように「神に聞き従う」ことが熱心に説かれるが、自分を捨て、神に聞き従うことは<人間中村>を磔にし、自分のことなど木偶の坊のようにしなければ不可能なことなのだ。

 クリスチャンの皆さんにお聞きしますが、別な言葉で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」とイエス様が語られていますが、そのように死んでいらっしゃいますか。しかし憐れみ深い神は私たちを哀れみ、苦難の道を通されました。この中で、誰か伴侶を失っていない人がいますか?いません。この中で、財産が富んだものにされてますます豊かにされた人がいますか?いません。この中で、家庭が最高に祝福されてみんな元気で問題など何一つない、そんな方が来ていらっしゃいますか?いません。私たちは苦難の道を通してでないと、世が儚いこと、頼ることができなことを知ることができません。苦難を通して神を知ったので、今ここに、会堂も何の飾りもない、牧師も無名なのですが、この臨在ある教会に立っているのです。
 世の富が失われて初めて知る、愚かな自分に注いでくださった神の絶大な愛と救いの価値ゆえに、何もお返しができないがゆえに、今自分自身を神への聖なるささげ物として立とうとしているのです。アーメンでしょうか。

2024年2月11日 (日)

世界の終わり

黙示録 13章5節   2017新改訳

この獣には、大言壮語して冒?のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 聖書には1500箇所以上の終末時のメシア再臨預言があります。そして現在はかつては絶対不可能だとされていた、イスラエルの復興後すでに七十年が経っています。現在ではあり得ないと見られていた北のマゴクことロシアが、イスラエルに南下する道も開かれています。しかもハマスとの戦いで現在のイスラエルは、世界の多くの国から非難を浴びており、これも預言通りイスラエルが憎まれる構図になっています。これでエゼキエル書やダニエル署に書かれた終末のお膳立てが、まさに整ったというしかありません。
 コロナという疫病や頻発する地震、ウクライナ戦争から引き起こされた食糧難と近年の異常気象、物価高など、世の終わりが近づく不安は高まっています。しかし人々は不安を感じても、できるだけ死を考えないようにするのと同じで、見て見ぬふりをして避けています。しかし必ずそれは近い将来、外れたことのない聖書が預言した世界の終わり、終末は必ず来るのです。

 また個人的な実感ですが、教育の仕事に携わって感じることですが、急速なデジタル化によっても人間関係や思考力、忍耐力が低下しています。ぱっと判断して「できない」と一瞬で問題を投げ出すとか、他者を思いやることが乏しくなっています。その場限りの軽薄な判断や思慮の浅い行動を取り、互いに自制ができなくなっての混乱が大きくなって行くことでしょう。また日本でも進行している貧富の差が拡大し、先が見えなくなっています。こうして今後、首魁が不安定になり、愛が冷めて行くことでしょう。第一次大戦で敗北したドイツではヒットラーが民主的に選ばれたように、反キリストを生む舞台装置は整っています。

 本日の黙示録にありますように、七年間の患難時代の中、後半の3年半は完全に反キリストと呼ばれるサタンが世界を支配する時代になります。しかしクリスチャンにはその直前に空中携挙があって、完全に守られます。しかし携挙に残された自称クリスチャンにも、後半の時代に殉教というチャンスが残されています。この患難時代こそ、産みの苦しみの時代であり、クリスチャンにとって天への希望の時代です。
 本日は「世界の終わり」と題して、このような時代に私たちはどう対処して行くかを行くかを宣べたいと思います。皆さん、歴史上多くの戦いで証明されたことがあります。それは常日頃から備えをしていた側が勝つという原則です。宗教改革者のルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、私は今日、りんごの苗を植える」と言う言葉を残しています。
 ルターは、今過ごす一日一日が、自分にとってかけがえのない備えの時であることを言っています。彼のように私たちも、普段の日常生活そのものが天国への備えの日々にして行かなければなりません。毎日を「その日に備える」。そうして救い主がいつ来られても良いよう待ちつつ、日々を過ごして参りましょう。その日を勝利の歓喜をもって迎えるためです。

2024年2月 4日 (日)

女の子孫

創世記 3章15節   新改訳第3版

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
 本日の聖書箇所は、メシア預言と言われるものの、いの一番に挙げられる所です。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)」

この箇所は、「なんでこれがメシア預言なの?」と思われる方が多いのですが、とんでもない、大変重要な預言箇所であり、原始福音として是非とも理解しておかなければならない所です。

 ご存知のように、これはエバとアダムが禁断の木の実を食べた直後に神が蛇に言われたことばです。そして二つのことがここで定められました。一つにはあらゆる生き物のなかで蛇(サタン)が最も呪われるということ。二つ目には女の子孫である「彼(単数名詞)が、敵対関係に置かれ、後におまえと呼び捨てにしたサタンの頭を踏み砕く」です。言うまでもなく、彼とはキリストのことです。そして頭を踏まれ、砕かれたのでは、もはや再起は不可能です。サタンが再起不可能とはゲヘナという地獄に落とされることを意味します。対するにキリストの方は、かかとを噛まれますが、これは致命的なものではありません。このかかととは、十字架の痛みを指すものでしょう。
 そして「女の子孫」「彼」にも大きな意味があります。女の子孫とは女系の血筋という意味ですから、キリストは母親の家系から生まれるのです。これはユダヤ人にとっては異例なことです。確かにルカ福音書を見ると「ヨセフはエリの子」と書かれています。日本語ではわかりにくいのですが、エリはマリアの実父ですから、ヨセフには義父になります。イエス・キリストは人間の遺伝子を持たないで乙女マリアから生まれ、マリヤの胎で育ち、マリヤから産まれて育ったのです。マリアにとって、遺伝的には他人であっても、不義の子を宿したと言われるリスクを承知で腹を痛めた子ですから、イエスは母の愛情を存分に受けて育ったものと考えられます。

 また、こうしたユダ族の系図は紀元70年に起こったローマによる神殿破壊と放火によって失われましたから、メシアはそれまでに世に登場しなければいけなかったのです。聖書の数々のメシア預言は、こうして完全に成就しています。この点でも、神の計画は世界の創造の時から、また人間の堕落の時点から、メシアによる人間の救いの計画がスタートしていたことがわかります。神の計り知れない知恵と力は人である私たちに計り知ることの出来ないものです。しかし神はなんと愛に満ちた素晴らしいお方なのでしょうか。 この方を私は信じます。

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