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2024年3月

2024年3月31日 (日)

復活の主の言葉

ルカ 24章39節   2017新改訳

わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。

 本朝は主が復活されたイースターです。ルカ24章36-49節によると、死後三日目にイエス・キリストは墓の中からよみがえられたとあります。死後数日経ってから、人が生き返ったというような出来事は、到底信じ難いものですが、これは確かな事実です。
 弟子たちにとって、イエスの復活が無いままの福音には、多くの良いわざを行ったものの、時の権力者にたてつき、最後には殺された預言者だということになっていたでしょう。もしそうならば、結局はユダヤ教のあだ花で、歴史に流され消え去っていたはずです。

 しかしイエスは約束通りによみがえりました。それだけでも、死に対する勝利を取られたのですが、さらに多くの信じ難い不思議がありました。それは「栄光のからだ(御霊のからだ)」でよみがえられたということです。突如として皆が集まっている部屋に現れ、実際の肉体を見せ、その証拠に焼き魚を食べてみせられました。約束されていた天国で私たちが着ることになっている実物の姿‥‥「朽ちないからだ」をお見せになられたのです。これにはその場にいた誰しもが驚愕し、また確信を持ったことでしょう。

 イエスの復活は、それ以前の死と生涯に、光を投げかけ、律法との数々の戦いは何のためであったかを明らかにし、「キリストを信じること=罪が贖われ永遠のいのちの証明である復活」こそが信仰の真の土台」であることを明らかにされたのです。そう言う意味でも私たちは、この復活の日の様子をもっと深く胸に刻む必要があります。主のご受難と十字架の出来事‥‥罪の赦しと、復活における永遠のいのちの勝利がここにあります。

 神を信じるということは、キリストのよみがえりによって明らかにされたように、霊が実際の体を伴いながら、さらに超越的な永遠の御霊の体となって復活することを確認する信仰です。その為には自分の罪の為に、主が十字架上で犠牲となってくださって、贖われたことを信じる必要があります。神を信じることばには、自分の絶望的な罪に、自分自身の命を主に明け渡すことが前提です。「信仰」とはその意味です。信仰者は自分に死んで、主に聞き従う者でなければなりません。
 「主に聞き従う」と申しましたが、神が語ってくださり、従う力をも添えて与えてくださらなければ、どうして聞き従うことが出来るのでしょうか。「神のことばである聖書があるではないか」と言われるかも知れませんが、そのような方は、本当に御言葉通りに生きていらっしゃるでしょうか。「ふ~ん」と読み流し、実際にはこれまで通りの不服従の生活が続いているとしたらどうなのでしょうか。聖霊が信じる者の中で主となって働かれ、その実が生き様に実っている、これがクリスチャンのしるしであり証しです。

2024年3月24日 (日)

天国と地獄

ヨハネ 5章28-29節   2017新改訳

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。
そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

 今私たちは、この血肉の体の命があり、生きていますが、これには必ず死という終わりがあります。その先に何があるのか、考えようとしない人は、ただただ今の生きていることに執着するしかないのです。死は未知の世界で終わりであって、恐怖なのです。それは自分の行き先が暗に分かるからでしょう。確かに死の先にはゲヘナという地獄の世界が待っており、永遠に苦しむことになるのですから、それまで避けて避けて、とうとうゲヘナに投げ込まれるのです。

 人は死ぬと霊肉が分離し、肉は土に戻り、霊は滅ぶことができないので、最後の審判まで「眠る」状態で待機します。そのことを本日の聖書箇所で述べています。つまり霊は滅ばず永遠であすが、最後の審判後ではそれぞれに裁かれた霊にふさわしい滅ばない体が全員に与えられます。しかし問題はその後、ゲヘナに行けば炎熱の責苦で、死ぬことが出来ませんから永遠に苦しみ続けなければいけないことです。悲劇であるのは、滅ばない体が与えられていますから、体への苦しみが、永久に繰り返されあり続けることです。これでは心が滅びます。
 しかし天国では、全く異なります。神の御座からの光、喜び、感謝、栄光、賛美が溢れるところです。雲泥の差というべきです。ですからクリスチャンは死を恐れません。それどころか遥かに見て確信し、待ち望んでいます。なぜなら血肉の体がある間は、世と悪霊どもとの戦いが常に許され、安住の地では無いからです。

 一つここで確認しておきたいことがあります。クリスチャンはなぜ天国に行くか、ということです。実はクリスチャンも同じ罪人です。しかし「罪が赦されている」ので、まるで罪が無いものとされることです。天国は罪がある者は一切、入ることができません。しかし偉大な十字架、神自らが十字架の上で私たちの罪の身代わりを引き受けてくださって、それを我が罪のためと信じる者は罪は赦されるのです。神はイスラエルの民を通して、人間の力、努力では罪を犯さないことが不可能であり、ただ一つ、神の赦しのみに救いがあることを教えてくださいました。

 次に、クリスチャンになっても罪を犯します。その罪はどうするのか?ここがカトリックと異なるのですが、告解して罪を司祭に告白しなくても、全地を覆う天におられる神に告白し、悔い改めるならば赦されて天に行けるのです。その保証は幕屋と呼ばれる信じる者の中に住まわれる聖霊であり、日々聖霊様と交わるの中から、神への愛、救いの確信を持つに至ります。保証は天からのものであり、人が自分を中心とする生き方を捨てた時から始まるものです。皆さん‥‥確信に立って生きた証人としての使命が、クリスチャン全員にあります。神の御心のために、ご自分の人生を捧げてください。確信に立ちましょう。

2024年3月17日 (日)

内なる霊の戦い

ローマ 12章2節   新改訳2007
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 霊の戦いと申しますと、高い山、街なら高いビルに上って、辺りを見回しながら賛美し、御言葉を置きながら霊の縛りをするイメージが多いかと思います。または家の中にある偶像とか地域の霊に対してもいたします。しかし本日の「内なる霊の戦い」とは、外的なものに対してではなく、クリスチャンである自分自身に対してです。
 私にも数は少ないのですが、悪い夢とか思索に、明らかに悪霊的なものがあって、それからなかなか脱出できず困った時があります。そのような時、「イエス・キリストの御名によって命じる、神のしもべである私から出ていけ!」と命じますと、すーっとその縛りから解放された経験が一度や二度ではありません。これは端的な例ですが、そこまで行かなくても、毎日、毎朝に起こる、自分自身を見つめ、本当に御心の生活を送っているか、内面へのアプローチが絶対に必要です。それを少しオーバーな「戦い」と表現してでも、強く進める必要があると示されました。
 内なる霊の戦いとは? ズバリ、それは日常の生活において、いかに主と交わり、生活の中で御心を行おうとしているかです。クリスチャンは神の霊を注がれ、注がれた神の力によって歩んでいる者です。イエス様もそうでしたし、イエス様に倣う私たちもそうでなくてはなりません。それを実現し、推進する力が祈りです。祈りの中で神の語りかけ、霊の注ぎかけを受けるのです。ですから毎朝の心からの祈り無くして、クリスチャン生活とは言えないはずです。
 当然ながら、このようなクリスチャンライフは、世の霊と激しく戦わなければならない宿命を負っています。睡眠不足だけでなく、時にクリスチャンは微妙な綱渡りをしている感覚に襲われます。自分に自信を持ち過ぎ、高ぶると罪を犯しますし、逆に自分には力がない、と否定的になっては証し人になれません。そこに微妙なバランスが必要です。
 先週は「老いてこそ」というテーマで、肉体が滅びに向かって進んでいく、それが天への熱い思いを強くし、自分に死ぬことが難しかった罪深かさが次第に清められていく、そのようなことを話しました。神は私たちが本当に神を愛しているのかを、絶えず確かめずにはおられない方です。十字架で心から愛されたのですから、愛された方も当然真剣で命がけでなければなりません。夫婦でも一方が浮気してとして、それでお互いの関係が全然変わらないのでは偽りの夫婦です。そのように神は私たちを妬むほど愛してくださっているのです。十字架でどんなに救われたといっても、神との交わりが無く、御心がわからないというのでは、その人は継子です。
 その交わりを実現させるもの、それが日々の祈りに他なりません。あなたがどれほど祈りに心を砕き専心しているか、それこそが<日々の霊の戦い>です。これに勝利をとりましょう。

2024年3月10日 (日)

老いてこそ

使徒の働き 2章17節 2017新改訳
神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

  私の目は見かけは悪くても、性能は良いとばかり思っていた器官でした。ところが、七十歳を過ぎてから、どうもそうではなくなりました。十年前の緑内障の発見から、最近特におかしいのです。
 例えばテニスで、ボールがラケットの芯になかなか当たりません。高速道路でスピードを出すと、側方の景色がまるでコマ落ち動画のようにカクカクになります。もっと困ったことは人が変に見え出したのです。中景にある人物の顔が、雪だるまのように、目と眉を二本の炭で横に置いたように見えるのです。これは不気味でしたので、かかりつけの眼科医に絵でを見せ相談しました。

 眼科医は困ったような顔をして言いました。「中村さん、あなたの歳ではとても自然なことなんですよ」と。そして自覚の足りなさそうな私に向かって、実は私の水晶体はすでに濁ってきており、白内障が出かかっていること。雪だるまに見えることについては、この歳まで10メートル先の瞳が見えていたことの方が優秀であったことを告げてくれました。そうです、眼科医は「老いた」自覚のない私に「老い」を強制認識をさせてくれたのです。

 少しショックでした。が突然、かねて聖書で幾分なりとも不審に思っていた真理がわかりました。それはなぜ老人が主の器として用いられるのかということでした。アブラハムは75で召命を受け、百歳で約束の子を得ました。しかしその子でさえ、神はアブラハムが自分に従うことができるか、究極のテストをされたのです。モーセは80歳からの召命です。エジプトの王子だったモーセですが、自分がイスラエルの民を救えると思い上がってしまい、エジプト人殺しの追っ手を逃れ、遠く辺境の地ミデアンまで逃れてきたお尋ね者でした。それから40年、しがない雇われ羊飼いとして、その生涯はやがて失意のうちに終わるはずでした。彼にはもはや希望というものがなかったのです。
 「老いる」と言うことは、肉の命にもはや希望を持てない事を意味します。この、「希望が無い」と言うことが非常に重要です。神を信じない未信者には老いは呪いでしょうが、神を信じる者には希望そのものです。なぜなら、人の努力や力では不可能な<自分に死ぬ>ことが限りなく近く迫っており、神の器として適切です。肉が残っていれば、結局はサウル王のように聞き従わない罪を犯し、神が悔いるリスクを負うことになるからです。

神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。(使徒の働き 2章17節)
 しかし年をとり、肉体に希望を失った者には、もはや天にしか希望がありません。そして老人はリアルに神の栄光と天を夢見る、神の器として用いられるのです。

2024年3月 3日 (日)

なりふり構わず

 ✝Ⅱ歴代誌 20章15~16節   新改訳2007 

彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。【主】はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。
明日、彼らのところに攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前、谷の外れで彼らに出会う。
Pasted-graphic2 これは殉教聖会後に西坂の丘の上に現れた虹です。 
これをもって秋元牧師は、かねての預言通り、長崎からリバイバルが始まったと明言されました。そこで息子のヨハネ牧師が「先にアメリカでリバイバルが始まったというのは?」と聞いたそうですが、「あれは信仰であって、これは本当だ」と、答えられたそうです。

 本日の本題ですが、先ほどのリバイバルとも関連するのですが、この群れは1984年4月1日に国分寺で始まって以来、40年が経とうとしています。個人的に強く示されているのは、全国的な大リバイバルが起きるためには、著しい聖霊の働きかけである<癒やし、奇跡、預言>など賜物の働きが必須であることです。今、この群れでは著しいそのような聖霊の働きが「(秋元牧師談)ちょっとしか起こってない」ということで、秋元牧師が神さまに聞かれたそうです。「それはどうしてでしょうか?」と。
 すると次のように主が秋元牧師に答えられたそうです。『本来の役割を果たさなかった』と。その理由としては次のようなものでした。『カリスマが働き始めた時の対応で、人から変に思われる、おかしいと思われることを恐れた。それで理知的に自分たちが正しいと証明しようとしたためにおこらなかったのだ』と。
 そのような著しいカリスマの働きこそなかったものの、この40年、聖書に基づいての賜物の教会管理、吟味方法などを対応を行ってきました。カリスマの群れの多くはこの間、泡沫の水の如く現れては消え、消えてはまた現れましたが、この群れだけは揺るがせに負けなかったのです。これは評価すべきことでした。理知的に対応したからです。
 しかし主はそうではなく、「あなた方は気狂いにならず、利口な者になった」と今後の道を示されたようです。日本にカリスマの働きが浸透しなかった原因の一つがそうであるならば、逆に今、私たちが夢中になって後先考えず、主の御心を行って行くことが、偉大な神の働きである聖霊の賜物が注がれ、この国に大リバイバルが起こって行く、ということではないでしょうか。キリスト気狂いになりましょう。アーメンでしょうか。

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