復活の主の言葉
✝ルカ 24章39節 2017新改訳
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。
本朝は主が復活されたイースターです。ルカ24章36-49節によると、死後三日目にイエス・キリストは墓の中からよみがえられたとあります。死後数日経ってから、人が生き返ったというような出来事は、到底信じ難いものですが、これは確かな事実です。
弟子たちにとって、イエスの復活が無いままの福音には、多くの良いわざを行ったものの、時の権力者にたてつき、最後には殺された預言者だということになっていたでしょう。もしそうならば、結局はユダヤ教のあだ花で、歴史に流され消え去っていたはずです。
しかしイエスは約束通りによみがえりました。それだけでも、死に対する勝利を取られたのですが、さらに多くの信じ難い不思議がありました。それは「栄光のからだ(御霊のからだ)」でよみがえられたということです。突如として皆が集まっている部屋に現れ、実際の肉体を見せ、その証拠に焼き魚を食べてみせられました。約束されていた天国で私たちが着ることになっている実物の姿‥‥「朽ちないからだ」をお見せになられたのです。これにはその場にいた誰しもが驚愕し、また確信を持ったことでしょう。
イエスの復活は、それ以前の死と生涯に、光を投げかけ、律法との数々の戦いは何のためであったかを明らかにし、「キリストを信じること=罪が贖われ永遠のいのちの証明である復活」こそが信仰の真の土台」であることを明らかにされたのです。そう言う意味でも私たちは、この復活の日の様子をもっと深く胸に刻む必要があります。主のご受難と十字架の出来事‥‥罪の赦しと、復活における永遠のいのちの勝利がここにあります。
神を信じるということは、キリストのよみがえりによって明らかにされたように、霊が実際の体を伴いながら、さらに超越的な永遠の御霊の体となって復活することを確認する信仰です。その為には自分の罪の為に、主が十字架上で犠牲となってくださって、贖われたことを信じる必要があります。神を信じることばには、自分の絶望的な罪に、自分自身の命を主に明け渡すことが前提です。「信仰」とはその意味です。信仰者は自分に死んで、主に聞き従う者でなければなりません。
「主に聞き従う」と申しましたが、神が語ってくださり、従う力をも添えて与えてくださらなければ、どうして聞き従うことが出来るのでしょうか。「神のことばである聖書があるではないか」と言われるかも知れませんが、そのような方は、本当に御言葉通りに生きていらっしゃるでしょうか。「ふ~ん」と読み流し、実際にはこれまで通りの不服従の生活が続いているとしたらどうなのでしょうか。聖霊が信じる者の中で主となって働かれ、その実が生き様に実っている、これがクリスチャンのしるしであり証しです。