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2024年4月

2024年4月28日 (日)

獅子の口から義の栄光へ

テモテ 2章11節   2017新改訳

次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。

 第二テモテとは、パウロが死の直前、我が子同然の愛するテモテに送った最後の手紙です。書かれた年代は、64年のネロの大迫害(クリスチャンがローマ大火の犯人とされた)以降、数年内に処刑されたはずです。すでに処刑が決まって、執行待ちの状態からの手紙なので、遺書的な性格もありますが、牧会指導と言うだけでなく、パウロの心情が吐露された内容になっています。

 この手紙には、アジアで大規模なパウロ離れが起こり、ほとんどの教会がパウロから去っていったことを心配する内容が目立ちます。多分それは濡れ衣を着せられ、大迫害を防げなかったパウロへの落胆や、大火に連座することを恐れてのことであったと思われます。そこでパウロはアジアの中心的なエペソ教会の監督テモテに対して、今の自分の心境を語り、身の上を案じるテモテを励ましたかったようです。エルサレムでの騒動以降、裁判を皇帝に上訴し、カイザリヤやローマで長い期間囚人として過ごしてきたパウロでした。一時期はかなり自由に活動できたものの、処刑が決まってからは身近にはルカだけしか居らず、寒さにも困っていましたが、その心には義の栄冠を受ける喜びで、一点の曇りもなく晴れた天を仰いでいたのです。

 たとえクリスチャンであっても、死んで天国に行くと言うことは同じでも、神に哀れみを受けたままで死んで行くのと、栄光を受けて死ぬのとでは大違いです。
 そのことを「(アジアにいる)私の子よ、イエスの恵みによって<聖霊によって守り(1:14)>強くなりなさい」と教え、く聖霊によって守られ、自分については、福音のために苦しみを受けているのだから私は耐え忍ぶ(2:9ー10)と来る殉教の決意を語り、それだからあなたも「恥じることのない働き人として、自分を神に捧げるように(2:15)」とパウロが心から勧めています。

 私やドルカスの両親はすでに亡くなっていますが、次は高齢者となった私たち世代の番だと思っています。日本にリバイバルが起こされますが、その時私たちは聖霊の賜物によって大きな働きをすることになっています。しかし聖霊の実が実っていないのに、そのような油が注がれることは無いことでしょう。アブラハムは75、モーセは80歳で用いられました。今から遅くはありません、熱心に祈り、信頼し、主と交わり、そのみこころがわかるようになっておきましょう。そのみこころを行うことで迫害されるならば、素晴らしい神の栄光を受ける約束になります。それゆえ、なんとしてでも、九つある御霊の実を一つでも二つでも多く、実らせて参りましょう。

2024年4月21日 (日)

罪が分かる祝福

マタイ9章11-13節   2017新改訳

これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

 以下はイエス様が語られた言葉です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」いったいこれはどういう意味でしょうか。聖書では人類の先祖、エバとアダムが罪を犯して以来、すの人が罪の縄目にある(原罪)と言っています。ですからこのことばは、罪が分かるすべての方を招いておられるのです。

 私たち人間には良心があり、良心に照らしてみれば、自分が紛れもなく罪人であることがわかるはずです。小学校の教師時代、道徳の時間特権として、担任した子どもたちに「自分は良い子だと思いますか?それとも悪い子だと思いますか、正直に答えてください」と尋ねましたら、ほとんどの子が「悪い子」に手を挙げました。ただ成長して高学年ぐらいになると周囲が見えてきますので、他者と比較したり、あるいは自己弁護の意識で、自分が悪い子とする子は減っていきました。

 そうしてみるとクリスチャンになる人は、大人になっても良心が残っている人であり、罪が分かる人だといえるでしょう。ふつう、自分が正しくないこと、罪がわかれば、自己正当化できず、辛く惨めな気持ちになります。どうしてこんな状態を喜ぶことができるでしょうか。自分を何とか正しいものと思いたいのですが、ありのままに自分を見ると、物欲、よこしまな思い、妬みなど、いろんな欲望が自分の中につきまとい、時に自分を虜にしていることに気づきます。そしてこれに打ち勝ち勝利することは困難です。まるでモグラ叩きのようにキリなく戦い続けなければなりません。結局、諦めるしかありません。そして「人間とはそういうものだ」と開き直るしかないのです。その結果、自分が多くの人と同じように願わしくない所に行くことを予感しますし、死を避け、考えないようになるのがふつうではないでしょうか。

 しかし冒頭のイエス様の言葉は、そのように滅び行く者にとって、唯一の朗報であり、救いです。罪が分かれば、その罪と向き合い、自分の力では解決が不可能であることを悟っていますから、神に救いを求めることができます。心から救いを求める者に、十字架の神の贖いが用意され、信じ、その救いと恵みにあずかる特権が与えられて行くのです。
 罪が分かる者は、それが十字架の福音に結びつけさえすれば、惨めなどころか、
ハレルヤ!絶大な永遠の命の祝福になるのです。

2024年4月14日 (日)

天に行く確かな歩み

マタイ 7章21節   2017新改訳

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 マタイ7章21節には、イエス・キリストのことばとして、「主よ、主よと言うものがみな天の御国に入るのではなく、(以下意訳)父のみこころを行なう者だけが天の御国に入る」とあります。つまりクリスチャンがみな天国に行けるのではなく、神のみこころを行なっている者だけが入れると言うことです。これは明らかにカルヴァンの予定説の「一度でも信じた者は全員救われる」(永久保証)を否定しています。つまり、パリサイ人のように律法を形式的に守っていてもアウトになります。神との霊的な交わりを保ち続け、その交わりの中で神のみこころが分かって、それを率先して行なう者だけだと言われているのです。これは非常に重要なことです。今回、態度を保留していた私にも、主ははっきりさせるよう迫られました。信徒に永久保証を説き、油断した信徒が裁きの日に地に落とされたら、牧師はその咎を負わなければならないのです。

 実は最近、祈っている中で、<キリストは人となって来てくださった見える神そのものである>ことから、直に神である<キリストのことばにもっと注力しなければならない>と示されています。ただし聖書はどれかが重要で、他は重要でないということはありません。

 さて肝心の「みこころを行う」とはどういう事でしょうか。「種蒔きのたとえ」から見て行くと、最近になって、岩地も茨も全てクリスチャンと自称する人たちのことであって、永久保証説を否定するものだということに気づかされました。「『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入る」ので、これは明らかです。
 ではみこころはいかにして行えるのでしょうか。それは先ず良い地であることと、その上に発芽する‥‥自分に死んで代わりに神の霊(聖霊)が成長していなければなりません。もちろん成長をさせてくださるのは神(1コリント6:6)です。このように発芽という言葉を見た時、<自分に死んで神の霊に生きる、聖霊のバプテスマを指していることがわかります。それなくして神と交わり、みこころを知ることもあり得ません。<みこころを行う>者は既にこの世のもので無く、神の代理人と称する偽預言者や教祖に盲従する(カルトに属する)こともありません。
 しかし幾度も言いますが、自分に死ぬことは自分の力では不可能です。「心の貧しき者は幸い」‥‥自分の高慢と無力さ、罪を徹底的に知らされる者は幸いなのです。自分に絶望し、神のものになる決断は本人の自由意志です。サタンのように神は人を虜にしません。愛しておられ、その決断する自由意志を切望しておられます。神のものとして自分を捨て神に従う者を、神は愛してくださり、交わってくださいます。交われば交わるほど私たちは神を愛する者となり、神のみこころ、計画に預り行おうとします。神の子であり、御国を受け継ぐ嗣子だからです。

2024年4月 7日 (日)

いつも喜びなさい

ピリピ 4章4節   2017新改訳

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 「いつも喜んでいなさい」。この御言葉通りに私たちはいつも喜んでいるでしょうか。そうでなく、仕事のストレスや家庭の問題、金銭の不足に悩んで、時に苦虫を噛み潰したような顔をしていないでしょうか。無理に笑顔でいようとすれば、頬が引き吊ったりして(笑い)‥‥ですからこれは、なかなか守れない、困難な命令のように感じます。ですがこれは神様からの命令です。では不可能なことを命令されているのでしょうか。それとも私たちに何か問題があるのでしょうか。それとも世にあっては神の期待に応えることのできない、永遠の理想なのでしょうか。

 確かに私たち、この世に生きている限り、財力とか権威、能力、家柄や名誉、学歴、あるいは姿形から全く無関係に生きることはできません。しかしそれと自分の心がとらわれることとは、まったく別なことではないでしょうか。その例を使徒の中の使徒、パウロに見てみましょう。

 パウロは世のそのようなものはdung(直接的には糞、2017では塵)だと言いました。このように言ったパウロは、イスラエル人の誰もが羨むような世の富を持っていた人でした。八日目に割礼を受け血統正しきベニヤミン族出身。律法についてはガマリエル門下でパリサイ人の中のパリサイ人。誰もが羨むこれらを、パウロはdungと言ったのです。こう言えるのは、これらに比べようもない、はるかに素晴らしいものを得ていたからに他なりません。それは霊的な恵みであって、喜びあふれ、尽きない祝福です。世の思いから逃れられず、平安と喜びがないクリスチャンでは、神の御心から外れています。世から解放される信仰のすばらしさ、例えられない喜びを手にしていないのです。ぜひ希望と期待を持って、焦がれて祈り求めてください。

 しかしまた、別な見方もあります。今現在の私たちの信仰の状態です。心の大切なもの(心)は両立ませんし、そこに優先順位が当然あります。肉のものを信仰より優先している自分があったとしたら、それこそ神とキリストから自分を遠ざけ、奪い、妨害する世のものと戦わなければなりません。神と世と両方とも大切にすることはできないのです。両方とも失ってしまいます。次の御言葉がそれをはっきりと教えています。世の楽しみや富、それらに心を奪われているなら、滅びの道がその先に待っています。今その優先順位をはっきりさせなければならないのです。そうすれば、神は私たちの祈りに応えてくださり、私たちが神を愛する者になるよう助けてくださることでしょう。

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。マタイの福音書 6章24節

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