罪が分かる祝福
✝マタイ9章11-13節 2017新改訳
これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。
以下はイエス様が語られた言葉です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」いったいこれはどういう意味でしょうか。聖書では人類の先祖、エバとアダムが罪を犯して以来、すの人が罪の縄目にある(原罪)と言っています。ですからこのことばは、罪が分かるすべての方を招いておられるのです。
私たち人間には良心があり、良心に照らしてみれば、自分が紛れもなく罪人であることがわかるはずです。小学校の教師時代、道徳の時間特権として、担任した子どもたちに「自分は良い子だと思いますか?それとも悪い子だと思いますか、正直に答えてください」と尋ねましたら、ほとんどの子が「悪い子」に手を挙げました。ただ成長して高学年ぐらいになると周囲が見えてきますので、他者と比較したり、あるいは自己弁護の意識で、自分が悪い子とする子は減っていきました。
そうしてみるとクリスチャンになる人は、大人になっても良心が残っている人であり、罪が分かる人だといえるでしょう。ふつう、自分が正しくないこと、罪がわかれば、自己正当化できず、辛く惨めな気持ちになります。どうしてこんな状態を喜ぶことができるでしょうか。自分を何とか正しいものと思いたいのですが、ありのままに自分を見ると、物欲、よこしまな思い、妬みなど、いろんな欲望が自分の中につきまとい、時に自分を虜にしていることに気づきます。そしてこれに打ち勝ち勝利することは困難です。まるでモグラ叩きのようにキリなく戦い続けなければなりません。結局、諦めるしかありません。そして「人間とはそういうものだ」と開き直るしかないのです。その結果、自分が多くの人と同じように願わしくない所に行くことを予感しますし、死を避け、考えないようになるのがふつうではないでしょうか。
しかし冒頭のイエス様の言葉は、そのように滅び行く者にとって、唯一の朗報であり、救いです。罪が分かれば、その罪と向き合い、自分の力では解決が不可能であることを悟っていますから、神に救いを求めることができます。心から救いを求める者に、十字架の神の贖いが用意され、信じ、その救いと恵みにあずかる特権が与えられて行くのです。
罪が分かる者は、それが十字架の福音に結びつけさえすれば、惨めなどころか、
ハレルヤ!絶大な永遠の命の祝福になるのです。
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