赦し
✝Ⅱ列王 6章21~22節 2017新改訳
イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」
エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。
本日の聖書はⅡ列王6:21-23です。エリシャの時代、北の隣国アラムはイスラエルを再々略奪しようとしたと聖書には書かれています。これは国単位の侵略行為であり、いつ全面戦争になってもおかしくない状況であったと思われます。エリシャはアラムの待ち伏せ攻撃をあらかじめ王に告げ知らせ、その作戦を妨害します。そこでアラム王は大軍を持ってエリシャの略取しようとしたのですが、神は全てをお見通しであり、アラムの軍をはるかに上回る神の軍勢で囲っていたのです。このように神は、ご自分のしもべに常に知らせ、守られるのです。
さてエリシャはこのアラムの軍が向かって来たとき、神に敵の目をくらませを願い、見えなくなった軍を首都サマリアまで連れて行き、都の中で目を開かせます。こアラム軍の行列はサマリヤの人々が大勢見物することとなったことでしょう。目が空いたアラムの軍はどれほど驚いたことでしょうか。他国に乗り込んで捕まった略奪者は、イスラエルの王が「私が撃ち殺しましょうか」と言ったように処刑されて当然だっと思われます。しかしエリシャは王に盛大なもてなしをさせて、自分たちの国に帰らせたのです。ちょっと驚きですが、真の成功とは平和をつくることにあります。これ以後、二度とアラムは略奪軍を送ってくることは無くなったのです。
真の成功とは報復することでなく、平和をつくることです。私たちにはもっと素晴らしい御言葉、真理が与えられています。それがルカ6章にあるような「赦しなさい、そして愛しなさい」と言うことばです。私たちは憎しみや怒りを抱えたままでは、その連鎖が拡大し、傷が広がっていくだけで、やがて自分もおかしくなって行きます。こんな例は、皆さんも体験したはずです。
平和の神様は私たちが赦すことをお望みです。御子イエス様は十字架上で全ての人を、敵をも赦されました。最初の殉教者ステパノも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。今、自分を殺そうとしている彼らを許さなければ、彼らは罪に定められ、罪の呪いが彼らを救いから遠ざけてしまうことでしょう。それは御心ではありません。
ですから赦すことは、ただ単に口先だけのものではありません。受けた一切の損害補償請求権、一切の復讐の権利、恨み・悲しみ・辛さを完全に放棄し、喜ぶことです。その上神様は「敵を愛しなさい」と言われています。皆さん、愛することは簡単ではないとしても、赦すことは、そのよう決心すればできるはずです。
赦しましょう。真に赦せるように神から力をいただき、自分のためにも赦すのです。