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2024年5月

2024年5月26日 (日)

赦し

Ⅱ列王 6章21~22節   2017新改訳

イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」
エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。

 本日の聖書はⅡ列王6:21-23です。エリシャの時代、北の隣国アラムはイスラエルを再々略奪しようとしたと聖書には書かれています。これは国単位の侵略行為であり、いつ全面戦争になってもおかしくない状況であったと思われます。エリシャはアラムの待ち伏せ攻撃をあらかじめ王に告げ知らせ、その作戦を妨害します。そこでアラム王は大軍を持ってエリシャの略取しようとしたのですが、神は全てをお見通しであり、アラムの軍をはるかに上回る神の軍勢で囲っていたのです。このように神は、ご自分のしもべに常に知らせ、守られるのです。

 さてエリシャはこのアラムの軍が向かって来たとき、神に敵の目をくらませを願い、見えなくなった軍を首都サマリアまで連れて行き、都の中で目を開かせます。こアラム軍の行列はサマリヤの人々が大勢見物することとなったことでしょう。目が空いたアラムの軍はどれほど驚いたことでしょうか。他国に乗り込んで捕まった略奪者は、イスラエルの王が「私が撃ち殺しましょうか」と言ったように処刑されて当然だっと思われます。しかしエリシャは王に盛大なもてなしをさせて、自分たちの国に帰らせたのです。ちょっと驚きですが、真の成功とは平和をつくることにあります。これ以後、二度とアラムは略奪軍を送ってくることは無くなったのです。

 真の成功とは報復することでなく、平和をつくることです。私たちにはもっと素晴らしい御言葉、真理が与えられています。それがルカ6章にあるような「赦しなさい、そして愛しなさい」と言うことばです。私たちは憎しみや怒りを抱えたままでは、その連鎖が拡大し、傷が広がっていくだけで、やがて自分もおかしくなって行きます。こんな例は、皆さんも体験したはずです。
 平和の神様は私たちが赦すことをお望みです。御子イエス様は十字架上で全ての人を、敵をも赦されました。最初の殉教者ステパノも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫びました。今、自分を殺そうとしている彼らを許さなければ、彼らは罪に定められ、罪の呪いが彼らを救いから遠ざけてしまうことでしょう。それは御心ではありません。
 ですから赦すことは、ただ単に口先だけのものではありません。受けた一切の損害補償請求権、一切の復讐の権利、恨み・悲しみ・辛さを完全に放棄し、喜ぶことです。その上神様は「敵を愛しなさい」と言われています。皆さん、愛することは簡単ではないとしても、赦すことは、そのよう決心すればできるはずです。
 赦しましょう。真に赦せるように神から力をいただき、自分のためにも赦すのです。

2024年5月19日 (日)

教会の誕生

使徒 2章1~4節   2017新改訳

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 本日はペンテコステ、キリスト教会の誕生日です。使徒の働きの2章にもありますように、聖霊を受けたのは、イエス・キリストに従った信者であり、その約束を信じて集まり、おそらく祈っていた人たちでした。その信者の上に聖霊が下って異言や預言を語るようになりました。これは聖霊のバプテスマと呼ばれる現象であり、その賜物が現れた現象を物語っています。そのことから二つのことがわかります。聖霊のバプテスマは信じると同時に受けるものではなく、待ち望んでいた信仰の堅い人たちの上に下ったこと。そしてこの日が教会の誕生日と言われるように、聖霊のバプテスマを受けた人びとの上に教会が建てられたということです。

 イエス・キリストを信じるなら罪が赦され、神との障壁が取り除かれます。しかし問題は口先でどんなに「主よ」と呼んでも、自分が相変わらず自分の主であって、神がドラえもんのポケットのように便利な存在では、神と交わる正しい関係にならないことです。 人はどんなに努力しても「一粒の麦、落ちて死なずば」にあるように、自分に死ぬことができないので、聖霊の実を結ぶことができないのです。神である聖霊と交わらなければ、肉の思いであり、御心を行えないのです。そしてこれが今現在の多くのクリスチャンと教会の現状です。

 自分に死ぬとは新生することです。新生と呼ばれる聖霊のバプテスマは自分の力の及ばないものであるとすれば、これは神に選ばれ、愛されたクリスチャンだけが通される道であり、産みの苦しみの果てに与えられる特別な恵みです。そして神は、この聖霊のバプテスマの上に教会を建てられたのです。聖霊のバプテスマによって教会が誕生し、すでにその役目は終わった過去のものだと福音派は説きますが、それならなぜ今から100年前、ロスのシーモア牧師によって聖霊のバプテスマが大きく用いられるようになったのでしょうか。また聖書には、新生を伴う聖霊のバプテスマが終わったなどとは書いてありません。聖霊のバプテスマを受けていないことは、ピリポがサマリヤで多くの信者を得た時に、エルサレム教会がペテロとヨハネを派遣したこと。エペソでアポロによる信者にパウロが会った時のことなどの記事で、当初から懸念されたことでした。それが現在では多数派、主流派になっているだけのことです。

 神様はギデオンに命じてイスラエルの民が誇らないよう、戦う者の数を300という、イスラエル自身では到底不可能な数まで減らされました。今まさにそのように私たちは少ないのですが選ばれた戦士です。神の命によって残されている、そして神の御名が崇められるために、私たちの力を超えてリバイバルという勝利を主は得られのです。

 

2024年5月12日 (日)

赦されてゆるす

マタイ 6章14~15節   2017新改訳

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 マタイ6章15節には「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたをおゆるしになりません」とあり、これ以外にも同様な御言葉が随所にあります。私はこれまであまり真剣に受け止めてはいなかったのですが、何度もイエス様自身の言葉で繰り返されているので、これは重大な戒めであることに気づきました。命じておられるイエス・キリスト様が十字架で赦しそのものになられたのです。と言うことは、信じる者が師に背いて人をさばき、赦さなかったとしたら、それはもはやイエスの弟子でも従う者でもないと言うことになります。最近祈ってしばしば示されたり、またつい最近刊行されたマーリンさんの「地獄に天国をもたらす」に追い打ちのように実行を強く示されました。

 前述の本にこうあります。「私たちが人を赦さなければ、自分が苦しむことになります。赦さない心は、私たちから平安や喜び、健康まで奪うからです。神は人間をそのようなものとして創られました。ー中略ー 人間にはどうすることもできない仕組みなのです」(p29)と。ひと昔前の私でしたら不十分な理解だったでしょうが、今は完全に理解できます。アーメン。

 厄介なのは、赦さなければならないことがわかっても、その相手が具体的にわからないことです。それでは恵みはなく、いつまでも消極的な不服従のままだと言えるでしょう。実は最も身近な存在である身内の中に潜んでいる場合があり、あまりにも関係が深く自分の根源的な存在なので、今更気付けないことが多いのです。そのために祈りの中で、気づかないのだけれども自分が許すべき相手というものをイエス様に聞いてみることがポイントになると私は思っています。

 次に赦す行動を実践することが重要です。これについてもイエス様が簡潔に一言で述べておられます。<赦す=愛すること>です。これ以外に真の赦しはありません。どんなに「赦す」と言っても、行いが伴っていなければ口先だけのことで、赦したことになりません。憎んだりさばいたりするのではなく、愛する、このことを「あなたの敵を愛しなさい」とイエス様はおっしゃったのです。どうでしょうか、自分自身にその力はなくても、御心ですから神の力に依るならば可能になります。どうか神を信じ、御心を行って平安と喜びの祝福を受けていただきたと思います。そこに御霊の実が開いて行くのです。

2024年5月 5日 (日)

地獄に天国をもたらす

詩篇 32篇1~2節      2017新改訳

幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよが咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

 あるSNSを観ていましたら、次のような意見が載っていました。「キリスト教会の牧師の中に、「一度救われたら、(その後はどんな罪を犯しても)天国行きは大丈夫だと教えている。しかしそれは、地獄にたくさんの信徒を送り込む大きな過ちだ」と。要するに洗礼は救いの永久免罪符ではないと。私もその通りと思いましたが、おそらくすごい反論を受けるだろうと想像しました。プロテスタントのほとんどの教会はそのような救い観でしたから。果たして予想した通り、代表的には次のような反論がありました。
 「それは、あなたの考えの中(あなたの世界)に、サタンを存在させる以上、常にサタンはあなたの中に存在します。イエス様が常にご加護をくださっている、にもかかわらずです」と、まるで最初に意見を述べた人は悪霊にとりつかれているかのような内容です。さらに別な人も「サタンという概念を持つこと自体がサタンだ」とさえ指摘されていました。
 反論される方は、一度十字架を信じ、救いを受けた者は、天使のように罪を犯さない存在になったかのようです。勿論そんなことはあり得ません。

 確かにローマ10:9-10には もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる、と。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです とあるように、告白した罪は赦され、その時点では救われています。確かに赦されて義とされた解放の喜びが全身を包んだことでしょう。しかし、人の罪性は根深いのです。自助努力や自己肯定は、そんなに簡単に取り除けるものではありません。もしクリスチャンが、自分は罪とは無縁でキリストのように聖とされる存在になれたと思うなら、それこそ万死に値する高慢の罪を犯しているのです。
 私の経験を言えば、そのような教会にいて三十年間、義とされているはずなのに罪深い自分に苦しみました。考えないようにし、頭から振り払おうとどんなにしても無理だったのです。サタンがクリスチャンである私を、聖を諦めさせ、絶えず支配しようと襲っていたのです。

 このようなクリスチャンの救いについて、聖霊のバプテスマを受けることではっきりわかりました。地獄に天国がもたらされたのです。聖霊が望んだ時、私たちにほんのわずかでも自分を義とするものは無かったのです。聖霊に照らされて私は、自分に全く希望がないことを知りました。私は放蕩息子のように、ボロボロの自分をただ父にあわれんでいただくしかなかったのです。父はボロボロの私だからこそ、本当の息子を取り返したように愛してくださるのです。私の弱さを私以上に神はご存じですし、父の御心を行うことしか生きる意味を感じない私と、聖霊を通し親しく交わってくださいるのです。交わって知る父は100%、愛のお方で助け主です。

ああ、罪がわからない自称クリスチャンと牧師たち、一切あなた方が自分を義とせず、砕けた魂と良心から真に救われるよう心から祈ります。

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