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2024年5月 5日 (日)

地獄に天国をもたらす

詩篇 32篇1~2節      2017新改訳

幸いなことよその背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよが咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。

 あるSNSを観ていましたら、次のような意見が載っていました。「キリスト教会の牧師の中に、「一度救われたら、(その後はどんな罪を犯しても)天国行きは大丈夫だと教えている。しかしそれは、地獄にたくさんの信徒を送り込む大きな過ちだ」と。要するに洗礼は救いの永久免罪符ではないと。私もその通りと思いましたが、おそらくすごい反論を受けるだろうと想像しました。プロテスタントのほとんどの教会はそのような救い観でしたから。果たして予想した通り、代表的には次のような反論がありました。
 「それは、あなたの考えの中(あなたの世界)に、サタンを存在させる以上、常にサタンはあなたの中に存在します。イエス様が常にご加護をくださっている、にもかかわらずです」と、まるで最初に意見を述べた人は悪霊にとりつかれているかのような内容です。さらに別な人も「サタンという概念を持つこと自体がサタンだ」とさえ指摘されていました。
 反論される方は、一度十字架を信じ、救いを受けた者は、天使のように罪を犯さない存在になったかのようです。勿論そんなことはあり得ません。

 確かにローマ10:9-10には もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる、と。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです とあるように、告白した罪は赦され、その時点では救われています。確かに赦されて義とされた解放の喜びが全身を包んだことでしょう。しかし、人の罪性は根深いのです。自助努力や自己肯定は、そんなに簡単に取り除けるものではありません。もしクリスチャンが、自分は罪とは無縁でキリストのように聖とされる存在になれたと思うなら、それこそ万死に値する高慢の罪を犯しているのです。
 私の経験を言えば、そのような教会にいて三十年間、義とされているはずなのに罪深い自分に苦しみました。考えないようにし、頭から振り払おうとどんなにしても無理だったのです。サタンがクリスチャンである私を、聖を諦めさせ、絶えず支配しようと襲っていたのです。

 このようなクリスチャンの救いについて、聖霊のバプテスマを受けることではっきりわかりました。地獄に天国がもたらされたのです。聖霊が望んだ時、私たちにほんのわずかでも自分を義とするものは無かったのです。聖霊に照らされて私は、自分に全く希望がないことを知りました。私は放蕩息子のように、ボロボロの自分をただ父にあわれんでいただくしかなかったのです。父はボロボロの私だからこそ、本当の息子を取り返したように愛してくださるのです。私の弱さを私以上に神はご存じですし、父の御心を行うことしか生きる意味を感じない私と、聖霊を通し親しく交わってくださいるのです。交わって知る父は100%、愛のお方で助け主です。

ああ、罪がわからない自称クリスチャンと牧師たち、一切あなた方が自分を義とせず、砕けた魂と良心から真に救われるよう心から祈ります。

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