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2024年6月16日 (日)

心理的中毒症状

詩篇 19篇14節   2017新改訳

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。よわが岩わが贖い主よ。
 この国で一番多い依存症はアルコールとかニコチン、ギャンブルでしょうが、現代ではインターネットとかスマホという新手の依存症も多くなって来ています。テーマを中毒症状としましたが、正確には依存症と言うべきことでしょう。依存症とは、害を認識し止めなければいけないと分かっていても、害の魅力に勝てない断てない、それに自分を委ねてしまう、つまり依存から脱することができないで中毒状態が続くわけです。
 実はそのような害とか悪に依存し、抵抗を止め、その中毒症状が全ての成人男性にあることをご存知でしょうか。元々は神が人を創造された時、「生めよ.増えよ。地に満ちよ(創1:28)」の祝福でした。問題はそれがどこから来たかを知らず、神に頼らず解決しようと、自分の性的欲望のままに従ってしまうことです。あのマーリンさんですら世的には罪を犯すことはありませんでしたが、「長い間、淫らな思いと好色な夢と戦った」と述懐しています。私もですが、たとえ神を信じていても、「主よ、どうしてこのような性的な思い、欲望があるのでしょうか?」といつも問いかけていたことを思い出します。「十字架によって全ての罪が赦されているはずなのに、どうしてこの罪に囚われたまま生きなければならないのだろうか?」と思い、「肉体がこの世にある限り決して聖とはされない」とすら思いました。罪の意識を常に感じ、時に絶望し開き直り、しかし大体はいつも神に赦しを願って祈り、これから解放されることに憧れ続けました。

 しかしそうではないのです。これは神に自分を捧げられた時から気づいたのですが、祝福の道具なのです。自分を神に真に捧げることができる、自分を捨てることができる道具なのです。自分が聖を目指すことは高慢の罪です。多くのクリスチャンが勘違いをしている、自分の罪のためにキリストが贖いをしてくださったから罪が赦され、故に聖とされるのではないのです。それは全くの間違いです。真の信仰を持つとは、肉の罪の深刻さゆえに、自分に死ぬことです。その結果としての絶大な祝福を受ける、これが神の計画です。バテ・シェバとの間に重大な罪を犯し続けたダビデ王や、ユダとタマルとの一件が明確な証人だと言えるでしょう。

 マーリンさんも「一生涯、この(肉欲と闘う)繰り返しで暮らすのか」と思われたそうです。しかし「絶望しかけた時、人間にとって、最も実行が困難なことは、神さまが私たちに一番してあげたいと思っていることではないか?」と気付いた書かれています。なぜこの罪があるのか、それは人であって神ではないこと、高慢を砕き自分を明け渡し謙遜にさせ、エデンの園の交わりに入らせるためです。

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