フォト
2024年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

« 「しるしを求める」者たち | トップページ | わたしの母、わたしの兄弟とは »

2024年7月21日 (日)

罪人を招く神

マタイ 9章13節   2017新改訳

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。

 イエス様はカペナウムに着くと、取税所に座っていたマタイ(レビと同一人物)を弟子にし、そのマタイが催す食卓につかれました。その食卓には当然、多くの取税人や罪人が連なっていました。この様子を見た律法学者やパリサイ人は、「なぜ?」と理解できません。それに対してイエス様は当時の人々にとって理解不可能な言葉を語られます。
 マタイ9章10−13節『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、いって学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
 「罪人を招くために来た」これはイエス様が世に来られた目的で、非常に重要なことです。この段階でははっきり言われませんが、バプテスマのヨハネが「悔い改め」を述べても、パリサイ人たち国の主だった人たちは応じませんでした。律法学者やパリサイ人は、自分たちこそ、神(律法)に忠実な義人だとしていたからです。実際イスラエルの歴史を見ても、この時代ほど宗教的に熱心な時代はありませんでした。現代のイスラエルもユダヤ教国家として熱心に見えますが、実は超正統派から世俗の人々まで全く多種多様で、この時代ほど一枚岩ではありません。イエス様の時代は、全員が厳格に律法を守っていたかつてない時代だったのです。

 しかしその反面、律法を守っていると言いながら、偽善も最高潮に達していたのです。コルバン(ささげ物ーマルコ7:11)などは良い例です。神様はある意味、罪人も悔い改めれば寛容な面がありますが、どうも高慢と偽善には我慢がならないようです。そしてこの時代にイエス様が降臨くださったのです。そして十字架の直前になって、偽善の指摘は容赦ないものになっていきました。
 マタイの23章での「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」を連発されているのを見ますと、どれほど神が心を痛めておられたのかが如実に伝わってきます。神の御心とはどういうものか、それは<真実の愛、いけにえではない>が切々と伝わってくるのではないでしょうか。また私は真実の愛で思い出すことがあります。イエス様がパリサイ人の家で食卓についておられる時、一人の罪深い女が涙でイエス様の足もとを濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗った話です(ルカ7:36〜)。罪を多く赦されたものが多く神を愛するのです。

 自分を義とする者がどうして神を愛せるでしょうか。多くの罪を自覚し、赦された人だけが神を真に愛するのです。罪人こそ、神の愛を受け、愛する特権を持っているのです。

« 「しるしを求める」者たち | トップページ | わたしの母、わたしの兄弟とは »

神の愛」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「しるしを求める」者たち | トップページ | わたしの母、わたしの兄弟とは »