私たちは神の子ども
✝Ⅰヨハネ 3章1~2節
「私たちは神の子ども」
第一ヨハネ3章1節では「私たちは今すでに神の子どもです」とあります。キリストの再臨した時、私たち神の子はキリストに似たものとになるだけでなく、直に対面するようになります。そのようになるために、天の御父が私たちをどれほど愛し、導いてくださったことか、十字架からそれを知るのです。
また私たちが子ならば、子は父によって生まれ存在します。子は自分が生まれたので父がいる事を知っていますから、父を追い求め、探します。私たちが天の父と出会った瞬間、これがまことの神であり、父であることが分かったのも、子としての直感であり確かに子だからです。
一方サタンは天使の中にあって大いなる存在でしたがそれだけでは飽き足らず、神のようになろうとして堕天使となりました。被造物なのに、造物主にまでなりたい自己欲‥‥つまり野望は、サタンの本質であり、全ての造られた存在は自分のような自己欲を持っていると信じて疑わないのです。そして神が愛されている人間も自分と同じだと思っています。実際多くの人間は、サタンと同様に自己欲に生き、サタンと同じようにゲヘナに道連れとなっています。ですからサタンの攻撃目標はただ一つ、クリスチャンに向けられ、私たちをエバやアダムのように罪を犯させ、神との交わりを絶たせて、神の子を奪うことに集中しています。
ここで大切なポイントがあります。私たちの霊の行き先は神の国か、ゲヘナかどちらかしかなく、その中間というものが存在しないことです。サタンに仕えゲヘナに行くか、それとも神に仕え、その御国に行くかです。そのためにはクリスチャンであっても空しさ、自分がないことです。別な言葉で言うなら、自分が神に属するものである事を日々認識する事です。
ルカ9章23節以降に、「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」と言う言葉があります。ここで「自分を捨て」とは自己犠牲を求められているわけではありません。スポーツ選手や苦学生が犠牲的に自分を律していますが、その犠牲は結局自分のためであり、自分を捨てることの反対です。そうではなく、自分の心の王座を神にすることを指しています。聖霊の御心に従っているかと言うことです。そのような人は聖書の内容を自分の解釈によらず、言葉通り忠実に守って行動します。またたとえ聖書に書かれていなくても、聖書の精神に従い、内住される神に聞き従って人生を歩もうとするのです。
「人は、たとえ(※自分の欲望を満たそうとして)全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら(※ハデスに落とされたら)、何の益があるでしょうか」(ルカ9章25節)のキリストの言葉を肝に銘じておきましょう。