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2024年8月

2024年8月25日 (日)

私たちは神の子ども

Ⅰヨハネ 3章1~2節                       
「私たちは神の子ども」
 第一ヨハネ3章1節では「私たちは今すでに神の子どもです」とあります。キリストの再臨した時、私たち神の子はキリストに似たものとになるだけでなく、直に対面するようになります。そのようになるために、天の御父が私たちをどれほど愛し、導いてくださったことか、十字架からそれを知るのです。
 また私たちが子ならば、子は父によって生まれ存在します。子は自分が生まれたので父がいる事を知っていますから、父を追い求め、探します。私たちが天の父と出会った瞬間、これがまことの神であり、父であることが分かったのも、子としての直感であり確かに子だからです。

 一方サタンは天使の中にあって大いなる存在でしたがそれだけでは飽き足らず、神のようになろうとして堕天使となりました。被造物なのに、造物主にまでなりたい自己欲‥‥つまり野望は、サタンの本質であり、全ての造られた存在は自分のような自己欲を持っていると信じて疑わないのです。そして神が愛されている人間も自分と同じだと思っています。実際多くの人間は、サタンと同様に自己欲に生き、サタンと同じようにゲヘナに道連れとなっています。ですからサタンの攻撃目標はただ一つ、クリスチャンに向けられ、私たちをエバやアダムのように罪を犯させ、神との交わりを絶たせて、神の子を奪うことに集中しています。

 ここで大切なポイントがあります。私たちの霊の行き先は神の国か、ゲヘナかどちらかしかなく、その中間というものが存在しないことです。サタンに仕えゲヘナに行くか、それとも神に仕え、その御国に行くかです。そのためにはクリスチャンであっても空しさ、自分がないことです。別な言葉で言うなら、自分が神に属するものである事を日々認識する事です。
 ルカ9章23節以降に、「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」と言う言葉があります。ここで「自分を捨て」とは自己犠牲を求められているわけではありません。スポーツ選手や苦学生が犠牲的に自分を律していますが、その犠牲は結局自分のためであり、自分を捨てることの反対です。そうではなく、自分の心の王座を神にすることを指しています。聖霊の御心に従っているかと言うことです。そのような人は聖書の内容を自分の解釈によらず、言葉通り忠実に守って行動します。またたとえ聖書に書かれていなくても、聖書の精神に従い、内住される神に聞き従って人生を歩もうとするのです。

 「人は、たとえ(※自分の欲望を満たそうとして)全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら(※ハデスに落とされたら)、何の益があるでしょうか」(ルカ9章25節)のキリストの言葉を肝に銘じておきましょう。

2024年8月18日 (日)

サタンの策略Ⅲ

エペソ 6章11~12節   2017新改訳

悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 世の人々はすでにサタンの配下にあるので、サタンの攻撃目標はクリスチャンに絞られている。だから激しい攻撃を受けるクリスチャンが精神の病にならないという保証はない。もし教会員が病になった場合、教会をあげて祈り、フォローしますし、教会には真の癒やし主である神が居られるので、癒やされる希望だけでなく、事後には強力な証人にとなる可能性が高い。

 心の癒やしは医学の力を用いて薬物などの治療などを受けつつ、ひとまず寛解状態を目指します。しかし完全に癒やされるには医学の治療だけでは不十分で、薬から解放される完全な癒やしは、ただ神によってのみ可能です。私たちの群れには、直ることが不可能だと言われる統合失調症が癒やされ、現在は逆に大きな働きをされている方がおられるように、完全な癒やしは生きた神を真の信仰する教会にあります。

 全てが悪霊に依ると見なすのは誤りですが、精神の病は悪霊に依ることが多いです。原因が悪霊と見られる場合、医学的な治療だけでなく、まず罪がわかっての信仰を持ち、心から悔い改めることから始まります。また聖書の真理によって(悪霊の偽りを砕き)戦う決意をしなければなりません。第一に神のことばである聖書をしっかりと学び、聖書の御言葉を神のことばとして実行することが大切です。次の段階は神の愛と御心が自分に注がれており、その絶大な恵みの故に自分を神に明け渡す段階があります。しかしそれは新生という、古い自分が死んで新たに生まれる中で起こります。これは自分が努力して得るものではなく、神からの一方的な油注ぎ(または聖霊のバプテスマと言われる油注ぎ)です。その際のポイントは自分に死ぬということです。「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」ヨハネ 12:24

 そうすればすでに勝利をとられておられる神が、あなたの中で主となられ、戦われ、必ず勝利す得るのですが、その受け入れる決断はあなたがしなければなりません。

 こころの病だけでなく、力のない信仰のクリスチャンや、霊的に苦しい方の力になることが私たちの教会のみ心です。病の人は病院で治療を受けることが大切ですが、それだけでは完全に治ることはできません。霊的な対応、つまり私たちをだましているものの正体を知り、その相手を神の言葉、聖霊によって追い出すことが、完全な癒やしへの道です。 
 まずもって本人の認識と決断が前提ですが、私たちは共にスクラムを組んで、キリストの愛のうちにサポートして行きたいと思います。 

2024年8月11日 (日)

サタンの策略Ⅱ

ヨハネ 1章12節   2017新改訳2017

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

 先週ではクリスチャンはサタン側から常に狙われて戦いの最前線にいることと、鬱などの病に対しては速やかに医学的な診断と処方を受け、脳内物質不足を補って平常に戻った上で心の癒やし、霊的な対応を進めることが大切だと申し上げました。それは老眼などでメガネが必要になったら、視力を補正するメガネを使うようなものだと例えました。しかし教会では鬱などの投薬治療を「信仰が足りないからだ」と否定的に見られ、ために治療を怠った所に悪霊がつけ込む事例が生じています。ですからそれは間違いだ、と強く申し上げたところです。

本日はその続きとして、特に下図の肉体面を中心にさらに学んでみましょう。Img_1397
 人間とは上図の三つで構成されています。その中で人の肉体は唯一目に見えるもので、この世の一時的なものであり、不完全な存在です。つまりサタンの攻撃を最も受けやすい存在でもあります。また肉体が健康な状態でなければ、それが精神にも霊にも大きな支障が出ます。私たちはこの肉体の良き管理者として、常に祈りながら最善の状態になるよう、心がけていかなければなりません。

 私たちの教会には大きな特徴があります。それは聖書を生ける神のことばとして単に信じるだけでなく、神のみこころに聞き従い、霊的な対応をして行く教会だという点です。つまり不思議や霊的なことが特徴的ですから、そのような人々が集って来る教会なのです。
 私たちの教会では例えば予知・予告の不思議がある方が来られた場合、その人が神を本当に信じているかどうか、次に聖書的に妥当なもので、個人にではなく神の栄光が表されているかどうかがポイントになります。
 いずれにしても教会はカウンセリングの場ではないので、肉体的な対応はまず通院されると共に、神を信じ、共に祈りをいたします。そうして精神と霊性が聖霊によって導かれた、真に癒やしのある教会へと主任牧師であるイエス・キリストによって導かれて行くのです。
 私たちの神は、十字架にかかってまで私たちを愛してくださった愛なる神です。私たちを完全に癒やそうと手を差し伸べてくださっているのです。そのことを実際に信じましょう。

2024年8月 4日 (日)

サタンの策略

   ✝Ⅱコリント 5章16ー17節   2017新改訳

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 Ⅱコリ5章17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」‥‥このことばに注意してください。実は誰でもがキリストのうちにあるわけではないからです。洗礼を受けて、晴れてクリスチャンになっても、数日は喜びで満たされるでしょうが、しばらくすると「ハタ」と気づくのです。「自分は前と何も変わってない」と。生まれ変わる新生は、そう、簡単ではありません。私は二十歳の時にバプテスマを受けましたが、私を含め、下図は受洗した多くの例を示しています。なのに、しばらくするとぜんぜん救われた気もせず、相変わらず苦しんでいる人が何と多いことでしょうか。相変わらず罪と良心の呵責に苦しみ続け、その鎖の中に居るのはどうしてでしょうか。

ローマ6章22節でも次のように言っています。Photo_20240810215501 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」と。しかし現実は肉の状態に悩んで、うつ病に近い状態にまで陥っているクリスチャンもいます。

 わたしは自分の経験も含めて、その人の祈りや信仰が足りないとは決して思いません。そうではなく、病院で診断され、処方薬を飲むことで劇的に回復します。これは老眼で見えにくくなった人がメガネをかけることとか、インシュリンを服用する糖尿病患者に信仰が弱いとでも言うのでしょうか。クリニックで処方されるこの類いの薬は依存性も中毒性もありませんし、霊的なものではありません。脳内物質の不足を補う薬を服用し、回復した体になってこそ、はるかに霊的な成長を目指すことができるのです。教会は皆でそのために祈り、支援をし、神の力が注がれる状態に戻れるよう霊的な対応もしましょう。病める兄弟姉妹を、牧師や教会が助けるのは、何よりも神のみ心であり、教会の兄弟愛からも当然なことです。

 身体的な治療を受けて回復し、次に真の新生した者となって神の大いなる証し人になることは極めて聖書的です。病み傷つき、苦しんだ者こそ神を愛し、神の宣教者として、また証し人として大きく用いられていったことは聖書が証しています。 

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