サタンの策略
✝Ⅱコリント 5章16ー17節 2017新改訳
ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
Ⅱコリ5章17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」‥‥このことばに注意してください。実は誰でもがキリストのうちにあるわけではないからです。洗礼を受けて、晴れてクリスチャンになっても、数日は喜びで満たされるでしょうが、しばらくすると「ハタ」と気づくのです。「自分は前と何も変わってない」と。生まれ変わる新生は、そう、簡単ではありません。私は二十歳の時にバプテスマを受けましたが、私を含め、下図は受洗した多くの例を示しています。なのに、しばらくするとぜんぜん救われた気もせず、相変わらず苦しんでいる人が何と多いことでしょうか。相変わらず罪と良心の呵責に苦しみ続け、その鎖の中に居るのはどうしてでしょうか。
ローマ6章22節でも次のように言っています。 「 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」と。しかし現実は肉の状態に悩んで、うつ病に近い状態にまで陥っているクリスチャンもいます。
わたしは自分の経験も含めて、その人の祈りや信仰が足りないとは決して思いません。そうではなく、病院で診断され、処方薬を飲むことで劇的に回復します。これは老眼で見えにくくなった人がメガネをかけることとか、インシュリンを服用する糖尿病患者に信仰が弱いとでも言うのでしょうか。クリニックで処方されるこの類いの薬は依存性も中毒性もありませんし、霊的なものではありません。脳内物質の不足を補う薬を服用し、回復した体になってこそ、はるかに霊的な成長を目指すことができるのです。教会は皆でそのために祈り、支援をし、神の力が注がれる状態に戻れるよう霊的な対応もしましょう。病める兄弟姉妹を、牧師や教会が助けるのは、何よりも神のみ心であり、教会の兄弟愛からも当然なことです。
身体的な治療を受けて回復し、次に真の新生した者となって神の大いなる証し人になることは極めて聖書的です。病み傷つき、苦しんだ者こそ神を愛し、神の宣教者として、また証し人として大きく用いられていったことは聖書が証しています。
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