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2024年9月

2024年9月29日 (日)

裁くことと、罰すること

ヨハネ 8章11節   2017新改訳

彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 本日はこの「石打ちの刑」に処せられる寸前の女がテーマです。モーセの律法によれば、姦淫の現場で捕らえられたこの女は、律法的には当然石打ちの刑になるはずです。わざわざイエス様の前に引っ立てて行く必要はありません。しかしこの時彼ら律法学者とパリサイ人は女を使って、イエス様を罠にかけようとのもくろみがあってのことでした。
 イエス様が「許してあげなさい」と言えば、律法違反として告発できるし、「律法通りに」と言えば「なーんだ、日頃愛を説きながら大したことない」と評判を落とせることになります。イエス様が神殿の地面にひたすら字をお書きになっていたのは、きっと彼らの企みに「辟易」されていたからに違いありません。

 彼らが執拗に食い下がって問い続けるので、ついにイエス様が口を開かれました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」‥‥この結末は、皆さんご存知のように、女を「罪に定める者はなかった」のです。そこでイエス様が「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。このことば「罪に定めない」を、女の罪は赦されたと受け取るのは誤りです。赦したのではなく、<石を投げて処刑する者がいなかった>だけで、誰一人女の罪を赦したわけではありません。ですからイエス様が「決して罪を犯すな」と言われているのです。ここで「罪に定めない」=「処刑しない」という意味になります。

 よく<神は罪人を愛された>とか、誰でも罪を犯すので罪人の集まりである教会は、愛をモットーに<罪の有無を問わない>とかを聞きます。これはとんでもない間違いで、そんな教会には神の聖と義がなおざりにされ、世的な堕落した教会です。教会は聖書に則り、世のレベルよりはるかに高い倫理観があるのが当然です。悔い改めを求めてもその実が伴わなければ、教会から取り除くしかりません。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)
 罪人を神が招いておられるのは、高慢で自分を義とする者より、罪をする者の方が悔い改めて神を受け入れる可能性が高いからです。しかし悔い改めなければ、そこにはただ滅びが待ち受けているだけです。石打ちになりかけた女も<悔い改めて>二度と罪を犯さないように、の意味になります。
 教会は罪を決して容認しません。悔い改めて心から罪を告白し、十字架の血の贖いによって聖霊がその人の主になり、神の力によってきよくされるところです。

 

 

 

 

裁くことと、罰すること

ヨハネ 8章11節  2017新改訳

彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。
 本日はこの「石打ちの刑」に処せられる寸前の女がテーマです。モーセの律法によれば、姦淫の現場で捕らえられたこの女は、律法的には当然石打ちの刑になるはずです。わざわざイエス様の前に引っ立てて行く必要はありません。しかしこの時彼ら律法学者とパリサイ人は女を使って、イエス様を罠にかけようとのもくろみがあってのことでした。
 イエス様が「許してあげなさい」と言えば、律法違反として告発できるし、「律法通りに」と言えば「なーんだ、日頃愛を説きながら大したことない」と評判を落とせることになります。イエス様が神殿の地面にひたすら字をお書きになっていたのは、きっと彼らの企みに「辟易」されていたからに違いありません。

 彼らが執拗に食い下がって問い続けるので、ついにイエス様が口を開かれました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」‥‥この結末は、皆さんご存知のように、女を「罪に定める者はなかった」のです。そこでイエス様が「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。このことば「罪に定めない」を、女の罪は赦されたと受け取るのは誤りです。赦したのではなく、<石を投げて処刑する者がいなかった>だけで、誰一人女の罪を赦したわけではありません。ですからイエス様が「決して罪を犯すな」と言われているのです。ここで「罪に定めない」=「処刑しない」という意味になります。

 よく<神は罪人を愛された>とか、誰でも罪を犯すので罪人の集まりである教会は、愛をモットーに<罪の有無を問わない>とかを聞きます。これはとんでもない間違いで、そんな教会には神の聖と義がなおざりにされ、世的な堕落した教会です。教会は聖書に則り、世のレベルよりはるかに高い倫理観があるのが当然です。悔い改めを求めてもその実が伴わなければ、教会から取り除くしかりません。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)
 罪人を神が招いておられるのは、高慢で自分を義とする者より、罪をする者の方が悔い改めて神を受け入れる可能性が高いからです。しかし悔い改めなければ、そこにはただ滅びが待ち受けているだけです。石打ちになりかけた女も<悔い改めて>二度と罪を犯さないように、の意味になります。
 教会は罪を決して容認しません。悔い改めて心から罪を告白し、十字架の血の贖いによって聖霊がその人の主になり、神の力によってきよくされるところです。

 

 

2024年9月22日 (日)

神の愛の光によって

Ⅰテサロニケ 5章5節   2017新改訳

あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

 クリスチャンの究極の目標は「エデンの園」の復活とか再来、そういうものではないかと最近は思っています。つまり愛してくださっている神さまと、さらに親し交われる天国行きが人生最大で最高の目標です。よく自分は「殉教の覚悟をしています」と勇壮に語る人がいますが、殉教とは強い意思とか決断でするものではなく、愛の選択の結果だと私は思うのです。
 数日前義兄の葬儀がありましたが、送った私も二歳違いですし、死はいっそう身近なものになりました。生きている者は必ず死ななければなりませんが、老化はそれが近づいていることを教えてくれるナビゲーターです。もし、死後の希望を抱いていなければ、死はどんなにか恐ろしいものでしょうか。それも当たり前です。クリスチャンでない限りゲヘナに行くのですから。
 地上での生活もカウントダウンとまでは行かないまでも、高齢者となって第四コーナーを回ってゴールが先に見えてくるようになると、この世では終活と言われますが、実はそれ終活の最大ポイントは死後の行き先のことではないでしょうか。神を信じる、これこそ真の終活です。

 私の若い頃は、見える物が全てで、霊とか天国とか言ったら呆れられる時代がありました。霊で通じるのは、キョンシーとかゴーストバスターズ留まりであって、真顔で霊のことが伝えられないのです。しか今は明らかに異なって来ています。死んだら一切終わり、なんて言う方が少なくなっています。ところがサタンは、この国に巧妙にキリストの名を語る熱心な異端者たちを使って、全国津々浦々にまでキリスト教は【怪しい、警戒すべき】との周知に成功しました。
 だからこそ今この時代、地上より天国に生きる真の信仰者として歩む証しが重要です。リバイバルの時が来た時、神が私たちを通して行われるあらゆる不思議とわざとが、一気にこの不信仰な国と民を変えることでしょう。その時、訓練を受け、神のオーダーを忠実に果たす者とされ、すべてを神の栄光に帰す天国人となっておかなければならないのです。

 葬儀には親族が集まりますが、そんな時、こたつに座っている私の上にちょこんと5、6歳の女の子が座ってくれました。その子を膝の上にして、私は大変いとおしくかわいく思いました。ある方が73歳の私でも、神さまにとっては5、6歳の子どものようなものだと言っていました。5、6歳の子どもは全く遠慮がなく、天衣無縫と言っても良いでしょう。聞きたいことを聞き、したいことをします。それでいて親が付いていないと不安で、まだ未知の世界での一人歩きは難しいのです。この年齢の子どものように、父なる神を信頼し、愛してくださる子として、父に聞き従って忠実な歩みをしたい、と痛切に感じさせられました。

2024年9月15日 (日)

愛によって働く信仰だけが

ガラテヤ 5章6節   2017新改訳

キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 神さまは無論「愛なるお方です」が、しばしば危険がまだよく分からないわたしたちが、好き勝手に行こうとすることを心配してくださいます。「そこから先は危ないよ」と注意し、導いてくださいます。そしてこうすれば安全だと、道を教えてくださっています。皆さん、ご存知でしょうが、確認しておきましょう。
 まず第一に、父なる神を愛し、信頼することです。これは優先順位(プライオリティー)の問題です。この世には一見、大切なものがたくさんあります。妻や子、肉親や兄弟、社会的な地位とか権威、中には血筋とか名誉だと思う人もいることでしょう。でも、おそらく誰にとっても一番大切なものは、自分の命ではないでしょうか。

 しかし聖書が証しする父なる神によれば、一番大切なもの、それはこの世のものではありません。イエス様は言われました。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。‥‥わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10:37)と。
 これは一見過酷なものに見えますが、それは神を知らない人が思うだけのことです。先ほどの一番大切なはずの自分の命に絞って述べますが、私たちは神によってまず霊が創造され、その霊は選ばれた父母を通して、肉体を携えてこの世に「出生」として送り出されました。霊には滅びがなく、永遠ですが、肉は世において滅びます。人は肉体の命がある間に、自らの自由意志による選択によって、霊の行き先、天と地のどちらかを選択することになります。そしてその選択は永遠に変わることのない選択になります。これは天の神の国において新しい体で、神の栄光を賛美し、神と共に生きるエデンの園の再現になります。逆に地に落とされると、体に痛みを感じ続け、その苦しみで霊と心が滅びそうな暗黒の世界で、それでもなお死ぬことができない暮らしも永遠に続きます。

 神は人を愛され、人を自由意志のない天使や機械的なロボットのようにはお造りになりませんでした。人が天使よりも高くされる理由はここにあります。
 神は愛です。ですから神に従う者、神の子とされる者は、被造物である世の何ものよりも、子として父を愛し、自由意志で父を第一にする者であるはずです。永遠と滅びるものを見分け、その優先順位を揺るぎないものにできるのは、神と交わり、子とされているからに他なりません。子は神を愛し、すでに世のものではなく、天に生きる幸せに生きています。

2024年9月 8日 (日)

クリスチャンの心得え

マタイ 16章24節   2017新改訳

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
 今日のクリスチャン及びその御体は、左右両方から攻められ惑わされています。左右というのはイデオロギー的なものではなく、信仰の熱心さという面からです。
 まず信じる中身が疑われるケースです。聖書では「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ人10章10節)とあるので、信じて洗礼を受ければ、救われると単純に信じている人が多い。しかし<心に信じて>とあるように、本当に義とされているかどうかは、外面的な信じる告白や受洗だけで判断できるものではない。

 心に信じるとは、「イエスのよみがえりを信じる」ことである。常識ではあり得ないことを信じるとは、人間的な常識や判断から全く異なる判断基準を持つ、コペルニクス的な転回をすることであり、つまりは新生していることが義とされる前提となっいるのです。
 今日多くの教会では、耳に痛い信仰の中身が問われることばが語られることはほとんどなく、聴衆に耳障りの良い言葉ばかりが語られている。その一例を挙げると、神は愛の神だから、あなたは(神をなおざりにしようと、またどんな自己中心な指定用も)決して見放されることはない、などの言葉である。聖書に再々出ている「外の暗闇」などは、未信者のことと勘違いしているようである。

 一方、最近YouTubeで知見したが、ふしぎな神の働きに惑わされる熱心な人々も増えているようである。曰く、中には天国の財務大臣から如何にしてお金を引き出すか、とかの内容であったりする。またある人には子どもの時からの預言の賜物があって、予知予告とか、裁きの通告とかの賜物の実際例があったりする。預言の賜物とは個人の栄光に具するものでなく、神の栄光のみを現すもののはずである。
 わたしにはどうしてもこれら天的な不思議や賜物のYouTubeが、神からのものと感じることができなかった。これらの真偽を見分けるには、偽札を鑑定するには真札をよくよく知っていなければ不可能なように、真の神と常に交わっている必要があることを痛感させられる。

 私たちは誤りなき神の言葉である聖書を信じることと、聖書の真理から主として臨在される聖霊に従って日々を生きる真の信仰を全うしなければならない。その道は楽な道ではないかも知れないが、天への希望と光に満ちていることを証する道でもある。

2024年9月 1日 (日)

悔い改めが分れ目

Ⅱコリント 7章10節  2017新改訳

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 これまで天国に直結する信仰について、「本当に信じるとはどういうこととか」、「罪がわかるとは」、あるいは「新生するには」について触れたり語ったりして来ましたが、結局最大のポイントが【悔い改め】にあることがわかりました。そう気づいてみると、悔い改めは旧約におけるニネベに対するヨナや、新約でイエス様への道備えとして、バプテスマのヨハネが使わされたりしており、これが滅びに対する一貫した聖書のテーマであったことが思い出されます。

 ではなぜ悔い改めが信仰の出発点であり、最終的には天国行きの別れ目になるのでしょうか?その理由は、悔い改めは罪の自覚を前提にしているからです。つまり罪がわからない人は、悔い改めができないと言うことになります。
 人は他人のちりは見えても自分の梁は見えていないものです(ルカ6章4)。ですから他人の罪はいくらでも指摘できても、自分の罪はほとんどわかっていません。「深刻な自分の罪が分かる」ことは、通常の人間にとっては、ほぼ不可能なことであるとすら私は思っています。ですから「人にはできないが、神にはできる」(ルカ 18:27)のです。人は自分の力では自分に死ぬことができないのです。その意味では、だけですが、救いは天的なものだと言えましょう。

 さていかに自分が罪人であったことが分かると言うことは、まさにコペルニクス的な全反省、ハッキリ言えばこれまでの自分の人生、生き方などの全否定とも言えます。パウロはそれを、「私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています」(ピリピ3:8)とはっきり言っています。なぜ<ちりあくた>だと言えるのか、それは比べものにならない、はるかにまさるものを見出したからに他なりません。イエス様も「畑に隠された宝」(マタイ13:44)と言われ、持っているものすべてを売り払ってまでその畑を買うと言われています。

 イエス様が言われる自分に死ぬことなのです。自分の王座を自分で占めている限り、神の聖霊様が王座を占めることはできません。一粒の種は発芽して死ぬのです。米の元になる一粒の籾は、発芽し成長することによって一千倍前後の実りをもたらします。どんな優れた工業製品でも、一つを千に増やすことは不可能ですが、神にはそれがおできになるのです。一千倍の祝福がその人にあるのです。

 また神は愛です。放蕩息子のたとえから分かるように、真の愛は自分の支配下に置き続けるのではなく、試練の荒野にも送り出し、心を砕き見守り続け、悔い改めて戻ることを祈り続ける、そして悔い改めたなら、「死んでいたのに生き返った」と喜び、息子としていのちの指輪をはめてくださるのです。私たちも一度、放蕩を悔い改め、死んで生き返って、真の息子にしていただく愛と祝福に預かってまいりましょう。

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