裁くことと、罰すること
✝ヨハネ 8章11節 2017新改訳
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
本日はこの「石打ちの刑」に処せられる寸前の女がテーマです。モーセの律法によれば、姦淫の現場で捕らえられたこの女は、律法的には当然石打ちの刑になるはずです。わざわざイエス様の前に引っ立てて行く必要はありません。しかしこの時彼ら律法学者とパリサイ人は女を使って、イエス様を罠にかけようとのもくろみがあってのことでした。
イエス様が「許してあげなさい」と言えば、律法違反として告発できるし、「律法通りに」と言えば「なーんだ、日頃愛を説きながら大したことない」と評判を落とせることになります。イエス様が神殿の地面にひたすら字をお書きになっていたのは、きっと彼らの企みに「辟易」されていたからに違いありません。
彼らが執拗に食い下がって問い続けるので、ついにイエス様が口を開かれました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」‥‥この結末は、皆さんご存知のように、女を「罪に定める者はなかった」のです。そこでイエス様が「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。このことば「罪に定めない」を、女の罪は赦されたと受け取るのは誤りです。赦したのではなく、<石を投げて処刑する者がいなかった>だけで、誰一人女の罪を赦したわけではありません。ですからイエス様が「決して罪を犯すな」と言われているのです。ここで「罪に定めない」=「処刑しない」という意味になります。
よく<神は罪人を愛された>とか、誰でも罪を犯すので罪人の集まりである教会は、愛をモットーに<罪の有無を問わない>とかを聞きます。これはとんでもない間違いで、そんな教会には神の聖と義がなおざりにされ、世的な堕落した教会です。教会は聖書に則り、世のレベルよりはるかに高い倫理観があるのが当然です。悔い改めを求めてもその実が伴わなければ、教会から取り除くしかりません。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:32)
罪人を神が招いておられるのは、高慢で自分を義とする者より、罪をする者の方が悔い改めて神を受け入れる可能性が高いからです。しかし悔い改めなければ、そこにはただ滅びが待ち受けているだけです。石打ちになりかけた女も<悔い改めて>二度と罪を犯さないように、の意味になります。
教会は罪を決して容認しません。悔い改めて心から罪を告白し、十字架の血の贖いによって聖霊がその人の主になり、神の力によってきよくされるところです。