悔い改めが分れ目
✝Ⅱコリント 7章10節 2017新改訳
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
これまで天国に直結する信仰について、「本当に信じるとはどういうこととか」、「罪がわかるとは」、あるいは「新生するには」について触れたり語ったりして来ましたが、結局最大のポイントが【悔い改め】にあることがわかりました。そう気づいてみると、悔い改めは旧約におけるニネベに対するヨナや、新約でイエス様への道備えとして、バプテスマのヨハネが使わされたりしており、これが滅びに対する一貫した聖書のテーマであったことが思い出されます。
ではなぜ悔い改めが信仰の出発点であり、最終的には天国行きの別れ目になるのでしょうか?その理由は、悔い改めは罪の自覚を前提にしているからです。つまり罪がわからない人は、悔い改めができないと言うことになります。
人は他人のちりは見えても自分の梁は見えていないものです(ルカ6章4)。ですから他人の罪はいくらでも指摘できても、自分の罪はほとんどわかっていません。「深刻な自分の罪が分かる」ことは、通常の人間にとっては、ほぼ不可能なことであるとすら私は思っています。ですから「人にはできないが、神にはできる」(ルカ 18:27)のです。人は自分の力では自分に死ぬことができないのです。その意味では、だけですが、救いは天的なものだと言えましょう。
さていかに自分が罪人であったことが分かると言うことは、まさにコペルニクス的な全反省、ハッキリ言えばこれまでの自分の人生、生き方などの全否定とも言えます。パウロはそれを、「私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています」(ピリピ3:8)とはっきり言っています。なぜ<ちりあくた>だと言えるのか、それは比べものにならない、はるかにまさるものを見出したからに他なりません。イエス様も「畑に隠された宝」(マタイ13:44)と言われ、持っているものすべてを売り払ってまでその畑を買うと言われています。
イエス様が言われる自分に死ぬことなのです。自分の王座を自分で占めている限り、神の聖霊様が王座を占めることはできません。一粒の種は発芽して死ぬのです。米の元になる一粒の籾は、発芽し成長することによって一千倍前後の実りをもたらします。どんな優れた工業製品でも、一つを千に増やすことは不可能ですが、神にはそれがおできになるのです。一千倍の祝福がその人にあるのです。
また神は愛です。放蕩息子のたとえから分かるように、真の愛は自分の支配下に置き続けるのではなく、試練の荒野にも送り出し、心を砕き見守り続け、悔い改めて戻ることを祈り続ける、そして悔い改めたなら、「死んでいたのに生き返った」と喜び、息子としていのちの指輪をはめてくださるのです。私たちも一度、放蕩を悔い改め、死んで生き返って、真の息子にしていただく愛と祝福に預かってまいりましょう。
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