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2025年3月16日 (日)

その人の血は私たちの上に

マタイ 27章25節   2017新改訳
すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」
 イスラエルという国が二千年の時を経て奇跡の復活後77年、この国は誕生から常にその存亡をかけて戦って来ているが、再建国に至るまでのイスラエルの苦難の歴史、特にディアスポラ(離散)に至った経緯を知ることで、今の私たちに通じる学ぶべきことがある。
 まず第一にそもそもの流浪の民となった原因、それはマタイ27章25節「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」の一節にあると私は見ている。神を殺すという人類史上最悪の選択をしたユダヤの民が、イエスを殺したいあまりに叫んだ呪いの言葉です。彼らが叫んだ通り、この民はわずか三十数年後に、壮絶な殺戮と神殿の崩壊という酬いを受けた。その上、たとえ生き残っても、世界に追放され宿無しの流浪の民となったことが、ロシア語圏でのポグロム、ドイツ語圏でのホロコーストなどの凄惨な歴史をうむことになった。その活路としてシオニズムという帰還運動が起こり、1948年の再建国という預言の成就に及んだ。
 この「その血は私たちの上に」と民衆が叫ぶ最大の原因は、イエスが救世主キリストであることがわからなかった、という一点に尽きる。エルサレム入城に際にあれだけ歓待した民は、メシアである完全なしるしにも関わらず、メシア預言の二重性に全く気づけていなかった。イスラエルの歴史において最も宗教的な時代であったこの時代、彼らが熱望したのはローマを打ち負かす再臨のキリストであって、受難のキリストではなかった。イエスの神性はどんな奇跡も、真理のことばも、律法違反にしか見えなかった。自分の肉の目で聖書を見、自分の筋書き通りに理解しようとすると、みこころに逆らった酬いを刈り取り、民族の悲劇を招くのです。
 ひるがえって今の時代を見るとこれはいつの時代にもあることとは言え、特に今の時代に通じるものが多いと感じる。我が国のキリスト教界内において、聖霊なる神をリアルに信じる私たちは時に狂信的とされ、カルトとか異端に断じられます。私たちが癒やしの祈りや異言、預言をすると、それが異端のしるしだと言う。かつて私もそうだったが、正統派クリスチャンを自認する人々は、自分たちに聖霊がなく理解できないので、聖書通りの働きを妬んで否定するのです。理由として第一コリントの12章以降の賜物を「教会ができた今、聖霊による賜物の働きは終わった」と否定するが、聖書のどこにもそのような「終わった」と記述されてはいない。パウロが出会った信徒の一団、バプテスマのヨハネの水の洗礼だけの信仰で批判されているのだ。聖書は霊的な神のことばである。自分の頭だけで判断していると、それはイエスを見誤って十字架につけろと叫んだ群衆の轍を踏んでしまう、と私は危惧する。先ず聖霊を求めるべきである。

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