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聖書

2022年5月29日 (日)

平和を望む者

詩篇 120篇6節   2017新改訳

この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 詩篇120は、終わりが「私は平和を--、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ」と結ばれる。それで暗く、まるで希望が無いかのような印象をこの詩篇に抱く。確かにこの曲は風のひびき9集ベストセレクションに入るほど歌いやすく良くできているのに、内容的にイマイチと感じる向きが多いと思う。しかしそれは、単に上っ面だけの理解で判断しているのではないだろうか?この120番は<都上りの歌>の歌であって、苦難の末にようやく異邦の地から宮参りができる、その喜びの歌なのだ。

 ユダヤ人が異邦の地で暮らすとはどういうことか、先ず始めにそれを押さえておきたい。結論から言えば、彼らは排斥される定めだ。どんなにその地に幾世代にわたって住み続けようと、その地の住民と混合し、溶け合って一つの民となることはあり得ない。なぜなら彼らは聖書の民であって、その信仰を護っている限り、彼らは異質な存在で有り続ける。実際世界のどこへ行っても同様な状態となる。彼らは嘘をつかず、誠実で約束を守る。絶対的な規範である聖書があるからだ。しかしそれゆえ異邦の民と道徳観、生活、風習が決して交わることはない。もしあればそれは律法で禁じられた堕落をもたらすものとなるのであり、逆にユダヤ人が異邦の地に何代に渡って住もうと、平和を望もうと、その地では異質な存在で有り続ける。
 もし混合するならば、ユダヤ人がサマリヤ人のようになり、ユダヤ人がユダヤ人でなくなることを意味する。どうしても迫害され、排除され(戦い)続けられる定めがユダヤ人であることが、これが二千年の時を経てイスラエルが建国された大きな理由の一と考えられる。

 しかしそのようなユダヤ人の特性が、ベニスの商人で描かれているように同情の余地のない冷徹さも併せもつことになる。彼らユダヤ人は道徳観が聖書を通して鉄壁である。また流浪の民として、世界にネットワークを持っている。そのような彼らは次第に財を形成していくのだろう。我が国ではユダヤ人を迫害する状況に今はまだないが、ヨーロッパのように国内の一部に長年にわたってユダヤ人が居住し続けたならば、どうしても似たような状況になるのではないだろうか。

 このユダヤ人の受けるその疎外感、迫害の歴史が、離散の二千年後、奇跡の現イスラエルを建国し得たとも言えるかもしれない。ただしこの120編はおそらく捕囚期ー捕囚後(紀元前400年ぐらい)までに書かれたものなので、捕囚または奴隷状態の中、つまり弱い立場に置かれた困難の中、第二神殿の建立され、エルサレム帰参が許された喜びで満ちている。
 以上、この都上りの歌の苦しみ・・・「偽りのくちびる、欺きの舌」から一時的にせよ救い出され、都に上ろうとしている喜び、そして迫害する異邦の者たちへの裁きの予告が私たちの胸に迫ってくるものがある。私たち日本人クリスチャンも、天のエルサレムへ都上りする過程にあるのは、よく似ているからだ。

2021年11月14日 (日)

2022年度聖句

2022年度ガリラヤ湖畔新年礼拝でパウロ秋元牧師の年間聖句のメッセージを、ケパ中村牧師がさらにわかりやすく要約しました。

今年度の年度の御言葉 ヨハネ14章12節  第3版

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとへ行くからです」である。

 聖書で用いる「わざ」という言葉には、神による意図的で、かつ奇跡のような超自然的な行いの意味で用いられている。ここでの節には次の三つのポイントがある。
 (1)キリストを信じる者はキリストのわざを行う・・・秋元牧師はこれを「キリストがこの世に来られた時に、多くの人を癒やしたり、奇跡を行ったり、解放を行ったことを指す」と説明された。つまりクリスチャンは、キリストがされたようなわざを行うようになるのである。しかしそれは、<キリストのわざはキリストがされる>と秋元牧師が幾度も指摘されたように、わざの実現者は人を通して神が行われるのであって、人が実質的には何の力もないことを肝に銘じなければならない。クリスチャンならば、この点に異論を唱える方はいないはずである。
 私自身も過去、癒やしの祈りをして、その実現を経験したことがある。その時私は非常に良い気分、高揚した状態になった。しかしそれは神の栄光であって、神をほめたたえ、畏れることはあっても、少しでも自分の手柄のように喜ぶなら、それは大きな誤りであったと今では思う。私たちは神のわざの管に過ぎず、ただ通りよい管に徹することが非常に重要である。

 (2)「またそれよりもさらに大きなわざを行います」・・・ここがもっとも誤解されている箇所である。文字通りに読めば「キリストもできなかったような、すごいわざを私たちクリスチャンが行うようになる」と理解してしまう。例えばラインハルト・ボンケはアフリカで7900万人をキリストに導いた。これはキリストが為し得なかった数字である、などと。

 しかし秋元牧師が「キリストのわざはキリストがする」原則から見れば、このような成功も、(1)番の通り、キリストが働いてくださった故の大収獲である。ボンケではない、キリストが働かれた故の大収穫であり、勘違いしてはいけない。従って「大きなわざ」とは、キリストが意図された<(神の計画の)大きな進展がこれから始まってくるぞぉ>の意味であると秋元牧師は語られたのだった。
 
 (3)以上を受け取った上で私は個人的に、さらに次の(3)「わたしが父のもとに行くからです」の言葉を注視したいと思った。ここでのすべてはイエスさまが十字架に架かり、復活して、ペンテコステの日に聖霊が注がれてから始まるわざである。聖霊を通して働かれるわざに、聖霊さまが単に内住されるだけでなく、その日までにクリスチャンが聖霊さまに、<徹底的に聞き従うしもべとなって>いなければ、話しにならないではない。今の時はその猶予の時であり、いつ来ても良いよう、今は器として整えられている時、これに集中しなければならないことを強調する

2021年10月24日 (日)

不正な管理人

ルカ 16章8節   新改訳2017

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 このたとえ話は難解な箇所だと言われています。それは世の常識と天の父なる神のみ心と分けて考えないからです。この世の常識では、信頼されるべき職務の管理人が、不正を行なったというだけでも重罪であるのに、その上、解任の残された短い期日を使ってさらに主人の財産に損害を与えたというのは、更なる裏切りであって、言語道断な行為です。しかしそれを主人が「賢く行動したのをほめた」なんてことはあり得ないからです。
 しかし上記の8節から次の9節を見ていくなら、その意味がかなりわかってきます。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」の 「富がなくなった時」とは自分が血肉の命を失った時のことであり、その時天国へは不正な富で多額の債務を減額された友が歓迎してくれる・・・という意味だからです。
 つまり<不正な富>とは文字通りに受け取るのではなく、<天の富>であって、それを正しく管理していなかったことが<不正>だったことになります。この管理人の富の使い方は、一言で言えば神のみ心に反していたということなのです。

 私たちは自分の財産やそれを産み出すもの・・・富を世において持っていたとしても、それらは神から委ねられたものであって、真の自分のものではありません。そしてこの委ねられた富をいかに用いたかということが、ある意味、天への道を左右するものとなるのです。
 同じ章で語られた「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死んで、彼は黄泉の国の熱い炎で苦しめられていました。彼がここで苦しむ理由として聖書で分かることは一つしかありません。貧しく重い皮膚病人だったラザロは、金持ち宅の門前で寝ていて、その「食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあるだけです。ラザロは犬がもらえる残飯でも欲しかったのですが、そのことは犬からさえも同情されていたことしか知ることができません。ここで読み取れるのは、金持ちの<あわれみの心の無さ>です。門前に居たラザロに金持ちが気づかぬことはあり得ません。それにもかかわらず彼は何も助けようとはしなかったのです。
 金持ちの彼にとって、ラザロは隣人と見なさなかったのでしょう。しかし良きサマリヤ人で語られているように、この金持ちは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法に明確に違反しているのです。そのように考えるなら、この不正な管理人が窮地に陥ってですが、負債の減額に天の富を用いたことは<ほめられる、賢い>ことだったのです。

2020年5月31日 (日)

渇く人

ヨハネ 7章37-38節   【新改訳2017】

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 本日はペンテコステです。さて聖霊降臨日である本日のテーマですが、聖霊という霊的な満たしに飢え渇いている人は、本人にはそうは思えていないでしょうが、実は幸せになれる可能性が大きい人なのです。逆に渇いていない、そこそこ今の生活に満足しているクリスチャンライフを送っておられる方に、永遠につながる平安や喜びは遠いのです。

 自分自身に罪深さを認め、その癒やしと満たしを求める渇きがある方、神はそのままにせず、通される道はあるでしょうが、やがて必ず答えてくださる、あわれみ深い方であることを私は知っています。探し求めたその先には、やがて神の真の祝福を見出されることでしょう。しかし渇きのない人には、それがありません。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのです。

  さて今一度、聖書での「渇く」この意味を探ってみましょう。イスラエルのパレスチナ地方は空から見ますと、東に広大なアラビア砂漠があり、乾期になるとそこからの熱風に見舞われる地域です。この期間は雨が降らず、ほとんど半砂漠地帯となります。この乾燥の厳しさは、私たち日本人には想像が難しいほどです。
 このパレスチナではヨルダン川以外はオアシスか井戸しかなく、大半はワディと呼ばれる涸れ川となり、半年以上も強烈な乾期が続きます。大地は干からびていますから、11月からの雨期に雨が降ると、大地を潤すことなく、たちまち洪水のようになります。ですから一年中流れの尽きない川とは、貴重な命の源であり、たとえようもない価値を持ちます。

 この文脈でヨハネ7:38「生ける水の川」とイエス様が言われたことは、次のような意味があるようです。一つは罪が無かった時代のエデンの園の回復であり、またそれは黙示録22:1でいう「いのちの水の川」という、天の国の実現成就を現したことであること。神イエスの十字架なしに私たち人間の罪は贖われず、助け主聖霊様も人が罪あるままでは内住が困難である。この地では水はいのちそのものであった。こうしてみると、イエスの十字架がすべての土台であったことがわかる。神の愛が十字架を通して現されたのだ。また水は一度で良いというものではなく、飲み続けなければならないものだ。それはふだんの神との交わりの大切さ、祈りの恵みと言うものを指している。それゆえに、私たちは常に渇くのだ。

 十字架によって私たちが神の愛を知るなら、常に祈りを通して、いのちの水の川から霊的な祝福、涸れない恵みを受けて行こう。受ければ受けるほどますます神の偉大さを讃美し、自身を謙遜にしてくださる恵みである。

2020年4月12日 (日)

イエスの復活

Ⅰコリント 15章3-6節   【新改訳2017】

 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 約二千年前、主イエス様がよみがえられたことを祝う日が来ました。教会暦で唯一の移動祝祭日です。よみがえりに関して、聖書には七つの生き返ったという記事があります。しかしイエス様の甦りはこれらの七つとは、全く別物であって、空前絶後の出来事でした。このよみがえりを、今朝はリアリティを持って信じることを考えてみたいと思います。

 まずイエス様のよみがえりは、人の手に依らなかったものです。次によみがえった体は、まったく異なった、不死にして超自然的な御霊の体でした。御霊の体・・・それがどれほど人の理解を超えたものであったか、その姿を見た弟子たちがいかに狼狽し、なかなか信じられなかったかを見ていきましょう。

 弟子たちはよみがえりをあらかじめ、幾度も聞いていました(マタイ16:21、17:9・23、20:19、26章:2)。それがいざ現実にとなると、なかなか信じることが困難だったのです。
 女たちが日曜日の朝、最初に行きましたが、よみがえりを期待してではなく、正式な葬りの準備をするためでした。マグダラのマリヤは空の墓を見ても、誰かが遺体を移動したとしか思えませんでした。マリヤの報告を聞いても、弟子たちは信じることができませんでした。ただヨハネだけが、空の墓を見て即座に信じたのです。

 あまりにも弟子たちが信じようとはしないので、その夜主は、弟子たちの前に現れて、信じようとはしなかった頑なさをお責めになりました。しかしそれでも弟子たちは、幽霊だと思ってしまったようなので、イエス様はご自分の手や足、脇を触ってみなさいと語られ、彼らの目前で食事を摂られました。御霊の体の主を前にしても、弟子たちはこれほど信じることができなかったのです。
 イエス・キリストのよみがえりの仕上げは、五百人の前に現れることでした。これだけ大勢の人が同じ情景を同時に見て、全員が同時に幻や夢を見たと否定することは不可能です。つまり、イエス様のよみがえりは、それが事実であったと信じるしかありません。

 この時、弟子たちはまだ聖霊のバプテスマを、受けてはいませんでした。つまり人間的な判断しかできなかったのです。しかし今私たちは、聖霊によって、命に優るこの大いなる希望を信じ、実際に得ています。イエス様のよみがえりを真に、リアルさを持って信じるなら、どんな困難も、たとえコロナウィルスによって命が脅かされようとも、揺り動かされることはないのです。最も大切なこと、それは私たちはよみがえりの永遠のいのち、その証人であり、世に打ち勝つということです。

2020年3月15日 (日)

印と刻印

黙示録 20章4節   【新改訳2017】
 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた

 印と刻印の違い…似たようなものとも言えますが、印とは基本、印鑑のように証明するものです。それに対し刻印は、所有するしるしが消えないようにするため、彫ったり刻んだりするものです。ですから刻印は所有する道具に刻んだり、家畜に焼き印を押したりします。人の入れ墨も刻印の一つでしょう。特に人への印とか刻印は、二次大戦でナチスがユダヤ人の上着に強制して付けさせたダビデの星や、腕章が思い出されます。

 さて、神は悔い改めた心に聖霊を送られ、その実を結ばせ、心に救いの証印を押されることはありますが、目に見えるような外見的な印はつけられません。人の心の中まですべて見通される方に、外見的なものは無用だからです。ところが被造物に過ぎないサタンとその部下たちは、目に見える印、印や刻印しかわかりません。ですから自分のものにした魂に、やたら刻印を押したがります。これが神とサタンとの大きな違いです。

 サタンは印や刻印は「形式的なものだから、受けて信仰生活を続けなさい」などと言葉巧みに誘うでしょう。しかしクリスチャンは、この目に見える印や刻印を決して受けてはいけません。拝するのはただ神お一人です。四十日四十夜されたイエスさまの断食でも、サタンは最後に全世界を見せながら、「私を拝むなら」と言いました。自分を拝ませようとしたサタンの本質は今現在もまったく変わっていません。
 もしクリスチャンが神以外のものを拝むなら、その瞬間、サタンとともに真っ逆さまにゲヘナ落ちが確定します。黙示録は幾度もこのことを警告しており、これは真実です(黙示14:9−11,16:2,19:20)。

 真のクリスチャンはたとえ殺されても、神以外のものを決して拝んではなりません。ことは短い血肉の時間のことではなく、永遠のことだからです。また、キリストのために死を余儀なくさせられての死は殉教と言い、神に召された特別な恵みです。殉教者は千年王国などではキリストとともに王となり、神の都を住まいとするからです。

 今の時代と逆に、キリストが王となって支配する千年王国時代においてすら、最後にはサタンが解き放たれ、試練が来ます。結局、どんな時代でも、神を信じる者には、たとえ殉教まで行かなくても、血肉の命か、それとも神を選ぶかの選択は必ず迫られるようです。その際、最もポイントになることは、この試練に勝利を得るためには、ふだんから神と交わり、神を知り、神を愛し、信頼を醸成することにあるようです。この試練は自分の努力や力では耐えられるものではなく、聖霊の助けなしには不可能です。

 

2020年3月 8日 (日)

十四万四千人と大勢の群衆

黙示録  7章14節   【新改訳2017】
そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。

 この十四万四千人(7:4,17:1-3)は、今日まで異端の宗教が、自己の目的のために、様々に利用した数字です。またこの続きにある天の大勢の群衆(7:9,19:1)も、私たちは大いを持ちます。そこで今回、この二つのことについて、聖書的なアプローチをして参ります。

 まずイスラエル十二部族名があげられています(7:5-8)が、ここにダン族の名が無いことに注目してください。また長子はルベンのはずですが、ユダになっています。これはイエス・キリストがユダ族から出たからでしょう。また省かれたダン族は、士師記(18:30)や列王上(12:29)ではダン族に偶像礼拝があったことを示しています。

 このように見ていくとこの十二部族は、本来の十二部族の意味ではなく、霊的なイスラエル人であるクリスチャンを指していると言っても過言ではありません。聖書的にも、ロマ書(2:28-29,9:6-7)ガラテヤ(3:29)にあるように、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではない」とあります。

 十四万四千人とは12の自乗に千をかけた数です。ユダヤ的に12は完全数なので、その自乗は完全の完全、つまり極まりで、さらにその千倍という数えきれなさを表しています。これは実際の数字を意味するのではなく、数えきれないほど多くの完全な人々を表した言葉であると理解するべきです。この十四万四千人は、誰にも歌えない新しい歌を歌います。この新しい歌は、先に24人の長老たちが歌い、その長老たちに合わせてバックで歌う天の大聖歌隊のように見えます。(下写真はヨイド教会礼拝風景)

 この十四万四千人は、まるでウィーン少年合唱団のように、全員が汚れを知らない存在であるだけでなく、イエス・キリストと共にどこにでも付いて行く神の陣営でもあるのです。これらを考えて解釈するなら、十四万四千人は礼拝時における神の大聖歌隊であるし、天の大群衆はその会衆たちであると思えます。つまりこれらは全部合わせて、七章は天の御座の前の大礼拝風景として理解することが妥当であると思えます。

2019年11月10日 (日)

新年度年間聖句

    ✝Ⅱ歴代誌 20章15・17節  【第3版】
彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」

 今年度も縦糸と横糸を織るようにして、私たちの教会なりの年間聖句講解を試みたいと思います。まず縦糸の歴史ですが、二つに分裂した王国の内、北イスラエルは初代王からずっとバアルの神々に翻弄されました。しかし南のユダは神によって何とかダビデのケ血筋と信仰が曲がりなりにも守られて行きます。

 本日の聖書箇所ユダのヨシャファテ王はレハブアム-アビヤ-アサと続く四代目です。古代からの交通の要衝であったこの地は、周辺国やエジプトなどから絶えず侵略される運命にあった地でした。信仰深かった父アサ王の時代にもクシュの百万の大軍が攻めて来たのですが、この時神の力に依ってアサ王は圧倒的な勝利を得ました。ヨシャファテはそれを目の当たりにしていたはずです。ヨシャファテの代になって、イスラエルのアハブ王がアラムとの戦いを始めようとした時、預言者ミカの真の預言が成就するのも体験しています。その後ユダをとり囲んでいた図の周辺三ヵ国が、結託してユダに大軍で攻め来たという、国家存亡の大ピンチが今回です。しかしこれらの国はイスラエルとはアブラハムの甥ロトの末裔であったり、ヤコブの兄の子孫ですから、カナン占領の折には戦いを避けた、いわば身内の国々だったのです(2歴20:10)。

 聖句の中心は王が「心に決めて【主】の助けを求め、ユダの全土に断食を呼びかけた」こと、そして王の求めに応じ「ユダのすべて町から人々が来て、【主】を求めた」ことにあります。問題を人間的な力で力や交渉で解決しようとするのではなく、ただ信仰に求めたこと、その国家単位での信仰が義とされたという点が非常に大切な点です。

 次に第二点として今日私が特に示されているのは、この三カ国がユダを攻めること自体、欲に目がくらんで同族の恩を仇で返すような、神の道に背くことであることであって、これをもってヨシャファテ王が「彼らをさばいてくださらないのですか」(20:12)という祈りとなったのは当然でした。義なる神はこれに答えられ、ヤハジエルを通して「これは主の戦いである」「主の救いを見よ」とされたのは、裏切ったとはいえ親族争いに直接手を出させないようユダを守られ、義を持って裁かれたのが見落とせない第二の点です。

 第三の点として吟味があります。父アサ王時代クシュとの戦い、ミカが預言したアラムとの戦い…これらを通し、ヨシャファテ王は瞬間的にハジエルの言葉が神からだとわかったのです。もし吟味を間違って現実的な選択をしたら…それはまったくお話にならない悲惨な結果になっていたでしょう。神を信じていても、実際に神と交わっていないなら、このような吟味は出来ません。この三つが今年度年間主題理解のポイントです。

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

2019年7月14日 (日)

どちらが易しいか

マタイ9章5節   
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。   【新改訳2017】 

イエスは天井から吊降ろされた中風の病人に「あなたの罪は赦された」と言われました。この時、ペテロの家にはイスラエル中の律法学者が詰めかけてすし詰め状態でした。

 このような国中の律法学者が集まった中で、教え癒やすのは、前職が教師でしたので、これは授業参観よりもはるかにきつい、多くの同業の教師の前でする研究授業に似ています。違ったとすれば彼らからすれば、イエス様を当時の高弟ヒレル門下でも何でもないただの田舎出なのに、おどろくべき不思議を行って大衆の人気を取っている、もしかしてメシアかも知れないが胡散臭い人物・・・・そんな警戒心やある意味、「この目で真贋を確かめてやろう」的な興味があったことでしょう。

 その中でイエス様は堂々と教え、聖霊によって病いを癒やしておられました。そんな時、突然天井に穴があき、光が射し込み、中風の患者が降ろされたのですから、きっと律法学者たちはみなびっくりしたはずです。今風に言えば「ここまでするかぁ。で、イエスとやらはどうするんだ」という感じでしょうか。
 
 さてそこで、誰もが次のシーンとして想像するのは<癒やし>ではないでしょうか。ところがそうではなく、「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言でした。律法的には「罪を赦す」ことは神にしかできないことであって、当然その場に居合わせた律法学者たちは、「冒涜」と感じたことでしょう。これは律法的には正しい判断です。ただし、イエスが神かさもなくば、本物のメシアであれば別です。このような状況を考えれば、イエス様は、「自分がメシアであり、神であることを明らかに宣言する」意図的な対応だったと言えます。

 寝たきりで吊り下ろされた人に、イエス様はなぜ癒やすのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは罪の赦しが根源的なものであり、癒やしに優るものだったからです。どんなに癒されても、もし罪が赦されていなかったらゲヘナに落ちるのです。
 また罪が赦されれば、必ず中風にも肉体上の癒やしが現されて行くことでしょう。しかしそれはある意味、二次的なことです。ですがパリサイ人律法学者たちに(彼らの目を醒ますために)、イエス様の神性を証明する即効の癒やしをされたのです。

 これがこの記事の概要です。以後、当然ながら国の宗教的指導者たちは、イエス様を殺そうと対決姿勢を強めることになり、イエス様も後に残す弟子たちの訓練を本格的にされることになります。