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聖書

2019年7月21日 (日)

二つの宗教

マタイ15章8-9節    新改訳2017

『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』 

 ユダヤ教的な背景を見なければ分からないことが多くあります。これはその一例です。辺境の地ガリラヤでのイエスの驚くべき奇跡と癒やし、その宣教活動に対し、国中の律法学者、パリサイ人がイエスの元に集まって、メシアかどうかの吟味をしていました。中風患者の罪の赦しと癒やしは、まさにその時、彼らの目の前で行われたことでした。

 次の段階としてパリサイ人らによる審問の段階があり、その代表例が手を洗わない理由でした。「パン(食事)を食べる前に手を洗わない」ことは、現代の私たちにとって衛生上の習慣に過ぎませんが、当時のパリサイ人にとっては、信仰者であるか否かの問題でした。
 どうしてでしょうか。旧約聖書には「食前に手を洗う」明確な規定はないのですが、体液の漏出などを「汚れ」(レビ13章)とする概念があり、それは「伝染」するとされていました。また食べ物に関しても規定があり、常に祭司によって「清められる」ことが必要でした。そのため聖書にはなくても、事細かに「汚れ」を防ぐための規定集、口伝律法が作られてきました。そして実際的には聖書よりもそれを具体化した口伝律法の方を守ることが優先されるようになり、義とされ、天国への保証と化していました。つまり外面的な形式を守ることが信仰そのものでした。「手洗い」はその最たるものだったのです。

 この質問に対し、イエス様はその偽善の核心を突いた返答をされたました。それが十戒の「父と母を敬え」をないがしろにする彼らの口伝律法でした。この重要な戒めを、パリサイ人たちは、一度神に献げると誓ったものは、親の扶養のために渡さなくてもよいという抜け道を作っただけでなく、後に子が悔い改めて親に報いようとしても、律法(民30:2)を盾にこれを許さなかったのでした。これは巧妙な十戒違反だったのです。

 7節の「偽善者たちよ」とのイエスの言葉には、こうした背景があったのです。パリサイ人たちは「父と母を敬え」の神の御心を無にし、単に「汚れ」とそれに伴っての形式的な宗教に堕落し、自分たちに利のあるように律法を利変えて作り変えていました。これに対しイエス様は手を洗うかどうかの問題ではなく(20節)、神の御心を行うことが義とされることだ断じられたのです。

 この外面的、形式的な宗教観と、内面的な霊性を重視する宗教観とでは、根本的な違いと対立があって、全く相容れない存在です。私たちの中にも、外面的な宗教は日本の新党のお祓いなどと同一のもので、パリサイ人のパン種として、現代の私たち自身にも混じっていないか注意する必要があります。「十字架のネックレスをつけないと落ち着かない」とか、どうしてもゆるせない人が居るとか…etc。常に聖霊に祈り聞き従い、御霊によって歩み続けることだけが、主に喜ばれる道です。

2019年7月14日 (日)

どちらが易しいか

マタイ9章5節   
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。   【新改訳2017】 

イエスは天井から吊降ろされた中風の病人に「あなたの罪は赦された」と言われました。この時、ペテロの家にはイスラエル中の律法学者が詰めかけてすし詰め状態でした。

 このような国中の律法学者が集まった中で、教え癒やすのは、前職が教師でしたので、これは授業参観よりもはるかにきつい、多くの同業の教師の前でする研究授業に似ています。違ったとすれば彼らからすれば、イエス様を当時の高弟ヒレル門下でも何でもないただの田舎出なのに、おどろくべき不思議を行って大衆の人気を取っている、もしかしてメシアかも知れないが胡散臭い人物・・・・そんな警戒心やある意味、「この目で真贋を確かめてやろう」的な興味があったことでしょう。

 その中でイエス様は堂々と教え、聖霊によって病いを癒やしておられました。そんな時、突然天井に穴があき、光が射し込み、中風の患者が降ろされたのですから、きっと律法学者たちはみなびっくりしたはずです。今風に言えば「ここまでするかぁ。で、イエスとやらはどうするんだ」という感じでしょうか。
 
 さてそこで、誰もが次のシーンとして想像するのは<癒やし>ではないでしょうか。ところがそうではなく、「あなたの罪は赦された」というイエス様の宣言でした。律法的には「罪を赦す」ことは神にしかできないことであって、当然その場に居合わせた律法学者たちは、「冒涜」と感じたことでしょう。これは律法的には正しい判断です。ただし、イエスが神かさもなくば、本物のメシアであれば別です。このような状況を考えれば、イエス様は、「自分がメシアであり、神であることを明らかに宣言する」意図的な対応だったと言えます。

 寝たきりで吊り下ろされた人に、イエス様はなぜ癒やすのではなく、「罪の赦し」を宣言されたのでしょうか。それは罪の赦しが根源的なものであり、癒やしに優るものだったからです。どんなに癒されても、もし罪が赦されていなかったらゲヘナに落ちるのです。
 また罪が赦されれば、必ず中風にも肉体上の癒やしが現されて行くことでしょう。しかしそれはある意味、二次的なことです。ですがパリサイ人律法学者たちに(彼らの目を醒ますために)、イエス様の神性を証明する即効の癒やしをされたのです。

 これがこの記事の概要です。以後、当然ながら国の宗教的指導者たちは、イエス様を殺そうと対決姿勢を強めることになり、イエス様も後に残す弟子たちの訓練を本格的にされることになります。

2019年6月30日 (日)

聖書と信仰

Ⅱペテロ 1章20~21節
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。                       預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
   【新改訳2017】
私たちの群れは、キャンプやネットを介し、横の連携は非常に進んでいます。ただ縦糸に横糸が織られて布ができるように、縦糸も大切です。私たちの歴史は1984年4月前後からよく語られていますが、さかのぼって私たちの教会が使徒の時代から今に至る、聖書に最も忠実な教会であることを確認しましょう。

キリスト教会の歴史は使徒の時代以降、大きく四つの時代に分かれます。どの時代でも霊的な教会から始まり、聖霊を失ってすたれ、また聖霊の新たな流れが起きる繰り返しです。

まず、初代教会は私たちとまったく同じような聖霊のバプテスマや異言などの聖霊の賜物を用いる教会でした(使徒8:14-17,19:1-7)。ところがローマ帝国の公認となり、国教となって<1>カトリックと正教という千年にわたる東西教会時代、ひどく形骸化が進みました。そのため、聖書の姿に帰ろうと16世紀に<2>プロテスタントが誕生したのです。そのプロテスタントも当初の聖書中心から逸脱し、次第に進化論を受容し聖書を人間的な理解で解釈する教会が増えてきました。そこで「聖書は神の霊感によって書かれ、誤りのない神のことばである」とする<3>福音派が分かれ出て、原典に忠実な新改訳聖書までできました。私たちのP牧師はこの福音派で信仰を持たれたのです。

しかしこの福音派も聖霊の働きに関しては不十分でした。聖霊の賜物などは「すたれた」と主張しますが、その根拠とする1コリント13:8以降の「すたれ」は、「完全なもの」「顔と顔を合わせて見る」とあるキリストの再臨のことを指しているからです。つまり聖霊のバプテスマや、聖霊の賜物は今もあるとしているカリスマ派の教会が初代教会に最も近いのです。
この流れは1906年、ロスのウィリアム・J・シーモア牧師によってはじまったリバイバル運動が起源であり、K・クールマンへ、さらに日本の新井牧師に、最終的にはその副牧師であったP牧師の1984年へとつながって今日があるのです。

教会の歴史を見ますと、教会が成長し、成熟すると聖霊が失われて形骸化し、それがまた新しくされるというサイクルがありました。今私たちはその最終ランナーとして召されています。この重大な責務を今自覚しなければなりません。また神は必ず私たちを通してみ心のリバイバルを起こされることでしょう。ですから私たちはいっそう聞き従いを強め、用いられるよう祈って行かなければならないと示されるのです。

2019年6月16日 (日)

御座のまわり

黙示録 4章3節   新改訳2017

その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。

 私たちクリスチャンの行き先について、黙示録ほど述べている聖書箇所はありません。しかしそれでも解釈に混乱があり、おどろおどろしい話、おとぎ話、黙示文学として見られて来ました。黙示録の正しい理解には時が必要で、今、その扉が開かれて来ました。

ヒロシマ・ナガサキへの原爆、1948年イスラエルの復興、EUの国家的な成長形成、最近ではロシアとイランの歴史的な関係進展など、現在は黙示録が現実化し、具体的に読み取れるようになりました。この書はまさに現代に生きる私たちのための啓示の書なのです。

さて黙示録では神の国の全体的な様子は21章の後半に記されており、この4章ではその中心部、主に御座のまわりのことが述べられています。御座は都の中心にあり、御座からの光で世界は光で覆われ闇がありません。都自体が神殿と化しているのでしょう。4章で描かれた情景で私が感じるのは、光の世界であり、中でも御座の周りがエメラルド色の虹で光り、御座の神ご自身も変化する光の中におられることです。全体がガラスのようなこの御座と都では、御座と横にキリストの座があり、聖霊なる神が七つのともしびとして輝いています。そのような光景を目の当たりにして、畏れと同時に感激し、狂喜しないクリスチャンがいるでしょうか。私は卒倒するほどになると思います。

この聖所に24人の長老と、四つの生き物とが登場します。12はイスラエルの全部族んも数ですが、今のイスラエルには北の十部族がいません。ですからこれにはいろんな解釈が可能ですが、12使徒の信仰に基づく新しい契約の全クリスチャンを指すと思われます。
四つの生き物に関してはもう少し明確です。エゼキエルにも現れたこの動物は神の全知をあらわす存在で、地の四方、つまりすべてを知り伝える大天使でしょう。現在はグーグルで地球の隅々まで見ることができます。がしかしこの四つの生き物はそんなレベルをはるかに超えた驚くべき天的な御使いであって、地球上の数十億の人々の髪の毛の数から心の隅々までを知り、その情報を神に伝え、異なる顔が示すように互いに完する情報のセンターではないかと思わされます。この推測ももちろん確証はありません。一切は実際に天に行ってわかることでしょう。それが私の楽しみでもあります。

私たちは血肉の死を怖れません。なぜなら血肉のからだがなく、御霊のからだで天の御国がわかるからです。その天において神と見え、本当の使命と喜びが始まります。その必要最低限なことを、この黙示録4章が教えてくれています。神に期待し、神に感謝します。

2019年4月 7日 (日)

隔ての壁

エペソ 2章14節   【新改訳2017】
実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し

 クリスチャンの中にはパウロのガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただキリストを信じることによって義と認められる という信仰義認の原則をもって、ヤコブ書2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない を律法主義と断罪するケースがあります。ルターもヤコブ書を「藁の書」と呼んでいた時期がありました。しかしこれをもって、ヤコブが律法主義だと断じるのは少々行き過ぎです。ヤコブが律法主義的な傾向を持っていたことは否定できませんが、この書では律法主義者としてではなく、真に信仰による義を受けているなら、実としての行いが伴うはずだと信仰生活について言っているのです。パウロが信仰の根本を強調したとすれば、ヤコブはその後、信仰の結果を強調して言っているわけです。

 さて本日の聖書箇所で「隔ての壁」とあります。これが二つものを隔離し、どちらかに敵意があったようです。これは実際にエルサレム神殿に存在したもので、当時の第二神殿の丘にはまず異邦人の庭があり、そこで犠牲の動物や両替商が商いをしていました。丘の中央部に神殿があり、割礼を受けたユダヤ人だけが入れるよう建物の周囲を壁で仕切っていました。それが隔ての壁で、壁には「異邦人が壁の中に入ると殺される」と書いてあったようです。
 これは言うまでもなく教会内にある、メシアニックのユダヤ人と異邦人クリスチャンの間にある壁のことを指し、十字架がそのわだかまりのすべてを解消させて教会の一致が成るように説いたものです。そのカギは御霊による一致です。御霊は複数ありませんし、御霊に従って歩むなら、分裂分派などは起こりようがないのです。主は一つ、御霊も一つなのですから。私たち現在の教会内でもアーメンでしょうか。

2019年3月31日 (日)

私は死んでキリストが生きる

ガラテヤ 2章 19-20節     新改訳2017】
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

まだはっきりと信仰を持っていない方から、質問を受けました。
求めなさい、そうすれば与えられます (マタイ7:7)と言われ祈り求めようとしたら、聞き従いなさい (1サム15:22)とも言われる。それなら自分は求めるべきなのか、従うべきなのか、いったいどちらが正しいのかわからない?と。
確かにこれは一見矛盾しているように感じられるでしょう。しかし全く矛盾していないのです。「求めなさい」に重要な言葉が省かれているからです。それは「みこころを求め、それを求めるなら」と言うことです。それを裏付けるみ言葉が以下です。

まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます(マタ6:33)とあります。
私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます(ヨハネ9:31)

同じように、本日の聖書箇所も一見すると矛盾しているように見えます。これは「私が弱いときにこそ、私は強い」(2コリ12:10)もそうですが、まず「私が死ぬ」ことが理解できない、あるいは理解できても到底不可能と思われますので、余計にそうどうしていいのか、と感じるようです。しかしこれは罪の問題です。自分の罪が深くわかれば、私たちは自分の罪深さに絶望するしかありません。とても天国に行けるような存在ではないと。その時、私たちに十字架の恵みが染み通って来ます。こんな罪人のために、尊い神ご自身が身代わりになってあがなってくださったことが。自分への望みを失っても、人間はそれでもなかなか自分に死ねる者ではりませんが、神に心から求め続けていくならば、それは御心ですから、神が試練や困難を通して導いて下さいます。人にはできないが、神に不可能はないのです。

その時、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな身を結びます(ヨハネ12:24)の真実さを知ることになります。

2019年1月13日 (日)

7つの「I am 」

ヨハネ 10章11節      新改訳2017

わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 

 「神さまって、よくわからない」、そういうお方がPhoto_2結構居られます。仏像とかのような偶像が神さまにはないので、そう思われるのかも知れません。しかしヨハネ伝には、それまでの喩えではなく、イエス様が「わたしは○○・・・こういうものである」とわかりやすい七つのステートメント(声明)をしてくださっています。イエス様は「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハ14:9)と仰っていますので、この七つのステートメンで神さまを理解するのは大変な近道ではないかと思われます。

※七つの「I Am」の表を呈示

 今日はその中でも、四番目「わたしは良い牧者です」に着目してみます。七つの中で唯一人間に喩えてありますし、具体的でわかりやすいのです。ただし、私たち日本人は身近には羊に詳しくありません。それでイマイチ、聖書によく喩えられている羊と羊飼いの関係がわかりません。

 イスラエルの荒野には、狼の群れや時にはピューマが跋扈しており、羊は常に狙われています。そのような猛獣に羊飼いは立ち向かって、自分の守らなければならないはずですが、雇われ羊飼いは自分の命を惜しんですぐ逃げるそうでJesus_seveni_amす。

しかし自分の羊を飼っている本当の羊飼いは、自分の羊を守るためには決して見捨てず、命を賭けて狼たちと戦い、護りきろうとします。

 この羊たちとは神を信じた私たちのことであり、命をかけて私たちを守ってくれる良い羊飼いとは、イエス・キリストのことです。そのためにまず十字架に架かって死に、私たちの罪を贖ってくださいました。またキリストが復活することによって、信じる者には罪に対する勝利、永遠のいのちが与えられました。自分の羊は、決して見捨てられることがありません。そのことは、たとえ道に迷い、はぐれた哀れな1匹の小羊となっても、です。ですから神を信じる羊である私たちには平安があります。

神さまとはそのような方なのです。 

2018年12月 2日 (日)

処女降誕

ルカ 1章35-45節      【新改訳2017】

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」  
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。


 キリスト教の土台は聖書です。しかし多くの人が初めにつまずくのは、処女マリアが懐妊し、子どもを生むことです。
 このような到底信じがたい奇跡でなぜ福音書は始まるのでしょうか? しかしこれこそが必ず起きなければならない事でした。キリストが三位一体の神であるならば、聖であり罪なき存在です。もしキリストが普通に男女の両親から生まれたならば、どんなに立派な人物であったとしてもアダムの原罪を免れず、その罪ある者が全人類の罪の身代わりにはなれません。聖である神ご自身が受肉して来られた、それがキリストの処女降誕です。
 ほとんどの異端は、キリストの神性を否定し人間だとします。しかし三位一体を信じる者にとって、処女降誕は神ならばおできになると堅く信じることができます。

次に聖書からこの事実を学びます。第一に、イエスの出生にまつわる出来事は、キリスト教のもっとも初期から信じられてきたことです。ルカ福音書にはその著者ルカが、母マリヤから直接聞いたのだろうと思われる記事で溢れています。エリサベツとその胎内にいたヨセフのこと、マリア賛歌、また<シメオンは・・・・母マリアに言った>とか、イエス12歳の時<母は言った「どうしてこんなことをした・・・・」>2章51節<母は・・・・心に留めおいた>などの記述からです。
 さらに、十字架にマリアが立ち会っていることや、弟にあたるヤコブやシモンが聖書の書簡を書くほどになっています。またマルコ6章3節にイエスが<マリアの子で>とあるのも、周囲の人々の中には、イエスを私生児視していた人がいた証拠になります。

 私生児ということが出てきたので関連しますが、ユダヤ教のタルムードではマリアは淫婦だったので私生児イエスを生んだとしています。もしそうならば、婚約者ヨセフは決して結婚しなかったでしょうし、イエスに続く6人の兄弟もなかったことでしょう。さらにまた12歳になって、多くの連れの一員としてイエスが都詣ですることもなかったはずです。

 最後にイザヤ7章14で聖書が処女降誕を預言していました。ですからこれは預言の成就でした。また出生地もミカ5章2-5節にあり、神は時のローマ皇帝すら用いて、160キロも離れていたナザレから移動させ、ベツレヘムで生まれるという預言を成就されました。

 これらのことをまとめるなら、ルカ1章37節の「神にとって不可能なことはありません」という天使の言葉を信じるのが、神を信じる者としての唯一の妥当な結論になります。これを信じない者は、自分の考え、判断を聖書より優先しており、不信仰に該当します。

2018年11月 4日 (日)

2019年度のみ言葉

マタイ 13章23節     【新改訳2017】

ガリラヤ湖新年礼拝パウロ秋元牧師メッセージ

 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

 皆さんは良い地なので、神を信じ、永遠のいのちを与えられる恵みにあずかりました。ここで「悟る」とは理解するということで、良い地とは心から神を信じるクリスチャンのことで、福音を聞いて理解し、悟って信じた人のことです。そのような人は神の子であり、100倍、60倍、30倍の実を結びのです。2019_2

 一つここで気になる言葉として、「本当に」とあるのは、それが当座は疑わしく思えるものだからです。しかし神から与えられたみ言葉や使命を、人間的な思いを遠ざけ、何があっても握り続けて手放さない限り、それらは成就するものなのです。疑わしく思える、それを「本当に」と言い表しているわけです。

確かに、神が語られたり、示された言葉を見る時、自分の能力や状態を見て、「あり得ないことだ」とか「そんなことが成就するのだろうか」と不信仰に陥ってしまう人がいることでしょう。確かにこの世の目で見、基準で見たならば、自分には不可能なことでしょうし、希望を持つのは愚かなことなのかも知れません。しかし、神の目は全く異なります。

主が見られるのは、神の言葉に忠実に立ち、悟り、対応しようと心に定めているかどうか、その信仰を見られるのです。その人の信仰を見る時、将来性が神のみ心の通りに広大なものとなります。そして神の偉大な力と言うものは、その人を通して現されて行きます。そのことはアブラハム、モーセ、ダビデと聖書がはっきり証ししていることなのです。神は神ご自身が地上に出て働かれるのではなく、皆さんお一人お一人を通して神は働かれるのです。

ですから神を信じ、聞き従いをさらに強めて行きましょう。自分に与えられた使命を全うできるように祈り続けましょう。それが神から来たものである限り、実となって必ず成就するのです。時が近づいています。皆さんは、これから大きく用いられ、100倍、60倍、30倍となって大きな実となって、祝福されるのです。

2018年9月30日 (日)

来てください

黙示録 22章17節     【新改訳2017】
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちは神の子どもだ。だから神の護りがある。患難時代の後半は携挙によって守られるが、前半も私たちはあらかじめ、何が起こっていくかということを知らされるので、守られて行く。
そのことを例えれば、地震や津波にいきなり遭遇するのと、そのことをあらかじめ知っていて対応するのと同じぐらい、決定的な違いがある。聖書を信じるならば、次の三つの地震を知ることで、患難時代に目を醒まして備えることができる。

1回目の地震は封印の六つ目が開いた時。ヨエルの預言が成就するので、ここから後の雨、終末の大リバイバルが始まるかも知れない。

2回目が第六のラッパが吹かれた時。この時の地震はエルサレムなので、「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、イスラエルに大規模なメシアニック化が起こるのかも知れない。仕上げのように、携挙がすぐ後の第七のラッパと共に起こるので、
私たちはこれ以降を天から見ることになる。
3earthquake_8
3回目の地震はその後、第七の鉢が地にぶちまけられてからで、再臨があり、イスラエルを中心に、地球の様子がすっかり変わってしまうほどの地震が起こる。これを機に千年王国が始まり、ゼカリヤ14:16にある「諸国の民が礼拝をしに上ってくる」ようになる