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聖書

2018年2月11日 (日)

十字架を背負わされた男

マルコ 15章21節
そこへ、アレクサンドルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 皆さんの中には、自分が「もっとお金があったら」「この病がなかったら」などと思っておられる方はいませんか。今現在、大きな試練や困難に遭っている方もいらっしゃることでしょう。今日はそのような受け止め方はクリスチャンとしては間違っていること、そして神の祝福を十分に受けるにはどうしたらよいかを知っていただきたいと思います。
 
 つまりマイナスと思えるすべてには神の祝福の計画があり、それが自分の人間的な願いと異なっているので、結果として祝福を受け取れないことが最大の問題なのです。
 
 北アフリカのクレネから、はるばるエルサレムでの過越の祭を守りに来ていたシモンに、この典型例を見ることが出来ます。祭りの直前、街を歩いていたシモンは、ローマ兵を先頭にした何やら怖そうな一団に出くわしました。何だろうと見物の最前列に出てみると、十字架を担いでいた男が自分の目の前でよろよろと倒れてしまいました。するとローマ兵が自分を指して、代わりに「十字架を担げ」と理不尽にも言うのです。何の関わりもない自分が、どうして血でそまった重い十字架を担がなければならないのでしょうか。しかし逆らうことができない時代です。こうして不運にも十字架を担ぐことになったシモンでしたが、これがシモンへの人生を一変させ、大きな祝福を受けるできごとになりました。
 
 このクレネ人シモンの出来事は、共感福音書すべて載っていますが、マルコの福音書だけが「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」と簡単に付け加えています。つまり二人の息子は、わざわざ断る必要がないほど、当時の各教会に知られた人物になっていました。どういうわけで知られたのでしょうか。次のような経緯が容易に推察されるのです。
 
 前夜、ゲッセマネの園で祭司長たちによってイエス様が捕縛された時、弟子たちはみな主を見捨てて逃げ去ってしまいます。処刑の現場では婦人たちは遠くで見守っていましたが、イエス様の息づかいまで聞こえるほどの距離に居て、その最後をつぶさに見届ける証人となったのは、このシモンだけだったと想像されます(ヨハネ伝によれば、「愛する弟子」が居たとされています)。なんと十字架上のイエスの七つの言葉を直接聞いた証人として、このシモンが用いられたと推察されるのです。
 
 二人の息子は、父から聞いたイエスの最後の様子を、全世界への証人として語り継いだのでしょう。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません(ルカ14:27)」というイエスの言葉を、シモンは文字通り行った者となったのです。「理不尽」だと感じた不運には、素晴らしい祝福が用意されていました。

2018年2月 4日 (日)

クリスチャンの裁き

コリント 3章16節
 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 クリスチャンであっても、罪は犯しますので世の人と変わらないのですが、そのことを常に悔い改め、罪赦された罪人である点が大きな違いです。ただし罪を犯し続けることは神のみ心ではありませんから、神の恵みによって結果として罪から遠ざかることになります。大事なことは、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに十字架に架かってくださった事、それによって罪が赦され、全く無かった者として天国に入れると聖書にある(ローマ10:11-13)ので、これをしっかりと信じることがポイントになります。
 
  ところがクリスチャンにもあたかも「裁き」があるかのように書かれています(1コリ3:12-16)。ここで「(人の)建てた建物」とあり、これはクリスチャンが天の都へと期待して地上で積んだ「天の宝」を指していると思われます。11節によるとこれは神の土地、畑(土地の所有は神)に、イエス・キリストが土台なので、その人自身は必ず住めるのです。ただし、どんな家に住むのかは地上での宝の積み具合によるようです。
 
 各自が地上で不燃性の金、銀、宝石で宝を積むならば、天に行く時、それは燃えずに持って行けます。しかし人が地上で金、銀、宝石だと思っていても、天国には天国の基準があって、そのチェックが「火の中をくぐる」と言われているのです。ですからこれは例えて言えば、飛行機内への持ち込み荷物検査のようなものだと言えましょう。座れる席は確かに在って乗れるのですが、携行する荷物が判定され(裁かれ)るのです。
 
 ここで問題になるのは、何が燃えて何が燃えないものかということです。私の見方では、それは <御心を行ったかどうか> だと思われます。神のみ心は聖書に余すところなく書かれてあります。
「まず神の国と神の義とを求めなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。「あなた方は互いに愛し合いなさい」。「自分を捨て、自分の十字を負って神に従いなさい」・・・・などなど。
 
 これが実際には私たちの弱さがあって難しいわけですが、そのためにも十字架で死んでくださったのです。イエスキリストの死と復活の力により、聖霊が私たちに与えられました。私たちは弱く、不可能と思えることでも、神によって私たちは何でも出来るのです。

2018年1月14日 (日)

神の働きと恵みを見る時代

ヨハネ 5章4節
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 三日前の木曜日のケパドルブログ、「僕の体は洋服のようなものだから」でお伝えしましたが、八歳の子どもでも自分の体は一時のもので、この体を脱ぎ捨てて着る新しい永遠の体があることを知っています。そして今聖書の通読箇所が黙示録の6章、ちょうど患難時代の幕開け、イエス・キリストによって1から6までの封印が開かれた所です。
使徒で真っ先に殉教した兄のヤコブに対し、イエス様に愛された弟のヨハネは使徒最後の殉教者になりました。ヨハネは小アジアの監督であるとともに、未来を描く黙示録の著者になりました。
「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われて書いたこの黙示録、二千年の時を超えて、いよいよその時代が現実のものとして迫ってきたようです。イスラエルの復興がなり、何のことか分からなかったローマの復興が形を整えてきました。ロシアも中東に進出しています。これまで難解過ぎ、単なる形而上的なもの、暗喩的なものとされて来た黙示録が、これほど明らかに見えてきた時代はないのです。
 
 黙示録にある患難時代というものは、「定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる(ダニエル9:27)」という、サタンに属するものへの審きの時です。天変地異、戦争や飢饉が全世界を覆い、75億いる人類が前半の3、5年だけで1/4(残75%)と1/3(残50%)=半分も死ぬことになるという、超すさまじい時代となります。しかし空中再臨までの前半の時代は、患難とともに世界中での大リバイバルの時代となり、逆に神の力と誉れ、栄光が豊かに現され、霊とたましいの大収穫の素晴らしい時代となります。人は苦しみにあわないと神を求めないのは、変わらない真実です。この時、私たちクリスチャンは最高に用いられ、証しする機会となります。
 
また、空中携挙は「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、次に来るサタンが支配する後半の大患難時代から私たちが守られる意味もあります。ですから患難時代というものは、世の人々にとっては最悪、しかし私たちクリスチャンにとっては、代々のクリスチャンが待ち続けた<すばらしい時代>です。また怖れることはありません。「地上Photo_3に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、私たちは来るサタンの後半時代から守られますし、「あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません(1コリ10:13)」と約束してくださっています。神の言葉を信じましょう。
 
本日は聖書に即して書かれた「せかいのおわり」の巻末にある、三枚の図表を元にこの時代に起こることを学ンで参ります。   
・・・・・・以下は図表の講解・・・・・・
 ポイントを申し上げましょう、まず神を愛し、天国に期待しましょう。神がまず私たちを愛してくださったからです。次に携挙の三条件ができるようしっかりと祈って求めて行きましょう。これはみ心ですから、祈れば必ず与えられるのです。

2018年1月 1日 (月)

私たちの行き先

マタイ 11章12節  (1月1日特別礼拝)
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
私たちの年度はすでに三ヶ月目に入っていますが、暦の上では今日からです。そこでもう一度振り返って、前進をし続けたいと思います。

 アンテオケ教会の動画「クリスチャンのキーポイント」での最近作、「天国と地獄」がありました。これは過去から将来のへ私たちの行き先を表した、非常に重要なものでした。

当然ながら、これはすべて聖書を根拠とした、ほぼ確実なものです。 ところが他の教団、教派では不思議なことにこれまで多く触れられていません。その理由については長い間その中にいた者として、見当がつきます。これは実に残念であり、気の毒であるとすら思います。そしてこの群れに導かれた恵みを実感します。Photo_3
さて本題に戻りますと、図での「アブラハムのふところ」から新しいエルサレムに引き上げられる所に、少しだけ時間差があるように見えます。その理由に当たるのが本日の聖書箇所です。今から二千年前、イエス・キリストが来られて、いよいよ天国(新しいエルサレム)が近づいて来ました。これを待ち望んでいた人々は先を争ってこの天国に入ろうしました。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と刺激的な表現で述べているのです。

天国が攻められ、奪われそうになって危うい」という解釈は笑い話ですが、確かに飼い主たるイエス様が来られたことで、囲われていた羊の群れが朝焼けの門の出口に殺到し、朝一の草を先を争ってせめぎ合っているとの情景描写は、素晴らしい表現であったと思います。イエス様が十字架に架かり、復活された瞬間、新しいエルサレム、つまり天国が完成しました。少し時間差がある理由は、イエス様が黄泉に下られ、復活されるまでの三日間のことでしょう。お間違えのないように、天国は今はまだ見えないかも知れませんが、今の血肉ではなく、御霊のからだ、実際の体がある所なのです。
さて、十字架によって贖いが成し遂げられて以降、クリスチャンには天国へ三回のチャンスがあります。一つは患難時代の真ん中に起こる空中携挙です。まず最初に先に死んだ人たちが、次に生きながら私たちが御霊のからだに変えられて行きます。これは第七のラッパが鳴った瞬間に起こります。次に携挙に取り残されたクリスチャンは、引き続いて起こる後半の大患難時代にほとんど人が殉教します。七年にわたる患難時代は再臨のキリストで終わりになります。オリーブ山に再臨されたキリストが、エルサレムを取り囲んだすべての敵の軍を討ち滅ぼし、黄金門を通ってエルサレムに入城されることを地上再臨と言います。その時、最後に収穫という形でクリスチャンが二度目の天国入りをします。

私たちが直接関係するのは、キリストの地上再臨までですので、以後の千年王国や最後の審判、いのちの書の内容はメッセージではしましたが、この要約では割愛します。
いずれにしても、大切なのは天国への渇望であり、その信仰です。「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」とは、まさに信仰の現れです。私たちの群れでは携挙の三条件とも言いますが、畢竟それは「表裏ない忠実」さとか「聞き従い」という信仰が土台です。皆さん、天国へご一緒に参りましょう。私たちは地上では寄留者であり旅人です。最終的な目的地、天への道を共に励まし合い、支え合って参りましょう。

2017年11月19日 (日)

信ずべき書である理由

マルコ  11章22節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

信仰とは「御言葉を信じる」ことであり、聖書を神の言葉として信じ受け入れることです。神からの預言も、聖書によって吟味されなければなりませんので、聖書が神の言葉の中心です。クリスチャンの中に、聖書がよくわからない、あまり親しみを感じないという方がおられますが、それは祈り求めてくださって、ぜひ御言葉を心の支え、生活における日々の羅針盤として大好きになっていただきたいと思います。
 
 一つだけあえて言えば、聖書は神の言葉です。ですからただの書物ではありません。自分の理解力に頼らず、神に対し「聞く」という態度で接し、祈りと聖霊の手ほどきを求めて読んでいただければと思います。

 ルカ16章に金持ちと貧しかったラザロの話があります。そこでは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)とあるように、たとえどのような奇蹟やわざを見せられても、聖書を信じずして神を信じることはできないのです。信仰の前に、まず「聖書ありき」なのです。
 私が大学を卒業し、燃えるクリスチャンとして広島に帰った時の話です。広島という地域の大きな教会でしたが、その信仰はどうみても退廃していると思える教会がありました。私は不遜にも、教会内リバイバルを興そうとそこに飛び込んだ経験があります。しかし私はいくつかの難題を突きつけられることになりました。その最大のものは、聖書に対する人間中心で理解する態度でした。彼らは非常に論理的な命題を突きつけ、聖書の問題点、誤りとしか思えない所を指摘してきました。人間に過ぎない者が、神の言葉と思えるものを選び取捨選択していたのです。
 
 当時の記憶が定かでないので、今となってはそれがどこだったのか思い出せませんが、本日はそのように見える三箇所を挙げたいと思います。
 まず第一に「数字が間違っている」所です。ステパノが殉教することになった議会での証言として、出エジプトでの人数が「75人」とあります。しかし創世記46章ではこれが66、70人と出てきます。聖書は間違っているのでしょうか?もちろん神の言葉である聖書は間違ってはいないのですが、その説明をいたしましょう。(文量の都合上、この後と、第二、第三の例は割愛する) こういうわけで私たちは思慮の足りない自分の知恵や理解力だけで、神の言葉である聖書を判断しないようにしましょう。
「聖書は誤りなき神の言葉」です。

2017年11月12日 (日)

受けたと信じる信仰とは

マルコ  11章22~24節
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 
 学生時代、私には全然違うタイプの二人の友人がいました。一人は秋田の出身、もう一人は私の隣県の出身で社交的で明るく、街で通りがかりの女性にも気軽に声をかけるような、私には真似のできない人付き合いの良さというか、とにかく気がいい友でした。
 それぞれいいところがあったのですが、こと、言葉の信用という面ではかなり違いがありました。一例ですが、駅で会う待ち合わせの時間を決めても、秋田の友は余裕をもって来てくれるのですが、もう一人の方はアバウトだったのです。「やあやあ、すまんすまん」と言いいながら現れることが多くありました。一事が万事そういう感じだったので、自然、言ったこと約束したことでも、一人は言葉通りにそのまま100%受け取り、もう一人の方はどこか話半分に聞いてしまう風になってしまいました。
 
 このように、信じるということは相手によります。神様に対してもまったく同じことが言えるのではないでしょうか。神様は全能なるお方ですから時々、現実とまったく異なったこと、人間の思いをはるかに超えたこと・・・・ご自分の計画を語られます。それは本来常識を越えたことですから、まったく疑わずに信じ切ることはかなり困難です。しかし、神様が語られたことばは「(必ずその通りになると)受けたと信じる」のは、神様と交わっていて知っているからなのです。この方は十字架をもって私を愛し、決して私を裏切らない、実に真実なお方であるかをよく知っているからです。つまり交わりが決め手なのです。
 
 神様を知り、交わる入り口は、基本聖書です。聖書はすべて神の言葉で記述されているAll in Oneの完璧な書であり、何よりもまず、信ずべき書です。
 イエス様のたとえ話の中で、実話だと思えるラザロと金持ちの話があります。金持ちが死んで、炎熱地獄の中でラザロと会い、アブラハムに「ラザロを自分の家族のところに送ってください、そうすれば家族は自分と同じところに来なくてすむでしょう」と懇願します。しかしアブラハムは「いや、たとえ蘇ったラザロを送ろうとも、聖書を信じない者には無駄だ」と言います。聖書を信じず、疑う者はどんな奇跡も信じないと言っています。
 
 神を信じ、正しく交わるには、聖書が唯一のドアです。神がイエス・キリストの十字架によって私たちの罪を赦し、罪なき者とされた私たちに聖霊を与えてくださること、その聖霊なる神との個人的な交わりを通し、私たちは神様に自分を明け渡し、心から聞き従いたいという願いや絶対的な信頼、つまり受けたと信じる信仰が与えられ育つのです。

2017年6月11日 (日)

前兆

マタイ 24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 使徒時代から「すぐに来る」と言われた世の終わりは、すでに1900年以上経ってもまだ来ていません。しかし非常に近づいているとも感じさせられてもいます。聖書から終末を正しく学んで、いつ来ても良いように準備しましょう。
 
 聖書のどこを読めば良いのでしょうか。主として旧約のエゼキエル書、特にダニエル書です。新約ではマタイ24章と黙示録です。これらは互いに結びついて、全体としては一つの終末像が明らかにされています。
 まず、抑えておかなければならないことに、こと聖書の時間に関しては文字通りではありません。1日が1年(民数13:34)とされるなど、ちゃんと数字の計算は合っているのですが、時間設定に注意が要ります。
 
 さてダニエル書7章の夢は登場する四つの獣が、それぞれ以下のように対応されます。獅子=バビロン、くま=ペルシャ、ヒョウ=ギリシャ、鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣=ローマ帝国です。ここで重要なことは最後のローマ帝国です。このローマが未完の表現になっていることが要注意です。この間、イスラエルという国が最後の獣ローマによってAD70年に滅亡し、つい最近1948年に奇跡的な再建がなるまでの空白が反映されていると想像されます。つまりエゼキエルの預言通り、国の再興(イスラエル建国1948年)が成って、再びローマによって預言成就の針が回り始めるわけです。鉄のきばと十本の角を持った古代ローマの後釜が、終末の時代に登場するとすれば、それはほぼ同じ場所に現れたEUが該当します。
 
 こうして見てくると終末はダニエル7章から、現在27ヵ国のEUにおいて、うち十ヵ国がイニシアティブを取るようになり、その中から反キリスト(ダニエル9章)が登場すると読み取れます。この反キリストは自分の国だけでなく、他の三カ国まで取り込み、アメリカがどうがんばってもできなかった中東和平条約も締結させます。その結果、イスラエルはエレミヤ49章にある平和を享受することになりますが、これが世界の終わり、患難時代の幕開けとなります。
 こうしてみると、中東和平条約やエルサレムの神殿の丘に第3神殿ができる(黙示11:2)までは、患難時代は始まらないことになります。それまでは「戦争や戦争のうわさ」「国々の敵対」「方々にききんと地震が起こった」(マタイ24章)としても、あわてては行けません。それらは産みの苦しみなのです。
 
  私たちはこの聖書の預言に従って時を見分けるのです。しかし信仰の基本は不変です。聖霊のバプテスマを受け、神との深い交わりの中からみこころを求め、忠実に聞き従うこと。常に祈り、霊的な満たしをもってその時に備えることは、使徒時代から何一つ変わることはないのです。その上でたとえ患難時代に入ったとしても、「主よ、来たりませ」の希望とすべてのことへの感謝をもって時を待って行きたいと思います。

2017年3月12日 (日)

主の日、後の時代

Ⅰテモテ 4章1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
Ⅱテサロニケ 2章3節
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
先週の月曜日がⅡテサロニケ2章、昨日の土曜日はⅠテモテ4章であり、この両方とも終末に触れている箇所です。偶然はないと感じました。Ⅱテサ2章での「主の日」とは、キリストが地上再臨される時であり、Ⅰテモテ4章「後の時代」はその前に来る大患難とリバイバルの時代のことを指すからです。
 
 一昨年からこの群れでは「リバイバルが始まりました」と語られています。ただそれが本格的に「今日来るか、さては明日か」と待っている方がいらっしゃるとしたら、ちょっと気をつけましょう。聖書に立って時を調べてみれば、次のように述べてあるからです。
 
 まず第一に『背教』(Ⅱテサ2:3)が起こらなければなりません。背教とは聖霊の賜物を受け、不思議なわざを行っていたような器が神に背くことです。教会の指導的な立場の人たちが、神に背く存在となります。サタンが全天使の1/3を惑わして悪霊に堕としてしまったようなことが、終末の時代に起こる可能性があります。わざや奇蹟に目を奪われ、神からのものが見分けられない多くの信者が惑わされるのでしょう。
 
 次に世界の比類のないリーダーとして、反キリストが登場しなければなりません。彼は不法の人ですが、死んだように見えても生き返り、誰もが為し得なかった中東和平を成立させます。その結果神殿の丘に、全イスラエルの悲願であった第三神殿が再建されます。このことをⅡテサ2:4で「神の宮の中に座を設け」と予告しており、サタンがサタンとなったゆえんの、反キリストが自分を神とし、己への礼拝を強要する最大の罪を犯す事態が来なければなりません。人々は熱狂してこれを歓迎し、反キリストへの礼拝を拒むことは命懸けになるでしょう。
 
 第三にマタイ24章でも語られているような、月が血の色に変わるような天変地異、飢饉、パンデミックな疫病、戦争の噂などが起こって来るでしょう。これらの事柄が起こらなければ、後の時代も、主の日も来ないのです。また見せかけでも、熱心そうに断食したり、苦行を説く者にもだまされないようにしましょう。
 
 私たちは「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。誰にも、どのようにも、だまされないように(Ⅱテサ2:2)」いたしましょう。何が神から来たものかどうかが判断できるように、普段からしっかりと主と交わっておくことが大切です。まさに油を切らしてはいけないのです。ポイントは聖書と祈りです。聖書を読み込み、聖書が知識と信仰の土台となっていること、日々主の、み心を行いたいと祈り、感謝し、喜んでいるならば、どんな時が来ようと万全だと言えるでのす。

2016年8月 7日 (日)

悪魔に立ち向かえ

 ペテロ 5章7~9節
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
 孫子の兵法に、「敵を知り 己を知らば 百戦危うからず(彼を知り己を知れば百戦殆うからず)」という言葉があります。
そういう点から私たちクリスチャンの敵であるサタンについて、知るということは戦いに非常に重要です。サタンが狙う獲物の内でも、クリスチャンは最高に価値あるもので、それ故クリスチャンは絶えず狙われていると自覚すべきです。サタンの第一原則は、正体がバレないよう知られないようにし、宿り主を支配することです。第二にサタンは私たちの一番の弱点を察知し、魚釣りのように実にタイミングよく突いて攻めて来ます。第三にサタンの本性は偽りです。だましの名人とでも言うべきです。
 
 
今日の聖書箇所にあるように、神のみ心から離れて「思い煩い」をしたり、恐れや不安に陥ると、サタンの獲物になる条件を満たし、サタンの集中攻撃を浴びるはめになります。そのことを「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」(マタイ 13:12、25:29)とみ言葉が説明しているのです。その状態をはやく脱出しないと、持っているものまで無くなってしまうのです。
 
 
ではどうすれば良いか。この時神さまは「堅く信仰に立って、サタンに立ち向かう(1エペソ 5:9)」のです。ただし、自分の力で戦わないようにしてください。神にご自分の罪をあらいざらいすべて告白し、熱心に祈しを求め、赦されて、神の力「イエス・キリストの御名によって」と神の力で戦うようにしてください。私たちはサタンよりは弱い存在ですが、背後に神が共にいてくだされば、必ず勝利するのです。神は十字架ですでに勝利を取られているのです。
この戦いにおいて大事なのは、まず今の状態をありのまま正しく認識し、サタンに気づくこと。次に下記のような「み言葉」を掲げ、「祈り」で戦う決心をすることです。映画「祈りの力」をただ観て終わりにしてはいけません。ご自分に適用し、戦って勝利を取ってください。
 
○映画「祈りの力」の聖書箇所から:第二歴代  2:14、マタイ 6:14 、Ⅱテサロニケ 3:3、Ⅰヨハネ 1:9など
○私の推薦するあらゆることに適用できるみ言葉: 「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ 1:37)

2016年7月 3日 (日)

聖書の恵み

Ⅱペテロ 1章20~21節
 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
 1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
 
 昨今ダッカやイスタンブールなど、 ISのテロ攻撃が激しさを増しています。アルカイダや IS、これらイスラム過激派の自爆攻撃は数十年前に出た異教徒へのテロをジハード(聖戦)とする理論とそれを追認したファトワー(高位のイスラム法学者による勧告)が背景にあります。自爆したテロリストは天国で目が覚めると思っているようですが、どう見てもそこは地獄の業火のただ中でありましょう。ですから本当の犠牲者は彼ら実行犯かも知れません。そういう意味でテロに宗教的な解釈を施し、教えた指導者の罪とは、実に恐ろしいもがあります。この誤った教えを健全なイスラム自身の手で正すこと、それがイスラム過激派の問題を解決することになると私は思います。
 
 これが聖書を中心としたプロテスタントであったなら、聖書という絶対的な規範があります。神ご自身が書かれた聖書は難解かもしれませんが、曖昧さがありません。また聖書は自分の考え、私的な解釈を施してはなりません。その例をマタイ22章を見ていきましょう。イエス様に論争を挑んだパリサイ人が論破され、次はサドカイ人の挑戦です。復活を信じないサドカイ人にとって、もしかしてこの七人の兄弟と結婚した兄嫁のたとえ話は、パリサイ人を黙らせる決め手であったかも知れません。
 聖書は誤りなき神の言葉です。神であるイエス様はサドカイ人の誤りを「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだ」と一喝されました。復活の朽ちない体は、つまり御霊の体は滅びることがないので、男女である必要はなく、夫とか妻の考えが無用であると語られたのです。
 
 さらに「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ 22:32)と語られました。これは彼らが死んでいないと受け取る方もおられますが、そうではありません。神が死んだ者たちを復活させられて、彼らがまた生きるということを明言されたのです。「神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」とは、神に属する者については、今の体が滅ぶが、しかし彼らはもっと良い体で生きて復活すると言われたのです。これには次のみ言葉が当てはまることでしょう。
 
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、 死んでも 生きるのです。」(ヨハ 11:25)
 聖書は先に自分の考えがあって、それに当てはめるような私的な解釈をしてはなりません。分からない所は他の聖書箇所を参照したり、祈り、聖霊に導かれてください。それには時もかかるでしょう。しかし神は最善のタイミングで必ず答えてくださいます。なぜなら聖書を書かれた執筆者、神様にお聞きするのが確かな方法だからです。