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聖書

2023年11月19日 (日)

三日で建てられた神の宮殿

マルコ 14章58節   2017新改訳

「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました。」
 本日はエルサレム、特に神殿と聖墳墓教会について語らせていただきます。これらは全世界のクリスチャンにとって非常に聖なる所ですが、少々誤解も含まれているようなので、改めて説明をいたします。まずエルサレムは聖なる所です。そのことは✝歴代誌第二7章16、✝詩篇99篇1~5、そして✝ヨエル書3章17節にはっきりと書かれています。

 その足台となるエルサレム神殿がありますが、ここはアブラハムがその子イサクを捧げたモリヤの山、ダビデがアラウナの打ち場の傍で主の御使いに、罪と民の代わりに自分を罰するよう告白した所です。そこに主がガドを通し、祭壇を築きなさいと命じられたのです。イエス様もここを「父の家」と言われました。

 そのイエス様の使命は神殿を支配する者たちの手にかかって十字架に架かり、ご自身が贖罪の子羊となられることでした。なんと神ご自身が私たちの罪を背負ってくださったのです。その場所がほぼ間違いなく、聖墳墓教会です。この場所はA.D.300年ごろコンスタンチヌス帝の母ヘレナによって発見された所です。その後何度もイスラム勢力によって破壊され、再建されての歴史を経て今日に至っています。このような長い歴史の結果、現在はキリスト教6派の共同管理の下に運営され、世界中のクリスチャンの聖地となっています。

 歴史的な建造物ですから薄暗く、香料の匂いもあり、私達の群れには霊的に良くないと入らないという方がおられます。しかしこれは余りにももったいないことであって、ゴルゴタの丘、「エディクラ」と呼ばれるキリストの埋葬場所を同時に見学できる所は、この地球上で唯一、ここだけです。この二つの場所を見て回れるよう、巨大な建物で覆って当時の面影を完全に作り変えた面はありますが、救われるすべての魂にとっては、霊的に良くないの超反対の所です。

 ぜひエルサレムを訪問できる機会があれば、神殿の丘が難しくてもこの聖墳墓教会だけには入れます。ぜひ御わざの痕跡が残る現場で、改めて信仰を堅くする機会に恵まれますようお勧めします。

2023年10月 1日 (日)

神の言葉の力

使徒 12章24節   2017新改訳

主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。

 聖書に「神のことばはますます盛んになり、広まっていった。使徒の働き 12章24節」と、ありますが、その直前までは、エルサレムで誕生したばかりの教会は風前の灯火でした。パリサイ派やサンヒドリンの議会という、これまでにも対立していた勢力はもとより、ヘロデ・アグリッパ一世というその時代の王からも、迫害を受けることになったのです。

 この王はヨハネの兄のヤコブを殺しただけでなく、さらにペテロを捕らえてエルサレム教会を壊滅させようとしたのです。神の使いは使徒の代表ペテロは鎖に繋がれ、両脇にいた兵士だけでなく、二重の衛所と最後の鉄の門をも開かせて、ペテロを市中で解放しました。それは当時、異常な奇跡であったはずです。この後、これを企てたヘロデ王は、神に打たれて死にます。
 王という最大の迫害者が潰えたエルサレム教会は、「神のことばがますます盛んになり」とありますので、メシア預言の確かさ、十字架と復活の成就という、キリストの救いが人々に広まり、祭司まで加わるほど、教会は大きく発展することになりました。

 さて、神のことば、つまり福音は伝道の本質ですが、聞く人がいなくては語れません。イエス様が異邦人伝道されたレアなケースに、「スカルのサマリヤの女」があります。この時イエス様は、この女の過去を預言されました。おそらく本人にしか知らないはずの過去の事実だったのでしょう、女は直ちにイエス様が語られる福音のことばに耳を傾けたのです。

 このように、サマリヤの女などの異邦人が福音を聞く者になるためには、しるしや不思議は大きな力を持ちます。しかしどんなに大きな癒やしや奇跡を起こしても、神のことばである福音が、聞く人に良い地として根付かなければ意味がありません。

 最初に女の告白によってサマリヤの人々はイエス様の預言に引き寄せられたのですが、「さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた結果になりました。

彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。ヨハネ 4章39~42節と、サマリヤの人々がしるしや不思議にではなく<ことばによって信じた>こと、それがイエス様の伝道の究極的な目的でした。神のことばの力によって真に信じた者は、本当に幸せでした。

2023年5月21日 (日)

ヨベルの年

レビ 25章10節   2017新改訳

あなたがたは五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰る。

 本日、創立50周年を迎える私の勤務先では、スタッフは皆このTシャツを着て頑張っていると思います。しかしこのTシャツに<Golden Jubilee>と大きなロゴが印刷してあります。Jubilee?ということを調べてみますと、50周年記念という一般的な意味と、聖書でレビ記のヨベルの年というのが語源であることがわかりました。さらに昨年の大贖罪日から今年のその日まで、現在が50年に一度のヨベルの年らしいことがわかりました。

 ヨベルとは雄羊の角の意味です。赦しを象徴するこの年は、レビ記によると7年目ごとに地を休める七度目、つまり49年後に来るあらゆる回復の律法であることがわかりました。地は2年続けて休耕し、土地は元の持ち主に返され、奴隷など人もその縄目から解放される、つまりあらゆる回復が成される年なのです。

これは世界を創造された神が7日目に休まれ、聖なる日とされたこと、ペンテコステが七週の祭りとされた50日目であることと関連しています。しかしヨベルの年は50年に一度なので、おそらく人が生きている内には、ただの1回しかないチャンスでしょう。このヨベルの年はただの休息という意味ではなく、人は霊的な存在であって、休息とは神と共に生きるシンボルであり、7の7倍、つまりペンテコステ(5旬節)やヨベルの年(50年)には、それらの集大成としての意味があることがわかります。

 私たちはヨベルの年を通して、神がエデンという最初の罪なき世界を回復されようとしておられること、それはキリストの十字架と再臨よる罪なき世界の再創造(神の国)であり、そこに魂の大収穫をもってより巨大な楽園を創造しようとされる神の意図を感じます。

Jubilee(ヨベルの年)は50年に一度の、神の祝福の年なのです。

2022年11月13日 (日)

2023年年間聖句

申命記 1章40節 

【新改訳2003】 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。
【新改訳2017】 あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。

〈あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て〉これは第三版ですが、向かう方向を示しているだけですが、2017では〈葦の海の道を通って〉と、実際に行って通れ、と具体的に言っています。
 さて私たちの群れはスタートしてこの11月で38年7ヶ月経ったわけですが、40年が目前です。この時点で、これまでの長きにわたって荒野のような訓練を受けてきたし、まだ約束の地にも入れていないが、しかしこれから、その成就の時を迎えて行くようになると語られたのです。

 リバイバルは始まっているのだが、ちょぼちょぼの段階なのです。私自身は今の時を、ヨルダン川を前にしたモアブ平原に居るとするならば、実はこの時すでにモーセはヨルダン川の東岸地域を征服し、2部族に与えているんです。目指すカナンの地を前にして、ちょぼちょぼではありますが、確かな足場は築いているのです。この群れとダブりませんか?そしてこの御言葉です。

 私たちは患難時代前半に世界を覆う大リバイバルがあることを知っています。私たちはそれに用いられるのです。クリスチャンが大量に起こされて行く時というのは、決して順風満帆の時ではありません。ローマ時代は、ネロ帝などによる大迫害に耐えて国教になりました。カトリックにとって最悪の危機、ローマの滅亡が逆にヨーロッパの諸王の上に立つ教皇権の確立になりました。プロテスタントの誕生も然り。韓国のリバイバルも、日本軍の支配に屈服せず、多くの殉教を出し、次には朝鮮戦争という、民族の血を血で洗う大悲劇を通して実現しました。困難なしに神のわざが現されることはなく、リバイバルは始まらないないのです。私自身も、人格が変わるほどの苦しみを通して神様は現してくださったのです。

 これから約束の成就の時を迎えようとしているだけでなく、この試練で得たものは何か?「私たちは罪人である」ことでした。にも関わらず、私たちは神の祝福を受け、恵みを受けてきた。そして神からのものも、自分の力でやろうとしてきた罪人である、とこの時語られたのです。私たちは神さまあっての存在で、それ以外は何もできない者です。今、神から真に来たもの、御心のものを忠実に果たしたい・・・それが<群れがスタートした初めの信仰深かった段階で、葦の海>なんでしょうか、に戻って主に委ね、<リバイバルでの神の働きを担えるように再出発して行け>・・・年間主題の意図はこれなのではないか、と個人的に思わさせられています。

 この成就の段階において、自分の力はアウト、そしてこれまでの向きを変え、神さまの力に依り頼って、困難な道が待っているけれども、神のリバイバルの働きを担って行こう、約束の成就を得よう、これが今年の年間主題だと私は見ました。

2022年5月29日 (日)

平和を望む者

詩篇 120篇6節   2017新改訳

この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 詩篇120は、終わりが「私は平和を--、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ」と結ばれる。それで暗く、まるで希望が無いかのような印象をこの詩篇に抱く。確かにこの曲は風のひびき9集ベストセレクションに入るほど歌いやすく良くできているのに、内容的にイマイチと感じる向きが多いと思う。しかしそれは、単に上っ面だけの理解で判断しているのではないだろうか?この120番は<都上りの歌>の歌であって、苦難の末にようやく異邦の地から宮参りができる、その喜びの歌なのだ。

 ユダヤ人が異邦の地で暮らすとはどういうことか、先ず始めにそれを押さえておきたい。結論から言えば、彼らは排斥される定めだ。どんなにその地に幾世代にわたって住み続けようと、その地の住民と混合し、溶け合って一つの民となることはあり得ない。なぜなら彼らは聖書の民であって、その信仰を護っている限り、彼らは異質な存在で有り続ける。実際世界のどこへ行っても同様な状態となる。彼らは嘘をつかず、誠実で約束を守る。絶対的な規範である聖書があるからだ。しかしそれゆえ異邦の民と道徳観、生活、風習が決して交わることはない。もしあればそれは律法で禁じられた堕落をもたらすものとなるのであり、逆にユダヤ人が異邦の地に何代に渡って住もうと、平和を望もうと、その地では異質な存在で有り続ける。
 もし混合するならば、ユダヤ人がサマリヤ人のようになり、ユダヤ人がユダヤ人でなくなることを意味する。どうしても迫害され、排除され(戦い)続けられる定めがユダヤ人であることが、これが二千年の時を経てイスラエルが建国された大きな理由の一と考えられる。

 しかしそのようなユダヤ人の特性が、ベニスの商人で描かれているように同情の余地のない冷徹さも併せもつことになる。彼らユダヤ人は道徳観が聖書を通して鉄壁である。また流浪の民として、世界にネットワークを持っている。そのような彼らは次第に財を形成していくのだろう。我が国ではユダヤ人を迫害する状況に今はまだないが、ヨーロッパのように国内の一部に長年にわたってユダヤ人が居住し続けたならば、どうしても似たような状況になるのではないだろうか。

 このユダヤ人の受けるその疎外感、迫害の歴史が、離散の二千年後、奇跡の現イスラエルを建国し得たとも言えるかもしれない。ただしこの120編はおそらく捕囚期ー捕囚後(紀元前400年ぐらい)までに書かれたものなので、捕囚または奴隷状態の中、つまり弱い立場に置かれた困難の中、第二神殿の建立され、エルサレム帰参が許された喜びで満ちている。
 以上、この都上りの歌の苦しみ・・・「偽りのくちびる、欺きの舌」から一時的にせよ救い出され、都に上ろうとしている喜び、そして迫害する異邦の者たちへの裁きの予告が私たちの胸に迫ってくるものがある。私たち日本人クリスチャンも、天のエルサレムへ都上りする過程にあるのは、よく似ているからだ。

2021年11月14日 (日)

2022年度聖句

2022年度ガリラヤ湖畔新年礼拝でパウロ秋元牧師の年間聖句のメッセージを、ケパ中村牧師がさらにわかりやすく要約しました。

今年度の年度の御言葉 ヨハネ14章12節  第3版

「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとへ行くからです」である。

 聖書で用いる「わざ」という言葉には、神による意図的で、かつ奇跡のような超自然的な行いの意味で用いられている。ここでの節には次の三つのポイントがある。
 (1)キリストを信じる者はキリストのわざを行う・・・秋元牧師はこれを「キリストがこの世に来られた時に、多くの人を癒やしたり、奇跡を行ったり、解放を行ったことを指す」と説明された。つまりクリスチャンは、キリストがされたようなわざを行うようになるのである。しかしそれは、<キリストのわざはキリストがされる>と秋元牧師が幾度も指摘されたように、わざの実現者は人を通して神が行われるのであって、人が実質的には何の力もないことを肝に銘じなければならない。クリスチャンならば、この点に異論を唱える方はいないはずである。
 私自身も過去、癒やしの祈りをして、その実現を経験したことがある。その時私は非常に良い気分、高揚した状態になった。しかしそれは神の栄光であって、神をほめたたえ、畏れることはあっても、少しでも自分の手柄のように喜ぶなら、それは大きな誤りであったと今では思う。私たちは神のわざの管に過ぎず、ただ通りよい管に徹することが非常に重要である。

 (2)「またそれよりもさらに大きなわざを行います」・・・ここがもっとも誤解されている箇所である。文字通りに読めば「キリストもできなかったような、すごいわざを私たちクリスチャンが行うようになる」と理解してしまう。例えばラインハルト・ボンケはアフリカで7900万人をキリストに導いた。これはキリストが為し得なかった数字である、などと。

 しかし秋元牧師が「キリストのわざはキリストがする」原則から見れば、このような成功も、(1)番の通り、キリストが働いてくださった故の大収獲である。ボンケではない、キリストが働かれた故の大収穫であり、勘違いしてはいけない。従って「大きなわざ」とは、キリストが意図された<(神の計画の)大きな進展がこれから始まってくるぞぉ>の意味であると秋元牧師は語られたのだった。
 
 (3)以上を受け取った上で私は個人的に、さらに次の(3)「わたしが父のもとに行くからです」の言葉を注視したいと思った。ここでのすべてはイエスさまが十字架に架かり、復活して、ペンテコステの日に聖霊が注がれてから始まるわざである。聖霊を通して働かれるわざに、聖霊さまが単に内住されるだけでなく、その日までにクリスチャンが聖霊さまに、<徹底的に聞き従うしもべとなって>いなければ、話しにならないではない。今の時はその猶予の時であり、いつ来ても良いよう、今は器として整えられている時、これに集中しなければならないことを強調する

2021年10月24日 (日)

不正な管理人

ルカ 16章8節   新改訳2017

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 このたとえ話は難解な箇所だと言われています。それは世の常識と天の父なる神のみ心と分けて考えないからです。この世の常識では、信頼されるべき職務の管理人が、不正を行なったというだけでも重罪であるのに、その上、解任の残された短い期日を使ってさらに主人の財産に損害を与えたというのは、更なる裏切りであって、言語道断な行為です。しかしそれを主人が「賢く行動したのをほめた」なんてことはあり得ないからです。
 しかし上記の8節から次の9節を見ていくなら、その意味がかなりわかってきます。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなった時、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」の 「富がなくなった時」とは自分が血肉の命を失った時のことであり、その時天国へは不正な富で多額の債務を減額された友が歓迎してくれる・・・という意味だからです。
 つまり<不正な富>とは文字通りに受け取るのではなく、<天の富>であって、それを正しく管理していなかったことが<不正>だったことになります。この管理人の富の使い方は、一言で言えば神のみ心に反していたということなのです。

 私たちは自分の財産やそれを産み出すもの・・・富を世において持っていたとしても、それらは神から委ねられたものであって、真の自分のものではありません。そしてこの委ねられた富をいかに用いたかということが、ある意味、天への道を左右するものとなるのです。
 同じ章で語られた「金持ちとラザロ」の話では、金持ちが死んで、彼は黄泉の国の熱い炎で苦しめられていました。彼がここで苦しむ理由として聖書で分かることは一つしかありません。貧しく重い皮膚病人だったラザロは、金持ち宅の門前で寝ていて、その「食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた」とあるだけです。ラザロは犬がもらえる残飯でも欲しかったのですが、そのことは犬からさえも同情されていたことしか知ることができません。ここで読み取れるのは、金持ちの<あわれみの心の無さ>です。門前に居たラザロに金持ちが気づかぬことはあり得ません。それにもかかわらず彼は何も助けようとはしなかったのです。
 金持ちの彼にとって、ラザロは隣人と見なさなかったのでしょう。しかし良きサマリヤ人で語られているように、この金持ちは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」の律法に明確に違反しているのです。そのように考えるなら、この不正な管理人が窮地に陥ってですが、負債の減額に天の富を用いたことは<ほめられる、賢い>ことだったのです。

2020年5月31日 (日)

渇く人

ヨハネ 7章37-38節   【新改訳2017】

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 本日はペンテコステです。さて聖霊降臨日である本日のテーマですが、聖霊という霊的な満たしに飢え渇いている人は、本人にはそうは思えていないでしょうが、実は幸せになれる可能性が大きい人なのです。逆に渇いていない、そこそこ今の生活に満足しているクリスチャンライフを送っておられる方に、永遠につながる平安や喜びは遠いのです。

 自分自身に罪深さを認め、その癒やしと満たしを求める渇きがある方、神はそのままにせず、通される道はあるでしょうが、やがて必ず答えてくださる、あわれみ深い方であることを私は知っています。探し求めたその先には、やがて神の真の祝福を見出されることでしょう。しかし渇きのない人には、それがありません。馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないのです。

  さて今一度、聖書での「渇く」この意味を探ってみましょう。イスラエルのパレスチナ地方は空から見ますと、東に広大なアラビア砂漠があり、乾期になるとそこからの熱風に見舞われる地域です。この期間は雨が降らず、ほとんど半砂漠地帯となります。この乾燥の厳しさは、私たち日本人には想像が難しいほどです。
 このパレスチナではヨルダン川以外はオアシスか井戸しかなく、大半はワディと呼ばれる涸れ川となり、半年以上も強烈な乾期が続きます。大地は干からびていますから、11月からの雨期に雨が降ると、大地を潤すことなく、たちまち洪水のようになります。ですから一年中流れの尽きない川とは、貴重な命の源であり、たとえようもない価値を持ちます。

 この文脈でヨハネ7:38「生ける水の川」とイエス様が言われたことは、次のような意味があるようです。一つは罪が無かった時代のエデンの園の回復であり、またそれは黙示録22:1でいう「いのちの水の川」という、天の国の実現成就を現したことであること。神イエスの十字架なしに私たち人間の罪は贖われず、助け主聖霊様も人が罪あるままでは内住が困難である。この地では水はいのちそのものであった。こうしてみると、イエスの十字架がすべての土台であったことがわかる。神の愛が十字架を通して現されたのだ。また水は一度で良いというものではなく、飲み続けなければならないものだ。それはふだんの神との交わりの大切さ、祈りの恵みと言うものを指している。それゆえに、私たちは常に渇くのだ。

 十字架によって私たちが神の愛を知るなら、常に祈りを通して、いのちの水の川から霊的な祝福、涸れない恵みを受けて行こう。受ければ受けるほどますます神の偉大さを讃美し、自身を謙遜にしてくださる恵みである。

2020年4月12日 (日)

イエスの復活

Ⅰコリント 15章3-6節   【新改訳2017】

 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。
 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

 約二千年前、主イエス様がよみがえられたことを祝う日が来ました。教会暦で唯一の移動祝祭日です。よみがえりに関して、聖書には七つの生き返ったという記事があります。しかしイエス様の甦りはこれらの七つとは、全く別物であって、空前絶後の出来事でした。このよみがえりを、今朝はリアリティを持って信じることを考えてみたいと思います。

 まずイエス様のよみがえりは、人の手に依らなかったものです。次によみがえった体は、まったく異なった、不死にして超自然的な御霊の体でした。御霊の体・・・それがどれほど人の理解を超えたものであったか、その姿を見た弟子たちがいかに狼狽し、なかなか信じられなかったかを見ていきましょう。

 弟子たちはよみがえりをあらかじめ、幾度も聞いていました(マタイ16:21、17:9・23、20:19、26章:2)。それがいざ現実にとなると、なかなか信じることが困難だったのです。
 女たちが日曜日の朝、最初に行きましたが、よみがえりを期待してではなく、正式な葬りの準備をするためでした。マグダラのマリヤは空の墓を見ても、誰かが遺体を移動したとしか思えませんでした。マリヤの報告を聞いても、弟子たちは信じることができませんでした。ただヨハネだけが、空の墓を見て即座に信じたのです。

 あまりにも弟子たちが信じようとはしないので、その夜主は、弟子たちの前に現れて、信じようとはしなかった頑なさをお責めになりました。しかしそれでも弟子たちは、幽霊だと思ってしまったようなので、イエス様はご自分の手や足、脇を触ってみなさいと語られ、彼らの目前で食事を摂られました。御霊の体の主を前にしても、弟子たちはこれほど信じることができなかったのです。
 イエス・キリストのよみがえりの仕上げは、五百人の前に現れることでした。これだけ大勢の人が同じ情景を同時に見て、全員が同時に幻や夢を見たと否定することは不可能です。つまり、イエス様のよみがえりは、それが事実であったと信じるしかありません。

 この時、弟子たちはまだ聖霊のバプテスマを、受けてはいませんでした。つまり人間的な判断しかできなかったのです。しかし今私たちは、聖霊によって、命に優るこの大いなる希望を信じ、実際に得ています。イエス様のよみがえりを真に、リアルさを持って信じるなら、どんな困難も、たとえコロナウィルスによって命が脅かされようとも、揺り動かされることはないのです。最も大切なこと、それは私たちはよみがえりの永遠のいのち、その証人であり、世に打ち勝つということです。

2020年3月15日 (日)

印と刻印

黙示録 20章4節   【新改訳2017】
 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた

 印と刻印の違い…似たようなものとも言えますが、印とは基本、印鑑のように証明するものです。それに対し刻印は、所有するしるしが消えないようにするため、彫ったり刻んだりするものです。ですから刻印は所有する道具に刻んだり、家畜に焼き印を押したりします。人の入れ墨も刻印の一つでしょう。特に人への印とか刻印は、二次大戦でナチスがユダヤ人の上着に強制して付けさせたダビデの星や、腕章が思い出されます。

 さて、神は悔い改めた心に聖霊を送られ、その実を結ばせ、心に救いの証印を押されることはありますが、目に見えるような外見的な印はつけられません。人の心の中まですべて見通される方に、外見的なものは無用だからです。ところが被造物に過ぎないサタンとその部下たちは、目に見える印、印や刻印しかわかりません。ですから自分のものにした魂に、やたら刻印を押したがります。これが神とサタンとの大きな違いです。

 サタンは印や刻印は「形式的なものだから、受けて信仰生活を続けなさい」などと言葉巧みに誘うでしょう。しかしクリスチャンは、この目に見える印や刻印を決して受けてはいけません。拝するのはただ神お一人です。四十日四十夜されたイエスさまの断食でも、サタンは最後に全世界を見せながら、「私を拝むなら」と言いました。自分を拝ませようとしたサタンの本質は今現在もまったく変わっていません。
 もしクリスチャンが神以外のものを拝むなら、その瞬間、サタンとともに真っ逆さまにゲヘナ落ちが確定します。黙示録は幾度もこのことを警告しており、これは真実です(黙示14:9−11,16:2,19:20)。

 真のクリスチャンはたとえ殺されても、神以外のものを決して拝んではなりません。ことは短い血肉の時間のことではなく、永遠のことだからです。また、キリストのために死を余儀なくさせられての死は殉教と言い、神に召された特別な恵みです。殉教者は千年王国などではキリストとともに王となり、神の都を住まいとするからです。

 今の時代と逆に、キリストが王となって支配する千年王国時代においてすら、最後にはサタンが解き放たれ、試練が来ます。結局、どんな時代でも、神を信じる者には、たとえ殉教まで行かなくても、血肉の命か、それとも神を選ぶかの選択は必ず迫られるようです。その際、最もポイントになることは、この試練に勝利を得るためには、ふだんから神と交わり、神を知り、神を愛し、信頼を醸成することにあるようです。この試練は自分の努力や力では耐えられるものではなく、聖霊の助けなしには不可能です。

 

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