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聖書

2017年11月19日 (日)

信ずべき書である理由

マルコ  11章22節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

信仰とは「御言葉を信じる」ことであり、聖書を神の言葉として信じ受け入れることです。神からの預言も、聖書によって吟味されなければなりませんので、聖書が神の言葉の中心です。クリスチャンの中に、聖書がよくわからない、あまり親しみを感じないという方がおられますが、それは祈り求めてくださって、ぜひ御言葉を心の支え、生活における日々の羅針盤として大好きになっていただきたいと思います。
 
 一つだけあえて言えば、聖書は神の言葉です。ですからただの書物ではありません。自分の理解力に頼らず、神に対し「聞く」という態度で接し、祈りと聖霊の手ほどきを求めて読んでいただければと思います。

 ルカ16章に金持ちと貧しかったラザロの話があります。そこでは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)とあるように、たとえどのような奇蹟やわざを見せられても、聖書を信じずして神を信じることはできないのです。信仰の前に、まず「聖書ありき」なのです。
 私が大学を卒業し、燃えるクリスチャンとして広島に帰った時の話です。広島という地域の大きな教会でしたが、その信仰はどうみても退廃していると思える教会がありました。私は不遜にも、教会内リバイバルを興そうとそこに飛び込んだ経験があります。しかし私はいくつかの難題を突きつけられることになりました。その最大のものは、聖書に対する人間中心で理解する態度でした。彼らは非常に論理的な命題を突きつけ、聖書の問題点、誤りとしか思えない所を指摘してきました。人間に過ぎない者が、神の言葉と思えるものを選び取捨選択していたのです。
 
 当時の記憶が定かでないので、今となってはそれがどこだったのか思い出せませんが、本日はそのように見える三箇所を挙げたいと思います。
 まず第一に「数字が間違っている」所です。ステパノが殉教することになった議会での証言として、出エジプトでの人数が「75人」とあります。しかし創世記46章ではこれが66、70人と出てきます。聖書は間違っているのでしょうか?もちろん神の言葉である聖書は間違ってはいないのですが、その説明をいたしましょう。(文量の都合上、この後と、第二、第三の例は割愛する) こういうわけで私たちは思慮の足りない自分の知恵や理解力だけで、神の言葉である聖書を判断しないようにしましょう。
「聖書は誤りなき神の言葉」です。

2017年11月12日 (日)

受けたと信じる信仰とは

マルコ  11章22~24節
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 
 学生時代、私には全然違うタイプの二人の友人がいました。一人は秋田の出身、もう一人は私の隣県の出身で社交的で明るく、街で通りがかりの女性にも気軽に声をかけるような、私には真似のできない人付き合いの良さというか、とにかく気がいい友でした。
 それぞれいいところがあったのですが、こと、言葉の信用という面ではかなり違いがありました。一例ですが、駅で会う待ち合わせの時間を決めても、秋田の友は余裕をもって来てくれるのですが、もう一人の方はアバウトだったのです。「やあやあ、すまんすまん」と言いいながら現れることが多くありました。一事が万事そういう感じだったので、自然、言ったこと約束したことでも、一人は言葉通りにそのまま100%受け取り、もう一人の方はどこか話半分に聞いてしまう風になってしまいました。
 
 このように、信じるということは相手によります。神様に対してもまったく同じことが言えるのではないでしょうか。神様は全能なるお方ですから時々、現実とまったく異なったこと、人間の思いをはるかに超えたこと・・・・ご自分の計画を語られます。それは本来常識を越えたことですから、まったく疑わずに信じ切ることはかなり困難です。しかし、神様が語られたことばは「(必ずその通りになると)受けたと信じる」のは、神様と交わっていて知っているからなのです。この方は十字架をもって私を愛し、決して私を裏切らない、実に真実なお方であるかをよく知っているからです。つまり交わりが決め手なのです。
 
 神様を知り、交わる入り口は、基本聖書です。聖書はすべて神の言葉で記述されているAll in Oneの完璧な書であり、何よりもまず、信ずべき書です。
 イエス様のたとえ話の中で、実話だと思えるラザロと金持ちの話があります。金持ちが死んで、炎熱地獄の中でラザロと会い、アブラハムに「ラザロを自分の家族のところに送ってください、そうすれば家族は自分と同じところに来なくてすむでしょう」と懇願します。しかしアブラハムは「いや、たとえ蘇ったラザロを送ろうとも、聖書を信じない者には無駄だ」と言います。聖書を信じず、疑う者はどんな奇跡も信じないと言っています。
 
 神を信じ、正しく交わるには、聖書が唯一のドアです。神がイエス・キリストの十字架によって私たちの罪を赦し、罪なき者とされた私たちに聖霊を与えてくださること、その聖霊なる神との個人的な交わりを通し、私たちは神様に自分を明け渡し、心から聞き従いたいという願いや絶対的な信頼、つまり受けたと信じる信仰が与えられ育つのです。

2017年6月11日 (日)

前兆

マタイ 24章3節
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
 
 使徒時代から「すぐに来る」と言われた世の終わりは、すでに1900年以上経ってもまだ来ていません。しかし非常に近づいているとも感じさせられてもいます。聖書から終末を正しく学んで、いつ来ても良いように準備しましょう。
 
 聖書のどこを読めば良いのでしょうか。主として旧約のエゼキエル書、特にダニエル書です。新約ではマタイ24章と黙示録です。これらは互いに結びついて、全体としては一つの終末像が明らかにされています。
 まず、抑えておかなければならないことに、こと聖書の時間に関しては文字通りではありません。1日が1年(民数13:34)とされるなど、ちゃんと数字の計算は合っているのですが、時間設定に注意が要ります。
 
 さてダニエル書7章の夢は登場する四つの獣が、それぞれ以下のように対応されます。獅子=バビロン、くま=ペルシャ、ヒョウ=ギリシャ、鉄のきばと十本の角を持った恐ろしい獣=ローマ帝国です。ここで重要なことは最後のローマ帝国です。このローマが未完の表現になっていることが要注意です。この間、イスラエルという国が最後の獣ローマによってAD70年に滅亡し、つい最近1948年に奇跡的な再建がなるまでの空白が反映されていると想像されます。つまりエゼキエルの預言通り、国の再興(イスラエル建国1948年)が成って、再びローマによって預言成就の針が回り始めるわけです。鉄のきばと十本の角を持った古代ローマの後釜が、終末の時代に登場するとすれば、それはほぼ同じ場所に現れたEUが該当します。
 
 こうして見てくると終末はダニエル7章から、現在27ヵ国のEUにおいて、うち十ヵ国がイニシアティブを取るようになり、その中から反キリスト(ダニエル9章)が登場すると読み取れます。この反キリストは自分の国だけでなく、他の三カ国まで取り込み、アメリカがどうがんばってもできなかった中東和平条約も締結させます。その結果、イスラエルはエレミヤ49章にある平和を享受することになりますが、これが世界の終わり、患難時代の幕開けとなります。
 こうしてみると、中東和平条約やエルサレムの神殿の丘に第3神殿ができる(黙示11:2)までは、患難時代は始まらないことになります。それまでは「戦争や戦争のうわさ」「国々の敵対」「方々にききんと地震が起こった」(マタイ24章)としても、あわてては行けません。それらは産みの苦しみなのです。
 
  私たちはこの聖書の預言に従って時を見分けるのです。しかし信仰の基本は不変です。聖霊のバプテスマを受け、神との深い交わりの中からみこころを求め、忠実に聞き従うこと。常に祈り、霊的な満たしをもってその時に備えることは、使徒時代から何一つ変わることはないのです。その上でたとえ患難時代に入ったとしても、「主よ、来たりませ」の希望とすべてのことへの感謝をもって時を待って行きたいと思います。

2017年3月12日 (日)

主の日、後の時代

Ⅰテモテ 4章1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
Ⅱテサロニケ 2章3節
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
 
先週の月曜日がⅡテサロニケ2章、昨日の土曜日はⅠテモテ4章であり、この両方とも終末に触れている箇所です。偶然はないと感じました。Ⅱテサ2章での「主の日」とは、キリストが地上再臨される時であり、Ⅰテモテ4章「後の時代」はその前に来る大患難とリバイバルの時代のことを指すからです。
 
 一昨年からこの群れでは「リバイバルが始まりました」と語られています。ただそれが本格的に「今日来るか、さては明日か」と待っている方がいらっしゃるとしたら、ちょっと気をつけましょう。聖書に立って時を調べてみれば、次のように述べてあるからです。
 
 まず第一に『背教』(Ⅱテサ2:3)が起こらなければなりません。背教とは聖霊の賜物を受け、不思議なわざを行っていたような器が神に背くことです。教会の指導的な立場の人たちが、神に背く存在となります。サタンが全天使の1/3を惑わして悪霊に堕としてしまったようなことが、終末の時代に起こる可能性があります。わざや奇蹟に目を奪われ、神からのものが見分けられない多くの信者が惑わされるのでしょう。
 
 次に世界の比類のないリーダーとして、反キリストが登場しなければなりません。彼は不法の人ですが、死んだように見えても生き返り、誰もが為し得なかった中東和平を成立させます。その結果神殿の丘に、全イスラエルの悲願であった第三神殿が再建されます。このことをⅡテサ2:4で「神の宮の中に座を設け」と予告しており、サタンがサタンとなったゆえんの、反キリストが自分を神とし、己への礼拝を強要する最大の罪を犯す事態が来なければなりません。人々は熱狂してこれを歓迎し、反キリストへの礼拝を拒むことは命懸けになるでしょう。
 
 第三にマタイ24章でも語られているような、月が血の色に変わるような天変地異、飢饉、パンデミックな疫病、戦争の噂などが起こって来るでしょう。これらの事柄が起こらなければ、後の時代も、主の日も来ないのです。また見せかけでも、熱心そうに断食したり、苦行を説く者にもだまされないようにしましょう。
 
 私たちは「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。誰にも、どのようにも、だまされないように(Ⅱテサ2:2)」いたしましょう。何が神から来たものかどうかが判断できるように、普段からしっかりと主と交わっておくことが大切です。まさに油を切らしてはいけないのです。ポイントは聖書と祈りです。聖書を読み込み、聖書が知識と信仰の土台となっていること、日々主の、み心を行いたいと祈り、感謝し、喜んでいるならば、どんな時が来ようと万全だと言えるでのす。

2016年8月 7日 (日)

悪魔に立ち向かえ

 ペテロ 5章7~9節
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
 孫子の兵法に、「敵を知り 己を知らば 百戦危うからず(彼を知り己を知れば百戦殆うからず)」という言葉があります。
そういう点から私たちクリスチャンの敵であるサタンについて、知るということは戦いに非常に重要です。サタンが狙う獲物の内でも、クリスチャンは最高に価値あるもので、それ故クリスチャンは絶えず狙われていると自覚すべきです。サタンの第一原則は、正体がバレないよう知られないようにし、宿り主を支配することです。第二にサタンは私たちの一番の弱点を察知し、魚釣りのように実にタイミングよく突いて攻めて来ます。第三にサタンの本性は偽りです。だましの名人とでも言うべきです。
 
 
今日の聖書箇所にあるように、神のみ心から離れて「思い煩い」をしたり、恐れや不安に陥ると、サタンの獲物になる条件を満たし、サタンの集中攻撃を浴びるはめになります。そのことを「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられる」(マタイ 13:12、25:29)とみ言葉が説明しているのです。その状態をはやく脱出しないと、持っているものまで無くなってしまうのです。
 
 
ではどうすれば良いか。この時神さまは「堅く信仰に立って、サタンに立ち向かう(1エペソ 5:9)」のです。ただし、自分の力で戦わないようにしてください。神にご自分の罪をあらいざらいすべて告白し、熱心に祈しを求め、赦されて、神の力「イエス・キリストの御名によって」と神の力で戦うようにしてください。私たちはサタンよりは弱い存在ですが、背後に神が共にいてくだされば、必ず勝利するのです。神は十字架ですでに勝利を取られているのです。
この戦いにおいて大事なのは、まず今の状態をありのまま正しく認識し、サタンに気づくこと。次に下記のような「み言葉」を掲げ、「祈り」で戦う決心をすることです。映画「祈りの力」をただ観て終わりにしてはいけません。ご自分に適用し、戦って勝利を取ってください。
 
○映画「祈りの力」の聖書箇所から:第二歴代  2:14、マタイ 6:14 、Ⅱテサロニケ 3:3、Ⅰヨハネ 1:9など
○私の推薦するあらゆることに適用できるみ言葉: 「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ 1:37)

2016年7月 3日 (日)

聖書の恵み

Ⅱペテロ 1章20~21節
 1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
 1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
 
 昨今ダッカやイスタンブールなど、 ISのテロ攻撃が激しさを増しています。アルカイダや IS、これらイスラム過激派の自爆攻撃は数十年前に出た異教徒へのテロをジハード(聖戦)とする理論とそれを追認したファトワー(高位のイスラム法学者による勧告)が背景にあります。自爆したテロリストは天国で目が覚めると思っているようですが、どう見てもそこは地獄の業火のただ中でありましょう。ですから本当の犠牲者は彼ら実行犯かも知れません。そういう意味でテロに宗教的な解釈を施し、教えた指導者の罪とは、実に恐ろしいもがあります。この誤った教えを健全なイスラム自身の手で正すこと、それがイスラム過激派の問題を解決することになると私は思います。
 
 これが聖書を中心としたプロテスタントであったなら、聖書という絶対的な規範があります。神ご自身が書かれた聖書は難解かもしれませんが、曖昧さがありません。また聖書は自分の考え、私的な解釈を施してはなりません。その例をマタイ22章を見ていきましょう。イエス様に論争を挑んだパリサイ人が論破され、次はサドカイ人の挑戦です。復活を信じないサドカイ人にとって、もしかしてこの七人の兄弟と結婚した兄嫁のたとえ話は、パリサイ人を黙らせる決め手であったかも知れません。
 聖書は誤りなき神の言葉です。神であるイエス様はサドカイ人の誤りを「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからだ」と一喝されました。復活の朽ちない体は、つまり御霊の体は滅びることがないので、男女である必要はなく、夫とか妻の考えが無用であると語られたのです。
 
 さらに「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ 22:32)と語られました。これは彼らが死んでいないと受け取る方もおられますが、そうではありません。神が死んだ者たちを復活させられて、彼らがまた生きるということを明言されたのです。「神が死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」とは、神に属する者については、今の体が滅ぶが、しかし彼らはもっと良い体で生きて復活すると言われたのです。これには次のみ言葉が当てはまることでしょう。
 
「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、 死んでも 生きるのです。」(ヨハ 11:25)
 聖書は先に自分の考えがあって、それに当てはめるような私的な解釈をしてはなりません。分からない所は他の聖書箇所を参照したり、祈り、聖霊に導かれてください。それには時もかかるでしょう。しかし神は最善のタイミングで必ず答えてくださいます。なぜなら聖書を書かれた執筆者、神様にお聞きするのが確かな方法だからです。

2016年6月26日 (日)

み言葉の力

ヤコブ  1章22節
  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
 
 私たちの群れでは本格的なリバイバルは患難時代とともに来ることを知っているので、本日のみ言葉「もし彼を否んだら、彼もまた私たちを否まれる」を、不安と恐れで受け取られる兄弟姉妹も居られると思います。私はその前段階として先ず、「聖霊に満たされる、満たされ続ける」必要があること、そしてこれは御心なので必ず成就することである上、過度な心配をしてはいけない申し上げています。
 
実際、この直前の 21節にある「彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」ということが、このことを裏付けているのです。このみ言葉は「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることになる」(ロマ 6:18)、「もし御霊によって、体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ 8:13)にある通り、ご聖霊さまによる、全的な支配が己の上に行われること、それはとりもなおさず、聖霊の満たしが日々その人において現されていくということです。私たちは実際、聖霊様が単に内住されるているだけでなく、日々の生活における自分の感情や心の有り様を支配しておられなければなりません。勘違いしてはいけません。聖霊様に実際に己がコントロールされていてはじめて、「主」は主なのであります。ですから心はいつも感謝であふれており、顔は喜びで輝いているのです。それができているかいないかが、まず問われるべきであります。
 
もう一つ付け加えるなら、たとえできていなくても、神のあわれみ深い御性質を思い浮かべましょう。弟子の筆頭ペテロは三年半も主と生活し、十字架の直前には「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったペテロをも主は信仰がなくらならないようにあらかじめ祈られ、実際起こってからも、そのことを完全に赦されました。神は私たち一人一人の弱さをすべてをご存知であられ、かつ予知しておられます。神に背を向けない限り、私たちは見捨てられることはありません。そのみ言葉をも完全に信じてください。
 
 み言葉は私たちにとって唯一の武器、剣なのです。ですから本日示されて私は、覚えて信仰を堅くする必須のみ言葉、また霊的な戦いの武器としてのみ言葉集を作りました。昔、武士はどんな時でも刀を外すことはありませんでした。私たちも聖霊に満たされ続けるため、日々許される霊的な戦いの戦士として、み言葉の武器を常に暗記し、用いていきましょう。

2016年5月22日 (日)

戦いの武器

コリントⅡ 10章4節
 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

 クリスチャンの中には、突然神が自分だけに語りかけてくださるとか、超不思議な出来事をおねだりする、特別な体験を中心に信仰を求めようとする方がいます。確かにいやしとか、不思議なことがこの群れではあり、神の栄光が現されています。しかし思い間違いをしてはなりません。そこには土台があるのです。徹底した聖書の学びと心からの祈りという土台の上にそれらは現されているのです。特に吟味の土台としての聖書を一番とせずに、不思議を求めることは大変危険です。
 孤児院で有名なジョージ・ミューラーは言いました。「霊的生活の活力は、生活と思想において聖書が占める位置に比例する。私はこのことを54年の経験からまじめに申し述べる」と。ルカ伝の16章31ではアブラハムが金持ちに言います。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と。不思議や奇跡を求めて、神の言葉である聖書に耳を傾けないのであれば、その業は空しいのです。
 私が最近、霊的なことに対して「神の言葉である聖書の御言葉を用いて」対応するようにと言うことを示されています。
 少し前でしたが、映画「ヤコブへの手紙」を観ました。引退した盲目のヤコブ牧師のもとへ、いろいろな悩みを相談する手紙が毎日来ます。ヤコブ牧師はなんと聖書を全部覚えており、返事は聖書の御言葉の一節の適用が中心でした。自分の考えや思いではなく、御言葉オンリーでした。当初私は、それで回答になっているんだろうか、と疑問に思ったものです。しかし後になってこれが、私に大きな手がかりを与えてくれました。
 考えてみれば、イエスさまが公生涯に入られる前、荒野で断食され、その後サタンから試みを受けられました。サタンからの誘惑に対し、イエス・キリスト様は自分の言葉ではなく、御言葉で答えらました。最初の答えが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」です。神ですら自分の言葉では答えられないのに、私たち、人に過ぎないものが、自分の言葉、つまり肉の言葉でサタンに対してよいものでしょうか。エペソ書にも、私たちが攻撃できる唯一のものは神の言葉という剣だとあります。ですから私たちは御言葉を自在に繰り出せるよう訓練し、御言葉で戦わなければならないのです。
 御言葉は啓示によって記されました。霊によって書かれたものは、霊によって読まねばなりません。各自の聖書の読み解き、心への刻みはお住まいの聖霊様によってなされなければなりません。
 イエス様は御言葉を用いて伝道されました。また御言葉で悪霊どもを追い出され、病気の人をみないやされました(マタイ8章16)。ヤコブ書1章21で「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」とあり、1ヨハネの2章14では「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」とあるのです。私たちは御言葉によって救われ、御言葉によってこの世の霊である悪霊に打ち勝つ存在です。

2016年1月31日 (日)

イチジクの木のたとえ

マルコ11章12~14節
11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。


 福音書のイエス様の記事の中で、「イエス様って、むちゃくちゃなこと言い、やっててるなぁ。やっぱり完全な人ではなかったんだあ。」そう思われても仕方なところがあります。それが今日の聖書箇所です。これは、特に私たちのように、聖書は「原典においてですが、神のことば」であると信じる信仰にとって一大事であります。なにしろイエス様という方は、人間の格好をしておられているのですが、罪一つ犯されたことも、犯されることもない神様なのですから。
 しかしです、エルサレムに向かう途中、お腹が空いたので葉の茂ったいちじくの木が見えたので、そこに実が何かありはしないかと見に行かれました。しかし季節外れで、そこに実があるはずがありません。何の落ち度もない木に、おそらくですが、イエス様は頭にきて「枯れてしまえ」と呪われたのです。これはとんでもない神様ではないでしょうか。

 さらに訳がわからないのは、翌日枯れたこのいちじくの木をペテロが見て「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました」と言うと、「神を信じなさい」と「受けたと信じる信仰」を語ってくださっています。これはつながりが全くわかりません。訳がわからないことであります。
 神学者でもあった密林の聖者シュバイツアーは、この箇所を「数日後に迫った十字架刑、その死の恐怖で正常な判断ができなかった」のだとし、イエス様が神であることを否定しています。まあ、常識的な評価というものはこんなものでしょう。
 私はシュバイツァーのようには思えませんでしたが、しかしまた、どうしてかわかりません。有限なる人間が、無限なる神のされることを、全部理解できるはずもありません。判断を保留にし、いつかこれを神様が開いてください・・・・・そう祈りながら最近まで来ました。

 なぜか。イエスを神の子と信じるならば、死の恐れとか空腹なあまり、何の落ち度もない木を呪って枯らすなどとは、あり得ないことだと思うからです。「聖書は誤りない神のことばである」これは群れの告白であるとともに、私の個人的な体験としての確信です。大切なのは有限なる人間をわきまえ、人間の常識で神のことばを判断してはならないと思うからです。分からない事は教えていただけるよう祈り、それは御心であり必ず答えられるというのが、私たちの信仰なのです。三十数年前の私も、そこまで信仰が強かったわけではありませんが、保留にしていたのです。

 最近「聖書の世界が見える」という本の植物篇を読んで目から鱗でした。それに依りますと・・・・・・
 イスラエルではいちじくに関して二つの名前がありました。冬の終わり、春の初めにS_2真っ先に少し心もとない実をつける「バーグ」と呼ばれる初なりのいちじく」と、ふつうのいちじく「ティエナ」です。バーグ、これに秘密を解き明かす内容がありました。
ティエナと呼ばれる通常のいちじくは、5月から10月の終わりぐらいまで年に4、5回も実をつけるのだそうです。これに対し、バーグは春先の過ぎ越しの祭りの時期に絵のような小さな葉と実をつけ、約二ヶ月近くしてティエナの季節に、つまりいちじくのなる季節となります。バーグは小さく、甘さにも劣るので商品価値はありません。したがってバーグは誰でも取って食べて良いものでした。半年近くの長い冬の間、果物の甘さに飢えていたイスラエルの人々にとって、バーグは待ち遠しかった果物だったのです。

 こうなると、イエス様が近づかれたのは、バーグを取りにであったことがわかりますし、いちじく(=ティエナ)のなる季節ではなかった(マルコ11:13)のも当然です。しかし小さな葉が繁っていてもそこにバーグはありませんでした。バーSグを実らせない木というものは、ティエナも実りません。こういう実をつけない木は、場所をふさぐだけなのです。
 ルカ13:6-7 ぶどう園に植えられたいちじくの木が3年たっても実をつけないので農園主が「場所ふさぎだ、切り倒せ」と園の番人に言いますが、だからイエス様が枯らされたからと言って、それはかえって手間をとらせず、喜ばれた結果となったことでしょう。バーグが実らない木なら、問題はありません。

 イエス様のされたことは、当時習慣に従ってみればすべて納得の行くものです。シュバイツァーや他の人が単に知らなかった、というだけでなく、いかに人間的な解釈を施したか、神のことばとして聖書を受け取っていなかったかということを、明らかに示すものです。私たちは間違いを犯す者ですが、分からない事があったとしても、自分の判断を優先させ、まるで自分の判断が聖書の上にあって、解釈してしまうのか。さもなくば誤りなき神のことばとしての聖書として、信仰的に対応するかどうか、そこを神様は見ておられることを感じるのです。
 いちじくの木を枯らされたことは、超自然的なS1神の奇跡でした。それだけに終わるものではなく、このいちじくの木が、3年半にも及んだぶどう園の主人(神)の努力に酬いず、実を実らせることがなかった・・・・・イスラエルのことを暗示しているのです。つまりこれは、イスラエルの審き預言であり、その成就なのです。ですから「さばきの時が近いから、神を信じ、天国へ救われなさい」と福音を語っておられるのでした。アーメンです。

2015年12月27日 (日)

クリスマスについて(ひれ伏して拝んだ)

マタイ 2章11節

 クリスマスが終わりましたが、今一度クリスマスについて整理しておきたいと思います。このクリスマスには、あまりにも問題点が多いのです。そしてこのことを全クリスチャンは知っておくべきなのです。

 まず聖書には教会が祝っていたという記述がありません。いわB0041912_16435725ば聖書的な根拠がなく、イエスがご自分の誕生日を祝えとも、使徒たちが祝いましょう、などとは一言もありません。誕生の次第だけは詳しく語られてはいます。

 次に羊飼いたちが野宿しておりましたので、季節が正しくありません。逆に12月25日、冬至であることが大問題なのです。この日はローマ時代、異教徒にとって「不滅の太陽の誕生日」でした。しかしことはそれほど単純なものです。キリスト教のはるか以前からエジプトやバビロン、ローマ、ギリシャ、アジアのヒンズーなどでは、偉大な解放者である特別な神の伝説があり、これらを遡っていくと、みな、よく似た一つの物語があるのです。
  名高い神と女神・・・それは母と息子・・・に関わる物語なのです。最初は息子の方が主役で偉大な働きをするのですが、後にはその母が主役になって行くのです。彼に与えられた称号は、インドではヴィシュヌ、つまり「犠牲者の男」「救い主」とか「480pxthe_visit_of_the_wisemen契約の主」として礼拝されていました。そしてその偉大な男の母は次第に礼拝され、やがて処女として崇められるようになり、「天の女王(エレミヤ44:17-19、25)」「アシュタロテ」「イスター」と呼ばれるのです。そして彼女は、偉大な太陽を生んだ存在となるのです。日本においてでも太閤秀吉の母は太陽を腹に宿したとされているぐらいです。そしてその太陽の誕生日が冬至の日なのです。

 つまり「不滅の太陽の誕生日」である12月25とは決して拝んではならない異教の、つまりサタンの最大のお祭りであり、シンボルでした。カトリックが異教と妥協したクリスマスは、決して祝ってはいけないもので、プロテスタントが受け入れてはいけなかったものなのです。そのサタン的な性格は母と子にあります。このことをよく覚えておいてください。

また、この日は解放の日であり、日頃の束縛から解放されて、飲めや歌えの大騒ぎ、羽目を外す日でもありました。これもポイントです。

そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。 マタイ 2章11節

本日の聖書箇所です。みなさんに三枚の絵を見せましょう。 初めの二枚には博士たちがイエスを礼拝している絵がありますが、博士たちの礼拝の対象が幼児イエスであるのか、抱いている母であるのか、その区別がつきません。

そしてそれが進んでいくと最後のグレコの絵のように、母であるマリアを礼拝するようになるのです。カトリックは「無原罪のマリアの御宿り」と「聖母マリアの被昇天Grecoim201_2」という聖書とはかけ離れた教義を持っています。これは人間に過ぎないマリアを神とする誤った信仰です。マリアが、まるで太陽を生んだ母のように礼拝されているのです。どうしてこのような誤りが生じたかというと、それは「不滅の太陽の誕生日」という、異教徒最大の信仰に迎合した結果であり、ちょうどイスラエルの民がカナンの地で聖絶を怠り、異民族と融合したために「高き所」を取り除かなかったために堕落したのと酷似します。

もう一度はっきりさせますと、12月25日、不滅の太陽の誕生日に起源を持つクリスマスとは、その母であるマリアを先ほどの三枚の絵のように崇拝させ、神でないものを神とする罪を私たちに犯させるものです。もしどうしてもキリストの御降誕をお祝いしてクリスマスをしたいのなら、せめて少しでも聖書に準じる別の日にしなければなりません。
この日は、サタンの術中にはまる最悪の日、ダメなのです。