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聖書

2018年12月 2日 (日)

処女降誕

ルカ 1章35-45節      【新改訳2017】

35 御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」  
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。


 キリスト教の土台は聖書です。しかし多くの人が初めにつまずくのは、処女マリアが懐妊し、子どもを生むことです。
 このような到底信じがたい奇跡でなぜ福音書は始まるのでしょうか? しかしこれこそが必ず起きなければならない事でした。キリストが三位一体の神であるならば、聖であり罪なき存在です。もしキリストが普通に男女の両親から生まれたならば、どんなに立派な人物であったとしてもアダムの原罪を免れず、その罪ある者が全人類の罪の身代わりにはなれません。聖である神ご自身が受肉して来られた、それがキリストの処女降誕です。
 ほとんどの異端は、キリストの神性を否定し人間だとします。しかし三位一体を信じる者にとって、処女降誕は神ならばおできになると堅く信じることができます。

次に聖書からこの事実を学びます。第一に、イエスの出生にまつわる出来事は、キリスト教のもっとも初期から信じられてきたことです。ルカ福音書にはその著者ルカが、母マリヤから直接聞いたのだろうと思われる記事で溢れています。エリサベツとその胎内にいたヨセフのこと、マリア賛歌、また<シメオンは・・・・母マリアに言った>とか、イエス12歳の時<母は言った「どうしてこんなことをした・・・・」>2章51節<母は・・・・心に留めおいた>などの記述からです。
 さらに、十字架にマリアが立ち会っていることや、弟にあたるヤコブやシモンが聖書の書簡を書くほどになっています。またマルコ6章3節にイエスが<マリアの子で>とあるのも、周囲の人々の中には、イエスを私生児視していた人がいた証拠になります。

 私生児ということが出てきたので関連しますが、ユダヤ教のタルムードではマリアは淫婦だったので私生児イエスを生んだとしています。もしそうならば、婚約者ヨセフは決して結婚しなかったでしょうし、イエスに続く6人の兄弟もなかったことでしょう。さらにまた12歳になって、多くの連れの一員としてイエスが都詣ですることもなかったはずです。

 最後にイザヤ7章14で聖書が処女降誕を預言していました。ですからこれは預言の成就でした。また出生地もミカ5章2-5節にあり、神は時のローマ皇帝すら用いて、160キロも離れていたナザレから移動させ、ベツレヘムで生まれるという預言を成就されました。

 これらのことをまとめるなら、ルカ1章37節の「神にとって不可能なことはありません」という天使の言葉を信じるのが、神を信じる者としての唯一の妥当な結論になります。これを信じない者は、自分の考え、判断を聖書より優先しており、不信仰に該当します。

2018年11月 4日 (日)

2019年度のみ言葉

マタイ 13章23節     【新改訳2017】

ガリラヤ湖新年礼拝パウロ秋元牧師メッセージ

 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

 皆さんは良い地なので、神を信じ、永遠のいのちを与えられる恵みにあずかりました。ここで「悟る」とは理解するということで、良い地とは心から神を信じるクリスチャンのことで、福音を聞いて理解し、悟って信じた人のことです。そのような人は神の子であり、100倍、60倍、30倍の実を結びのです。2019_2

 一つここで気になる言葉として、「本当に」とあるのは、それが当座は疑わしく思えるものだからです。しかし神から与えられたみ言葉や使命を、人間的な思いを遠ざけ、何があっても握り続けて手放さない限り、それらは成就するものなのです。疑わしく思える、それを「本当に」と言い表しているわけです。

確かに、神が語られたり、示された言葉を見る時、自分の能力や状態を見て、「あり得ないことだ」とか「そんなことが成就するのだろうか」と不信仰に陥ってしまう人がいることでしょう。確かにこの世の目で見、基準で見たならば、自分には不可能なことでしょうし、希望を持つのは愚かなことなのかも知れません。しかし、神の目は全く異なります。

主が見られるのは、神の言葉に忠実に立ち、悟り、対応しようと心に定めているかどうか、その信仰を見られるのです。その人の信仰を見る時、将来性が神のみ心の通りに広大なものとなります。そして神の偉大な力と言うものは、その人を通して現されて行きます。そのことはアブラハム、モーセ、ダビデと聖書がはっきり証ししていることなのです。神は神ご自身が地上に出て働かれるのではなく、皆さんお一人お一人を通して神は働かれるのです。

ですから神を信じ、聞き従いをさらに強めて行きましょう。自分に与えられた使命を全うできるように祈り続けましょう。それが神から来たものである限り、実となって必ず成就するのです。時が近づいています。皆さんは、これから大きく用いられ、100倍、60倍、30倍となって大きな実となって、祝福されるのです。

2018年9月30日 (日)

来てください

黙示録 22章17節     【新改訳2017】
御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。

私たちは神の子どもだ。だから神の護りがある。患難時代の後半は携挙によって守られるが、前半も私たちはあらかじめ、何が起こっていくかということを知らされるので、守られて行く。
そのことを例えれば、地震や津波にいきなり遭遇するのと、そのことをあらかじめ知っていて対応するのと同じぐらい、決定的な違いがある。聖書を信じるならば、次の三つの地震を知ることで、患難時代に目を醒まして備えることができる。

1回目の地震は封印の六つ目が開いた時。ヨエルの預言が成就するので、ここから後の雨、終末の大リバイバルが始まるかも知れない。

2回目が第六のラッパが吹かれた時。この時の地震はエルサレムなので、「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、イスラエルに大規模なメシアニック化が起こるのかも知れない。仕上げのように、携挙がすぐ後の第七のラッパと共に起こるので、
私たちはこれ以降を天から見ることになる。
3earthquake_8
3回目の地震はその後、第七の鉢が地にぶちまけられてからで、再臨があり、イスラエルを中心に、地球の様子がすっかり変わってしまうほどの地震が起こる。これを機に千年王国が始まり、ゼカリヤ14:16にある「諸国の民が礼拝をしに上ってくる」ようになる

2018年5月20日 (日)

パウロの誓願

使徒18章18節
パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。

第二回の伝道旅行で1年半という長い期間コリントに居たパウロは、エルサレムの事情が知らされたのでしょうか、急いでエルサレムに行こうとします。コリントから丘を越えたエーゲ海側の町ケンクレア髪を剃りました。私たち日本人的な感覚では、何らかの願い事が生じて髪を剃って=誓願を立てた、とこの箇所からは受けがちです。実は反対です。聖書【民数6:1-5】によると髪を剃るのは、誓願が終わImg_0848_2ったからです。

さて私は以前からパウロがどんな誓願をしていたのか、かなり気になっておりました。今回の聖書通読で、その一端がわかってきたように思います。パウロは異邦人の使徒とされていますが、実際にはパウロは同胞ユダヤ人が救われることを第一にし、そこが閉ざされると異邦人に行ったのです。福音は先ずユダヤ人に宣べ伝えられなければならなかったのです。パウロは新しい目的地に着くと、真っ先に会堂を捜し、安息日にはその会堂でイエス・キリストこそがメシアであると、いつも命懸けで語りました。

今でもそうですが、ユダヤ人は捕囚以後、
世界各地に住まざるを得なくなりました。当時のローマ帝国内各地には、会堂を中心にしてユダヤ人が共同体を営んでいました。パウロたちも知らない土地でのとっかかりとして、同じ神を信じているユダヤ人の方が伝えやすかったということもあったことでしょう。実際、その結果として当時のクリスチャンのほとんどはユダヤ人だったようです。しかしユダヤ人と異邦人との間には、同じクリスチャンでありながら…パウロがマルコに割礼を受けさせなければならなかったように…非常に大きな壁がありました。

エルサレム会議以降、異邦人はユダヤ教への改宗を意味する割礼を受けなくていいことになりました。ところがこれは、ユダヤ人クリスチャンまで律法から解放されることではありません。特例的に容認されただけなのです。つまり教会内に、安息日の過ごし方、律法に規定された食事など、まったく異なる二つのグループが存在するのです。初期エルサレム教会で、ギリシャ語を使うユダヤ人(つまり外国育ちの同じユダヤ人)のやもめたちがなおざりにされて七人の執事が誕生しましたが、さらにユダヤ人と異邦人となれば、もっと大きな問題が生じたことは間違いありません。これはエルサレム教会だけでなく、すべての教会での一大問題でした。そこでパウロが願ったこととは、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく、共に一つの御体となって教会形成することだったのではないでしょうか。
しかし誓願を立て、コリントに長逗留している間、パウロに聞こえて来たのは願いに逆行するエルサレム教会の律法主義化でした。A.D.50年ごろからイスラエルは、反ローマの民族運動がますます高揚し、66年にはついに戦争が始まります。そのような渦中にあるエルサレム教会は、存続をかけてますます律法に熱心になって(使徒21;20)行った・・・・パウロの願いとかけ離れたものになって行きました。

もはやエルサレム教会にとって、ユダヤ人と異邦人の分け隔てなく信仰義認の福音を語るパウロは、律法をおろそかにさせる、非常に困った人物になっていたのでしょう。神の計画は福音をユダヤ教から別離させ、キリスト教として全世界の民を救うことでした。パウロの誓願を超えて神の計画は大きく、パウロはそれを知って「みこころのままに(参考:使徒18:21、22:14)」と誓願を取り下げた、と理解するのは如何でしょうか。事実、急いで行ったエルサレムにおいてパウロは、その現状を確認したようで、もはや挨拶だけをしてアンテオケに帰るしかなかったのでした。

どんなに祈っても、しばしば自分の心からの願いや祈りが聞かれないことがあります。しかしそれには最善の神の計画があるためなのです。ここでは神を信頼し、委ねていくパウロの信仰を見るのです。

2018年4月22日 (日)

主を愛する人

ヨハネ 14節21節
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。

 今日の聖書通読箇所ヨハネ伝の14章は、イエス様の遺言とでも言うべき重要な所です。ですからこの重みあるみ言葉をしっかり受け取りたいと思います。
 1節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」
 今はまだ私たちは世にありますから、どうしてもいろいろと心騒がせることから避けられません。しかし、私たちの心の王座は主のものです。どんな不安や心配があったとしても、神を信頼し平安を奪われないようにしましょう。「明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します(マタイ6:34)」信じればその実質が現されていきます。
 この14章では四人の弟子(ペテロ・トマス・ピリポ・ユダ)が主にイエスに質問しています。私たちは彼らのおかげで、人間的な視点の過ちに気づくことができます。「主よ、何処へ?」と問うトマスやピリポに対して主は、三位一体の奥義、父と子とは一つであることを語られました。
 これに対し、ユダの質問は、どうして敵対するパリサイ人などに対してご自分が神であることを隠されるのかというものでした。前の水曜礼拝後、A姉妹が実に良い質問をされました…ヨハネ10章の33節で、詩篇82を元に「みこころを行う人は皆、神の子である」と、自分が神であることをすり替え、冒涜と詰め寄る彼らをおかわしになった所です。
 イスカリオテのユダとは別なユダですが、彼の背景として主に対しては別なメシア像、ローマの圧政からの解放と救いをもたらすメシアをイエスに期待していたと思われます。その彼に対して主は聖霊の恵みを語られました。一見するとこれは頓珍漢のように思えますが、そうではありません。主はユダの意図に対し、ご自分が受難のキリストであること、その受難とは全人類の罪を赦し、信じる者に聖霊を与えるためであることを説かれたのです。それ故、地に争いでは無く、「平安」を与え、残すと締めくくられたのです。
 そういうわけで最後は聖霊様の話になりました。聖霊様のことがここでは神ご自身によって具体的に描かれています。聖霊はまず私たちの「助け主」という存在です。   
①信じる者には聖霊の内住がわかり、いつまでも住まわれ見捨てられることはないこと。
②聖霊はすべてのことを教え、思い起こさせ、導かれる。
③その結果、主の言葉(互いに愛し合うこと)が聖霊の助けによってできるようになる。
 聖霊様を私たちにくださるために、主は十字架と復活、そしてペンテコステへの道を歩まれたのです。その聖霊様と、臨在を心を熱くして求めないわけがありましょうか。

2018年2月11日 (日)

十字架を背負わされた男

マルコ 15章21節
そこへ、アレクサンドルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出てきて通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。
 
 皆さんの中には、自分が「もっとお金があったら」「この病がなかったら」などと思っておられる方はいませんか。今現在、大きな試練や困難に遭っている方もいらっしゃることでしょう。今日はそのような受け止め方はクリスチャンとしては間違っていること、そして神の祝福を十分に受けるにはどうしたらよいかを知っていただきたいと思います。
 
 つまりマイナスと思えるすべてには神の祝福の計画があり、それが自分の人間的な願いと異なっているので、結果として祝福を受け取れないことが最大の問題なのです。
 
 北アフリカのクレネから、はるばるエルサレムでの過越の祭を守りに来ていたシモンに、この典型例を見ることが出来ます。祭りの直前、街を歩いていたシモンは、ローマ兵を先頭にした何やら怖そうな一団に出くわしました。何だろうと見物の最前列に出てみると、十字架を担いでいた男が自分の目の前でよろよろと倒れてしまいました。するとローマ兵が自分を指して、代わりに「十字架を担げ」と理不尽にも言うのです。何の関わりもない自分が、どうして血でそまった重い十字架を担がなければならないのでしょうか。しかし逆らうことができない時代です。こうして不運にも十字架を担ぐことになったシモンでしたが、これがシモンへの人生を一変させ、大きな祝福を受けるできごとになりました。
 
 このクレネ人シモンの出来事は、共感福音書すべて載っていますが、マルコの福音書だけが「彼はアレクサンドロとルフォスの父で」と簡単に付け加えています。つまり二人の息子は、わざわざ断る必要がないほど、当時の各教会に知られた人物になっていました。どういうわけで知られたのでしょうか。次のような経緯が容易に推察されるのです。
 
 前夜、ゲッセマネの園で祭司長たちによってイエス様が捕縛された時、弟子たちはみな主を見捨てて逃げ去ってしまいます。処刑の現場では婦人たちは遠くで見守っていましたが、イエス様の息づかいまで聞こえるほどの距離に居て、その最後をつぶさに見届ける証人となったのは、このシモンだけだったと想像されます(ヨハネ伝によれば、「愛する弟子」が居たとされています)。なんと十字架上のイエスの七つの言葉を直接聞いた証人として、このシモンが用いられたと推察されるのです。
 
 二人の息子は、父から聞いたイエスの最後の様子を、全世界への証人として語り継いだのでしょう。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません(ルカ14:27)」というイエスの言葉を、シモンは文字通り行った者となったのです。「理不尽」だと感じた不運には、素晴らしい祝福が用意されていました。

2018年2月 4日 (日)

クリスチャンの裁き

コリント 3章16節
 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
 
 クリスチャンであっても、罪は犯しますので世の人と変わらないのですが、そのことを常に悔い改め、罪赦された罪人である点が大きな違いです。ただし罪を犯し続けることは神のみ心ではありませんから、神の恵みによって結果として罪から遠ざかることになります。大事なことは、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに十字架に架かってくださった事、それによって罪が赦され、全く無かった者として天国に入れると聖書にある(ローマ10:11-13)ので、これをしっかりと信じることがポイントになります。
 
  ところがクリスチャンにもあたかも「裁き」があるかのように書かれています(1コリ3:12-16)。ここで「(人の)建てた建物」とあり、これはクリスチャンが天の都へと期待して地上で積んだ「天の宝」を指していると思われます。11節によるとこれは神の土地、畑(土地の所有は神)に、イエス・キリストが土台なので、その人自身は必ず住めるのです。ただし、どんな家に住むのかは地上での宝の積み具合によるようです。
 
 各自が地上で不燃性の金、銀、宝石で宝を積むならば、天に行く時、それは燃えずに持って行けます。しかし人が地上で金、銀、宝石だと思っていても、天国には天国の基準があって、そのチェックが「火の中をくぐる」と言われているのです。ですからこれは例えて言えば、飛行機内への持ち込み荷物検査のようなものだと言えましょう。座れる席は確かに在って乗れるのですが、携行する荷物が判定され(裁かれ)るのです。
 
 ここで問題になるのは、何が燃えて何が燃えないものかということです。私の見方では、それは <御心を行ったかどうか> だと思われます。神のみ心は聖書に余すところなく書かれてあります。
「まず神の国と神の義とを求めなさい」。「隣人を自分のように愛しなさい」。「あなた方は互いに愛し合いなさい」。「自分を捨て、自分の十字を負って神に従いなさい」・・・・などなど。
 
 これが実際には私たちの弱さがあって難しいわけですが、そのためにも十字架で死んでくださったのです。イエスキリストの死と復活の力により、聖霊が私たちに与えられました。私たちは弱く、不可能と思えることでも、神によって私たちは何でも出来るのです。

2018年1月14日 (日)

神の働きと恵みを見る時代

ヨハネ 5章4節
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 
 三日前の木曜日のケパドルブログ、「僕の体は洋服のようなものだから」でお伝えしましたが、八歳の子どもでも自分の体は一時のもので、この体を脱ぎ捨てて着る新しい永遠の体があることを知っています。そして今聖書の通読箇所が黙示録の6章、ちょうど患難時代の幕開け、イエス・キリストによって1から6までの封印が開かれた所です。
使徒で真っ先に殉教した兄のヤコブに対し、イエス様に愛された弟のヨハネは使徒最後の殉教者になりました。ヨハネは小アジアの監督であるとともに、未来を描く黙示録の著者になりました。
「この後、必ず起こることをあなたに示そう」と言われて書いたこの黙示録、二千年の時を超えて、いよいよその時代が現実のものとして迫ってきたようです。イスラエルの復興がなり、何のことか分からなかったローマの復興が形を整えてきました。ロシアも中東に進出しています。これまで難解過ぎ、単なる形而上的なもの、暗喩的なものとされて来た黙示録が、これほど明らかに見えてきた時代はないのです。
 
 黙示録にある患難時代というものは、「定められた絶滅が荒らす者の上にふりかかる(ダニエル9:27)」という、サタンに属するものへの審きの時です。天変地異、戦争や飢饉が全世界を覆い、75億いる人類が前半の3、5年だけで1/4(残75%)と1/3(残50%)=半分も死ぬことになるという、超すさまじい時代となります。しかし空中再臨までの前半の時代は、患難とともに世界中での大リバイバルの時代となり、逆に神の力と誉れ、栄光が豊かに現され、霊とたましいの大収穫の素晴らしい時代となります。人は苦しみにあわないと神を求めないのは、変わらない真実です。この時、私たちクリスチャンは最高に用いられ、証しする機会となります。
 
また、空中携挙は「地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、次に来るサタンが支配する後半の大患難時代から私たちが守られる意味もあります。ですから患難時代というものは、世の人々にとっては最悪、しかし私たちクリスチャンにとっては、代々のクリスチャンが待ち続けた<すばらしい時代>です。また怖れることはありません。「地上Photo_3に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る(黙示録3:10)」とあるように、私たちは来るサタンの後半時代から守られますし、「あなたがたを、耐えられないほどの試練にあわせることはなさいません(1コリ10:13)」と約束してくださっています。神の言葉を信じましょう。
 
本日は聖書に即して書かれた「せかいのおわり」の巻末にある、三枚の図表を元にこの時代に起こることを学ンで参ります。   
・・・・・・以下は図表の講解・・・・・・
 ポイントを申し上げましょう、まず神を愛し、天国に期待しましょう。神がまず私たちを愛してくださったからです。次に携挙の三条件ができるようしっかりと祈って求めて行きましょう。これはみ心ですから、祈れば必ず与えられるのです。

2018年1月 1日 (月)

私たちの行き先

マタイ 11章12節  (1月1日特別礼拝)
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
私たちの年度はすでに三ヶ月目に入っていますが、暦の上では今日からです。そこでもう一度振り返って、前進をし続けたいと思います。

 アンテオケ教会の動画「クリスチャンのキーポイント」での最近作、「天国と地獄」がありました。これは過去から将来のへ私たちの行き先を表した、非常に重要なものでした。

当然ながら、これはすべて聖書を根拠とした、ほぼ確実なものです。 ところが他の教団、教派では不思議なことにこれまで多く触れられていません。その理由については長い間その中にいた者として、見当がつきます。これは実に残念であり、気の毒であるとすら思います。そしてこの群れに導かれた恵みを実感します。Photo_3
さて本題に戻りますと、図での「アブラハムのふところ」から新しいエルサレムに引き上げられる所に、少しだけ時間差があるように見えます。その理由に当たるのが本日の聖書箇所です。今から二千年前、イエス・キリストが来られて、いよいよ天国(新しいエルサレム)が近づいて来ました。これを待ち望んでいた人々は先を争ってこの天国に入ろうしました。このことを「激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と刺激的な表現で述べているのです。

天国が攻められ、奪われそうになって危うい」という解釈は笑い話ですが、確かに飼い主たるイエス様が来られたことで、囲われていた羊の群れが朝焼けの門の出口に殺到し、朝一の草を先を争ってせめぎ合っているとの情景描写は、素晴らしい表現であったと思います。イエス様が十字架に架かり、復活された瞬間、新しいエルサレム、つまり天国が完成しました。少し時間差がある理由は、イエス様が黄泉に下られ、復活されるまでの三日間のことでしょう。お間違えのないように、天国は今はまだ見えないかも知れませんが、今の血肉ではなく、御霊のからだ、実際の体がある所なのです。
さて、十字架によって贖いが成し遂げられて以降、クリスチャンには天国へ三回のチャンスがあります。一つは患難時代の真ん中に起こる空中携挙です。まず最初に先に死んだ人たちが、次に生きながら私たちが御霊のからだに変えられて行きます。これは第七のラッパが鳴った瞬間に起こります。次に携挙に取り残されたクリスチャンは、引き続いて起こる後半の大患難時代にほとんど人が殉教します。七年にわたる患難時代は再臨のキリストで終わりになります。オリーブ山に再臨されたキリストが、エルサレムを取り囲んだすべての敵の軍を討ち滅ぼし、黄金門を通ってエルサレムに入城されることを地上再臨と言います。その時、最後に収穫という形でクリスチャンが二度目の天国入りをします。

私たちが直接関係するのは、キリストの地上再臨までですので、以後の千年王国や最後の審判、いのちの書の内容はメッセージではしましたが、この要約では割愛します。
いずれにしても、大切なのは天国への渇望であり、その信仰です。「激しく攻める者たちがそれを奪い取って」とは、まさに信仰の現れです。私たちの群れでは携挙の三条件とも言いますが、畢竟それは「表裏ない忠実」さとか「聞き従い」という信仰が土台です。皆さん、天国へご一緒に参りましょう。私たちは地上では寄留者であり旅人です。最終的な目的地、天への道を共に励まし合い、支え合って参りましょう。

2017年11月19日 (日)

信ずべき書である理由

マルコ  11章22節
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

信仰とは「御言葉を信じる」ことであり、聖書を神の言葉として信じ受け入れることです。神からの預言も、聖書によって吟味されなければなりませんので、聖書が神の言葉の中心です。クリスチャンの中に、聖書がよくわからない、あまり親しみを感じないという方がおられますが、それは祈り求めてくださって、ぜひ御言葉を心の支え、生活における日々の羅針盤として大好きになっていただきたいと思います。
 
 一つだけあえて言えば、聖書は神の言葉です。ですからただの書物ではありません。自分の理解力に頼らず、神に対し「聞く」という態度で接し、祈りと聖霊の手ほどきを求めて読んでいただければと思います。

 ルカ16章に金持ちと貧しかったラザロの話があります。そこでは「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31)とあるように、たとえどのような奇蹟やわざを見せられても、聖書を信じずして神を信じることはできないのです。信仰の前に、まず「聖書ありき」なのです。
 私が大学を卒業し、燃えるクリスチャンとして広島に帰った時の話です。広島という地域の大きな教会でしたが、その信仰はどうみても退廃していると思える教会がありました。私は不遜にも、教会内リバイバルを興そうとそこに飛び込んだ経験があります。しかし私はいくつかの難題を突きつけられることになりました。その最大のものは、聖書に対する人間中心で理解する態度でした。彼らは非常に論理的な命題を突きつけ、聖書の問題点、誤りとしか思えない所を指摘してきました。人間に過ぎない者が、神の言葉と思えるものを選び取捨選択していたのです。
 
 当時の記憶が定かでないので、今となってはそれがどこだったのか思い出せませんが、本日はそのように見える三箇所を挙げたいと思います。
 まず第一に「数字が間違っている」所です。ステパノが殉教することになった議会での証言として、出エジプトでの人数が「75人」とあります。しかし創世記46章ではこれが66、70人と出てきます。聖書は間違っているのでしょうか?もちろん神の言葉である聖書は間違ってはいないのですが、その説明をいたしましょう。(文量の都合上、この後と、第二、第三の例は割愛する) こういうわけで私たちは思慮の足りない自分の知恵や理解力だけで、神の言葉である聖書を判断しないようにしましょう。
「聖書は誤りなき神の言葉」です。