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祈り

2024年3月17日 (日)

内なる霊の戦い

ローマ 12章2節   新改訳2007
この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
 霊の戦いと申しますと、高い山、街なら高いビルに上って、辺りを見回しながら賛美し、御言葉を置きながら霊の縛りをするイメージが多いかと思います。または家の中にある偶像とか地域の霊に対してもいたします。しかし本日の「内なる霊の戦い」とは、外的なものに対してではなく、クリスチャンである自分自身に対してです。
 私にも数は少ないのですが、悪い夢とか思索に、明らかに悪霊的なものがあって、それからなかなか脱出できず困った時があります。そのような時、「イエス・キリストの御名によって命じる、神のしもべである私から出ていけ!」と命じますと、すーっとその縛りから解放された経験が一度や二度ではありません。これは端的な例ですが、そこまで行かなくても、毎日、毎朝に起こる、自分自身を見つめ、本当に御心の生活を送っているか、内面へのアプローチが絶対に必要です。それを少しオーバーな「戦い」と表現してでも、強く進める必要があると示されました。
 内なる霊の戦いとは? ズバリ、それは日常の生活において、いかに主と交わり、生活の中で御心を行おうとしているかです。クリスチャンは神の霊を注がれ、注がれた神の力によって歩んでいる者です。イエス様もそうでしたし、イエス様に倣う私たちもそうでなくてはなりません。それを実現し、推進する力が祈りです。祈りの中で神の語りかけ、霊の注ぎかけを受けるのです。ですから毎朝の心からの祈り無くして、クリスチャン生活とは言えないはずです。
 当然ながら、このようなクリスチャンライフは、世の霊と激しく戦わなければならない宿命を負っています。睡眠不足だけでなく、時にクリスチャンは微妙な綱渡りをしている感覚に襲われます。自分に自信を持ち過ぎ、高ぶると罪を犯しますし、逆に自分には力がない、と否定的になっては証し人になれません。そこに微妙なバランスが必要です。
 先週は「老いてこそ」というテーマで、肉体が滅びに向かって進んでいく、それが天への熱い思いを強くし、自分に死ぬことが難しかった罪深かさが次第に清められていく、そのようなことを話しました。神は私たちが本当に神を愛しているのかを、絶えず確かめずにはおられない方です。十字架で心から愛されたのですから、愛された方も当然真剣で命がけでなければなりません。夫婦でも一方が浮気してとして、それでお互いの関係が全然変わらないのでは偽りの夫婦です。そのように神は私たちを妬むほど愛してくださっているのです。十字架でどんなに救われたといっても、神との交わりが無く、御心がわからないというのでは、その人は継子です。
 その交わりを実現させるもの、それが日々の祈りに他なりません。あなたがどれほど祈りに心を砕き専心しているか、それこそが<日々の霊の戦い>です。これに勝利をとりましょう。

2024年2月25日 (日)

いのり

マタイ 6章6節   新改訳2007

あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 私たちの神、創造主は広大な宇宙やその中で唯一水の惑星である地球、そこにありとあらゆる生き物を造られ、最後の最後に人を造られました。人はそれまでの特別な存在、霊肉合わせもった被造物(創世2:7)でした。霊だけの天使もありますが、霊肉を併せ持つという点に最大のポイントがあります。
 肉は必ず終わりますが、終わるまではその命を懸命に守ろうとします。これは肉の命を持つものすべてに備わっている強固な本能です。しかし霊にとって罪に当たります。霊は肉には見えませんが、見えない霊は滅びず永遠の存在です。物質でないからです。そこで肉体の命という限定条件下で、十字架によって肉体にある罪を赦され、神と和解して霊を回復できるかどうかが最大のポイントになります。人は誰でも永遠の霊を持っていますが、死後、天と地への二分(黙示20:12ー15)は避けて通れません。聖書ではこれを最後の審判と言います。
 では霊肉併せ持った人の命を創造された、神の創造の目的とはなんだったのでしょうか?それはズバリ、子として交わる者を得るためです。天に行く人の子は全員、誘惑や試練困難を受けてパスした子ですから、そんな試験の無かった天使よりも地位は高い(ヘブ1:14)のです・・・

 神は愛と聖のお方です。そのお方の子として交わるには、当然同様な性質が必要です。そのために神はイエス・キリストを地上に送り、十字架上で人類のすべての罪を背負わされました。悔い改めて信じるならば罪赦され救われるのです。ただ一つ、問題は本当に罪がわかり、悔い改めて肉に死んだか、です。しかしこれにも明確なしるしが伴います。聖霊のバプテスマに続いて注がれる神の愛(ガラ5:22-23)、その結果として聖霊の賜物(1コリ12:1-10)という実が結ばれていくことです。
 天の父との交わりを、この地上で営むことを<祈り>と言います。地上の親子でも、顔を合わすたびに「○○欲しい、○○してくれ」とばかり要求する関係はいびつです。たまにはあるでしょうが、祈りは要求し、引き出す交渉の場ではありません。何よりも愛する神と交わる場なのです。ただ生まれたての赤子が「おっぱいが欲しい、お尻を快適にして欲しい」と絶えず要求ばかりしますが、赤ちゃんのままのクリスチャンも同様な傾向があります。人の子どもが成長するように、クリスチャンも成長し、交わりの中から父の御心がわかり、父の御心が行えるように成長しなければ、天の父をがっかりさせてしまうのです。祈ることがどんなに楽しく素晴らしい恵みか、それは皆さんの「祈り」の成長にかかっています。

 最後にお勧めしますが、一日の内で祈る時間を最優先にしましょう。就寝前の祈りから1時間の早天の祈りを大切にしましょう。それには就寝時間がポイントです。「明日のことは明日が心配します」(マタ6:34)。クリスチャンは御言葉と祈りに生きるのです。

2023年12月17日 (日)

彼らはわたしの民となる

ヘブル 8章10節   2017新改訳

それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 私たちの教会は、イスラエルに重荷がある教会です。聖書は神のことばなので、そこで語られて来た預言は、これまで外れたことがないばかりか、これから起こる事を知らせ続けるのです。今ほど聖書で語られた終末に「世界は非常に近づいている」と感じさせられることはありません。

 さて私たちの教会は「イスラエルに重荷がある教会」です。重荷とはなんでしょうか。それは終末期、二つのことが起こると預言されている二つ目のことです。つまり一つ目はありえない出来事ですが、二千年の時を経て、再びイスラエルの国が再興されたことで、1948年に成就しました。
 次は未成就の預言ですが、エルサレムに第三神殿が建ち、イスラエル人がとうとうメシアニックジューになるというものです。従って私たちはユダヤ人のメシアニック化に向け、現在ではまだ少数派の彼らと連携を取り、毎年イスラエルを訪問しながら関係を深めて協力体制をとっています。終末の最後段階では、全世界に福音が、そして日本がリバイバルが興り、仕上げにイスラエルが主イエスをキリストとして信じるリバイバルが起こされることを期待して祈り続けているのです。
 10月7日、イスラエルにとって驚くべき悲劇が起きました。ハマスによる奇襲攻撃であり、その虐殺の手口から、憎しみに支配されたテロリストの本性、非人間性が明らかになっています。これは今やイスラエル国の存亡をかけた戦いとなって二ヶ月余り、ガザでは2万人以上の犠牲者が出て、国連でイスラエルへの避難決議がされています。そんな中、私たちはイスラエルへの重荷をどのようにして担えば良いのでしょうか?

 まず第一にはっきりさせたいことは、どちらが始めたか、ということです。イスラエルの歴史上独立戦争に次ぐ犠牲者を、それも民間人に対する残虐な奇襲攻撃をしたのはハマスです。日本も真珠湾攻撃をして奇襲しましたが、軍に対しでした。しかしハマスは音楽祭に参加していた人々、ガザ近くに住んでいた一般市民を1500人あまり犠牲にしたのです。しかも250人の捕虜までぶんどりました。日本は東京大空襲や広島、長崎への原爆まで落とされ無慈悲な数十万の犠牲者を出しましたが世界にアピールなどしません。しかしガザの状況はニュースで映し出します。犠牲者が増えることには痛みを覚えますが、しかしこれはテロ組織ハマスに利用されているのです。
 爆撃したところの地面によく大穴が空いていますが、これは地下に大きな空間があったことを意味します。そして建物内での死者が多いのは、警告されても避難しないよう脅されるからです。つまり、純粋な戦闘員以外の死者は、守ってくれるはずのハマスによって間接的に殺されていると見るべきでしょう。民主主義国のマスコミを利用し、有利な状況を作り出そうとするテロリストの戦略です。日本と違って欧米のマスコミが報道に控え目なのはこの点からです。

 私たちはテロ組織のハマスが倒されること、ハマスによってガザの人々がこれ以上犠牲になることがないように祈り、またマスコミがハマスに加担することなく、報道することをも祈りましょう。

2023年2月12日 (日)

罪人の祈り

マタイ 6章7節  2017新改訳

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

 神を信じる者にとって祈りは非常に大切で、信仰生活の生命線と言って良いでしょう。しかしその祈りが「お百度参り」や「お寺の境内で鈴を鳴らして祈願する」ような、ただ誰にでもある宗教心満足させるだけような、気休めのような祈りであってはなりません。そもそもどうしてそうなるかと言えば、祈りが神に答えられないからです。それに慣れていて、どうせという、諦めムードで祈る。また、ただ習慣的に祈りをしているだけ・・・これらは神を真に信じた者の祈りではありません。

 どうして祈りが答えられないのでしょうか?それは、祈る者が次のような者だからです。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します(ルカ18章11節)
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』ルカ16章30~31節
 ここで述べられているのは、他者を裁き、あわれみを欠いた生き方をした人々の例です。両者に共通しているのは、自分の罪がわかっていなかったということです。このような方々がどんなに祈っても、神を知り、体験することは不可能です。

 では私たちにとって罪とは何でしょうか?刑法という法律上の罪はもちろんですが、聖書のイエスさまの言葉からは、心の中の悪しき思いである妬み、憎しみ、恨み、よこしまな思い(要説明)だけにとどまらず、高慢や自己中心性、あるいは自分自身のプライドですらも罪に当たる。とすれば、この世の人々は、いや自らをクリスチャンと称している人であっても、神から見ればすべての人に罪があり、ゲヘナに落ちるべき存在なのです。

 それゆえ、聖なる神に祈り、近づこうとする者は、先ずもって自分の罪を告白し、徹底的に悔い改めねばならない。そして罪を赦されるため、神のあわれみを願い求める真摯さが前提となる。そうすれば、もしかして、神があわれんでくださるかもしれないのだ。祈りの答えは祈る者の霊性が問われるのだ。そのように祈る者には一つの特徴がある。祈りにおいて、ただ神の御心のみを求める点である。「罪人の祈り」とは、罪人が、それでも私たちを愛しあわれんでくださる神に感謝し、ただ御心を求め続ける祈りに終始する。そしてそれに神は答えてくださるのである。

2022年7月24日 (日)

祈りについての教え

ルカ11章9節   2017新改訳

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 白馬本キャンプの二日目の早天聖会で、非常に興味を惹かれる二つのメッセージがありました。一つは問題や困難にあっても、この後に来る神の計画と栄光に比べれば、産みの苦しみであり、現状は取るに足りないことだと神を一層信頼するメッセージでした。
 続いてメッセージは、しつこく神に祈り求めることで願いは叶えられていくと、あくまで自分の願いを求め続けることで叶えられていくとされたのです。
 この二つのメッセージはどちらも聖書的には正しいと言えますが、真逆のことを言っているように思えます。困難に対し、神の大きな計画に委ねて行くものと、反対に真夜中であろうと隣家の友人を叩き起こしてパンを手に入れる。表面的には正反対のメッセージだったからです。

 ルカ伝11章でイエス様は「主の祈り」に続いて三つの教えを語られました。先ほどの非常識な隣家の友人などに続いて、締めくくりになる13節にこう語っておられるのです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と。つまり天の最善の贈り物とは聖霊なのです。聖霊のバプテスマに優る神からのものはないのです。

 さてそれでは、先の二つのメッセージに戻っていきましょう。実は両者は全く矛盾していません。何でも神に祈り求めても良い、確かにその通りです。しかし非常識な友人も、シドン人の女も、いずれも自分のためではない、執り成しの祈りでした。損得のない、友達や子ども・・・・つまり「隣人愛」によるものですから、神に聞かれるわけです。
 ところが自分に対してはどうでしょうか。これには御心を損なう自己愛という罪のハードルがあります。ヤコブの子ヨセフの試練困難も、自己愛を打ち砕き、星や砂の数ほどの国民をつくる、神の約束の計画の成就にありました。この訓練パターンは、使徒パウロに至るまで、神が用いようとした人物への変わらぬ訓練課程です。
 私たちはしつこく自分のことを祈り求めて良いのです。祈りに導かれるならすべて良し、なのですが、霊的な乳幼児に対してと、愛と訓練が必要な子ども時代、聖霊のバプテスマを受け、新生し、神を知り、交わり、神への愛から御心を行おうとする青年期とでは、それぞれに神の対応が異なっているのは、むしろ当然のことです。
 大切なことは、何があっても幼子のようにひたすら神を慕い求め、愛することです。神は私たちの罪性に必要な訓練を与えられますが、子であればそれが自分にとって必要なことがわかります。ですから私の罪のために身代わりに十字架に架かってくださった父の愛から、この私たちが離れることは決してありません。

2022年7月 3日 (日)

求めなさい。そうすれば与えられる

ルカ 11章9節13節   新改訳2017

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカ11章9節のこのみことばは、「とにかく神に祈って求めれば、叶えられる」と受け取られがちです。しかし祈っても確実に答えられているわけではないようで、失礼ですが人によっては、強迫観念とか願掛けやお百度参りの部類に近いのかもしれません。
 確かに私たちに祈る必要は多く、祈ることは大切です。祈りにいのちを見出し、クリスチャン生活の恵み、醍醐味の一つです。まさに「祈ってナンボ」とすら言えるでしょう。この機会に祈りについて、叶えられる祈りとそうでない祈り、今一度みことばから考えてみましょう。
 
 見落としてはならないのに、この9節の少し後の13節に、このようなことばがあることです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
 ここで神が求める者への与えてくださるもの、それは実際に必要なパンや魚よりも、聖霊だと言われています。聖霊、それは必須で最良のものなのです。それはまるで「(聖霊を)求めなさい。そうすれば与えられます。(聖霊を)探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば(聖霊が)開かれます。(同9−10節)」と言われているようです。

 わたしたちは普段、自他の病いの癒やしや物質的必要、家族や人間関係等での必要に迫られて祈ります。もちろんそれらは必要なことで、わたしたちは神に解決の希望を持ち、期待します。しかし見ようによっては、すべてのことが神に許されて起こる出来事のはずなので、すべて感謝し受け入れているはず‥‥にも関わらず、それでも現状の変更を求めて祈る‥‥明らかに矛盾しています。つまりこのような祈りは肉的な祈りであって、神に聞かれるとか、答えていただけると思ってはなりません。しかし時には神のあわれみによって、時に叶うケースもあるでしょうが。

 聖書ではこのただみこころだけが成ることを次のように言っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。(ヨハネの福音9:31) また次のみことばもあります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる(1ヨハネ5章14節)

 どうして祈りが叶えられないのでしょうか。それはみこころを知ることもなく肉的な祈りをし、神を自分の欲求実現のための召使いにしているためです。みこころは、ご聖霊様を通して知る意外に術はありません。それゆえに神は私たちに聖霊様を求めなさい、聖霊を探しなさいと求める者に聖霊様を贈ろうとしておられるのです。聖霊が私の主となるその満たし、バプテスマを受け、みこころを知るならば、自分の願いや欲求など、実に取るに足りないことであることがわかるのです。

2022年3月13日 (日)

主の祈り

✝マタイ 6章9-13節   2017新改訳

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

天にまします我らの父よ・・ これは、祈る対象が父なる神であることをはっきりさせる意味です。これなくして間違えて、悪霊に祈ってしまうかもしれません。養子とは言え相続権を持つ子ですから、遠慮なく「天のお父さん」と呼びかけましょう。子が「お父さん」と一生懸命呼びかけているのに、肉の父が無視していることはあり得ません。天の父も同様です。ですからどんなに祈っても神が沈黙しておられるとしたら、それはその人がまだ子になっていないのです。

願わくは御名をあがめさせたまえ・・ この箇所は「神様、あなたはあまりにも偉大なお方なので、どうか褒め称え、礼拝させてください」という意味になるでしょう。

御国を来たらせたまえ・・ この箇所は、聖徒にとっては再臨を待ち望む意味です。しかし聖霊のバプテスマを受けていない人にとっては「私たちの心の中に、神の支配が確立し、聖霊の宮である神の国が実現しますように」と言う求めにも受け取れます。しかし弟子たちに教えられたという状況を考えれば、「再臨によって神の国の一員として引き上げられることを待ち望んでいます」になるでしょう。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ・・ 神の御心は聖霊のバプテスマを受け、日々神と交わって知っていなければ、御心を地上で行うことは困難です。広義に見れば聖書での神の計画の成就を願うということでしょう。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ ・・省略

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ・・ 【赦し】はキリスト教の最重要なテーマです。英語でbad debtという言葉があって、それは返済不可能な債務という意味です。私たち人間は皆、気付くか気付かないかは別としてbad debtを負っている。神のあわれみに拠る以外、私たちは全員牢獄行きです。それゆえ、全て神に赦された者は、たとえ自分の命を不当に奪おうとする者に対してでさえ、赦します。さもなければ、私たちへ自身への赦しを失って、御国に行けなくなる最大の損失をこうむります。赦さずにはいられません。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ・・ ここでの試みとはtemptationの意味であり、試練というより誘惑の意味に近い。イブの時代から人は誘惑に弱い。常に祈るべきです。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり アーメン ・・省略

 

2022年3月 6日 (日)

真の祈り

マルコ 1章35節   2017新改訳

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。

 今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。

 神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。

 祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。

2020年9月27日 (日)

祈り

ルカ 6章12節   新改約2017

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。



祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。

2019年10月 6日 (日)

エルサレムの平和のため祈る

詩篇 122篇6節   【新改訳2017】
エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 前半5節までの歌は都上り(都詣で)の歌で、イスラエルの男子は年に三度主の前に出るためエルサレムに上り(出エ23:17など)ましたが、これはその旅の中で歌いつがれてきたものです。それぞれ過越、五旬節、仮庵の祭りと呼ばれていました。Photo_20191015004601

しかしどうみてもこれはダビデの作ではありません。第一神殿の分裂王国の時代、 北イスラエルは国の南北に神殿を築いてエルサレムに行かせないようにしていましたから、都上り自体がイエスさまの時代を含め捕囚から帰還した第二神殿時代のものです。

 さて本題の「エルサレムの平和のために祈れ」ですが、注意しなければならないことがあります。1948年四月に建国されたイスラエルは、百年にわたるシオニズム運動の成果であり、ホロコーストという迫害もあって、奇蹟的に再興されたユダヤ人の国、ダヤ教の国であることです。神の計画の進展、聖書預言の成就という点は肯定できますが、イエスがキリストであることを否定する、未だ救われていないユダヤ教の国なのです。

 イスラエルはまず第三神殿を作ると預言されています(マタイ24:15、二テサ2:3-4)。神殿の周囲と警備はすでにイスラエルのものとなり、実行されるのは時間の問題だと思われます。その後、反キリストが世界の指導者となり、大患難時代の後、キリストの再臨の直前に、世界宣教、福音の総仕上げとして、ユダヤ人に大リバイバルが起こる(黙示1:7、ローマ11:25-26)と聖書からは読み取れます。私たちクリスチャンは、エルサレムの平和を祈る時、このユダヤ人が主イエスこそメシア、キリストであることを信じ救われることを祈るのです。つまり、イスラエル人の霊的救い、その祝福のために祈りましょう。

 次の第二に、エルサレムのオリーブ山に再臨される主イエスが世界を統治されて行きますが、こうしてもたらされる真の平和が、二度と覆されることのない神の主権、平和が実現することを祈ります。
 最後にこれは、そのように霊的にも実際的にも、イスラエルを祝福する祈りです。そのことを最後に祈って終わりにしたいと思います。