罪人の祈り
✝マタイ 6章7節 2017新改訳
また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
神を信じる者にとって祈りは非常に大切で、信仰生活の生命線と言って良いでしょう。しかしその祈りが「お百度参り」や「お寺の境内で鈴を鳴らして祈願する」ような、ただ誰にでもある宗教心満足させるだけような、気休めのような祈りであってはなりません。そもそもどうしてそうなるかと言えば、祈りが神に答えられないからです。それに慣れていて、どうせという、諦めムードで祈る。また、ただ習慣的に祈りをしているだけ・・・これらは神を真に信じた者の祈りではありません。
どうして祈りが答えられないのでしょうか?それは、祈る者が次のような者だからです。
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します(ルカ18章11節)
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』ルカ16章30~31節
ここで述べられているのは、他者を裁き、あわれみを欠いた生き方をした人々の例です。両者に共通しているのは、自分の罪がわかっていなかったということです。このような方々がどんなに祈っても、神を知り、体験することは不可能です。
では私たちにとって罪とは何でしょうか?刑法という法律上の罪はもちろんですが、聖書のイエスさまの言葉からは、心の中の悪しき思いである妬み、憎しみ、恨み、よこしまな思い(要説明)だけにとどまらず、高慢や自己中心性、あるいは自分自身のプライドですらも罪に当たる。とすれば、この世の人々は、いや自らをクリスチャンと称している人であっても、神から見ればすべての人に罪があり、ゲヘナに落ちるべき存在なのです。
それゆえ、聖なる神に祈り、近づこうとする者は、先ずもって自分の罪を告白し、徹底的に悔い改めねばならない。そして罪を赦されるため、神のあわれみを願い求める真摯さが前提となる。そうすれば、もしかして、神があわれんでくださるかもしれないのだ。祈りの答えは祈る者の霊性が問われるのだ。そのように祈る者には一つの特徴がある。祈りにおいて、ただ神の御心のみを求める点である。「罪人の祈り」とは、罪人が、それでも私たちを愛しあわれんでくださる神に感謝し、ただ御心を求め続ける祈りに終始する。そしてそれに神は答えてくださるのである。