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祈り

2022年7月24日 (日)

祈りについての教え

ルカ11章9節   2017新改訳

ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 白馬本キャンプの二日目の早天聖会で、非常に興味を惹かれる二つのメッセージがありました。一つは問題や困難にあっても、この後に来る神の計画と栄光に比べれば、産みの苦しみであり、現状は取るに足りないことだと神を一層信頼するメッセージでした。
 続いてメッセージは、しつこく神に祈り求めることで願いは叶えられていくと、あくまで自分の願いを求め続けることで叶えられていくとされたのです。
 この二つのメッセージはどちらも聖書的には正しいと言えますが、真逆のことを言っているように思えます。困難に対し、神の大きな計画に委ねて行くものと、反対に真夜中であろうと隣家の友人を叩き起こしてパンを手に入れる。表面的には正反対のメッセージだったからです。

 ルカ伝11章でイエス様は「主の祈り」に続いて三つの教えを語られました。先ほどの非常識な隣家の友人などに続いて、締めくくりになる13節にこう語っておられるのです。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と。つまり天の最善の贈り物とは聖霊なのです。聖霊のバプテスマに優る神からのものはないのです。

 さてそれでは、先の二つのメッセージに戻っていきましょう。実は両者は全く矛盾していません。何でも神に祈り求めても良い、確かにその通りです。しかし非常識な友人も、シドン人の女も、いずれも自分のためではない、執り成しの祈りでした。損得のない、友達や子ども・・・・つまり「隣人愛」によるものですから、神に聞かれるわけです。
 ところが自分に対してはどうでしょうか。これには御心を損なう自己愛という罪のハードルがあります。ヤコブの子ヨセフの試練困難も、自己愛を打ち砕き、星や砂の数ほどの国民をつくる、神の約束の計画の成就にありました。この訓練パターンは、使徒パウロに至るまで、神が用いようとした人物への変わらぬ訓練課程です。
 私たちはしつこく自分のことを祈り求めて良いのです。祈りに導かれるならすべて良し、なのですが、霊的な乳幼児に対してと、愛と訓練が必要な子ども時代、聖霊のバプテスマを受け、新生し、神を知り、交わり、神への愛から御心を行おうとする青年期とでは、それぞれに神の対応が異なっているのは、むしろ当然のことです。
 大切なことは、何があっても幼子のようにひたすら神を慕い求め、愛することです。神は私たちの罪性に必要な訓練を与えられますが、子であればそれが自分にとって必要なことがわかります。ですから私の罪のために身代わりに十字架に架かってくださった父の愛から、この私たちが離れることは決してありません。

2022年7月 3日 (日)

求めなさい。そうすれば与えられる

ルカ 11章9節13節   新改訳2017

ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 ルカ11章9節のこのみことばは、「とにかく神に祈って求めれば、叶えられる」と受け取られがちです。しかし祈っても確実に答えられているわけではないようで、失礼ですが人によっては、強迫観念とか願掛けやお百度参りの部類に近いのかもしれません。
 確かに私たちに祈る必要は多く、祈ることは大切です。祈りにいのちを見出し、クリスチャン生活の恵み、醍醐味の一つです。まさに「祈ってナンボ」とすら言えるでしょう。この機会に祈りについて、叶えられる祈りとそうでない祈り、今一度みことばから考えてみましょう。
 
 見落としてはならないのに、この9節の少し後の13節に、このようなことばがあることです。
ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。
 ここで神が求める者への与えてくださるもの、それは実際に必要なパンや魚よりも、聖霊だと言われています。聖霊、それは必須で最良のものなのです。それはまるで「(聖霊を)求めなさい。そうすれば与えられます。(聖霊を)探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば(聖霊が)開かれます。(同9−10節)」と言われているようです。

 わたしたちは普段、自他の病いの癒やしや物質的必要、家族や人間関係等での必要に迫られて祈ります。もちろんそれらは必要なことで、わたしたちは神に解決の希望を持ち、期待します。しかし見ようによっては、すべてのことが神に許されて起こる出来事のはずなので、すべて感謝し受け入れているはず‥‥にも関わらず、それでも現状の変更を求めて祈る‥‥明らかに矛盾しています。つまりこのような祈りは肉的な祈りであって、神に聞かれるとか、答えていただけると思ってはなりません。しかし時には神のあわれみによって、時に叶うケースもあるでしょうが。

 聖書ではこのただみこころだけが成ることを次のように言っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。(ヨハネの福音9:31) また次のみことばもあります。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる(1ヨハネ5章14節)

 どうして祈りが叶えられないのでしょうか。それはみこころを知ることもなく肉的な祈りをし、神を自分の欲求実現のための召使いにしているためです。みこころは、ご聖霊様を通して知る意外に術はありません。それゆえに神は私たちに聖霊様を求めなさい、聖霊を探しなさいと求める者に聖霊様を贈ろうとしておられるのです。聖霊が私の主となるその満たし、バプテスマを受け、みこころを知るならば、自分の願いや欲求など、実に取るに足りないことであることがわかるのです。

2022年3月13日 (日)

主の祈り

✝マタイ 6章9-13節   2017新改訳

ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

天にまします我らの父よ・・ これは、祈る対象が父なる神であることをはっきりさせる意味です。これなくして間違えて、悪霊に祈ってしまうかもしれません。養子とは言え相続権を持つ子ですから、遠慮なく「天のお父さん」と呼びかけましょう。子が「お父さん」と一生懸命呼びかけているのに、肉の父が無視していることはあり得ません。天の父も同様です。ですからどんなに祈っても神が沈黙しておられるとしたら、それはその人がまだ子になっていないのです。

願わくは御名をあがめさせたまえ・・ この箇所は「神様、あなたはあまりにも偉大なお方なので、どうか褒め称え、礼拝させてください」という意味になるでしょう。

御国を来たらせたまえ・・ この箇所は、聖徒にとっては再臨を待ち望む意味です。しかし聖霊のバプテスマを受けていない人にとっては「私たちの心の中に、神の支配が確立し、聖霊の宮である神の国が実現しますように」と言う求めにも受け取れます。しかし弟子たちに教えられたという状況を考えれば、「再臨によって神の国の一員として引き上げられることを待ち望んでいます」になるでしょう。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ・・ 神の御心は聖霊のバプテスマを受け、日々神と交わって知っていなければ、御心を地上で行うことは困難です。広義に見れば聖書での神の計画の成就を願うということでしょう。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ ・・省略

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ・・ 【赦し】はキリスト教の最重要なテーマです。英語でbad debtという言葉があって、それは返済不可能な債務という意味です。私たち人間は皆、気付くか気付かないかは別としてbad debtを負っている。神のあわれみに拠る以外、私たちは全員牢獄行きです。それゆえ、全て神に赦された者は、たとえ自分の命を不当に奪おうとする者に対してでさえ、赦します。さもなければ、私たちへ自身への赦しを失って、御国に行けなくなる最大の損失をこうむります。赦さずにはいられません。

我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ・・ ここでの試みとはtemptationの意味であり、試練というより誘惑の意味に近い。イブの時代から人は誘惑に弱い。常に祈るべきです。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり アーメン ・・省略

 

2022年3月 6日 (日)

真の祈り

マルコ 1章35節   2017新改訳

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

 私が四十代だったので今から25年前ぐらいになる。そのころ私たち家族は癒やしを切に求めていたので、癒やしで有名な某教会のサポートを受けながら「家の教会」をしていた。その教会の礼拝に在る時出席した後に、広い地下室で牧師に祈ってもらったことがある。薄暗がりの下、聖なる卒倒者が続出する雰囲気の中、その牧師は私の額に手を当てて祈って一言、「あなたは祈りが足りません」とだけ言ってくれた。私は一瞬、「この立派な信仰者に祈ってないなんて、失敬な」とムカッとしたが、同時に「確かにそうだ」とも思った。正直もっと祈りたかった。祈れる者になりたかった。しかしどのように祈ったら良いのか、わからなかったのである。

 今でもあの時の私のような方が多いのではと思う。その頃の私の祈りは、家庭内の大きな問題で自分を被害者にし、神に改善の要求ばかりを突きつけていた。それはまるで、プラカードを掲げて押しかけるデモ隊そのものだった。「クリスチャンホームは祝福されるべきなのに、これでは話が違う」「神よ、妻の病を癒してください、それでも祝福の神なのですか」・・・etc。これではほとんど脅迫だった。その結果はもちろん、遠藤周作の「沈黙」そのものであった。神は黙され、大声を上げて叫ぶ私には、一切何も語られることはなかった。

 神は忍耐され、本人が気づくまで待ち続けられた。それも神の愛でもあった。私がついに自分の真の姿を見、重大な罪に気づいた時、その絶望の中で神は、私にぴったりな語りかけで自らを現してくださった。全知全能の神のタイミングだった。神を知ったその日から祈りも開かれた。私は毎早朝、少なくとも一時間は祈る者に変えられた。なぜできるか?祈れば神の応答があり、意思の交わりがあり、神の御性質が戒めと慰めと励ましに満たされるからである。楽しくて仕方がなかった。このような交わりがなければ、決して長い時間祈ることなどできはしない。

 祈ることは素晴らしい。それは神と交わる時のみ得られる。数人で、あるいは祈祷会とか集団で祈ることがあるが、それは神と一対一で交わる祝福には遠く及ばないものだ。イエス様は多忙な中、祈る時には人々を遠ざけ、妨害されない静かな寂しい環境、たとえば山の上や密室で祈ることを習慣にされていた。神ですらそのように祈る時間を大切にされるのに、まして私たちが祈りにいい加減な態度で、どうして義とされるのだろうか。私たちは血肉の世に生きているが、聖書と祈りに生きること、それが結果として御心を行い、神の国の宝を積む唯一の道である。

2020年9月27日 (日)

祈り

ルカ 6章12節   新改約2017

そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

 祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。



祈りはクリスチャンライフの生命線である。そのことがわかっていても、いのちの無い形式的な祈りに虚しさを感じている人や、実際どのように祈ったら良いのかわからなくなっている人、そのような人たちに祈りの基本を今一度学んでみたいと思います。
 まず私たちの救い主、イエス・キリストという方は、神そのものなのに常に祈っておられたように見受けられます。まして人間は常に祈りに身をおくべきなのです。

 聖書では祈りに、二つの土台と三つの要素とがあるようです。「絶えず祈り、失望してはならない」(ルカ18:1、ロマ12:12)ことと、「神が聞いて下さることを信じなければならない」(マタ21:22)ことです。この土台の上に、以下の三つの祈りがあるようです。
 「聖霊によって」とは悔い改め、聖霊の臨在の中で祈ることです。これはみこころを祈ることと同義語になります(ユダ1:20、エペソ6:18)。 
「感謝して」とあるように、私たちを造ってくださり、その上十字架の絶大な恵みによって、贖われた者が私たちです。常に謙遜な祈りと感謝が、いつも湧き出る泉のようになっていたいと願って祈りたいと思います。神は高ぶる者を遠ざけられ、へりくだる者を愛してくださるからです(ピリピ4:6)。
「敵を愛せるように」祈り求めましょう。心の傷に封印をし、憎しみを抱いたままで神に祈ることは不可能です。そのような状態の人には、おそらく自覚は無いでしょうが、祈りにおける臨在も感謝もあり得ませんし、神からお答えをいただくことは期待できません。ゆるさなければ、自分もまた赦されないのです。それ故、敵を愛せるように心から祈りましょう。これはみこころですから、心からそのように祈る時、祈りに平安と神の力とが生きて働く実感を経験されるはずです(マタイ5:14、ルカ6:28)。

 最後に注意しなければならないことは、偽善者のように祈ってはならないことです。人の目を意識したり、祈る姿で自分を信仰深く見せようとか、祈りに難しい言葉を用いるような偽善は神が顔を背けられる類いのものです。 自分を立派にしてはいけません。ルカ18:9のような、取税人の祈りのように、罪人として隠れた所で祈りましょう。幼子のように父の前に、ありのままで、安心しきったこころで出ましょう。父は私、私たちを愛していてくださるのです。一日一時間以上、父との交わりを楽しみにし、そのための時間が私たちは必要です。

2019年10月 6日 (日)

エルサレムの平和のため祈る

詩篇 122篇6節   【新改訳2017】
エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 前半5節までの歌は都上り(都詣で)の歌で、イスラエルの男子は年に三度主の前に出るためエルサレムに上り(出エ23:17など)ましたが、これはその旅の中で歌いつがれてきたものです。それぞれ過越、五旬節、仮庵の祭りと呼ばれていました。Photo_20191015004601

しかしどうみてもこれはダビデの作ではありません。第一神殿の分裂王国の時代、 北イスラエルは国の南北に神殿を築いてエルサレムに行かせないようにしていましたから、都上り自体がイエスさまの時代を含め捕囚から帰還した第二神殿時代のものです。

 さて本題の「エルサレムの平和のために祈れ」ですが、注意しなければならないことがあります。1948年四月に建国されたイスラエルは、百年にわたるシオニズム運動の成果であり、ホロコーストという迫害もあって、奇蹟的に再興されたユダヤ人の国、ダヤ教の国であることです。神の計画の進展、聖書預言の成就という点は肯定できますが、イエスがキリストであることを否定する、未だ救われていないユダヤ教の国なのです。

 イスラエルはまず第三神殿を作ると預言されています(マタイ24:15、二テサ2:3-4)。神殿の周囲と警備はすでにイスラエルのものとなり、実行されるのは時間の問題だと思われます。その後、反キリストが世界の指導者となり、大患難時代の後、キリストの再臨の直前に、世界宣教、福音の総仕上げとして、ユダヤ人に大リバイバルが起こる(黙示1:7、ローマ11:25-26)と聖書からは読み取れます。私たちクリスチャンは、エルサレムの平和を祈る時、このユダヤ人が主イエスこそメシア、キリストであることを信じ救われることを祈るのです。つまり、イスラエル人の霊的救い、その祝福のために祈りましょう。

 次の第二に、エルサレムのオリーブ山に再臨される主イエスが世界を統治されて行きますが、こうしてもたらされる真の平和が、二度と覆されることのない神の主権、平和が実現することを祈ります。
 最後にこれは、そのように霊的にも実際的にも、イスラエルを祝福する祈りです。そのことを最後に祈って終わりにしたいと思います。

2019年9月 8日 (日)

みこころの祈り2

Ⅰヨハネ 5章14節    新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 昨日の土曜日「なつぞら」では、ちょうど主人公が「大草原の小さな家」に取りかかろうとするシーンでした。放送の次の番組がなんと実写版の「大草原の小さな家」だったのでびっくりしました。しかもそのタイトルが<ローラの祈り>だったのです。「祈り」のメッセージを続けていましたので、みこころを感じました。
 さて<ローラの祈り>とはこんなストーリーでした。パパっ子のローラは、三人姉妹にはじめての誕生した男の子である弟に、父があまりにも喜んで夢中なのを見て、心が穏やかでありません。そして生まれたばかりの弟が原因不明の病気になると、そのための癒やしの祈りができませんでした。その弟が死んだ時、ローラは自分の罪を感じたのでした。<ローラの祈り>とは、父の喜ぶ弟が生きかえること、そのためには自分のいのちを差し出すという願いでした。

 このドラマを観ていて「これは、かなり事実に近い体験があって、それを元にして作られた作品ではなだろうか」という印象を持ちました。これは「罪の赦しを求め、身を犠牲にしてでも神に答えていただこうとする祈り」です。そしてローラは、これをかなえてもらえるために、神に近いと思われた高い山に登り、神に答えられるのをまさに身を賭して祈ったのです。

 しかし基本的にみこころの祈りでなければ、その願いは届きません。神に心から祈り求めて、その答えがなかなか来ないとすれば、それはその人の願っていることが自分の目に良かれとしている肉的なものだからです。
 またローラの弟が召されたように、人間的には理不尽に見えたとしても、神にはそれを越える深い計画があるのです。神は最善のことしかお出来になりません。ですから悪いと思えることでさえも私たちは感謝します。これは信仰であり、この事を通して、神の最善の計画が始まることを信じるからです。

 自分の祈った通りになることが、みこころの祈りではありません。神のみこころ、神の計画が最善であり、それが実現して行くよう祈る事がみこころの祈りです。自身の思いや願いではありません。あるとすればせいぜい、人間的な自分の思いであることをわきまえながら、それを神に知っていただく事でしょう。しかし神はすでにご存知なはずです。繰り返しますが、神は最善しかおできになりません。その通りになることだけを喜びましょう。

2019年9月 1日 (日)

みこころの祈り

 Ⅰヨハネ 5章14節   新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 私が聞いた話です。山陰で日の出が遅い家に住んでいた少年が、ある時教会学校で、心に信じて疑わずに祈ったら、その通りになるという御言葉(マルコ11:23)を学びました。少年は家に帰ると裏山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と心から信じて祈り、翌朝を楽しみにして寝ました。さて次の日、少年が目が覚めてみると、いつものように山はあり、少年はすごくがっかりしたという話でした。

この話には、祈りについて重要な点があることを教えてくれました。確かにどんなことでも祈って良いのですが、ただ神のみこころを祈ったものだけがかなうのです。ドラえもんのポケットのような意識で、自己本位な祈りをどんなに数多くしても、聞かれない祈りにかえって信仰が萎えて行くだけなのではないでしょうか。みこころでなければ、最善の神の計画をさまたげるだけです。

では人は如何にして人は「みこころ」を知り、みこころの祈りができるのでしょうか。本日のテーマはその問いに答えようとするものです。
イエス・キリストさまが世に居られた時から約束してくださったもの、それが聖霊です。ある意味、福音と聖霊の時代を開くために、十字架の主は来られたのです。このことはペンテコステで成就しました。これ以降、すべてのクリスチャンに聖霊の内住がそそがれたのです。聖霊は私たち一人ひとりを導く神の霊であり、助け主、慰め主、癒やし主です。私たちがみこころを求める時、この聖霊なる神と交わり、祈り、聞き従うのです。

しかし単に神を信じているだけのクリスチャンにとって、みこころを聞くことはほとんど不可能です。みこころを聞いても、それに従うことが出来なければかえって災いになります。神の声に似せたサタンの惑わしをも見分け、受け入れてはいけません。

一言で言えば、聖霊のバプテスマを受け、新生することがみこころを聞く土台です。このようなクリスチャンはすべてを神にささげますし、死を恐れなくなります。その人は天の御国のものだからです。
聖霊のバプテスマは、超有名な伝道者や牧師を頼り、祈って授けてもらえる性質のものではありません。またどんなに熱意を持って祈り求めても、みこころですが、すぐさまリクエストに答え、受けられる性質のものではありません。聖霊のバプテスマは、ただ唯一神からのものであり、神の時に受けられる性質のものです。ですから神は喜んで与えようとしておられるのですが、その前に罪のない状態、聖潔化が前提です。これは自分にまったく希望を失うほどの悔い改めが土台です。自身の罪深さ、真の姿を知っての献身であり、神の時までの、その人の忍耐も試されるのです。これがみこころの祈りの土台です。

2019年8月25日 (日)

祈り

マルコ 11章24節  【新改訳2017】
 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

クリスチャンの祈りは個人的な経験上から大きく三つに分けることができると思います。
<1>聞かれると思っていない祈り
水曜夜に祈祷会を持っていても、ほとんどの時間は聖書の講解。祈っても、形だけの祈りに終始する事が多い。祈りが答えられることを知らないので、期待もしない死んだような祈りが多くの教会の現状である。祈りに、長い時間かけて祈ることができないのが特徴。

<2>祈りは答えられ、たとえその通りにならなくても最善になることを知っている祈り。
これは真のクリスチャンたちの祈りである。霊的にもある程度開かれた人たちの祈りであるが、ただし「御霊によって祈る」ことが未だ完全になってはいない段階の祈りである。

<3>達人の祈り
ジョージ・ミューラーのような人を指す。彼は孤児院を設立し、生涯にわたって1万人以上の孤児を寄付によってのみ救った人物であるが、その祈りの答えは世的に言えば奇跡の連続であって、疑う余地もないほど祈りが答えられた人である。

私たちの群れは<2>の段階にあるかも知れない。それでジョージ・ミューラーのような祈りを目指しているのは勿論である。彼はその著作「祈りの秘訣」で次の事を教えている。

祈りの土台としての信仰
主イエスのいさおと取りなしを全面的に信頼していること。 自分が知るすべての罪から、自分を分離していること。聖書の言葉を堅く信じていること。部分的にせよ、信じない聖書箇所があることは神を偽り者とすることである。 自分の肉によって祈る事なく、みこころが成ることだけを求めていること。 神に嘆願して祈れていること。

祈りの秘訣(主な点)
このような新工場の土台の上に、さらにミューラーは、第一に自分の心が全く個人的な意志を持たないような状態で祈っていることを重要視する。人は弱く、誰しも自分の意を汲んで受け容れられることを願っている。しかしこれが神のみこころを受け取る祈りの最大の障壁である。自分の人間的な願いや求めこそが最大の敵である。

次に祈り示された事柄が聖書の御言葉によって裏付けられること。それも意図的に人間的な要素が入らないようにしての聖書の裏付けがあることが重要である。

2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。