求めて与えられるもの
✝ルカ 11章9節 2017新改訳
ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
マタイとルカでは前後しているが、神を信じる者がその神に祈り求めるものとは、基本この世的な地位とか権力、物質的な豊さや生活に必要なものを求めるものではない。イエスが教えている通り、まず神の国と神の義を求めよ(マタイ6:33)が大前提であり、そうすれば皆与えられる(ルカ12:31)のであって、求めて良いのはそのための助け主、イエスが約束された聖霊(ヨハネ14:16、マタイ7:7-12)である。
それを勘違いして<何でもこの世的なものでも、何か必要なもの祈り求めなさい。それもしつこく、しつこく>と教えたり、そのように実践するクリスチャンがいる。しかしそれは野の花のように、すぐ枯れてしまうような、永遠の国行きにおいては役に立たないものである。しつこく求めるものは、<聖霊>さまである。ただ、聖霊さまが文字通りその人の主となるためには、その自身が試練や困難によって自分が死んで、整えられて行く必要がある。
ただこの試練や困難に関しても、あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません(1コリント10:13)とあるように、神を信じ続けなければならない。やがて土に還る罪深い存在にけがれなき神が棲んでくださるには、いくつかの試練で浄化の時間がかかるのだ。
なぜ聖霊さまを、こんなにも聖霊(三位一体の神)を求めなさいと言われるのでしょうか。
先ず誰も聖霊さまの助けなしに、神を信じることはできない。実りをもたらす木は、最初からたくさんの実を結ぶわけではない。最初はわずかなもののように、始まりは考えが変わり、悪い行いができなくなるなど、徐々に<実>を結んで行く木のように例えることが出来る。
先ず①どんな小さなことでも、嘘が言えなくなる。②酒に酔ったり、人を冷たく批評したりすることができなくなる。③肉体は神からの預かりものであることがわかり、体に悪い喫煙や偏食を直そうとする、などの変化が現れて来るが、何よりも罪から救われた者として、すすんで人と挨拶をし、いつも顔面に喜びがあるなど、信じた人は大きく変わってしまう。
しかし世の人と変わらないままであれば、その人の信仰は実を結ばない、真実ではないことになる(マタイ12:33)。なかには信仰者のふるまいや、その真似だけをしている場合もある。(使徒8:13)で、サマリヤで魔術を行うシモンも信じ、バプテスマを受けていつもピリポにつき従っていた。ところが、彼は金で神の賜物をパウロたちから買おうとした。たとえ信じバプテスマを受けていても、実のつかない自称クリスチャンが、一定数存在することにも留意するべきだろう。

