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祈り

2019年9月 8日 (日)

みこころの祈り2

Ⅰヨハネ 5章14節    新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 昨日の土曜日「なつぞら」では、ちょうど主人公が「大草原の小さな家」に取りかかろうとするシーンでした。放送の次の番組がなんと実写版の「大草原の小さな家」だったのでびっくりしました。しかもそのタイトルが<ローラの祈り>だったのです。「祈り」のメッセージを続けていましたので、みこころを感じました。
 さて<ローラの祈り>とはこんなストーリーでした。パパっ子のローラは、三人姉妹にはじめての誕生した男の子である弟に、父があまりにも喜んで夢中なのを見て、心が穏やかでありません。そして生まれたばかりの弟が原因不明の病気になると、そのための癒やしの祈りができませんでした。その弟が死んだ時、ローラは自分の罪を感じたのでした。<ローラの祈り>とは、父の喜ぶ弟が生きかえること、そのためには自分のいのちを差し出すという願いでした。

 このドラマを観ていて「これは、かなり事実に近い体験があって、それを元にして作られた作品ではなだろうか」という印象を持ちました。これは「罪の赦しを求め、身を犠牲にしてでも神に答えていただこうとする祈り」です。そしてローラは、これをかなえてもらえるために、神に近いと思われた高い山に登り、神に答えられるのをまさに身を賭して祈ったのです。

 しかし基本的にみこころの祈りでなければ、その願いは届きません。神に心から祈り求めて、その答えがなかなか来ないとすれば、それはその人の願っていることが自分の目に良かれとしている肉的なものだからです。
 またローラの弟が召されたように、人間的には理不尽に見えたとしても、神にはそれを越える深い計画があるのです。神は最善のことしかお出来になりません。ですから悪いと思えることでさえも私たちは感謝します。これは信仰であり、この事を通して、神の最善の計画が始まることを信じるからです。

 自分の祈った通りになることが、みこころの祈りではありません。神のみこころ、神の計画が最善であり、それが実現して行くよう祈る事がみこころの祈りです。自身の思いや願いではありません。あるとすればせいぜい、人間的な自分の思いであることをわきまえながら、それを神に知っていただく事でしょう。しかし神はすでにご存知なはずです。繰り返しますが、神は最善しかおできになりません。その通りになることだけを喜びましょう。

2019年9月 1日 (日)

みこころの祈り

 Ⅰヨハネ 5章14節   新改訳2017 
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

 私が聞いた話です。山陰で日の出が遅い家に住んでいた少年が、ある時教会学校で、心に信じて疑わずに祈ったら、その通りになるという御言葉(マルコ11:23)を学びました。少年は家に帰ると裏山に向かって「立ち上がって、海に入れ」と心から信じて祈り、翌朝を楽しみにして寝ました。さて次の日、少年が目が覚めてみると、いつものように山はあり、少年はすごくがっかりしたという話でした。

この話には、祈りについて重要な点があることを教えてくれました。確かにどんなことでも祈って良いのですが、ただ神のみこころを祈ったものだけがかなうのです。ドラえもんのポケットのような意識で、自己本位な祈りをどんなに数多くしても、聞かれない祈りにかえって信仰が萎えて行くだけなのではないでしょうか。みこころでなければ、最善の神の計画をさまたげるだけです。

では人は如何にして人は「みこころ」を知り、みこころの祈りができるのでしょうか。本日のテーマはその問いに答えようとするものです。
イエス・キリストさまが世に居られた時から約束してくださったもの、それが聖霊です。ある意味、福音と聖霊の時代を開くために、十字架の主は来られたのです。このことはペンテコステで成就しました。これ以降、すべてのクリスチャンに聖霊の内住がそそがれたのです。聖霊は私たち一人ひとりを導く神の霊であり、助け主、慰め主、癒やし主です。私たちがみこころを求める時、この聖霊なる神と交わり、祈り、聞き従うのです。

しかし単に神を信じているだけのクリスチャンにとって、みこころを聞くことはほとんど不可能です。みこころを聞いても、それに従うことが出来なければかえって災いになります。神の声に似せたサタンの惑わしをも見分け、受け入れてはいけません。

一言で言えば、聖霊のバプテスマを受け、新生することがみこころを聞く土台です。このようなクリスチャンはすべてを神にささげますし、死を恐れなくなります。その人は天の御国のものだからです。
聖霊のバプテスマは、超有名な伝道者や牧師を頼り、祈って授けてもらえる性質のものではありません。またどんなに熱意を持って祈り求めても、みこころですが、すぐさまリクエストに答え、受けられる性質のものではありません。聖霊のバプテスマは、ただ唯一神からのものであり、神の時に受けられる性質のものです。ですから神は喜んで与えようとしておられるのですが、その前に罪のない状態、聖潔化が前提です。これは自分にまったく希望を失うほどの悔い改めが土台です。自身の罪深さ、真の姿を知っての献身であり、神の時までの、その人の忍耐も試されるのです。これがみこころの祈りの土台です。

2019年8月25日 (日)

祈り

マルコ 11章24節  【新改訳2017】
 ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

クリスチャンの祈りは個人的な経験上から大きく三つに分けることができると思います。
<1>聞かれると思っていない祈り
水曜夜に祈祷会を持っていても、ほとんどの時間は聖書の講解。祈っても、形だけの祈りに終始する事が多い。祈りが答えられることを知らないので、期待もしない死んだような祈りが多くの教会の現状である。祈りに、長い時間かけて祈ることができないのが特徴。

<2>祈りは答えられ、たとえその通りにならなくても最善になることを知っている祈り。
これは真のクリスチャンたちの祈りである。霊的にもある程度開かれた人たちの祈りであるが、ただし「御霊によって祈る」ことが未だ完全になってはいない段階の祈りである。

<3>達人の祈り
ジョージ・ミューラーのような人を指す。彼は孤児院を設立し、生涯にわたって1万人以上の孤児を寄付によってのみ救った人物であるが、その祈りの答えは世的に言えば奇跡の連続であって、疑う余地もないほど祈りが答えられた人である。

私たちの群れは<2>の段階にあるかも知れない。それでジョージ・ミューラーのような祈りを目指しているのは勿論である。彼はその著作「祈りの秘訣」で次の事を教えている。

祈りの土台としての信仰
主イエスのいさおと取りなしを全面的に信頼していること。 自分が知るすべての罪から、自分を分離していること。聖書の言葉を堅く信じていること。部分的にせよ、信じない聖書箇所があることは神を偽り者とすることである。 自分の肉によって祈る事なく、みこころが成ることだけを求めていること。 神に嘆願して祈れていること。

祈りの秘訣(主な点)
このような新工場の土台の上に、さらにミューラーは、第一に自分の心が全く個人的な意志を持たないような状態で祈っていることを重要視する。人は弱く、誰しも自分の意を汲んで受け容れられることを願っている。しかしこれが神のみこころを受け取る祈りの最大の障壁である。自分の人間的な願いや求めこそが最大の敵である。

次に祈り示された事柄が聖書の御言葉によって裏付けられること。それも意図的に人間的な要素が入らないようにしての聖書の裏付けがあることが重要である。

2019年8月18日 (日)

罪と癒やしと祈り

詩篇 41篇4節   【新改訳2017】
私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」

 癒やしについて、その聖書的な見方を振り返ってみることは大切でしょう。旧約の時代、富は神の祝福だと考えられていたように、病とか障害は、罪の結果だと考えられていました。イエス様の前に吊り降ろされた中風の人に対し、「あなたの罪は赦された」と先ず宣言されたことは、当時の感覚からすれば、非常に順当なことだったはずです。ただ一つ、罪を赦す権威は神にあると当時も見なされていたので、その事が問われることにはなりました。

 このほかユダのアサ王の例でいえば、晩年彼が重い足の病気になった時、王はすぐに医者を呼び求め、主に求めなかったことが罪とされました。これは高度な医療が発達した現代でもまったく当てはまることです。どんなに医学が発達しても、人間の自然治癒力という土台は外せません。病の発症は、遺伝とか環境の因子は挙げられても、まだ早期発見ぐらいしか予防できません。クリスチャンにとってはこれは、神のみこころなのです。老化を防ぐことや幾分か延命できたとしても、死はその先に必ず来るのですから。
 (自己実現などと言われる)自分の生きたいように生きることは空しく、神によって造られたように、その使命を果たして生きることが最高にいのちを充実させることなのです。

 そのためには、十字架を信じてクリスチャンになること。罪を悔い改め、神との交わりを回復をさせられること。その上で聖霊の神と交わり、神に聞き従うことが、どうしても通らなければならない通過点となります。これを「神に触れられる」とか「神性・献身」、あるいは「聖霊のバプテスマ」と言います。

 未信者に試練や困難、あるいは病が許されるとしたら、それは神を見出し、永遠のいのちへと導かれる大きなチャンスでしょう。健康に長生きし、ある日突然死ぬよりも比べものにならない大きな恵みです。またクリスチャンにそれらが許されたとしたら、神はさらにその人の信仰を引き上げようとされているのです。いずれにせよ、神は病に代表されるこれらをつくりはしませんが、許すことはされます。

 ですからアサ王のように医術にだけ頼るのではなく、悔い改め、神に聞き、すべてを感謝してこの先にある神の祝福を受け取ることが最善になります。もちろん、これと同時に医師の手を通しても神は働かれるので、身体の良き管理者としてその治療に従って行きましょう。イエスは分け隔てなく、すべての罪と病を癒やされました。癒やしてくださるのが神のみこころなのです。これが体の癒やしにまさる真の癒やし、永遠に至るものです。

2018年10月 7日 (日)

エルサレムの平和のために祈れ

詩篇 122篇6節     【新改訳2017】

エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

エルサレムは一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれの聖地です。エルサレムのエルとは神、あるいは神の現れる、大いなるという意味であり、サレムとは平和です。エルサレムの現状は、名前の意味とはかけ離れています。それ故に祈るべきでありましょう。
また、全体としてはすべてイスラエルの支配にありながら、神殿の丘や、その周囲である旧市街の多くをイスラム教徒(モスレム)が押さえていますので、神殿の丘を中心に両者の争いが絶えません。ですが神が「エルサレムの平和のために祈れ」と命じておられることを、そのまま現実のイスラエル国を支援し、その平和が進むようにと祈ることは少し違うのです。どちらか一方の味方をして平和が来るでしょうか。聖書で言われている「エルサレムの平和を祈る」言葉の意味と真実を確かめて参りましょう。

現実のイスラエル国の首都エルサレムがこの地上には存在しています。ですがどちらにも味方しない、その聖書はもう一つのエルサレム、天の都エルサレムがあることを教えてくれます。実はこのエルサレムがみ心が完成し、早期に天から舞い降りるように祈るのが、このみ言葉の意味だと思われます。
詩篇122:6のエルサレムの平和は、何の為かというと、すぐに続けて書いてある通りでエルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」です。

これは天のエルサレムのことです。天の神殿は神を信じる一人一人の内にありますから、真のイスラエル人であるクリスチャンの中に、聖霊の宮があり神の神殿があります。
つまり私たちお一人お一人の中に平和がありますように、という意味に広がっていく者であると考えます。
現実のエルサレムはやがてバビロン化し、ますます戦争と混乱が広がってくると思われます。キリストの再臨から平和が実現するのを知っていますが、それまではますます悪化していくようです。その中でどうかみ心だけがなりますように、私たち霊的イスラエル人が一層平和になりますようにと、霊、魂、心を合わせて祈リりましょう。「主よ、来たりませ」と。

2017年12月24日 (日)

熱心に祈る

ヤコブ 5章16~17節
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。


個人的に私には今、二つの大きな祈りの課題があります。その一つはこの会堂に関してです。この会堂は私が求めて回った限り、教会として借りられる唯一の物件でした。また職場を求めるM姉妹の祈りがこの会堂で鮮やかに答えられたのです。
私たちはさらに大きな会堂へと出て行きはしても、現状ではみ心の場所だと信じています。しかし借り続ける資金が少ないという容赦ない現実が迫ってきているのも確かです。
それで祈っておりますと、「問題や困難は心騒がせず、主に委ねて平安でいるように。人間的に心配し続けていては不信仰である」という思いが来て、私は努めてこの問題にこころを奪われないようにしていました。ところが、金曜日の夜の「こころゴスペル」でTrueVineの演奏の合間に、素子さんがこんなことを語ったのです。
幼稚園に息子のシオンの忘れ物を届けに行って、こんなシーンに遭遇したのです。小児麻痺で右脚に一生装具をつけなければいけないシオンに、サッカーをしようとした友だちが「脚が悪いお前はサッカーに入れない」と言い、長男はそれに何にも言えないで、あきらめて引き下がっていったのでした。四歳ぐらいの子が、あんな表情をする、それが忘れられなく、その夜「あきらめているんじゃなくて、願ったらいいよ」と言うと、「もしダメだったら?」「ダメだったらもう一回願えばいいよ。願いが積み上がって天にまで届くぐらい高くなって行くよ」「本当?」と息子の目がキラキラ輝いて来た、という証しでした。この結果はみなさんご存知の通り、医師にも信じられない奇蹟が起こりました。
 
その夜私は祈りました。「主よ、どちらが正しいのでしょうか?」と。すると翌朝、まだ意識が醒めぬ間に語りかけがありました。「あなたは思い間違いをしている。委ねて安んじていることと、祈らないこととは全く違うことなのだ」と。「祈りを徹底するなら、祈りの中で神からの確信というものが与えられて行く。この祈りから来る確信の上で安んじるのであって、祈りもせず委ねる事とは似て非なるものだ」とも。
目が覚めて、この示しを思い出した瞬間、これはみ心で確かだと思いました。私は思い間違いをしていたのです。ですから私は熱心に祈ります。たとえ結果が私たちの願った通りにならなかったとしても、最善の結果を私たちは見るのです。
 
エリヤの祈りによって、神は三年半イスラエルに雨を降らせませんでした。天の父は私たちが何にせよ祈ることを望んでおられます。私たちを愛し、愛する者と共に重荷を負ってくださるだけでなく、必ず最善を用意していてくださるのです。

2017年10月 1日 (日)

エルサレムの平和を祈る

詩篇 122篇6節
エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。」
本日10月の第1日曜日は「エルサレムの平和を祈る日」と定められており、世界各地のクリスチャンがこの趣旨に賛同し、各個人でまた教会で心を併せて祈っています。もともとこの趣旨はロバート・スターンズ牧師とジャック・ヘイフォード牧師が呼びかけて始まったもので、イスラエルの大贖罪日(ヨム・キップール)の日に合わせてこの日が設定されました。
 
Photo_310月の第1週に、聖書が命じている詩篇122篇6節の「エルサレムの平和のために」祈ることは、まず第1に神さまのご命令です。付け加えるなら、エルとは神または偉大なという意味、サレムとは平和を表し、名前からして平和の街なのです。
第二に世界の大部分を占める一神教の神の聖地であるエルサレムと言うのは超特別な場所であり、この地が平和であることがそのまま世界全体の平和と密接に結びついているという現実があります。第三に聖書の黙示録などによって、今のエルサレムの真上に天のエルサレムが着地するまで、エルサレムに関わっての動きがこれからの世界史の中心であるからです。
 
いろいろな出来事がこれから起こります。しかしどんなことがあっても神の言葉は変わることがありません。究極のところ真の平和の到来とは、ユダヤ人が悔い改め、イエス・キリストがメシアであることを認める時、つまりみ心が成る時成就しますので、神の計画が成就するよう私達が執り成しの祈りを続けることが非常に大切なのです。祈りは神を動かし、計画を成就させる力があるのです。

2017年6月 4日 (日)

天に届く祈り

マルコ 14章36節
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

 祈りの基本は、だいたい次のようだと思われます。Photo_2
○虚心坦懐、心を無にする。主を称え賛美する。
○主人に仕えるしもべのように、静まって待ち、聞こうとする。「しもべはここにおります。どうぞお語りください」と。
○語られ、示されたことは、正確に聞き取る。曖昧な点があれば、繰り返して確認する(※人と違って主は面倒がられないどころか、むしろ喜ばれる)
○心を知られる主が「願いを言いなさい」と言われるなら(※主はすでにご存知であることを忘れずに)申し上げる。知る必要のないこと以外、主は 答えてくださり、教えてくださる。
○この結果、たとえ注意されようとも、愛を感じ、平安であるならば、主と交わっていた
   のである。
 
 祈りの模範はイエス・キリストの祈りです。周囲に人が居ない寂しい所で、イエス様は一人祈られた(マタ14:23,マル1:35)ので、私たちもそのようにしましょう。教会の祈祷会も大切ですが、各個人の祈りを土台としています。
 映画「祈りの力」では、主戦場は狭いクローゼットの中でした。ですから一人になれる押し入れ、お風呂など、どこででも。私は早朝、外にあるベランダが好きです。ひざまづいて祈るタイプの私は、そういう姿勢がとれる場所がベストです。
 
 いやしにはいろいろなパターンがあります。ビギナーズラックのようないやしもあるでしょうし、信仰を引き上げるいやしもあります。けれどもその基本は、主と親しく交わる祈りを通してでしょう。
 いやしを認めていない教会とその信仰では、いやしは起こりません。私たちの船橋教会もそうですが、いやしがある教会は一般的に聖霊派、カリスマ派と呼ばれる教会です。いやしを信じ、いやしを求めて祈った結果、実際にいやされるということが普通に起きていやしですが、いやしは第一に教会の信仰を母体としています。います。
 
 次に実際のいやしの例をマタイ伝15章のカナン人の女から学んで行きましょう。この女性には一見、不幸が許されましたが、それはいやしを通し、イエス・キリストからその信仰を称賛され、栄光を現すためであったことが分かります。ですから私たちは病や不幸と思えること、そのことに対してシドン人の女のようにしつこく「あわれみ」を求め、信仰を持って立つ時に、すべてが益に変えられるです。神のみこころと栄光が現されるのです。

2016年10月30日 (日)

私に何をしてほしいのか

マルコ10:51
  そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
 神は聖にして義、全知全能の存在です。その神は信じる人々に内住されるお方でもあります。その場合、悪霊とまったく異なって、決して自分の意思を私たちに押しつけられる方ではありません。できるだけ私たちの意思を尊重されるのです。この点を多くのクリスチャンが誤解して、多くの恵みを逃しています。
 例えば家族に「帰りにパンを買ってきて」と頼まれたとします。お店に入った途端、困ることでしょう。パン屋には食パン、菓子パンといろいろあります。菓子パンだってあんパン、メロンパンと具体的にわかっていなければ買えません。もし違うものを買って帰れば、「違う」とブーイングを浴びることになるのです。
 
 神様も同じです。今や世界一の大教会、韓国はヨイド教会のチョー・ヨンギ牧師が朝鮮戦争後、貧しい人々に天幕伝道し、自身も赤貧の中で牧会生活をしていた頃のことです。牧会に必要な机やイス、伝道して回るための自転車の必要を覚え、祈りの中で
無いものを有るもののようにお呼びになる力の御前で、そうなのです」 (ローマ4:17)
の御言葉に目が開かれ、たとえ今はなくとも、フィリピン産のマホガニーの立派な机、日本製の回転イスでコロの付いた重役椅子、頑丈なアメリカ製の自転車と、事細かく有るもののように神様に注文し、すでに与えてくださったと確信しました。
 
ところがこれをメッセージで語ってしまったので、一時ですが、虚言牧師の風評にさらされました。しかし驚くべきことに、当時としては奇蹟ですが、願った物がすべて与えられたのです。この経験がチョー牧師の信仰をさらに一変させ、描いた幻の成就として今日に至っているのです。
 
 みなさん、私たちは誰の子ですか?天地万物をお造りになった創造主の嗣子ではありませんか。神に不可能はありません。具体的に求めて祈るということはとりもなおさず、父を信頼し、神の力と愛を信じていることであって、狂人ではなく、むしろ神に喜ばれる信仰です。心から求めて祈るなら、御心ですから、それは最善のかたちで与えられます。ある場合には、自分の願った通りではないかも知れません。しかしそれは当初願った以上の最善でした。神を信じ熱く祈りましょう。但し、時だけは限定しないように注意してください。

2016年4月10日 (日)

祈りの力

Ⅱ歴代 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
 
 祈ることなしにはクリスチャン生活は成り立たないというほど、祈りは重要必須です。祈らないクリスチャンというものは、まことにひ弱な信仰であり、力のないクリスチャンです。バプテスマを受けて以来何十年も、私も力のないクリスチャンでした。祈りが答えられるというケースを見たことがなく、教会にもその信仰がありませんでした。聖霊と聖霊の賜物すら知らないのに、聖霊云々する教会や人々を「熱狂的でおかしな信仰」と批判し、我こそが正しい聖書的な信仰だと自認していた背景がありました。
 祈りについては、イエス様が再々注意している点があります。見栄と偽善のためにする律法学者の祈りです。彼らは人通りの目立つところで祈って見せ、取税人と並んで祈ると、共に祈っている人すら見下して祈りました。このような祈りはさばきを招くことはあっても、神に聞かれることはありません。
 では聞かれる祈りとは何があるのでしょうか。聖書は次のように教えてくれています。へりくだって祈る(Ⅱ歴代 7:14)、御霊によって祈る(エペソ 6:18)、忍耐して祈る(同左)の三つの土台があります。そしてこの土台の上に、一切の世のことを排してどんな時にもいつでも感謝して祈る(ピリピ 4:6)のです。私は祈りにいろいろな条件があるのではなく、実はただ一つのことを言っていると思わされています。それは「聖霊によって祈る」です。聖霊によって祈るなら、高慢は打ち砕かれ謙遜にならざるを得ません。へりくだった謙遜さは、感謝の態度の心を生みます。聖霊によって祈るなら、御心の祈りをします。御心なので成就する希望と忍耐が伴い、我々をくじこうとするあらゆるサタンの計画に打ち勝ちます。私には不可能でも、神には不可能はなく、圧倒的にサタンに勝利されているのです。
 
 一昨日、映画「祈りの力(原題War Room)」を試写会で拝見しました。離婚寸前のクリスチャン夫婦が舞台でした。互いを不信と憎しみに追い込み、ついには破局に至らせるのは、実は夫や妻というより、悪霊に操られているのだということが描かれていました。内容的には日本語名の「祈りの力」というより原題の「War Room」、つまりクローゼットという小さな部屋を舞台にした「祈りによる(霊的な)戦い」と言う方が正しいと思いました。「サタン」「見破る」「戦う」という言葉が盛んに用いられ、その勝利は部屋の外、家の外にまで大声で語られて行くのです。これは私たち主の十字架の祈りと同じです。つまりこの映画を観ることで洋の東西を問わず、神は唯一であること、なされることも一つであることがよく分かります。
 この国においては私たちはまだ少数であっても、全世界にあまねくおられ、支配しておられる神が、私たちのバックです。神に聞き従う祈りによって私たちは立ち上がり、勝利に向かって前進するのです。

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