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祈り

2016年10月30日 (日)

私に何をしてほしいのか

マルコ10:51
  そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
 神は聖にして義、全知全能の存在です。その神は信じる人々に内住されるお方でもあります。その場合、悪霊とまったく異なって、決して自分の意思を私たちに押しつけられる方ではありません。できるだけ私たちの意思を尊重されるのです。この点を多くのクリスチャンが誤解して、多くの恵みを逃しています。
 例えば家族に「帰りにパンを買ってきて」と頼まれたとします。お店に入った途端、困ることでしょう。パン屋には食パン、菓子パンといろいろあります。菓子パンだってあんパン、メロンパンと具体的にわかっていなければ買えません。もし違うものを買って帰れば、「違う」とブーイングを浴びることになるのです。
 
 神様も同じです。今や世界一の大教会、韓国はヨイド教会のチョー・ヨンギ牧師が朝鮮戦争後、貧しい人々に天幕伝道し、自身も赤貧の中で牧会生活をしていた頃のことです。牧会に必要な机やイス、伝道して回るための自転車の必要を覚え、祈りの中で
無いものを有るもののようにお呼びになる力の御前で、そうなのです」 (ローマ4:17)
の御言葉に目が開かれ、たとえ今はなくとも、フィリピン産のマホガニーの立派な机、日本製の回転イスでコロの付いた重役椅子、頑丈なアメリカ製の自転車と、事細かく有るもののように神様に注文し、すでに与えてくださったと確信しました。
 
ところがこれをメッセージで語ってしまったので、一時ですが、虚言牧師の風評にさらされました。しかし驚くべきことに、当時としては奇蹟ですが、願った物がすべて与えられたのです。この経験がチョー牧師の信仰をさらに一変させ、描いた幻の成就として今日に至っているのです。
 
 みなさん、私たちは誰の子ですか?天地万物をお造りになった創造主の嗣子ではありませんか。神に不可能はありません。具体的に求めて祈るということはとりもなおさず、父を信頼し、神の力と愛を信じていることであって、狂人ではなく、むしろ神に喜ばれる信仰です。心から求めて祈るなら、御心ですから、それは最善のかたちで与えられます。ある場合には、自分の願った通りではないかも知れません。しかしそれは当初願った以上の最善でした。神を信じ熱く祈りましょう。但し、時だけは限定しないように注意してください。

2016年4月10日 (日)

祈りの力

Ⅱ歴代 7章14節
わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。
 
 祈ることなしにはクリスチャン生活は成り立たないというほど、祈りは重要必須です。祈らないクリスチャンというものは、まことにひ弱な信仰であり、力のないクリスチャンです。バプテスマを受けて以来何十年も、私も力のないクリスチャンでした。祈りが答えられるというケースを見たことがなく、教会にもその信仰がありませんでした。聖霊と聖霊の賜物すら知らないのに、聖霊云々する教会や人々を「熱狂的でおかしな信仰」と批判し、我こそが正しい聖書的な信仰だと自認していた背景がありました。
 祈りについては、イエス様が再々注意している点があります。見栄と偽善のためにする律法学者の祈りです。彼らは人通りの目立つところで祈って見せ、取税人と並んで祈ると、共に祈っている人すら見下して祈りました。このような祈りはさばきを招くことはあっても、神に聞かれることはありません。
 では聞かれる祈りとは何があるのでしょうか。聖書は次のように教えてくれています。へりくだって祈る(Ⅱ歴代 7:14)、御霊によって祈る(エペソ 6:18)、忍耐して祈る(同左)の三つの土台があります。そしてこの土台の上に、一切の世のことを排してどんな時にもいつでも感謝して祈る(ピリピ 4:6)のです。私は祈りにいろいろな条件があるのではなく、実はただ一つのことを言っていると思わされています。それは「聖霊によって祈る」です。聖霊によって祈るなら、高慢は打ち砕かれ謙遜にならざるを得ません。へりくだった謙遜さは、感謝の態度の心を生みます。聖霊によって祈るなら、御心の祈りをします。御心なので成就する希望と忍耐が伴い、我々をくじこうとするあらゆるサタンの計画に打ち勝ちます。私には不可能でも、神には不可能はなく、圧倒的にサタンに勝利されているのです。
 
 一昨日、映画「祈りの力(原題War Room)」を試写会で拝見しました。離婚寸前のクリスチャン夫婦が舞台でした。互いを不信と憎しみに追い込み、ついには破局に至らせるのは、実は夫や妻というより、悪霊に操られているのだということが描かれていました。内容的には日本語名の「祈りの力」というより原題の「War Room」、つまりクローゼットという小さな部屋を舞台にした「祈りによる(霊的な)戦い」と言う方が正しいと思いました。「サタン」「見破る」「戦う」という言葉が盛んに用いられ、その勝利は部屋の外、家の外にまで大声で語られて行くのです。これは私たち主の十字架の祈りと同じです。つまりこの映画を観ることで洋の東西を問わず、神は唯一であること、なされることも一つであることがよく分かります。
 この国においては私たちはまだ少数であっても、全世界にあまねくおられ、支配しておられる神が、私たちのバックです。神に聞き従う祈りによって私たちは立ち上がり、勝利に向かって前進するのです。

2016年1月24日 (日)

信仰の大盾

エペソ 6章10節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 先週も触れましたが、「恐れ」は誰にでもあり、避けられないものです。しかし恐れに支配されることは、とりもなおさずサタンに支配されることと同じです。

 ではどう対応するか?これが今日のテーマです。ある方が「かつての踏み絵のように、いざその立ち場に置かれたら、自分は神を選べるかどうか不安で仕方ない」という相談にあずかりました。
 浦上四番崩れの初期では信仰の堅い68の村人の中で、ただ一人、「高木仙右衛門」だけが信仰を守り通しました。体が弱いことを自覚していた仙右衛門は、何があっても信仰が守られるよう祈っていたのです。こうして祈っていた仙右衛門だけが守られた、これは祈りに特別な力があることがわかります。信仰を貫けるよう神の助けを求めるのは、御心の祈りですし、御心ならば神は必ず守ってくださるという確信が信仰なのです。私自身もありありと思い出されることがありました。

 確か15歳の前後だったと思いますが、遠藤周作「沈黙(1966年初版)」を読んで、ひどく恐れの感情に支配されたことがありました。この命を賭してまでも信じられるかという恐れが、二十歳まで私を教会から遠ざけました。この本はまさに躓きの石であり、サタンの妨害でした。
 二十歳になって、学生運動で挫折を経験し、自分の罪深さを認識し、恐れをひとまず棚上げにして信じることにしました。また、天地万物を創造された神の実在を星々の運行を見て感じとれたからでした。まず神の実在、神を信じることにしたのです。
 結局答えは長い間出ませんでした。しかしこれをあいまいにして、私は信仰的に堅く立つことはできなかったことを思い出します。しかしそれは、ついに打ち破られる時が来ました。福音派の信仰から、カリスマ派の信仰へと、神が語られるという霊的な体験をしたからでした。これは実は深い悔い改めから始まった、神は生きておられ、個人に語られるという体験だったのです。そして大切なことは、神様との深い交わりを通して、神様の御性質がわかり、祈り信頼するという信仰が堅くされたからでした。

 信仰とは何でしょうか?神への信頼です。これは神との直接的な親しい交わりの中から生まれるものでした。頭でどんなに信じようとしても、命を捧げることはできませんし、その恐れを振り払うことはできないことでしょう。神は小説「沈黙」にあるような究極的な問い、踏み絵のような究極的な選択を迫られた時でも、弱い私たちをご存知な方は、祈りに応えて守ってくださり、神にはその力がある(=with God all thing are possible)、この信仰の大盾で私たちは恐れに対応するのです。

2014年7月20日 (日)

七つの求めの祈り

マタイ 7章12節

 マタイ福音書は神の民であるユダヤ人を対象にしています。ということは神を信じ、律法を日常的に学んでいる人々への福音書であって、今日のクリスチャンにも相当あてはまるところがあるものです。特に今週の聖書箇所読んでいきますと、5章で天の御国とはどういうものかを明らかにし、6、7章でその御国へ行けるよう、わたしたちが心すべきことが具体的に述べられております。

 そこで私なりに理解した「心すべきこと」の七つを図にしてみました。題して「御国に行けるための(求めの)祈り」でSす。なぜ「祈り」としたか?ですが、これら一つでも満足に行える力が私にはないからです。特に6番の「求めなさい」とは、確かに何でも良いのです。が、その段階から「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」という、最上の<良いもの>を求めるようにイエス様が仰っているように受け取れるのです。それはとどのつまり愛の心であり、<義>とされることであるのです。
 このようなことをふまえ、私たちはこれら七つのことを節に求め、祈ろうではありませんか。ケパ
20140720(日)自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのように マタイ7:12

本日の聖書箇所マタ 7:12 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」

 マタイ福音書は神の民であるユダヤ人を対象にしています。ということは神を信じ、律法を日常的に学んでいる人々への福音書であって、今日のクリスチャンにも相当あてはまるところがあるものです。特に今週の聖書箇所読んでいきますと、5章で天の御国とはどういうものかを明らかにし、6、7章でその御国へ行けるよう、わたしたちが心すべきことが具体的に述べられております。
 そこで私なりに理解した「心すべきこと」の七つを図にしてみました。題して「御国に行けるための(求めの)祈り」です。なぜ「祈り」としたか?ですが、これら一つでも満足に行える力が私にはないからです。特に6番の「求めなさい」とは、確かに何でも良いのです。が、その段階から「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」という、最上の<良いもの>を求めるようにイエス様が仰っているように受け取れるのです。それはとどのつまり愛の心であり、<義>とされることであるのです。
 このようなことをふまえ、私たちはこれら七つのことを節に求め、祈ろうではありませんか

2014年1月26日 (日)

祈りの秘訣

エペソ 6章18節

 ずばり、祈りの秘訣とは数時間も「長く祈る」ことです。しかし教会の礼拝などの公で祈る時、基本は「短く・要点だけ・・・しかし時には溢れ出てよい・・・とにかく聖霊に導かれて(自由に)祈る」のがよいでしょう。
 これに対し個人が神様に祈る時には、意外に思われるかも知れませんが、<とにかく長ーく祈る>ことです。聖書では人通りの多いような目立つところで、いかにも・・・と祈るのではなく、隠れたところでただ独り祈るよう勧めています。イエスさまはいつもそうされていました。

 長く祈るには理由があります。たとえば大好きなお父さんが帰宅したら、「お帰んなさーい」と喜んで迎えに出るでしょう。食卓では、お父さんとその日の話がはずむことでしょう。時間があればお父さんの腕にぶらさがったり、キャッチボールをしようとするでしょう。
 しかし逆に、お父さんとほとんど話をしない。たまに向き合う時は短い時間だけで、それも自分の要求だけを言う。こういう子にお父さんは、自分のことをなかなか伝えることはできません。子も父のことを表面的にだけで、深く知ってはいないのです。
 時間が関係のポイントになっているのです。一日24時間、時間は平等にあります。それを主にどこにかけるか、かけるところにその人の心があります。

 臨在があれば長く祈れます。その臨在の得る一例を紹介しましょう。まず、自分の中に聖霊様の内住を確信することです。どんなに自己否定的になっていようとも、居られることを疑わないのです。そして内なる神に向かって「イエスさま、聖霊様」と語りかけます。続いて自分の罪を、これでもかというほど暴いて、残さず告白しましょう。自分の罪は大きく赦されがたいと感じても、残さずに。その上で止まらぬ涙を流して悔い改めます。次に一切の希望はもう自分にはなく、ただ神さまだけにしかないことを告白します。それが真実である時、神は「主」として入って来られます。神は聖い方ですから、罪が少しでも残っていれば入って来られないのです。ですからまったくの悔い改めが前提ですし、臨在の恵みの土台なのです。

 長く祈ろうとしても、サタンというのはこれを何とかして妨害しようとします。はじめは「祈っても何にも変わらない。これは単なる自己満足?」とか「独り芝居?」とか、いろいろと疑いを入れて来ます。これらの霊はすべてサタンからのものです。疑いに耳を傾けてはいけません。祈り続けることに決めてください。しつこければ時にはイエスの御名によって縛ることもあるでしょう。
 臨在ある祈りを通し、毎日長い時間祈ることができれば、ハレルヤ!必ず祈りの勝利を得、祈りによる霊的な恵みと祝福を受けます。み心を知る喜びに心が引き揚げられ、あなたは神の子とも、友とも遇されるでしょう。

2013年1月20日 (日)

祈りについて

ヨハネ15章7節
 今日、神への祈りが本当に答えられるとは、多くのクリスチャンは思っていないようです。この群れではありませんが、毎週の祈祷会では、なんと祈りが短く、ほとんどの時間が聖書研究やメッセージにあてられています。答えられる祈りを実際に見ることもなく、それが当たり前になってからも、それでも懸命に信仰生活を歩んでいるのです。しかし私はある事情が、必要が生じて、耐えられなくなりました。
 その時私は「こんなことならクリスチャンを廃業しよう」とすら思ったものです。しかしこは、神様がお昼寝されていたのでなく、100%私の信仰が問題だったのです。祈りとは、きわめて霊的なものなのです。もし祈りが聞かれない、答えられないという私と同じ様な方が居り、神との生きた交わりである祈りをせつに求めておられるならば、その方はチャレンジを受け、回復の時が来たのです。
 バプテスマを受けたばかりの少年がいました。少年の家は大きな山の背後にあって、そのため朝日が遅く差してきました。そこで少年は聖書にあるとおり、神様に「この山を動かしてください」と信じて祈りました。さて翌朝少年が期待に胸を膨らまして朝日の差してくる山側の窓を開けると、山はまったく変わらずにそこにあったのでした。少年は大変落胆をしたということです。
 このお話を聞かれてみなさん、どう思われたでしょうか?聖書は真実な書ではないのでしょうか?それならどうして神は、少年の祈りに答えて山を動かされなかったのでしょうか?答えはシンプルです。今日の聖書箇所にあるように、節の前半部分になんと書いてあるでしょうか?これは「神のことば」、つまり聖霊の臨在ですが、その人に聖霊が「とどまっているなら」と言っているのです。少年はかたく信じて祈ったと思われますが、しかしそれは結果としてですが、聖霊による祈りではなかったのです。少年は自分の思いで、早い朝日を見たいあまり祈ったのです。神様はドラえもんのポケットではありません。本人のためにならず、神の計画は妨害されるので、肉の祈りは成就しないのです。
 注意しなければならないのは、バプテスマを受けた時など、神様が手ほどきのようにつたない自己中心の祈りでも、ある範囲内で祈りを聞いてくださる時があることです。しかしいつまでも母乳を飲むわけにはいきません。霊と信仰は成長されるべきです。子ならば私たちは天の父を愛しており、そのご計画を自分の使命として果たしたいのです。この祈りは「御心の祈り」となり、神の栄光が現される、成就する祈りなのです。聖霊様がそれを教えてくださり、祈った瞬間に「かなえられた!」と成就することがわかるのです。聖霊によりて祈る御心の祈り、それは何でも祈ることはかなえられるのです。

2012年12月30日 (日)

みこころ第一

マタイ 6章33節
 昨日、秋元牧師から「召し」について語ってくださいました。私は十代の頃、初めての教会が日本基督教団で、それから色々行きましたが、確かにこれら福音派と呼ばれる教会には水戸黄門のあの印籠がありました。特伝をする、神学生を送る、新たな教会をつくる、宣教師を派遣する。あらゆる教会の召しにあの印籠「予算」という裏付けが必要でした。新教会設立には、会堂にする土地代、建築費など億単位の予算を計上したものです。しかし、神の計画と言いながら本当に「金、カネ、これでいいのか?」と次第に疑問を持つようになったことを思い出します。
 私たちの主の十字架は、このような裏付け万能の対極にあると言っていいでしょう。ただ神の言葉だけがあり、それに従っているのです。この船橋キリスト教会も「信徒ゼロからの開拓です」と告げられ、ただ神の導きにだけが頼りで私たちは来たのです。
 さてこの両者、どちらが正しいでしょうか?判断を聖書に求めましょう。するとキリストご自身が12弟子を、アンテオケ教会がパウロとバルナバを派遣した実際をみますと、これは主の十字架的であることが分かります。伝道や教会は世的なものによってではなく、神のご計画、御心によって立つのです。
 しかしあえて一言付け加えますと、そこに「神の時」があるのです。主が私をこの群れに導かれたのは乳飲み子を抱えた時でもなければ、子どもに教育費がかかる時でもありません。またそんな時に主の十字架に召しを受け、立てられたとしても、果たして従うことができただろうか、大いに疑問です。神は実に計画的に、着実に段階を追ってご計画を進められます。はっきりしていることは、神の為されることは時にかなって美しく、最善であることです。
 ですからみなさん、まず神の国と神の義を求めましょう。そうするならば最善しかお出来にならない神は、あとの者はすべて添えて与えてくださるのです。教会の召しは召しとして、その成就に時があります。自分は伝道者に、宣教師への召しがあるからといって、まだ何も状況は変わっていないと焦る必要はありません。確かに教会の召しは決定的なものですが、その召してくだった神を信頼し、神に時を委ねることは、忍耐の試される時であり、大きく神の計画が進む土台です。神は必ず成就してくださることを信じ、召しの時がなるのを待ち続ける信仰こそ、私たちの願いであり祈りの中心です。