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信仰

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

2021年10月31日 (日)

- 信じる-生きておられる神を

ヨハネ 2章23節   新改訳2017

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 少し前の世代、私たちの祖父母たちの時代までは、ほとんどの人に何らかの信仰心があるのは当たり前でした。神が存在することを疑うことはなかったのです。自然への畏敬、超越的な存在、死後の霊的な世界が存在することは当然だったのです。その時代は神は神でも、どのような神を信じるのかが問題だったのです。つまり八百万の神々なのか、仏なのか、あるいはキリスト教の唯一神なのかが人々の関心事だったのです。キリシタンの迫害でも、信じることそのものは、当然だったのです。
 しかし科学の発展した現代は、そもそも神というものが存在するのかということが疑われています。少し前の世代からすれば、驚くべき不信仰の時代になっているのです。たとえ存在すると思っていても、多くの人は窮屈な思い、それは人を縛り、金銭を要し、自由を制約して来るかのような存在に見えるようです。ですから現代では最低限必要な冠婚葬祭時のみ、お世話になる時代になっています。そしてキリスト教のように、どんな時代であっても、毎日曜日教会に集うような緊密な宗教は、非常にごく限られた人々のものになっています。これはまさに、教会に来る人は神に選ばれた人であり、神の選びの厳粛さを表すものです。

 現代人にとっては自分の目に見える世界がすべてで、見えない世界は存在していないかのようです。つまり見える世界とは財産や金、また家族とかの絆などです。しかし事実は異なることを神が証明してくださっています。「しるしを見」たり「神からことばを受け、信じた」人々が居るからです。この時人は「神は生きておられる」「神は生きて、働いておられる」揺るがない確証を得るのです。しかしいかにもこれはごく稀なような気がします。どうしてでしょうか。求めないからです。

 聖書ではそのような人々の証しで満ちあふれています。一例を上げればペテロは長年猟師をしていて、決してあり得ない事象に遭遇しました。ナタナエルはいちじくの木の下にいたことを語られました。それぞれに不思議を見て、そして「信じた」のです。しかしこれらの決心も、ただ見て信じたようにありますが、体験し、あり得ない中に、主を信じ告白したのです。ただ頭の中だけで【主は生きておられる】とした信仰とは、根本的に土台が異なります。

 口で告白して私たちは信仰を持ちました。しかし耳学問ではなく、体験したのですから、これは揺るぎない確信になります。私はここはカリスマの教会ですから、このような神と直接交わり、神からの召命をもって、一つのみ体を形作って参りたいと思うのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従う、一騎当千の信仰の強者となって参りましょう。

2021年10月10日 (日)

主は生きておられる

Ⅱ列王記 4章30節   2017新改訳

その子の母親は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

 この上記の告白はシュネムの女がエリシャに、わが子を生き返らせるよう懇願した際の言葉です。「主は生きておられる」、この言葉は、神、主をリアルに実際に体験しなければ言えない言葉です。神を体験する、これは神の一方的な主権による顕現であって、これを受けた人にとって、それまでの自分の人生観や価値観が、その瞬間、決定的に変容せざるを得ないのです。しかしこのような体験は「聖霊のバプテスマ」は聞き及んでも、現代では余り聞くことがありません。果たしてそれでいいのでしょうか。

 聖書ではどのように描かれているのでしょうか。先ずこのシュネムの女ですが、夫がすでに高齢で、子を持つことをあきらめていたようです。しかしエリシャは「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と預言し、実際それは成就しました。まるでアブラハムの妻、サラの事例のようです。この女性は「主は生きておられる」ことを体験しているのです。この言葉はエリヤやエリシァだけでなく、ギデオン、サウル王、ダビデ、エレミヤなど旧約では多くの人物が口にしました。彼らは皆、神の生きておられることを体験し、主に用いられた人生を歩んだのでした。

 「主は生きておられる」ことを体験するなら、それまで神は自分の思いやイメージ、観念の中にボヤーッと知識の中にあったのですが、その瞬間に現実の神とは、力ある唯一の権威と圧倒的な力、創造者にして真に贖い主であることが分かるのです。現れ方や伝え方はそれぞれに適応したものとなるでしょうが、最終的には一人ひとりに神の愛のメッセージが注がれるはずです。少なくとも私はそうでした。その愛の渦の中で呆然としながら、ただ強い感動で涙が止まらないのです。
 これを強いて言えば少し異なりますが、今はもう古い話、中国残留孤児が日本に来て、実の親にはじめて対面できたような感じでしょうか。

 「主は生きておられる」体験をした人は、マタイ 13章44節のようです。隠された宝を畑の中に見つけ、喜びのあまり、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うようなものです。自分の持っているもの全部を売り払って、神に捧げたくなってしかたがありません。それほどのこの体験は余りにも恵みであり、今自分が生きている意味とその目的をも知る事になるのです。信仰の確信が持てない、クリスチャンとして本当に自分は実をつけて、良い地なのだろうか。そう悩んでいる方は真剣に、深い悔い改めの中から、神のあわれみによってこの恵みを受けていただきたいと思います。

2021年9月12日 (日)

今の時は

✝ ローマ 10章18節   2017新改訳

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。

  今年の9・11までに20年になる長い戦いを避けようと撤退したアメリカは、アフガニスタンにおいて敗北したも同然です。再びテロ国家が世界の一国として登場することになったのです。これは20年近くも続けたベトナム戦争を思い出させます。圧倒的な軍事力を持っていたアメリカは、共産主義と今回は、イスラム原理主義に勝てなかったわけです。聖書的に見るならばこれ以後の世界は、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」(マルコ13:8)となるでしょう。人類普遍かと謳われたキリスト教的価値観は、明らかに行き詰まりを呈しているのです。

 私たちはこれまでマタイ24:14の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」をそのまま受け取り、全世界がキリスト教化して終わりが来ると思っていました。しかしそうではないことが明らかになっています。世界の宗教分布図を見てください。キリスト教はアジアの西部と中央部を除いて、ほぼ世界を覆っています。共産主義の国では迫害されていますが、今も地下教会はしぶとく福音を伝えています。イスラム教国でもクリスチャンは迫害されていますが、その比率は日本より高いのです。

 聖書をよく読んでみると、ローマ書10:18には『その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた』とあります。これは福音が届くということであって、世界中がキリスト教国になるという意味でないことに気づきます。共産国には地下教会を通して、イスラム教国にはSNSや教会を通して、福音は伝わり届いていれば良いのです。

 つまり福音はすでに全世界に伝わっており、終末の全世界に福音がほぼ伝わっているという印象を持ちます。つまりキリスト教国かどうかはすでに関係なく、世界の終わり、終末の舞台のお膳立てがほぼほぼ整ったと見れるのです。

 とするならばすでに信じた私たちは黙示録3:3の「思い起こし、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、私は盗人のように来る」とあるように、<悔い改め、(聖霊の満たしを受けて)目を覚まさ>なければならないのです。そうすれば「戸の外に立ってたたいている」主が入って来られ、「ともに食事をする」という主との交わりの恵みの中に入るのです。ですから自分の深刻な罪に目を覚まし、<永遠のいのち>なる主と生きることの命に勝る価値に目覚めて気がつかねばなりません。そのような人は、それまでの暮らしてきた世のすべてを喜んで捨てることでしょう。むしろ邪魔物なのです。先ほどの証しのように、その類いのしるしが伴うのです。
 永遠のいのち、ただそれだけに目を覚まし、神と交わって生きる、それが目を覚ますことです。

2021年9月 5日 (日)

誠にあなたは神の子です

マタイ 14章33節   2017新改訳

舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

 これまでペテロの水上歩行はいろいろ語れて来ました。結局は歩けなかったペテロの弱さ、不信仰を責めるケースと、逆に少しでも水上を歩けた(イエスという神でなく)人間はペテロが唯一であると持ち上げたりするものです。今回私が示されたのは、ペテロの叫び声「主よ、助けてください」を聞かれたイエス様が即座に手を伸ばされ、ペテロを掴んで引き上げてくださったことです。つまり視点をイエス様に置いてみようということです。

 ペテロは信仰に立って歩みでましたが、途中で波立つ強風にさらされ、それを見た途端に彼は現実に戻され、恐怖の余り沈みかけました。私たちもどんなに時に強く信仰に立ったとしても、ペテロとまったく同様に恐れおののくことはしばしばなのです。血肉のからだをもった弱い存在なのです。「自分は決してそのようになはならい」と誰が断言できるでしょうか。とするならば、ペテロは私たちの代表なのです。
 そのような私たちが心から「主よ、助けてください」と叫ぶなら、神は決して耳をふさがず、そのあわれみの豊かさをもって必ず助けてくださるのです。いえ、「待っておられた」と言っても差しつかないかも知れません。私たちが自分の力で歩もうとすると、それは必ず困難の障壁にぶつかり、沈みかけます。しかし神に助けを求め、神の力によって引き上げられ、共に進むなら、舟に乗り込んだ二人のように風は止み、勝利を得るのです。このペテロの水上歩行は、どんなに私たちが神の力によって歩まなければならないか、そのことを端的に教えてくれているのです。

 この結果、「まことにあなたは神の子です」とイエス様を拝する信仰告白を弟子たちはしてしまった。当時の感覚から言えば、これは人を崇めるわけで偶像崇拝です。明確に一線を超えてしまっているわけです。そのきっかけとなったのが、この水上歩行です。
 それまでイエス様がされたのは、①教えること、②罪を赦し悪霊を追い出して癒やすこと、そして③弟子訓練でしたが、④として一線を超えての告白に必要な大奇跡がこれであったことは明白です。
 皆さん、困難にあえぐ時、どうか「主よ、助けてください!」と叫びましょう。そして助けてくださった方に「まことにあなたは神の子です」と告白しましょう。自分の力で行おうとしたことを悔い改め、神に依り頼む、それが神のみ心です。



 

2021年8月22日 (日)

主イエスよ来て下さい

黙示録 22章20節   2017新改訳   

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

「主イエスよ来て下さい」
 本日の聖書日課が黙示録22章になります。この章では3度も「見よ、私はすぐに来る」があります。一つの章の中でこれだけ繰り返される、これには大きな意味があると思われます。英語では【Surely I am coming quickly】ですが、<行く>というgoではなく、戻って<来る>という意味的なcomeが用いられているので、この地上こそが神の最終的な約束の地です。実際、天のエルサレムが太陽も月も、山も海も無くなったこの地上に降りてくるのです。

 さて私たちの教会は、11年前の2010年8月16日の日曜日にスタートしたわけですから、ちょうど12年目の歩みに入ったわけです。今年が閏年もあって曜日がピタッと同じに重なった年である事や、聖書日課がカレンダーと黙示録の章が同じ数字になっています。神を信じる者にとって偶然はありませんから、この教会に主の御手がある事を感じます。それだけでなく昨日変なというか、不思議な体験をしました。

 昨日、仕事の都合でコンビニのトイレをお借りしなくてはならなくなり、子どもが用を足している間、レジ横で私は立っておりました。すると店員の一人が運転免許証らしきカードを持って来て「これ、あなたのではありませんか?」と言ってくるではありませんか。見るとそのカードは紛れもなく私のものでした。「えええ、どうして!」と一瞬混乱しました。しかし今月の10(火)、免許証をコピーする必要があってこのお店でコピーしたことを思い出しました。それでコピー機に忘れて、ずっとそのままだったことに気がつきました。なんと3週間私は免許不携帯で走り回っていたのです。
 免許証はお礼を言って返していただいたのですが、しかし何だか変です。これは普通の事ではありません。お店の中で忘れ物があったら、即日ではないにしても、速やかに警察にとどけますよね。しかし警察に届けず、ずうっと今日来るか、明日来るかと私を待ち続けてくださったのです。たくさんのお客が出入りするお店で、これはちょっとあり得ないと思うのす。20日間待ち続けられ、ついに発見されました。「こんな事ってあるかなあ」が私の最初の印象でした。しかし皆さん、これは私たちクリスチャンが一人ひとり、神に覚えられて、一日千秋の思いで悔い改めを待たれている、そんな神のみ心そのものだと私は思わされたのです。

 今私の免許証忘れのように、「自分はなかなか聖霊の恵みを受けられない・・・」「どうせ神様の勝手、どうしたって自分には無理だ」、そう思っておられる方々、それはみ心をないがしろにすることです。神はあなたをコンビニ店員さん以上に待っておられるのです。悔い改めた時が来るのを、です。聖霊の恵みを求めることは、み心です。皆さんの肉の心、石の心はご自分の力で断ち切り、聖めることは困難です。ただ導かれることを信じ、祈り、待ち続けましょう。それが信仰です。

2021年6月20日 (日)

真の宗教、真の神

ヨハネ 7章28節   新改訳2017

イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。

 イエス様が宮で大声を上げ、「『わたしを遣わされた方は真実』だが、イスラエルのあなたがたは真実を受け入れようとしていない」と言われた言葉が私の胸に迫ります。今この日本の国でも、私たちクリスチャンは圧倒的少数に留まっていますが、それだけでなく、「真の神」を知るクリスチャンはさらに少ないことでしょう。しかしこの数は問題ではありません。主がエリヤに語られたように、この不信仰不信仰な世に対し、膝をかがめなかった残された者(1列19:18)でいることです。

 さてつい先だって、テニスの合間に、自分の親族にクリスチャンが多い方がおられて、その彼が「クリスチャンって、死を恐れないんだよな」と言いました。すかさず私は「クリスチャンにとって死は天国への凱旋式ですよ」と言ったのですが、彼は「死んだら皆同じ」と答えました。聞いていた人が「暗い話はもうよそう」で終わったのですが、確かに普通の人には死後の話は暗い話で、怖いことなのです。すべての人に避けられない、必ず来る現実を避け、備えないとは実に愚かな事です。

 人の命は、それが尽きるまでに霊・魂の存在を信じるかどうかを決めなければなりません。信じるならば霊の行き先は、信じた宗教に左右されます。ここで最大のポイントは真の宗教であるかどうかです。究極にして永遠の選択結果となります。そこで聖書、その天地万物の創造からイスラエル二千年とキリストによる全人類への福音二千年が、人類の歴史をどれほど先導し、今日の世界を築き上げてきたかは論を待ちません。キリスト教は世界最大の宗教であり、人類の歴史と道徳のスタンダードとなった宗教なのです。キリスト教の神こそ、真の神であることは明白です。

 このキリスト教の一切の土台は聖書です。聖書は原点において誤りなき神の言葉です。この他に誤りの無い聖典とか経典を知りません。神は人間のすべての罪を背負せて御子キリストを十字架に架け、そのことによって信じる者を罪無き者とされました。驚くべき神の愛です。皆さんは天国というものを思い描かれることと思いますが、天国は悲しみ、恨み憎しみなど人間の罪がない所だから天国です。しかし人間の努力でそのように聖くなることは不可能です。ただ自分の罪の身代わりとなってくださった神イエス様を信じる以外に、人間に道はないのです。

 皆さん、キリスト教にも多くの過ちと失敗があると思われている方もいるでしょうが、それは間違っています。権力を与えられた自称クリスチャンが、神から離れ、世の権力を用いて自分の肉的な野望を達成しようとしただけです。聖書はそのような過ちを語ってはおりません。見分けてください。神に誤りは無く、真に神に従う者は世より天を選ぶのです。真の宗教、真の神を信じましょう。

2021年3月28日 (日)

受難のメシア

ヨハネ 12章12~13節   新改訳2017

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

棕櫚の主日〜エルサレム入城の記念日
 最後の過越しの祭りにあたって、今日がイエス様がロバの子に乗ってエルサレムへの入城を果たされた日になります。この日曜日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。この日から金曜日の日没までを受難週とも言い、メシア預言の多くが成就し、多くの珠玉の御言葉が語られた日々です。

 さて棕櫚の主日の前日になりますが、土曜日イエス様はベタニヤに到着され、元ライ病人シモンの家に泊られました。そこにマルタやマリアとラザロももてなしに訪れていました。そこで葬りの備えともいうべき300デナリの高価な香油がマリアによってイエスに注がれました。多分ユダであったでしょうが、「貧しい人に施せたのに」と憤慨しました。
 このベタニアは神殿からオリーブ山越えで2マイル、約3キロ余りの所にあり、過ぎ越しの都詣でをするのに小一時間という最適な地でした。そのため蘇ったラザロを見に、大勢のユダヤ人が都から来るのにも好都合でした。ラザロを機に、「大勢のユダヤ人がイエスを信じるようになった」とヨハネ12章11節にあります。このままでは自分たちの地位も危ないと、祭司長たちは焦りに焦っていたはずです。人が世にも恐ろしいことをする最大の理由は、ただ自分を守ろうとしただけの理由であることが多いのです。
 棕櫚の主日、日曜日の朝がやって来ました。メシアはろばの子に乗ってエルサレムに入城(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)すること、月曜日には宮清め(イザヤ56:7、エレミヤ7:11)などの預言の成就がありました。しかしそれよりも、イエス様の遺言とでも言うべき多くのお話、また弟子たちの洗足、いちじくの木の呪い、聖餐、特に十字架の経緯などが重要なことは言うまでもありません。〜途中、省略〜

 最後になりますが、イエス様が十字架にお架かりになったのは、金曜日の9時から15時です。この時間帯は、過ぎ越しの子羊を屠る時間帯です。過ぎ越しのための子羊は苦しませずに、一気に屠りますが、イエス様の十字架は逆に、できるだけ長時間、死の苦しみを長引かせるためのものでした。私たち全人類の罪を贖うのに、神の御子イエスお一人では不足でしょうか。いいえ、とんでもないお釣りが来る、過分なものでした。神は宇宙を創り、地球を造り、あらゆる命を造られ、最後に人間を造られました。その神が罪の身代わりとなって下さったのですから、その贖いは全人類を贖っても贖い不足ということは全くありません。なんという愛でしょうか。この神を私たちは父と呼び、父は私たち信じる者を子としてくださっているのです。
 
 この一週間は先にお配りしたような「聖書プラン」で御言葉に専念されると、復活祭での恵みがさらに豊かなものとなると思います。御言葉とともに祈り、復活祭をお迎えしましょう。

2021年3月21日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4節  新改訳2017

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

今年の年間主題であるこの「世に打ち勝つ信仰」は、単純に「ああ、私たちの(カリスマ)信仰が世に対して勝利を取るのだ」と喜んでいいものではない。この御言葉には教会員が襟を正し、自らに問いかけねばならないという根本問題がある。

 それはこの章の1節にある「イエス・キリストがキリストであると信じるものはみな、神から生まれた」と「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します」にすべて言い表されている。前者は信仰は神より来ていることを現し、恩寵を表す。これは他の多くの聖書箇所(マタイ11:27、使徒13:48など)から裏付けられることである。信仰は人の力で得たものでは無く、実に神が私たちにあわれみをもって、ご自分を現されたことにある。だから誰も自分の信仰を誇ることはできないのだ。

 後者はその神から生まれた者は、世に勝つ愛、特に世に勝る兄弟愛を共有すると述べている。主イエスや使徒たちが特に心配したのは、教会内の分裂、分派である。これは実に教会草創期から常に問題でもあった。聖霊のバプテスマを受けていない肉のクリスチャンたちと、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンたちの、信仰違いである。これによって教会内のあらゆる問題引き起こされることは、ごく初期の内に周知されていたし、イエス・キリストは初めからその警告を「互いに愛し合いなさい」と言う最高度の戒めを己を信じる者すべてに、与えていたのである。

 実際、「木はその実によって知られる=A tree is known by its fruit」という諺があるように、先ず教会の交わりそのものが聖化され、神の臨在と愛で満たされていなければならない。例えばどんなに偉大な説教者が立派で高尚な教えを垂れても、その説教者の家庭が離婚騒動や兄弟間に争いが絶えないのであれば、誰もその言説を真にを受けようとはしないであろう。それゆえ、教会の兄弟姉妹が肉親の兄弟姉妹以上に、神の愛によって互いに愛し合い(ヨハネ13:34、ロマ12:10、1ペテロ1:22、1ヨハネ4:7)、その実を実らせていること、これが聖書の主要な教えであって、4節で言っている<世に打ち勝つ>とはまさにこのことを指していると私は思う。

「世に打ち勝つ」とは弟子たちにもみられた「誰が一番偉いか」や、互いの間に世の人と同じ妬みや、自分の座を奪われないための相手を排除したり無視すること、また教会への陰口、党派心など、これら一切をなくすことである。それはまさに世の悪霊たちによるに御体への挑戦に打ち勝つことである。この戦いは聖なる戦いであって、世に福音を語り、伝道する以前の内部の問題である。私たちが主の愛によりすがり、教会に、まさに持ち込まれようとしているそのような人間的な感情や、それらを用いてくる悪霊に対し戦うならば、必ず打ち勝ち、勝利することの約束の言葉がこの御言葉なのだ。

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