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信仰

2017年11月 5日 (日)

2018年ガリラヤ湖畔 新年礼拝

マルコ  11章22~24節     (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 2018年度の御言葉は、マルコ11:22~24節です。この解説を私なりに致します。
 22 節でイエス様が言われた「神を信じなさい」ですが、信じること、つまり信仰とは、疑わないで信じよう・・・とすることではありません。それができると思うなら、その人は普通人ではありません。つまり普通はできないことなのです。
 
 ではどういう事になるかと言うと、その次の平行箇所である「受けたと信じる」ことなのです。これにはポイントがあります。つまり、どうしてまだ見ても得てもいない事を、すでに受けた、得ていると信じられるのか、です。これはこの世の人々で理性ある人、常識のある人々にとっては、一線を越えた「愚かなこと」です。
 
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 しかし、聖書によれば、信仰とは神の言葉である聖書を信じることです。見えていないものを信じるのは、これは聖書の神の言葉を信じ、信頼しているからなのです。見えるものは滅び、見えないものは永遠です。一例ですがローマ8:28において、神を信じる者には「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」のですから、現状がどう見えようとも、悪いこともすべて感謝し賛美して喜ぶ、ということになります。なぜなら神を信じているからです。そしてその現れとして「感謝」と「賛美」を香とし、24時間焚き続ける連続祈祷をしようということになります。
 
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
「信じて疑わない」とは人間である限り不可能です。そうではなく、一言で言えば、御言葉を信じ、「受けたと信じる信仰」です。これを実際にやりましょう。どんなに自分に疑いが生じたとしても、それに拠らず、最善をして下さる神さまの言葉を信じ、その祝福を逃さず、感謝をささげるわけです。結果、その信じた通りになります。
 
 年間主題と[感謝と賛美の連続祈祷]はリンクしており、今あるどんな問題でも感謝し、苦しんでいるゆえにあえて感謝し賛美をする。今の自分の目で現状を判断するのではなく、信仰の目で見るからこそできる感謝と賛美を、です。

2017年10月29日 (日)

信じる信仰

ガリラヤ 2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 福音と信仰。この両者の関わりが今回開かれました。今日も重く暗い雨雲の下、長雨が降り続いていますが、ちょうど明日の朝、飛行機に乗って雲の上に出た時のようです。
 ズバリそれは右図です。十字架に集約されるように、神がいかに人を愛して下さったかを知らせるのが福音です。逆にその福音の恵みを受けた人が、神を心から愛することを信仰と言うのです。                   Photo_2
 神の愛、福音は普遍であって真理であり、それは変わることのないものです。しかし信仰は人によって濃い薄いがあるのは当然です。信仰の代表はパウロの本日の御言葉(ガラテヤ2:20)です「私はキリストとともに十字架につけられた」と言うのは、福音の絶大な恵みのことを指します。驚くべき神の知恵、どんなに周到な救いの計画であったことか、迫害者であったパウロは神の力と威光だけでなく、その徹底的な愛に圧倒されたことと思います。
 
 それで「もはや私が生きているのではなく」と、それまで持っていた自分自身の計画や価値観が崩壊し、まだ見てはいないが、自分への神の計画に乗り換えることに同意し(信仰)たのです。その土台は十字架の神の愛でした。そしてこの確かな証印は自分の直感とか確信ではなく、聖霊なる神の臨在そのものなのです。
 
 このように信仰とは理論でも推理でも思考でもない。滅ぶべき自分が確認され、救いを得させる十字架の福音を信じたことへの応答なのです。上述のように、信じるその意味がわかり、降参して神を自分の主として受け入れることです。つまりキリストを信じるとは、ただの受け入れではない。自分のいのちと全存在を神に渡すのですから、その変容は誰の目にも明らかなものとなるのです。
 
 別な言い方をすれば、信仰とはイエス・キリストの救いをただただ信じることです。それは理屈ではありません。理屈ではない、と言っても十字架に関する知識を否定しているわけではありません。ただ自分の理解を超えたこと、信じがたいことではあっても、「それでも信じる」と決断することを信仰だと言っています。

2017年8月27日 (日)

神に不可能は無い

マタイ 19章16節
すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 マタイ19、マルコ10、ルカ18の各章で扱われています。この富める役人でもある若者は、イエス様が来られるのを走り寄って「尊い先生、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたら良いでしょうか?」と尋ねています。今の私たちには、行いによって永遠のいのちを得ようとすること自体が方向違いであることを知っていますが、パリサイ派中心の当時では、これは当然の発想でした。しかし彼は律法を単に守るだけでは「永遠のいのち」を得られない、そんな感覚を持っていたと思われます。当時の律法中心の時代にあって、イエス様の権威がわかる数少ない正しい人でもありました。
 
 この人はマルコによればイエス様から「慈しまれ」た人物であり、ルカによれば律法を忠実に守っている風であっても、行いに疑問符のつく人として描かれています。この両福音書ともあなたには「まだ一つだけ欠けたこと」があると、ズバッと指摘されていますが、マタイでは「完全になりたいのなら」と道を諭すようにして答えられています。
 
 イエス様は彼がこの世の富に心を奪われていることを知っておられたので、すべての財産を売り払って貧しい人に施し、それから自分に従って来なさい」と言われました。人は神と世の両方に仕えることができません。彼にはこの問題があることがイエス様にはお見通しだったのです。ですから「律法をすべて守っています」と言いながら、財産を施して「隣人を自分のように愛せよ」の戒めは十分に守れていなかったのです。
 
 この人は結局富を捨てる事ができないので、悲しみながら去って行きました。人は完全にはなれず、罪が残るのです。ですから罪ある者が永遠のいのちを得ることは、「ラクダが針の穴を通る」ほど困難でした。この不可能を、イエス様が十字架によって解決されたのです。人にはできないことでしたが、神が可能にしてくださったのです。
 
 私たち罪人は十字架を信じることで、全くこれまで一度も罪を犯したことがないかのごとく一切赦され、それで聖霊さまが住まうことが可能となりました。この聖霊なる神の力よって、私たちは不可能だった神に聞き従う人生が可能となったのです。これは奇蹟中の奇蹟、なんという恵みでありましょうか。
 「自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」とは恵みの道です。人間の力では不可能だった「神に従う」道が、行いではなく神の力、十字架によって開かれたのです。自分の力では到底得ることのできなかった「永遠のいのち」を私達は得ることができるようになったのです。

2017年7月 9日 (日)

忍耐による勝利

へブル 10章35-39節
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
 
私たちの教会は日本のリバイバルに召された教会です。首都の日の昇る方、東から立って行く使命を負っています。このことははっきりと神から示されています。ところが多少出入りはありましたが、相変わらず何年も現状に変化がありません。
先週、この現状に関して、御言葉を求め御言葉に立つように気づかされましたので、早速祈り求めました。本日は与えられました御言葉をみなさんと共に受け取って行きたいと思います。
 
聖書箇所はへブル10:35-39、中心が36節で、そこには「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあります。神のみこころとはリバイバルの召しと使命です。その約束は「忍耐」によって手に入れられる、つまり、成就すると示されました。Endure
「忍耐」という言葉に、日本人はあまり良いイメージがありません。「石の上にも三年」とか「むぅぅーうっ」と我慢するサウナ風呂のイメージですよね。だるまさんてみなさん知っておられるでしょうが、座禅を9年も組んだため、両手足が壊死して無くなったからなんだそうです。
 
しかし聖書で言う忍耐とはそのような意味ではありません。聖書的な意味では日本語的な意味でのただ耐えるという意味ではないのです。絵を見てください。教会とクリスチャンにとっては困難がつきものですが、これにはこの先に明確な神の勝利の計画があるのです。ですから、ただ我慢し耐えるという現状維持が忍耐の意味ではなく、忍耐すること自体が、定められた神の時に向かって一歩一歩、成就へ、勝利へと近づき前進していることなのです。ですから私たちの忍耐とは、神の時が成就するための神の戦いなのです。
 
この点から前後の御言葉・・・・「確信を投げ捨ててはなりません(35節)」 「おそくなることはない(ハバクク2:4からの引用)」「恐れ退いて滅びるな(38-39)」と私たちを励ましています。私たちの今の忍耐は勝利へと向かう信仰の戦いととらえた時、現状から諦めたり、与えられた神の約束を疑って途中下車したり、退いてはならないのです。この御言葉に立って、教会は忍耐によって神の約束の成就、リバイバルを見るのです。

2017年7月 2日 (日)

心を刺し貫く剣

ルカ 2章34-35節
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
 
 マリヤは親類のエリサベツの家で「マリヤ賛歌」(ルカ1:51-54)と呼ばれる預言を残しています。これは「受難のキリスト」の予告とも受け取れます。そしてイエスを捧げに宮に詣でた時に、シメオンが受難のキリストである確認を語り告げました(ルカ2:34-35)。
 
我が子がメシヤと語られることに驚いた母マリヤですが、おそらく「剣があなたの心さえも刺し貫く」と語られた言葉が一番心に残ったことでしょう。後には成就しましたが、多くの人々の心を明らかにするための神のみこころはこの時点では理解困難でした。
「反対を受ける」という言葉ですが、KJVでは「spoken against」であり、「語られた宣教に逆らわれて」という意味です。本日はこの神のみこころに焦点を当てます。
 
人が福音を聞いたならば、二者択一しかありません。受け入れるか、さもなくば受け入れないで拒むか、です。その分かれ目のポイントは「世に希望があるか」「正しい自己像で自分を見ているか」です。
 
福音を拒む人とは、この世に希望があるからではないでしょうか。地位や権力のある人。能力があって成功した人。名家の生まれや財産のある人。こうした世に宝のある人たちにとっては、容易にこの宝を捨てる事ができません。またもう一つ、「救われねばならない罪」を認識している必要があります。これは暗く否定的なことのようですが、十字架によって一転し、罪からの解放と祝福を得る基となります。聖書はすべての人が罪を犯しており、義人は一人もいないと言っています。ですから罪が無いと思っている人は自己像が正しくないのです。問題は救いと世の富とが相反することです。富める若人のように、どんなに救いを求めていても、世を選ぶなら救われないのです。
 
逆に貧しい人、権力の無い人。能力の無い人、虐げられている人・・・・こうした人たちは福音を受け入れる人たちです。この世にたいした希望がないからです。「心の貧しい者は幸いです。天国は彼らのものです」と言われているわけです。しかしどんなに神の国に近くても、自分の内にある罪が分からなければ救われません。
反対を受けるしるし、とは世を選ぶ人、罪を認めない人たちから福音を語れば迫害されることです。我が子の処刑に立ち会ったマリヤは心を刺し通されますが、三日後、復活の我が子を見ました。同じように私たちは福音を信じ、救われて世と肉の命に勝る永遠のいのちを与えられました。このことを喜びましょう。迫害されても私たちからこれを奪うことはできないのです。

2017年6月25日 (日)

信仰Ⅱ

マルコ10章27節
イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
 
 イエス様は、この世で富んでいる人が神の国に入ることは、「ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい(マルコ10:25)」ことだと慨嘆されました。持てる者は世の富を誇ったり頼ったりします。しかし持たざる者は神に頼るしかない、そのことがかえって益にされ、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)」と語られたのです。 
 
 しかし富んでいようと貧しかろうと、ただそれだけで神に国に入れるわけではありません。たとえ全財産を捧げても、それと引き換えに天国に行ける保証はありません。人には罪が有り、不可能なことであっても、「神にはできる」と可能にしてくださったのがイエス様の十字架でした。自分が神の国にふさわしくない罪人であること、自分の身代わりとなり、罪を贖ってくださったのが十字架のイエス様であることとを信じ、告白しなければなりません。これは行い拠るのではなく、いのちを捧げてくださった神の愛への応答として、自分の霊・たましいなど一切を捧げることを意味します。
 
旧約時代においては律法を守るという行い中心でしたが、十字架以降の新約時代には広範な質的変換が神との関係においてなされました。神を自分より愛する者は、自分の存在そのもの、いのちをも世にまさって優先し捧げるからです。殉教とはこの具体的な結果であり、それゆえ神から称賛を受け、千年王国では王となるのPhoto_2です。
 
 信仰とは、まず自分が神の国に行けない罪深い者であることを知った人でなければならず、その絶望の底から十字架を信じて希望を見、 その希望が確信へと変わって、絶えず喜ぶ者へと変えられたことでした。これは人間を180度転回させます。
神を信じる者に十字架と救いの疑いはありません。なぜなら信仰は「神に不可能はない」ことを知らせ、祈りの体験によって、まだ見ぬことに信頼を置くからです。なぜそれができるのでしょう。罪が十字架によって赦された者には、聖霊を通して神と交わった確かな体験をしているからです。
千のことばよりも確かな確信が、信じる者にはあるのです。神にはどんなことでもできるのです。

2017年6月18日 (日)

信仰

マルコ 4章40節 
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
                                                               
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうし 嵐のこの記事に、以前から二点ほど疑問に思っていました。第一に嵐で大揺れの小舟の中、水浸しで今にも沈みそうな状況で、どうしてイエス様は眠り続けていることができたのでしょうか?私はあり得ないと思っていました。しかしイスラエルで何度か行ったノフ・ギノサールにあるイエス様時代の舟の博物館で、去年その展示横にある小さな模型を見て疑問はとけました。模型では艫(とも)と舳先(へさき)に広めの板が張ってあり、イエス様は艫で寝ておられたのです。通常舳先を風先に向けますから、逆に艫は最も安定した所になります。しかもここなら濡れません。
 
 次に、イエス様はどうして弟子たちを叱られたのでしょう。ガリラヤ湖の漁師であったペテロ達が危険を覚える状況でした。寝ておられた師に助けをShip求めて起こしたからと言って、それがどうして叱られなければならないのでしょうか? ちょっと納得ができません。
 しかしこれも当然のことでした。なぜならイエス様は弟子達の信仰を責められたのです。これまで弟子達はイエス様に付き従って、大いなるわざを見てきました。イエス様がただの人間ではないことを一番よく知っていたはずです。ですから何とかしてもらおうとイエス様を起こしたのですが、しかしその前にもっと大切な<信仰の目で起きている現実を見る>ということに気づくべきでした。
 
 似たような話が2列王6章にあります。ある朝エリシャのしもべが起きて外へ出た際、自分たちをアラムの軍が取り囲んでいるのを発見します。あわててエリシャを呼ぶと、エリシャは逆にしもべの目が開くよう神に祈って、神の軍勢がエリシャ達を取り巻いて山に満ちているのを見せました。目に見える事象だけで判断すると誤るのです。神を信じる者は、まず信仰の目で見なければならないのです。私たちの感謝も同じ道理です。
 
 みなさんお一人お一人が、今現在許されているどうにもならない現実や病、困難を信仰の目で見て立っておられるでしょうか? そうするかしないかが、天に宝を積む聞き従いと感謝に、大きな違いを生むのです。二つの疑問の解き証しを通し、いかに聖書が信じるに足りる正確で正しいものか、また私たちが信仰に立つことの重要さを語らせていただきました。

2017年5月28日 (日)

信仰のスイッチ

ローマ 8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は私たちに一つのことしか言われておりません。それは「神を愛するように、隣人を愛しなさい」ですが、しかし私も皆さんも、「はい、それは十分にできております」とはほど遠いのではないでしょうか。あきらめるわけではないのですが、私に愛がなく、行う力がないのです。しかしだからと言って絶望するのは早過ぎます。なぜならイエス様ご自身から再々語られている「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という御言葉があるからです。愛に乏しい私たちを、神があわれんでくださり、恵んで助けてくださるのです。
 
ですから皆さん、信仰のスイッチを入れて、己ではなく、神さまの視点に立って見ましょう。隣人を愛するどころか、自分すら愛せないみじめな自分を認め、それを神に訴え、あわれみを求め続けるならば、それが神さまの御心であって、神の絶大な恵みを得るという逆転になります。みなさん、これは神の法則なのです。
 
一例を挙げましょう。イエスさまがツロとシドンの地方に行かれた時のことです。一人のカナン人の女が声を大きく上げながら、しつこくイエス様の一行につきまといました。娘が悪霊に取りつかれているので、いやしを願っていたのでした。この女は異邦人でありながら、「主よ、ダビデの子よ」と言っていますので信仰がある人でした。この日本でもそうですが、異教社会でクリスチャンになる、有り続けることは、本物の信仰でなければ大変です。
イエス様はこの女の願いに対して意図的に冷たく無視されました。それで女はさらに叫び声をあげ、弟子たちを困らせました。しかたなく女を帰すために、女はイエス様の前に出ることができました。イエス様は女に言い放たれます。第一に「自分はイスラエルの民以外には遣わされておらず、お門違い」というわけです。普通の人ならこう言われると、落胆するかまたは怒りというか、頭に来ますよね。
 
しかし女はひるむどころか、ひれ伏してまでして「主よ、お助けください」とさらに願い続けます。イエス様はここでまた決定的な追い打ちをかけれます。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と。つまり、本来ユダヤ人への恵みを異邦人、しかも小犬・・・・これは日本人が抱くイメージよりも非常にさげすんだ表現です・・・・とまで大切な我が娘のことを言われたのです。もう、ほんとーにアッタマ来ますよね。ところがびっくり、この女はなりふり構わずイエス様に取りすがります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
みなさん、イエス様が「あなたの信仰は立派です」とほめたたえたのは、たった二人しかいません。しかも両方とも異邦人でした。なんと言うことでしょう。今日のことが予表されているかのようです。このシドン人の女は、イエス様が取った冷たい態度や突き放したことばがあったればこそ、こうしてほめたたえられる恵みに与ったのです。益とされたのです。してみると私たちの試練や困難は、恵みに与り、天でほめられるためにある・・・天の宝なのです。
自分の愛の無さ、肉欲の強さ、救われがたい自己愛・・・ぜーんぶ神さまに持って行き、進み出ましょう。神に訴え、その解決を神に求めるなら、解決されます。それがみこころなのですから。これを信仰のスイッチと申します。神に希望があり、解決があるというスイッチです。

2017年2月26日 (日)

創造の目的

コロサイ人への手紙 1章18節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
少し前のことです。いつもの歯科医院でブラッシングの指導を受けていると、「ここ、いつも磨いていませんね」と言われた所がありました。「そんなはずはない」と思いつつ教えてもらいますと、なんと私に親知らずの歯がありました。もう少しで私に、親知らずの歯が在ったことを知らずに終わるところでした。知っていなければ、それは存在していないのと同じです。ケアされないで無視された歯は、早晩虫歯か歯槽膿漏になったでしょう。
 
人が全知全能の神を認めないのもこれに似ています。世のほとんどの人は、私の親知らずの歯のように認識せず、したがってぞんざいにして、神の恵みを無にしてしまうのです。
さて、霊的な存在には神・天使(堕天使を含む)・人があります。その中でも人は物質を伴ったハイブリッドですので、端的に言えば人のために、天地万物のあらゆるものが用意されたと言っていいでしょう。この宇宙と人を含めた天地万物は、誰が造ったのでしょうか。またそれは、何のためでしょうか。
 
ちょうど本日の聖書通読箇所であるコロサイ書の1ー2章にその答えがありました。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた(コロ1:16)」とあるのです。ピリピ書2:10-11でも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」とあります。実にすべてのものがイエス・キリストにあって造られ、またイエス・キリストのために存在するのです。ではそれは、いったいなぜなのでしょうか。
 
ピリピ2:6-8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・・」とあり、キリストは神であるにもかかわらず、卑しい人の形をとってこの世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
キリストは人として歩まれていた間は、小さい者、弱い者、病ある者を助け、癒やし、力を与え続けました。その最後は全き罪無き方であるのに、十字架にかかって全人類の贖いの小羊となってくださったのです。神との和解を間に立って執りなしてくださった仲介者なのです。神の全性質がキリストにあるのですから、神はこのような愛そのもののお方だということが分かります。
 
神を信じるなら、神は私たちを罪から解放してくださり、ご自身の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださいます。今もなおキリストは天で、神の右の座で、私たちのために執りなしていてくださっています。これをなんと言いましょうか。何と計りがたい神の知恵、その奥義。我らの救い主、主を崇め賛美しましょう。私たちはその恵みの証人です。

2017年2月 5日 (日)

あなたは何処へ行く

ローマ 1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 全国の高齢者の皆さん、私もこの度お仲間に入れていただいた若輩者ですが、年金とか、各種公共料金など、いろいろお得になったことがわかりました。しかし振り返ってみれば、喜んでばかりはいられない年代でもあると思います。
 なぜなら私と妻には普通の倍の八人の親がおりましたが、誰一人この世にはおりません。気がついてみれば、順当にいけばですが、次は私たちの番なのです。人生の折り返し点をとうに曲がりきった私たち高齢者は、命というものを真剣に受け止めなければならない世代です。人は死ねばお終いで、一切は無だと思っておられる方は少ないでしょう。形ある物は必ず朽ちていきますが、見えないもの、形ないものは朽ちず滅ばず、永遠です。人間の霊・魂というものも同様です。たとえ体を失っても永遠に残ります。
 
 問題は血肉のこの体を失った後、霊、魂が何処へ行くのかということです。仏教では、仏を信じる者は皆、極楽浄土に行くんだと聞かされました。しかし私は皆ということ、それが気になりました。なぜなら、罪が消えておらず、それならこの世とあまり変わらない所のように思えたからです。この世とあまり変わらないのであれば、行きたい所ではありません。はっと気がついてみると、赤い炎がちらちらしており、すごい臭いのする所では後の祭りです。死後の選択とは生きている間だけの、たった一回だけの選択です。永遠を時間をそこで過ごすとあれば、これに失敗するわけにはいきません。
 キリスト教では、唯一にして三位一体の神だけが神です。イエス・キリストは神の子であるのに、卑しい肉の形をとって処女からお生まれになり、十字架によって全人類の罪を背負ってくださいました。身代わりになってくださった十字架を信じる者は、完全に罪が赦され、聖霊が住まわれて新生し、罪なき世界、天国に行けます。
 
 そこで皆さんによくよく考えていただきのです。先ずキリスト教は世界最大の宗教です。22億人以上、つまりこれは人類の三人の内一人はクリスチャンです。次に世界最古、何と四千年の歴史を持っていることです。最後にキリスト教は国籍、民族を問わない世界宗教であることです。例えばヒンズー教はインド、道教や儒教は中国や朝鮮半島だけという特定の民族と地域のものです。ところがキリスト教はアジア大陸の西端から発して、全ヨーロッパ、アフリカ南部、海を越えて南北アメリカ大陸、オーストラリア、最後にアジアのフィリピン、韓国へと五大陸をカバーしています。日本を除く世界の先進国が皆、キリスト教の国なのです。

 皆さんイエス・キリストを信じて、また天国でお会いしましょう。短いこの血肉の命に比べ、永遠の命の世界を、どうか選び取ってください。

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