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信仰

2020年10月 4日 (日)

アバ、父よ

✝ ローマ 8章14-15節         新改約2017

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ガラテヤ4章5-6節   新改約2017

5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

 私が子どもの頃、父の役場という父の職場によく出入りし、庁舎内のどこを行こうがまったく咎められることはありませんでした。長じてこれは「不思議なことだった」と思っておりました。ところが今朝ほど、それはすべて私が父の子であることで、看過されていたんだなということがわかりました。確かに父は長く特別職である収入役でした。それだけでなく、ポイントは職場の全員が父の子としての私を知っていたということです。どうしてそんなことがあったのでしょうか。それは毎年、仕事始めが終わった一月四日の午後、私の家で役場の全職員が集まって新年宴会を開いていたことです。その宴会が興味津々で、一人混じって出ていたのでした。つまり庁舎内をうろつき回るこの怪しげな子は、全員が誰の子か即座にわかっていたのです。

私たちが天のお父様のことを「アバ、父よ」と呼び、その子どもであるということは、つまり天国は自分の家になるわけであって、子である私たちは何の臆する所もなく、すべてを享受できるのです。やがてこの地上に降りてくる栄光に包まれた天のエルサレムが天国です。今この地上では取るに足らない存在の私たちですが、それがどれほど光と栄光に満ちた恵みであることか、いくら想像しても及びつかないことだと思うのです。

 ただし、すべては「子である」という前提の話です。私たちはどのようにして自分が神の子であることを知るのでしょうか。勿論、実の子はイエス様です。わたしたちは養子ですが、しかし子としての特権は世での養子と同じように与えられるのです。養子であるなら、自分が神の子とされた、籍が天に移されたと知れるのは何によってでしょうか。「神の言葉と聖霊によって」です。
 本日の聖書箇所ローマ8:15には「子とする御霊のを受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と叫ぶ」とあります。<※ガラテヤ4:5-6も同様> この、子としての実質はローマ8:23によると御霊の体になってからということがわかります。クリスチャンの葬儀は「ハレルヤ!」である理由でもあります。
 さて神によって世界の基が据えられる前から、私たちは御国を受け継ぐ子とされて<エペソ1:3-5>いたのですが、その保証は聖霊だと続く14節にあります。本日の聖書箇所でもそのように、父なる神は聖霊を私たちに遣わされ、その聖霊によって「アバ、父よ」と私たちが叫ぶとあります。御霊によって子とされた私たちは、地上ではその御霊に導かれ召されてそれぞれの使命を全うして行きます。聖霊に満たされれば満たされるほど、地上でのことは取るに足りないことであって、私たちは天への希望に満ちあふれて行くのです。

2020年6月28日 (日)

キリストに生きる

  ✝ピリピ 1章20~21節  【新改訳2017】

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
 人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)

  「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
 みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。

 妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。

2020年5月24日 (日)

信じる者は永遠のいのちを持つ

ヨハネ 6章47節   新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

 先ほど使徒信条を交読しましたが、私たちの東京アンテオケ教会ほか、カトリック教会まで含めて、ほとんどのキリスト教会は使徒信条を自分たちの教会の信仰告白にしています。また〇〇教団とか単立〇〇教会と、それぞれ特徴を持った教会がたくさんありますが、実際には教会は一つしかなく、このことを普遍的キリスト教会と言ったりします。

使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン

 ですから使徒信条は聖書ではありませんし、聖書以上のものではありえませんが、本当の教会であるかどうかのバロメーターになるものです。どうしてでしょうか。それは三位一体を明確に現しているからです。つまり、極めて初期の段階から三位一体を否定する異端は、イエス・キリストを最高度の人物のように扱いながら、どうしても人間としてしか見ようとしなかったことをあらわしています。実際、現代でも「エホバの証人」「モルモン」などは、イエスが神であることを認めません。これは二千年間も続いているサタンの攻撃なのです。

 しかし、イエス・キリストが神であることを信じることが、使徒の時代から受け継がれてきた普遍的な教会の信仰であり、それは、イエスが聖霊による処女降誕であること、十字架で死んで復活し、今もなお神の右に座しての審き主であることを信じることでした。

  1世紀、140年頃のローマ信条に使徒信条は由来があり、数百年かけて現在の形になりました。つまり使徒の信仰をもっとも表していると言う意味で使徒信条と名づけられているのです。またこれはおそらく使徒の時代直後からずっとバプテスマの前に、査問会のような信仰を問う場において投げかけられる問いでもあったとされています。

 ですからみなさん、謙遜に謙虚になりなさい、賜物の働きは、注がれば注がれるほど人を畏れさせ、謙虚にさせる。リバイバルの大いなる注ぎの前に、神のものを自分のものにしないように、心からの徹底した謙虚さが前提です。高慢さというものは最大の敵です。私たちは自分の霊、魂の状態に目を醒ましていなければなりません。

2020年5月17日 (日)

ふさわしくない者

マタイ 10章38節   【新改訳2017】

 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 人はどのようにして神にふさわしくなれるのでしょうか。もし、自分の力でそれが可能だと思っていたとしたら、私の見方ではある意味、自分が分かっていない迂闊な人か、あるいは思い上がっている人なのと思ってしまいます。けれども多くの方にとっては、聖を前にして我が身の至らなさ、醜さに苦しんでおられるのが実状ではないでしょうか。しかし神が聖としてくださることはみ心ですから、あきらめない限り、時が来た時に成就し、喜びに変わるのです。<1テサ5:23,1テモ4:5,ヘブル10:10>

 では自分が御国にふさわしくないと思っているままで良いのでしょうか。断じて違います。ここが大切分かれ目になります。私たちは必ず、神を愛し、天への希望が本物なのか、忍耐が試されるのです。早々にあきらめる人は、もともと良い地ではなかったのです。これを思う時、わたしは「富める若人」の話を思い出します<マタイ19:16>。 この青年は富と家柄に恵まれていただけでなく、「永遠のいのち」に深く関心を持つ超まじめ青年でした。その彼でも「自分が永遠のいのちを受けるにふさわしくない」ことを知っており、苦しんでいたのです。そしてこれが最大の問題ですが、彼はこれまで以上に「どんな良いことをすればよいのでしょうか」と、なおかつ自分の行う力に希望を持っていたのでした。

 イエス様は彼の模範的で真摯な生活を認め、慈しんで言われました。「あなたの全財産を貧しい人に施して天に宝を積み、その上で、わたしに従って来なさい<マタ19:21>」と。これを聞いた青年は、それが出来ないので悲しく立ち去ってしまいます。これは行いでは不可能であることを示しています。
 これを聞いていた弟子たちが「それでは誰が救われるのでしょう」と疑問を持つのです。イエス様が厳かに語られたのは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます<マタ19:26>」。これが信仰だと私は思います。つまり信仰とは自分に対する行いへの希望ではなく、与えられることへの信頼であり、確信なのです。

 このように私たちは、自分の力で実を結ぶことは出来ないのですから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」のたとえの通り、ますます神に対して謙虚になるしかありません。しかし一方で、まるで自分で得たもののように誇る人たちも出てくることでしょう。それぞれの実が見分けのポイントになります。それは神に全ての栄光を帰す謙虚さです。

 このような視点で,自分の罪に気づき、己がふさわしくないと悔い改めを歌ったアメージング・グレイスに私は感動します。日本語では聖歌「驚くばかりの」を共に讃美しましょう。この曲には天国への道が開かれています。

2020年4月26日 (日)

自分を捨て自分の十字架を負って

マルコ 8章34-27節   【新改訳2017】

それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

 聖書では「悪は、みな内側から出て来て、汚すのです(マルコ7:23)」とあるように、人とは罪深い存在です。その罪深さを認識するかしないかが、各人の生き方に決定的な違いをもたらします。さらに言えば、イエス・キリストの十字架の愛を知らずして、この望み無く救われ難い己の罪深さに向き合えません。

 昨日の土曜日の仕事中でのことでした。スタッフの雑談でこんな話を聞きました。子どもたちに命の大切さを教えようと、「命っていくつあると思う?」と尋ねた時、なんと「二つある」と答える子がいてびっくりしたと言う話でした。心の中でですが、「その子は間違ってなんかない」と私は思いました。

 私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活の二つのいのちにあります。はじめの血肉の命は、もう一つのいのちのためにあります。もう一つのいのち、それは霊体ではなく、最終的には血肉にまさる御霊の体となります。この滅びない御霊の体を持って、天のエルサレムで神と共に生きることこそ、私たちの目的です。ですからこの二つ目のいのちをめざし、「自分を捨て、自分の十字架を負って」この世を歩んで参ります。

 ただし、この「自分を捨て」が容易ではありません。それどころか自己中心という罪深い己の罪性に、自分の力でできることに絶望しています。それでただ、神のあわれみと愛に依り頼み、期待するしかない自分があります。そのことを「自分の十字架を負って」と理解しています。どんなに祈り願っても、神に自分を捧げ尽くすことができない自分。その罪深い自分を偽らず、ありのままに赦され、十字架として負い続ける意味であります。

 今回、38節の「恥じる」意味に示しがありました。「拒む」と同義語ですが、どうして「恥じる」のでしょうか? 「恥じる」とは、迫害の時代にあって信仰を問われた際、クリスチャンと告白できなかった人が、後になって良心を責められ、悔い、恥じるという「恥じる」の意味だと。その人は血肉の命よりも霊のいのちを優先できなかったのです。しかし主はそれに対して明確に答えておられます、「私も恥じる」と。
 迫害では、取り調べで役人たちが「なあに、そんなに深刻に考えなくてもいいんだよ。ただ踏み絵を一度踏むだけで助かるんだ。信仰はお前の心の中で守り続ければいいじゃないか」と囁くことでしょう。しかしイエス様は明確にそのことを「ノー」と言っておられるのです。主を辱める事のないよう、第二のいのちを得るよう、目を覚まして祈り備え、全てをご存知の神の力に期待し続けましょう。

2020年4月19日 (日)

疫病の時代

Ⅱ歴代誌 20章9節   【新改訳2017】

『もし、さばきの剣、疫病、飢饉などのわざわいが私たちを襲うなら、私たちはこの宮の前、あなたの御前に立ちます。あなたの御名がこの宮にあるからです。そして、私たちは苦難の中からあなたに叫びます。あなたは聞いて、お救いくださいます。』

 今年になって、疫病の新型コロナウィルスが世界的な大流行(パンデミック)となりました。3月1日にも触れましたが、今回、さらに対応と言う面で語ることを示されました。

 その時にも触れましたが、人類が経験したのは今回が初めてのことではありません。14世紀、雲南省から全ヨーロッパに猛威をふるった黒死病(ペスト)は、致死率60%の恐るべきものでした。イタリアのジェノバでは人口6万が2万4千人になりました。40度の熱が発症したかと思うと直ちに呼吸困難になり、数日で死んだと言われます。
 それ以後、15世紀の天然痘、百年前のスペイン風邪、32年前の香港風邪や、最近数カ国内で抑え込みに成功したSARSなど、その多くは中国発でしたが、世界は疫病に見舞われ続けて来たのです。

 一羽の雀でさえも神の許しなしに地に落ちることはないのですから、通常このような疫病は神の許しなしには起こり得ません。ではクリスチャンはどのように対応したら良いのでしょうか。
 勿論多くのクリスチャンは自分が罹患しないように祈られることと思います。しかし今回、私が示されていることは、この病は信じる者信じない者の区別なく罹患するだろうと言うことです。「え~っ、それじゃあ、信仰の意味がない」と思わないでください。要するに御利益信仰では効果は無いと言う意味です。しかし神の力は罹患した後、はっきりと現れるのです。神の力と栄光をクリスチャンは感染して現すのです。神は愛する者を訓練し、苦難と困難の中で守られ、触れてくださり、栄光を現されるのです。

 私たち神を信じる者に常に問われるのは、神は自分のための魔除けや御利益をもたらすために信じているのかと言うことです。ある意味、困難にあって「自分は神から見捨てられた」、とか「沈黙して答えて下さらない」と思うのは、自分が神となり、神を自分の思う通りに従わせようとしているからです。それを高ぶりと申します。そうではなく、私たちは自分に死に、死んで初めて神の証人となるのです。

 これからイギリスの北アイルランドで、今回のコロナウィルスに罹患した、ある牧師のFaceBookビデオを観ていただこうと思います。重要なことは、この牧師が体験された言葉だからこそ、百や千の言葉に優って私たちの心を捉えると言うことです。罹患したからこそ、生きた神の証し人、証人となったのです。

2020年3月 1日 (日)

信仰と疫病(パンデミック)

Ⅱサムエル 24章13節   【新改訳2017】
 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げた。「七年間の飢饉が、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたが敵の前を逃げ、敵があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に何と答えたらよいかを決めなさい。」

 新型コロナウイルスは、世界中でパニックを起こしつつあるようです。昨日(2月29日)、WHOが事実上のパンデミック(世界流行)宣言をしたので、もはや事態は決定的となりました。日本でも各地で患者発生が確認され、隣の市川市や本市でも発生しました。
3月からは全国の学校も閉鎖されました。日本への中韓二カ国の旅行者は、関空と成田の二箇所だけで入国することになり、二週間の待機を要請されることになります。

これをもって一部のキリスト教会では世界の終わり=終末が近いと強調される所が多いでしょうし、実際ある意味、部分的にはその通りでしょう。しかしこれは聖書によって神があらかじめ語っておられたことであり、しかも本当の終末の大患難時代はまだ来ていないのですから、その予行練習として受け止めるべきです。

今回に限ったことではなく、紐解いてみれば人類は、このような疫病との戦いの連続でした。14世紀のペストは、全ヨーロッパの総人口の1/3 2500から3000万人が死んだと言われています。驚くべき致死率であって、ほぼ村や町が全滅した所もありました。16世紀には天然痘がありました。スペイン人によってもたらされた天然痘によって南北アメリカの先住民の人口が1/10になったと言われ、アステカやインカ帝国はこのために弱体化し、滅ぶ原因にもなりました。

現代は、船や馬車で移動していた時代と全く異なる環境にあり、そのことがウィルスが瞬く間に世界中に広がった原因です。幸いなことにこの新型コロナウイルスは致死率が低く、過度に恐れる必要はないと思われます。いろいろな人との濃厚接触やそのような場に行かないようにすること、手洗いなどをきちんと気をつけていれば、後は神様に祈ることが最大の果たすべきことになるでしょう。クリスチャンに限って言えば、困難とか病は神が許されたことです。許されたからには、必ずその御心があり、良きことに変えられます。
しかし人間的に恐れて行動すること、例えばトイレットペーパーの買いだめに走ったりすることは慎みましょう。恐れに支配されることは、悪霊に支配されることになるからです。どんなに悪いと思えることも感謝することは、私たちの特権です。ですから人々がどのような行動に走ろうとも、私たちは神を信じ、その具体的な行動、信頼し委ねて歩みましょう。それが今回の予行練習です。

2020年2月 2日 (日)

信仰

ヘブル 11章1・6節   新改訳2017
さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」だとここで言っています。しかし信仰の「何を望んで」いるのでしょうか。肉的な自分の望みとか、教会で自分が用いられることを望むことではないでしょう。そうではなく、主イエス様がお手本をになってくださったように、私たちは「父のみこころを行なう」ことを望むのです。

 次に「目に見えないもの」とは何でしょうか。これは約束のものであって、この世で見えるものではありません。16節に「あなたがたが神のみこころを行って約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」とあるように、神のみこころを行なって、最終的に得られるのはずの約束のものとは、天にあるのです。信仰の父と呼ばれたアブラハムは、地上では寄留者であることを告白し、得られたのは約束の子イサクと妻を葬るためのマクペラの洞窟しかありませんでした。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」私たちは心から賛美したい、礼拝したいと祈りました。しかしそれは実現不可能な事だと思われました。しかし祈りは通じ、神が為されることはふしぎです。
 私たちが迷うことのないように、可能性のあるただ一件だけの物件が示されました。不思議のまず第一は、目標額を超える献金が集まりました。後になって過不足ないちょうどの金額だとわかりました。第二に、これも不思議ですが、管理人として住んでくださる一つの家族が手を挙げてくださったのです。それもご本人の意に反し、示されて手が上がったのです。第三に、大家さんが私たちのすべての要望、礼拝と賛美、管理人の住むことなどを受け入れてくださったことです。第四に地域の人との関わりや近くの教会など、御心の示しが夢やかねてからの牧師の使命感を通して与えられていることです。

 6節には「神に近づく者は〜中略〜神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない」とあります。この度の会堂への移動は、私たちが「望んでいること」への具体的
な神の答えです。このように、私たちは神に対し御心を祈り求めれば、神は必ず答えてくださること、その信仰を個々人においても堅く立てなければなりません。アーメンでしょうか。

2020年1月19日 (日)

クリスチャンは大抵はクズの集まり

 ルカ 9章23-25節   【新改訳2017】
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。

 YouTuberのイザヤ君の「クリスチャンは大抵くずの集まり」を観ると同感するのですが、自分がくずである自覚がないと、十字架の神の愛とあわれみがわからない、そのように私たちはできています。逆に言えば、能力の高い人や世で良い地歩を占めている人々は、こと救いに関しては遠いです。それでも救われている人は、その心の中に大きな苦しみを抱えていた人でしょう。

 さて、このことを聖書で「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(ルカ9:24)と言っています。この御言葉は、よく知られている割には逆説的な言い回しで難解です。実際の意味がわかるのは聖霊のバプテスマを受け、新生した方でしょう。ですからイザヤ君の「クリスチャンの大抵はクズ」も、これによく似ています。

 私の思い込みですが、クリスチャンで「自分はクリスチャンだから、他の人より清く正しい生活ができている」と思うなら、恐らく御前に出たときに叱られる事になるでしょう。清さ正しさを否定しているわけではありません。それは神のものであって、人のものではないと思わされています。聖霊を自分の主として歩んでいるならば、その聖さの前に、己はその弱さ、罪深さがますます明らかにされるのです。

 自分に一切の価値を認めず(自分に死んで)、ただ真摯な罪の告白の上に、神の愛とあわれみが注がれるのを体験するのです。繰り返しますが、完全に自分を献げ、自分の主は自分から聖霊なる主に移行していなければなりません。併存はありえません。その上であわれみと赦しによって、罪から解放された自由、何にも優る神の力を見るのです。神と交わり、その神から高価で尊いとされる愛の中で、私たちは真に生きる喜びを知るのです。                                        

<勧めの御言葉>

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 ヘブル人への手紙 4章16節 ©2017

 

2019年12月15日 (日)

信仰義認

ガラテヤ 2章19-20節    【新改訳2017】

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 ユダヤ人は律法の完成形であるイエスのことが、どうしてもわからない?
すでに割礼を受け、神の民であることを疑わないユダヤ人がメシアニックにはなっても、クリスチャンにはなりきれない最大の理由は、ただ信仰のみにて義とされるパウロの教えが、彼らにとってユダヤ人であることを否定するに等しいからだった。この信仰義認を明らかにしたのは、ラビたちの中でも最優秀であったガマリエル門下で、その最も優れ、実践者でもあったパウロその人だった。ダマスコ途上でイエスと出会い、その後アラビアで神と何年も一人神と向き合ったパウロは、おそらく律法の真の目的などの啓示を直接神から授けられたものと推察されるのです。
 こうしてキリスト教の土台、信仰義認はパウロを通して確立され、ユダヤ人から見れば律法の立役者になるはずの人物が、律法の最大の破壊者に転向したと思えたことでしょう。けれどもパウロにとって最も手強い敵は、教会という内側にいるイエスを信じたユダヤ人でした。何故でしょうか?

 ガラテヤ書を見る限り、パウロが多くの労苦と共にガラテヤの諸教会を建て上げたのに、まるでその跡を追うように、ユダヤ人クリスチャンが諸教会を回って惑わして行ったようです。おそらくアンテオケやエルサレム教会などでパウロの報告聞いた人々だったと思われます。彼らは信仰義認を理解せず、救われるためには割礼を受け、ユダヤ人にならなくては救われないと言うユダヤ主義者たちでした。なぜならユダヤ人にとって、異邦人は汚れており、天国に行ける存在ではなかったからです。彼らにしてみれば、救いを完全にするための親切でしたことでしょうが、とんでもない惑わしをしたことになります。

 このユダヤ人クリスチャンのユダヤ主義はエルサレム会議で解決できたはずでしたが、実に根深く、その後も使徒ペテロなども影響されてしまうほどでした。ユダヤ主義のこの根深い源泉は、教会発祥の母体、神殿のあるエルサレム教会でした。エルサレムに住む限り、信仰義認の教えに同調するなら、たちまち異端として追い出されたことでしょう。

 エルサレム教会は紀元70年にエルサレムと共に滅びましたが、こうしたことからもわかる様に、信仰義認はユダヤ人から異邦人に受け入れられ、全世界に向けて福音宣教がスタートすることになりました。最後に一言、信仰義認とは神の恵み、哀れみに尽きる教理です。ですから信仰義認を信じる者は限りなく、謙遜に置かれます。天国への特権体質とはまったく異なるものです。

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