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信仰

2018年9月 2日 (日)

感謝

エペソ5章20節     新改訳2017

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

「感謝する」
信仰との関係 神様は私たちを愛し、私たちと交わりたいがために、十字架と復活、そして信じる者に聖霊を与えてくださいました。聖霊は私たち人に送られますが、それは神なる聖霊様を通して、私たちが交わるためなのです。ですからCaki
交わりが神様の究極的な目的なのです。

表裏一体 ではその交わりは信じる信仰から始まります。分かり易くするために、いささか乱暴ですが、ケーキに喩えてみましょう。ケーキはスポンジと呼ばれる台と、その上に生クリーム、最上層にイチゴなどのデコレーションが乗ってケーキになります。差し詰めスポンジ部が信仰、生クリーム部が感謝、デコレーションは賛美でしょうか。信仰と感謝は表裏一体のものですし、賛美はそれを高らかに歌いあげるものです。

ただ感謝する このように見ていった場合、信仰が一切無報酬で、人間の努力も清さも必要とされなかったように、感謝もこれをしたら何か恵みを得られるだろうというような下心があってはならないのです。ただし、信仰は「ただ信じる」ということが唯一の条件でした。感謝も、自分自身に希望を失う絶望的なことになれば、それこそ神にのみ希望を持て生きる決心のチャンスです。
 「人間的な判断はせず、神様が許されたことのゆえにすべてを感謝する」、この絶対的な肯定が感謝のポイントです。例外は一切ありません。この上に立つ賛美は、ですから感謝の麗しいシンボル、デコレーションだと言えるでしょう。

神を確信する 神の愛は無償の愛~道徳の教科書「お母さんの請求書」(※子どもがお使いなどをお金に換算し母に代金を請求し、それを読んだお母さんが子どもに代金とお母さんの請求書を渡した話)を朗読。人間の親ですら我が子を愛します。まして神は、さらにすぐれた愛を私たち信じる子にくださっています。自分の感覚からではなく、聖書に書いてある神のことばと約束を信じましょう。そして約束を大いに声高らかに感謝しましょう。

2018年8月19日 (日)

信じる

✝️エペソ 2章8節    【新改訳2017】

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

  この聖書箇所を見ますと、「恵みのゆえに、信仰によって」「あなたがたから出たことではなく」とあります。バプテスマを受ける時、私たちは自分が信じる決心をしたように思っていますが、実はその裏面で、恵み深い神が私たちを選び、神が信じられるように、ずっと導いてくださっていたのだと言っているのです。ですから「自分の力で神を信じる決心をした」などと誇ってはいけないのです。ただ神のあわれみによって信じる者とされ、救ってくださったと感謝しましょう。永遠のいのちを受けたのです。

 ところが「信じる」ということも、運動会の「パン食い競走のように、ただ飛びついて食った」で終わりにはなりません。信仰にはピンからキリまであるのが実際です。神は「エレミヤ。あなたは何を見ているのか(エレミヤ1:11)」と神はエレミヤの見ている景色をすべてご存知でした。私たちの神は、サタンと異なって人の心を支配しようとはされませんが、私たちが神を信じ、内住されたこの聖霊様に、自ら進んで自分を明け渡し、神のしもべとして世を歩もうとするなら、大きな祝福を用意してくださっているお方でもあります。
 その大きな祝福とはなんでしょうか。私たちの血肉での時間は、天のエルサレムに住む永遠の時間に比べれば、ホンの一瞬に過ぎません。どんなことよりも大切な天での永遠の時間、世での賜物や働きの大小は関係なく、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:23)」と仰っていただけます。つまり天の王座の近くに行けるのです。
 この反対に、神が恐ろしいからと、せっかくの機会を生かさず、地に埋もれさたままにするなら、お叱りを受け、持っているものまで取り上げられてしまうのです。これは大きな違いですが、それはホンの一瞬に過ぎない地上でしたことについての結果、酬いなのです。

 では人は如何にして神の器、しもべとなるのでしょうか。祈り、願うことです。神様を愛し、交われるように、そしてみ心を行えるようにと。愛する、と言うことと、交わる、と言うことはほぼ同じことですから、マルコ12:35でイエス様がパリサイ人にお答えになったお答えと同じになります。

 「信じる」ということは「悔い改める」がその土台です。信じることにピンキリがあるなら、悔い改めにもそうなのです。神様に自分を明け渡すためには、少しでも自分に希望や誇りがあっては不十分です。しかし人間には自分の力でもって、自分を打ち砕くことはできません。ただ試練を通してのみそれは可能となります。ですから神は愛する者に、恵もうとする者に試練を許しになられるのです。
 こうして自分を明け渡す者とされ、献身するもの、神に聞き従う者とされることは、なんという祝福でしょうか

2018年8月 5日 (日)

聖霊の力

使徒の働き 1章8節   【新改訳2017】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 「聖霊の力」を受ける、とはこの場合、聖霊のバプテスマのことです。しかしこの聖霊のバプテスマはかなり誤解されているのが実状です。どう誤解されているかと言えば、まず第一に多くの教会で異端視されていることです。聖霊のバプテスマや賜物は初代教会の建て上げ時に必要であったもので、聖書と教会が確立している現在ではもはや不要なものであるとしているのです。また、そのように否定していなくても、「聖霊の内住」と「聖霊のバプテスマ」を同一視する教派・教団もあります。これらはともに聖書をよく調べれば誤った理解であることがわかりますが、今回は触れません。

 今回の問題は第二の、カリスマを求める人たちの間での誤解です。確かに聖霊のバプテスマは聖霊の賜物の土台であり、神との交わりを開くすばらしいものです。その恵みの体験を聞けば皆、「私も受けたい、ほしい」と思われるのはA自然です。

クリスチャン生活が三十年近くなっていた私も同様でした。私も聖霊のバプテスマを受けるために、必死になって求めていた4、5年がありました。まどか牧師も6年も経っていたと書いておられます。秋元牧師も、求めたらすぐに与えられたのではありません。かつてアメリカでは、多くのクリスチャンが悲痛な顔をして、「(得られないのは)私のどこが悪いのでしょうか。弱い人間だからでしょうか」と思い詰めていたとマーリンさんはその著書「賛美の力」で述べています。

 ここで「賛美の力」から少し引用させていただきます。「聖霊のバプテスマについての共通した誤った考えがあります。それは聖霊のバプテスマがとにかく私たちに力を与え、私たちの神のために働く力と才能を増し加え、私たちを霊的な巨人にするという考えです。これほど真実からかけ離れたことはないでしょう。それでは何の為に聖霊のバプテスマは必要なのでしょうか。聖霊のバプテスマは私たちを弱くするためなのです。その結果、神の臨在と力がより多く私たちのうちに内在し、また流れ出すのです(p96)。」

 またもう少し説明するために言葉を変えて、
「ですから聖霊のバプテスマとは神の霊に満たされて、自分自身を神に明け渡す器としてのきよめであり、その器に神の力が満たされることである(p98)」と述べられています。

 ですから、聖霊のバプテスマとは弱くされ、自分に希望を失って悔い改め、自分を神に完全に明け渡すという<弱くされる>ことなのです。これは考えてみれば、その人の主が己れなのか、神なのか、はっきりしていなければ、高ぶってサタン化する可能性すらあるからです。しかし、自分を明け渡すということは、自分の力ではできないことです。ですから聖霊のバプテスマには祈り求め、神の計画と時に自分を委ね、試練や困難を通されての、神の時があるのです。

 付け加えますが、聖霊のバプテスマは「聖霊の満たしの最初の現象」と言われている通り、その後も繰り返し繰り返し、満たしを受けていく、最初の第一歩に過ぎないのです。聖霊のバプテスマを受けたことが曖昧な方は、ハッキリと証できるよう、明確な満たしを受けてください。神は喜んで惜しみなく満たしてくださることでしょう。

2018年7月 8日 (日)

要塞を打ち倒す力

Ⅱコリント10章4節     【新改訳2017】
私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです

 要塞とは前線基地でして、いったん作られてしまうと、なかなか打ち破れない強固な陣地のことです。通常要塞は敵との境や敵のただ中に築かれ、精強な軍が派遣されています。領地をパトロールして守り、時に攻めるために要塞から出撃し、危うくなれば要塞に逃げ帰って軍を立て直します。聖書のこの箇所でいう要塞とは、サタンが私たちの中に築いている要塞であり、なかなか打ち壊せないもの・・・・・罪深い性質、ねたむ心、物欲や肉欲、なかなか直せない弱い性質や消えない古傷などが該当するのではないでしょうか。

 そこで二日前のⅡコリ7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。

 私たちが要塞と戦う時、自分の力の弱さを知ります。そこで戦う力の無いことがわかってはじめて、悔い改めて神様に自分を完全に明け渡し、自分の代わりに神様に戦ってもらうようになります。これが「救いに至る悔い改め」です。この戦いは、神の勝利となります。なぜならサタンは神に勝てないからです。Photo_3

これは兄妹げんかで、体格で負けそうな妹が父親に助けを呼ぶようなものだと言えばよいでしょうか。             

 神の側に立ったクリスチャンに対し、サタンは奪い返そうと激しく攻撃します。ですから神に逆らう闇の力、サタンとの戦いは、世にある限り、クリスチャンにとって常に続くことを覚悟しなければなりません。この霊的な戦いを自分の力で肉的に行うなら、常に深手を負うことでしょう。しかし悔い改めて、常に神に自分を委ね、捧げて、代わりに神様に戦っていただくなら、私たちは必ず勝利を得るのです。このことを「要塞を打ち倒す力」と言っているのです。

私たちに希望はなくとも、心の希望が神にあることを特に学びました。

2018年7月 1日 (日)

私たちの天のかたち

Ⅰコリント15章49節            【新改訳2017】

 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

 私たち一般的なクリスチャンに、天国への希望、そこに行ける喜びという現実感が、あまりにも希薄な人が多過ぎる、そういう思いがしてなりません。

 たとえ現状がどうあろうとも、本来私たちはすべての罪許され、天国人として希望に溢れてスマイルの存在なのです。私自身も辛かった試練の中で、呻き苦しみ、希望の無い暗い表情をしていた者だったからこそ申し上げます。それでは、いけません。証人としての使命が果たせていません。

 しかし現実には、「天国人なんてこと言ってるの、現実が見えてないお気楽な人たち」とか「地に足が着いてないから言えている」と批判するクリスチャンたちの声が聞こえるようです。また福音派の教会の祈祷会では、ドラえもんのポケットばりに、神様への願い事や要求を呟くように唱えるばかりです。生ける神の臨在の中、感謝や心からの悔い改め、賛美という、祈りの土台がすっぽり抜け落ちているのです。祈りが聞かれる、そんな希望も信仰も無いようです。

 それがハッキリわかるのは、告別式、召天式という教会のお葬式において、まるで永遠の別れのように、式においてひどく嘆く悲しんで悼んでいる光景を目にする時です。出棺では泣き叫ぶ人すら出る始末です。今の世は永遠の世界に比べれば、ホンの一瞬のようなものです。この世での使命を終え、天国に凱旋して行った兄弟とは、私たちはすぐに再会します。ですから一時の別れは惜しんでも、あまりに悲しむのは、世の人と変わらず、復活を実際には信じていないというようにも見受けられます。

昨日、同じ群れの若い兄弟のブログに、次のような文面がありました。
日本で新しい人に出会うといつも、名前のせいで、外国人だと間違えられる。でも、くそまじめに、外国人だと、答えたい自分がいる。天国から来ましたと、天国のことを話すと多くのクリスチャンがしらけるし、笑う。天国の話をできないクリスチャンが多すぎる。けっこう悲しい現実。でも、イエス様はいつも天の御国は、と言って天の国の話をした。この世で成功するお話でもなく この世の政治の話でもなく、イエスさまはいつも御国の話をした。天国人として天の国のサムライとして、天の国の文化の中で生きて行きたいなぁと心から思う。

全くの同感ですし、今日私が皆さんにお伝えしようしたテーマは、完全に読み取られていました。付け加えますが、私たちにはすばらしい「御霊の体」が与えられます。鳥や魚の肉には、同じ肉でもそれぞれ違うように、天国には朽ちも老いもしない御霊の体が与えられます。その御霊の体をもって、罪も苦しみも無いすばらしい天国で私たちは永遠に暮らすのです。天国ではアダムとイブが堕落する前の、実にすばらしい世界が復活すると私は思っています。

どうか皆さん、この世のことを心配する世の霊に支配されないように、心がけていきましょう。不安や心配事が先ず頭に浮かぶ人が居ますが、それは悪霊です。肯定的、積極的な人間になれるよう祈り求めましょう。

 み心の使命が果たせるよう、神に祈り求めて行きましょう。自分の使命を知らずして、それを果たすことはできません。ですからまだわかっていない人は、ぜひそれを得られるよう、熱心に祈り求めてください。これはみ心ですから、必ず答えられます。天の国の文化をこの地上で明らかにできるよう、祈り求めましょう。そして神様に感謝して捧げられた人生、証人としてのスマイル、笑顔、喜んで人生を神様に捧げて参りましょう。

2018年6月17日 (日)

神の国は力にある

1コリント 3章16節                                           

 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

 通読している本日の聖書箇所、正しくは「神の国は言葉にではなく、力にあるのです」です。これは高ぶった者が信仰的な言葉を使って試すので、「力」という実質が言われているのです。荒野の誘惑でも分かるように、サタンは自分の偽りの目的のためにみ言葉ですら引用するのです。その場合、言葉の「力」はまったくないのです

 人間は神を信じる人と、信じない人との二種類に分かれます。信じない人にはこの世と自分が主たる関心なので、世を支配する悪霊の影響下にある人々です。この人々は「自己実現」とかの言葉を使いますが、自分の欲望の奴隷であって、神のされることやクリスチャンを理解することができません。彼らの報いは審きであり、永遠の滅びです。
これら世の人に対し、選ばれた人、神を信じる人がいます。神を信じる人には聖霊が住んでおられます。"あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。"(1コリ3:16)とある通りです。

 しかし自分の中に御霊が住んでおられても、まったく意識に上らないクリスチャンが多くおり、相変わらず自分の人生の主人はやっぱり自分であり続けます。神を主としないその人に神の力は現れません。このクリスチャンのことをパウロは「肉に属するクリスチャン」と言っています。

 御霊に属するクリスチャンは自分に死んで、神に捧げ、しもべとして御霊に聞き従っています。私の経験からは、御霊に属するすべての人は、修行とか善行とか努力で、つまり自分の力でなった人はいないはずです。例外なく神から試練を受け、深い罪に気づかせられ、その罪深さゆえに自分に死んだ人々だと思います。自分に死ななければ新生することは不可能です。神の力が試練を乗り越えさせ、新生させてくださったのです。そして御霊に属する者として、すばらしい祝福を得ました。罪を知らずして、聖霊のバプテスマや新生、献身はあり得ませんし、聞き従いもありません。

 こうして十字架の代価を払って買い取られた者に、自己を誇ることはできません。誇るならただ主を誇ります。そこに賛美が生じます。教会内にあっては、互いに兄弟姉妹として心から愛し合うことができるのは、己に死んで妬みや欲望から解放されているからです。
自分はまだ御霊に属するクリスチャンとなっていないと思われる方、神に熱心に、粘い強く祈り求めてください。神は真実な方であり、あわれみ深く、それはみ心ですから、最善な時に必ず実現させてくださいます。

2018年6月10日 (日)

私たちは主のもの

ローマ 14章7-9節

7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。


7節 「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです」8節 「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」 このみ言葉の理解には意外に章末の23節「しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。」が具体的な参考になります。しかしこれはちょと理解できにくい箇所です。なぜならこれまでパウロは何度も、食べ物に関して汚れているものは何一つないと説いています。それなのに、たとえ疑いがあったとしても、律法に縛られないで食べることがどうして罪になるのでしょうか。
 しかし前後をよく読むならば「食べる」「食べない」はそれぞれ信仰からしていることです。しかしユダヤ人にも関わらず信仰のある真似をして、禁忌食物を食べるであれば、それは律法違反であって、ユダヤ人を躓かせる罪になるのだと注意して言っているのです。

 ここで大切なことは、信仰によって自分に死ぬということです。信仰義認に立った、いわば信仰が強い人、つまりどんな食べ物も食べられる人でも、未だに律法を遵守する同じユダヤ人クリスチャン(弱い人)に対しては、自制してその人と同じようなコーシャ料理を(彼らと同じように)摂るということ、これが自分に死ぬ愛であると教えています。 

 つまりすべては信仰が原則であり、基準ですが、そこに愛という土台があるのです。その意味で「信仰が強い人は弱い人を受け入れる」という教会の在り方をパウロがここで奨めているのです。個人にあっては主のみ心に聞き従うということがポイントになりますが、教会という御体では、弱い人を愛し、自分に死ぬことが在り方のポイントになります。
 
  これを実際に私たちの教会に適用してみますと、たとえば聖書をよく知っている福音派の方が来られても、また心の病の方が来られても、私たちは愛を持ってそのような方に自分に死んで、愛を示していくことが前提です。知識のある福音派の方には、控えめながら聖霊様の具体的な証しをしましょう。また病のある方があなただけでなく、いろんな方に同じ質問を投げかけていたとしても、そうせざるを得ないその方を受け入れ、愛しましょう。その方は見分けができず、大勢の人から同じ結論を聞かないと、納得できないのです。 私たちは愛を示しましょう。それも自分の力に依ってではなく、神様に祈り、神の力である聖霊の力によって成して参りましょう。

2018年5月27日 (日)

イスラエルの望みのために

使徒28章20節

このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです                   

 パウロは「私はイスラエルの望みのために、この鎖に」と言っています。苦難の果てにやっとたどり着いたローマ、その三日後、ユダヤ人の主だった人たちを集めて牢獄の中で言ったのが今日の言葉です。相手はユダヤ人であって、クリスチャンたちではありません。ここに至ってもなお、福音はまずユダヤ人に語られなければならないのです。
 「イスラエルの望み」とは何でしょうか? それはメシア預言のことです。これはメシアニックユダヤ人の方のたとえ話です。ある時、車を運転していた人が異常に気づいて車を止めて調べました。するとタイヤが一つありませんでした。そこで乗っていた人たちは、タイヤを前の方に捜しに行ったというのです。

 だれでも分かることですが、この人たちはタイヤを見つけることができません。タイヤは走ってきた元の道のどこかに落ちているのです。「メシアはまだ来ていない、これから来る」と思っている現在のユダヤ人をうまく言い表しているとは思いませんか。メシアはすでに来ているのです。それはイエス・キリストというお方です。パウロはそれを何とかして同国人に伝えようとしていたのです。

 さて、どうしてユダヤ人は前を捜しに行ったのでしょうか。これは実に不思議な話です。それは後ろを決して見たくないからかも知れません。なにしろ、ガリラヤ人にして大工の子、イエスなる人物をあざ笑い、呪われているとし、むごい十字架にかけて殺したのです。ですからユダヤ人なら後ろを捜してはならないわけです。

  ところでユダヤ人はなぜイエス・キリストを冒涜罪で殺したのでしょうか。それは神は自分たちのものであり、律法を遵守 (じゅんしゅ) し天国切符をゲットしているという高慢さのゆえです。神殿で祈っていたパリサイ人と、悔い改めていた取税人のどちらが義とされたか、イエス様のこのたとえ話が分かり易い話です。罪深い人間が「義」とされる、それが自分の力によって、行いによってできるとするところに傲慢があることに気づけるかどうか、が最大のポイントです。

  人は自分の力でできないことが分かった時、本当に悔い改めます。それだけではダメで、その自分の罪のために身代わりとなった神の愛が絶対必須でした。ですから罪人はイエスをメシアとして信じ、救われました。私たち異邦人が自分の罪を告白し、イエス・キリストを信じるということは、何という祝福でしょうか。

2018年1月21日 (日)

本当に信じる (人にはできないことが神にはできる)

ルカ 18:章27節
イエスは言われた。「人にはできないことが、神には出来るのです。」
 
私の信仰生活は、「信じる」ということにおいて三つの段階があったと思います。
中学1年の時「狭き門」という本に出会って、背教的な小説にも関わらず、キリスト教の唯一の神が自分が求めている神だと分かったのですから不思議です。つまり私は伝道されたり、親類縁者や知人にクリスチャンとか近くに教会があるといった、何らかの福音に触れて信じた者ではありません。神はどのようにしても信じる者を起こすことができる、そういう例になると思います。
 分かってからと言うもの、教会に行きたくて仕方なく、捜し続けて、とうとう中三のクリスマスの機会をとらえて、家族の目を逃れながら、主に水曜日の聖書研究会通うようになりました。数人の七・八十代の老人に混じって、一人の高校生が3年間通い詰め、時々招かれていた牧師から聖書を学びました。その後大学生として上京するという春、牧師から受洗を勧められました。が、しかし、私は親から勘当されることを怖れて受けることができませんでした。
 このように神を求め、また信じてはいるのですが、恐れで告白と公に立てない段階が自分にありました。その恐れとは世に対してのもので、引いているかあるいは隠れクリスチャンとでも言い常置です。ふつうに教会に来ている人でも、自分の都合を優先して礼拝に参加したり、教会の奉仕など御体にはっきりと属せない人のことでもあります。
 
これに対し、信じる二つ目の段階を長く経験することになりました。本日の聖書箇所である「ある裕福な若人」もこの仲間だと思われます。彼はすごい金持ちであるだけでなく、たぶん能力があるからでしょう役人でも有り、品行方正というか、イエス様まで認められたほどの律法を守っているだけでなく、熱心に「永遠のいのち」を求めているという、まさに絵に描いたようなイスラエルの模範的な人でした。金持ちは神に愛され、祝福されている人とイスラエルの人々は思っていますから、差し詰め、神の国に入るならその1番手のような人だと思われていたことでしょう。
 この彼がただ一つ、「全財産を貧しい人に施し、そしてわたしに従って来なさい」というイエスの導きに従えず、悲しみながらイエス様の元から去って行きます。この若人は神を信じて求め、熱心に信仰者として立っているにも関わらず、自分に死ねない者の代表です。
 学生運動に挫折しユートピア幻想から目覚めた二十歳の私は悔い改めて洗礼を受け、いつも献身を考える熱心な信者となりました。クリスチャンホームを作り、真面目な信者としていつも熱心に教会の奉仕をして生活していました。この私が神に祝福されないはずがない、そう思っていましたが、聖書の「富める若人」と同じ、自分をに死ぬことができない信仰のままでした。
 そんな私の家族に大きな試練・・・・この世的には不幸が襲ってきました。妻が拒食症を発症したのです。私の家は絵に描いたように、この世的には不幸の坂道を転がって落ちていきました。職場での昇進を断念、マイホームを手放し、離婚をしなかっただけで家族もバラバラになりました。その上母のアルツハイマーもどんどん進行し、まるであらゆる希望から見放されたようになったのです。そして結局私は、ほとんど信仰も失うほど精神的にも追い込まれて行きました。

 しかし神が許された試練には守りがあります。試練がなければ私は次の第三段階の信仰までは絶対無理なことでした。破綻する寸前に私は神から自分の罪深さを示され、心から悔い改める中、神からの直接の語りかけを受けました。「あなたが私の方にその心を向けるのを、長い間待っていた。わたしはあなたを愛し、守ってきた神である」と。初めて神が生きておられることが分かった瞬間、私の人生は根本から変わりました。カリスマ派の信仰者となったのです。主の十字架はその直後、み体を求めて祈った時、神から導かれた群れでした。Photo
 この時の回心から私の人生の目的は、神のみ心を行うことになりました。もはや恐れや不安に支配されることはなくなりました。それはマタイの13章44節にある「宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います」のような喜びでした。
 
  この信仰は、あの富める若人に対して「人にはできないことが、神にはできる」ように、確かに試練を通して神が与えてくださったもので、決して私の力や努力で得られたものではありません。神が「ラクダが針の穴を通る」よう、穴を巨大に大きくしてくださったか、あるいは私を針の穴のサイズに小さく変えてくださったのです。私は変えられて、新しく生まれました。真に自我から解放されました。ただ神のみをほめ称えます。

2018年1月 7日 (日)

世に打ち勝つ信仰

ヨハネの手紙 5章3~5節
神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

 この三小節で何度も使われている言葉に、「世」と「(打ち)勝つ」という言葉があります。世とは現世とか世間など、肉的な世界のことを指します。それに対してovercomeという言葉を日本語聖書では「勝つ」と訳されていますが、winとかgain victoryではなく、原意は克服するという意味が強いのです。私の世代ではジョーン・バエズの歌で「We shall overcomes」をどうしても思い出す言葉です。
 
 以上から、世への戦いは困難ではあっても、私たちはこれを克服し、勝利するという意味になります。今からちょうど十年前、この群れの年間聖句にこの聖句が用いられました。その時にはあまり意味を考えることなしに、「そうだ、世が何だ!信仰こそ勝利」と喜んでいました。しかしこの度の聖書通読において、このみ言葉は文脈から理解すると、ここでの「世」とはある特定のことを指していたことが分かりました。何のことでしょうか?それは「この世」とかの外に対してのものではなく、なんと私たち自身の内側、兄弟を愛せない心そのものを突き刺していた言葉であることを。
 
「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」はイエス様が口を酸っぱくして命令されました。弟子たちであるペテロもヨハネも教会員に向かって「互いに愛し合いなさい」と同様に命令しています。この1ヨハ5章の「世」とは前章の終わりにある、「神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています(1ヨハ4:21)」の命令は、同じ親からの子で兄弟であるのに、互いに愛せないはずがない、愛せない世の習わしに打ち勝って勝利すると信仰の名にかけて言っているのです。
 繰り返すと教会の兄弟を愛せず、憎むという神の命令を拒む者は、信仰を偽っている偽兄弟である(4:20)と断言しています。つまりこれは愛せない人を排斥するのではなく、なかなか兄弟を愛せない困難な自分の心に対し、信仰によって己自身の肉に戦いを挑むならば、必ず遂には克服し勝利し、心から愛せるようになる!と言う信仰の勝利を謳っていると理解するのが正しい受け取りになります。
 
 これを三段論法で要約すると、世の心では教会の兄弟姉妹と言ってもなかなか愛せない。しかし自分自身も神に愛され、子とされた者である。そして愛せない相手でもその同じ子とされた者である。と言うことは同じ愛する父を持つ兄弟そのものだ。兄弟ならたとえ兄弟けんかはあったとしても、最終的には同じ父を持つかけがえのない存在であって、愛し合えることは間違いない、ということになります。神を愛する者は、「愛し合いなさい」という神の命令を守る者となるのです。これを世に打ち勝つ信仰と言うのです。

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