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信仰

2022年9月 4日 (日)

You are A Warrior

ローマ 7章23節   2017新改訳

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

 Warriorとは戦士の意味です。日本語の武士とか兵隊より、また軍人の意味に近いSoldierよりも、今回の意図に近い言葉になります。
 なぜWarriorなのでしょうか?それは私たちクリスチャンは絶えず困難な戦いの中に置かれているからです。ローマ人への手紙 7章23節にあるように、肉体という罪の律法が私たちを虜にしているのに対して、聖書と聖霊による義の律法があり、この両者はクリスチャンである私の中で、常に激しい戦いを続けているからです。

 この戦いについて、若い時には、からだが衰える老境に入れば勝負はつくと思っていました。しかしそれは誤りでした。また、歴戦の勇士のように経験が増し加われば、た易く勝利するようになるとも思っていましたが、それも誤りでした。さらに聖霊のバプテスマを受けた直後のように、聖霊に満たされ続けて行けば楽勝だと思っていましたが、その聖霊は完全にではありませんが減衰し、戦いはかえって激しいものとなっているのでした。それは聖が引き上げられると、それまで気がつかなった悪と罪の意識も深まり、その闇もかえって深まるのでした。

 この戦いは主の霊を注がれた戦士がするものです。それ以外のクリスチャンは、聖書によって罪の状態が分かっていても、戦う術を知らず、自分が虜になっていることすら認識できていないことが多いので、本格的な戦いにはなりません。
 真の戦士は自分の弱さを試練によって徹底的に知らされているので、戦う意志はあっても、神により頼んでいます。Majesty(陛下)である神の指図に従って、その勇士、戦士として戦います。実際、これが最善な勝利、主の栄光を結果としてもたらすことを知っているのです。

  このように戦士となるには、聖霊のバプテスマの前後に、神から厳しい試練という訓練を受け、自分に死に、神に生きることを得ていることが前提になります。また戦士は世の賞賛を受けることなく、時に一見惨めに見えるラザロであったり、殉教の血を流しています。しかし戦士は目を天に向け続けており、天の報い、霊的な勝利者となっているのです。この世の目で判断してはいけません。

 この戦いの真の敵は誰でしょうか?それは肉なる自分自身です。自分自身に死に、神の所有とされた戦士には、敗北はあり得ないのです。戦いは既に終わっていると言っても過言ではありません。

2022年7月10日 (日)

神の国はどこに

ルカ17:20~21  2017新改訳
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

「神の国はあなたがたのただ中にある」とありますが、そう聖書で語られて、単純に喜んでいるか、何だかよく分からないでキョトンとしている、そんな人たちが多いのではないでしょうか。先週私はルカ11:9での有名な「求めなさい、そうすれば与えられます」を次のようにお話ししました。「(聖霊を)求めなさい」であると。
 神に祈る時、多くの方は七夕の短冊や神社でお賽銭をあげての願掛けの類に近い祈りをしていらっしゃるようです。それはそれまでの経験上、<祈りが神に答えられた>ことはない現実があって、その確信など持ちようがないためではないでしょうか。別に親族や仕事上の祈りをしてはいけない、と申し上げてはいません。ただそれらは、私たちの弱さから来る肉的な祈りです。
 もし私たちが神のみこころを祈るならば、それは必ず成就します。神に不可能はないからです。しかし多くの方は神のみこころではなく、自分の必要、希望、欲求を祈ってしまうのです。それでは、よほどの神のあわれみで聞かれる、稀なケースでしかあり得ないでしょう。
 私たちはどんなことでも感謝します。私たちが祈る肉的なさまざまなことは、神が許されて存在していることです。ですから個々人に問題を許されている、その背後にある神のみこころを知らずに肉的な祈りをすることは、見ようによっては、神の計画に背いていると言えます。

 それでは私たちは如何にして、神のみこころを知ることができるのでしょうか。神のみこころは、同じ神である聖霊を通して意外、私たちは知る術がありません。それ故にルカ11:13で祈りに対してオンリーワンの答え「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と述べてあるわけです。聖霊様を与えてくださること、これこそがみこころを知る唯一の方法であり、みこころを行って私たちが天に宝を積む道です。
 ですから皆さん、聖霊を求めましょう。聖霊の満たし、バプテスマが必須です。新生した心は、もはや自分の願いや求めを祈ることは後回しで、ただただ愛する主のみこころの成就を祈り求めるのです。

2022年6月26日 (日)

恐れることはない

ルカ 5章10節   新改訳2017

シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

 バプテスマのヨハネの弟子であった弟アンデレを通して、ペテロはかなりイエス様を知っていました。ですがイエス様がなぜ「恐れることはない」と言われたのでしょう。これは、準弟子化していた彼らに対し、<弟子としての改まった召命>であり、人を獲る者としての未知への不安に対して語られたと考える方が適切ではないでしょうか。
 神の圧倒的な奇跡によって、ペテロたち漁師の誇り、世的な職業的自負心が打ち砕かれました。彼の献身への世的な恐れを打ち砕かれての神の招き、「恐れることはない」だったのです。

 今一度、この召命の経緯を見てみましょう。弟のアンデレに比べ、ペテロは弟子たちの中では年長者、カペナウムの家に妻と姑という家族持ちでした。
 群衆への話が終わって、イエス様がペテロに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と命じられた時、ペテロは「そんな無駄で愚かなことを」と思いつつ従ったはずです。しかし驚天動地の結果を見、自身の確かな経験など吹っ飛ぶ世界を知らされたのです。世の心配事は神の前には、実に取るに足りないことだったのです。その上での「今から後、あなたは人間を捕るようになる」と、具体的に召されたのです。ペテロのためらい、恐れは一瞬にして瓦解したのでした。

 ここでペテロのように、恐れや不安について、少し考えて見たいと思います。恐れとか心配の発生源はどこでしょうか。それらはどんな働きと結果をもたらすのでしょうか。
 私が遅めの献身をし、上京して数ヶ月経った時のことでした。一生涯とは思いませんでしたが、可能な限り残りの時間、ただ神様のためだけに時間を使いたいと強く願っていました。けれども数ヶ月経ち、目減りする所持金に不安を覚え、今あるお金をなんとかして維持したいと考えました。
 その時、銀行が勧める<資産運用>に目が向いたのです。新興国への投資など資産の運用を上手くやれば、月々の生活費ぐらいが懐に入って来る上手い話でした。これなら今ある自分のお金を減らすことは少なくなると思ったのです。そこで祈りもせず飛びつきました。長く奉仕者生活ができるようにする、これは摂理だとすら思ったのです。
 この結果はどうなったと思われますか?みなさん?安心確実と思っていた結果はひどいものでした。かなりの損失を被ったのです。これは不安からきたモノで、不労所得を得ようとしたものでした。不安や心配から行動する、それはサタンの餌食になります。神からのものは<愛、喜び、平安‥自制>(ガラ5:22~23)です。なんと異なることでしょうか。みなさん、不安や恐れに支配されてはなりません。それは神から来てはいないのです・・それは必ず痛い結果を伴うことになるのです。不安や恐れに支配されてはなりません。よく祈りましょう。

2022年6月12日 (日)

しかし神のことばは永遠に立つ

イザヤ 40章8節   2017新改訳

人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(40章6節~8節)

 六月の特にこの時期、草は生命力にあふれてたくましく成長し、花は美しく咲き誇っていますが、しばらくするとそれらは、必ずしおれ枯れていきます。
 神は人をたとえて言っておられるのです。すぐにしおれ滅びるものにならないで、わたしによって生かされ、永遠のいのちの恵みに生きなさい、と。
 今私たちの教会には、主の息吹が吹いて病いが許され、弱さを覚えさせられている方が多いのではないかと推察します。私たちを祝福してくださるはず の神が、なぜなのでしょうか。これを問う前に前提にすべきことがあります。それは神は愛そのものであって、それ以外の存在ではありません。信じる者を愛されていることです。その方が許しておられるということです。
 そうならばこの病というもの、苦しい症状や治療という困難とはまったく別な神の目的、計画があり、神の御心というものがあるのです。それはお一人お一人がまったく異なるものでしょうが、あるのです。それに気づき、悔い改め、より一層その成就を願い祈ることこそ真に癒される道ではないでしょうか。 (GardenTomb) 園の墓
 イエス様が為さった癒やしはリアルに神を信じ、救われること、つまり福音が目的でした。実際に癒やしを行われる前に、「あなたの罪は許されました」とのことばこのことを語っています。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とはまさにこのことを指しています。肉体への希望は一時のものであって、それはすぐにしおれ、散るもの、滅ぶものです。しかしそうではなく、神のことばの信仰に立って生きる者は、たとえ肉体が滅んでも永遠なのです。肉体が病で弱くされた時こそ、この神への信仰にますます堅く立ち、神を褒め称える時なのです。

 ですからたとえ死が私たちに迫ろうとも、死よりもはるかに素晴らしい、永遠の天への喜びに躍りましょう。死んでも生きる恵みに、今一度感謝と讃美を捧げましょう。そのことを改めて教えてくれる病、肉体において弱くされても、私たちの心、魂はかえって強くされるのです。

2022年5月22日 (日)

神の国と神の義を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

 本日の聖書箇所は最近の聖書日課にあっただけでなく、常に礼拝での献金の際、歌っている聞き慣れた聖句でもあります。しかしこれに深い意味があり、非常に重要な信仰の核心部分でもあると改めて今回、思いました。
     
 まずなぜこの聖句なのかということですが、きっかけは次の挿絵にあります。
これは上田のとあるそば店の暖簾で知ったことですが、元は京都竜安寺の石庭にあるつくばいにあって「吾れ唯(ただ)足るを知る」と読むようです。つまり「(さまざまな欲望を排して)私は満ち足りていることを知っている」ということでしょうか。本日の聖書箇所も聖書で同じようなことを言っているところではないでしょうか。しかし似ていても、その意味が全く異なっています。
 竜安寺は禅宗ですから、おそらく座禅とかの修行を行なって<悟り>に達した境地のことを言っていると思われます。しかしイエス様が語られていることはそうではありません。

 では本日の聖書箇所の少し前から、その流れを見ていきましょう。このマタイ6章では、その目は常に天に向いています。

 その20節「天に宝を蓄えなさいー中略ー宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一中略ー、あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とあります。天とその神を人生の中心にし、仕えるならば<世のことを煩うな、父は必要を知っておられる(25−30節)>と説き、33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられ」るとしているのです。
 つまり神を第一とする前提条件をクリアするならば、全ての必要は与えられて<足りる>と言われているのです。これは神をただ信じ、聖霊の力とその助けによって、御心を行おうとする者には、神は必要なその全てを与えて下さるという意味であって、個人的な<悟り>とは全く異なるものです。

2022年5月 1日 (日)

信仰と希望

ローマ 15章13節  2017新改訳

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 今日私たち目にし、耳にするニュースは戦争であり、疫病「コロナ禍」やあたかも「神の小屋」のようなおぞましい事件です。
しかし、どんなに状況が悪くなっても、いや、それだからこそ、私たちにはかえって希望があふれてくるのです。

 この聖句はちょっと抽象的でわかりにくいところかも知れません。しかし、「希望」という言葉を「天の御国への希望」と置き換えてみますと、かなりわかりやすくなります。私たちクリスチャンにとって、神のみがすべてであり、神の国に行けることがすべての希望です。まさかこの世でのことが、最大の希望だというクリスチャンはいないはずです。

 ということから考えてみますと、どんなに暗いニュースがこの地上がどんなにあふれて行く、それこそ終末が近いというあらわれですし、これから患難時代に向かって加速度的に悪くなっていくとしても、それらは「産みの苦しみ」であって、私たちは決して奪われることのない喜びで満ち足りており、近づくリバイバルの足音を聞きながら、常にHappyなのです。それを明示する二つのことがありす。
①聖書 :✝天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この御言葉は(マタイ2:35、マルコ13:31、ルカ21:33)すべての共観福音書にあって、イエス・キリスト神ご自身が確かに語られた言葉です。私たちは揺れ動き、やがて消え去っていく天地に目を向けるのではなく、旧約のメシア預言からはじまり、福音書や書簡、終末の預言書で語れられている神の言葉を信じています。
 それによれば、これから起こることはすべてあらかじめ語られていることであり、二度の再臨の後、千年王国時代を終え、天の都エルサレムがずいぶん模様替えしたこの地上に降りてくるまでの序章です。これからの患難時代でのリバイバル、それを私たちは満を持して待ち受けるのです。
②交わり:信仰によって私たちは神の子とされる特権を与えられます。しかしこの信仰は、迫害や患難時代に必ず試しを受けなければなりません。「本当に信じる」なら、血肉の自分の命以上に価値を有しているはずです。道端や岩地の上、また荊の生じる土地に生えたのはないことを証する時が来るのです。耐えて良い地の実を実らせ、栄光の主を証しする恵みに預かるのは、その本当に信じているかどうかがポイントになります。
 この「本当に」と言った時、神との直接的な交わりがあり、子としてリアルに父を知っているかどうかが決定的な力となります。これを別な言葉で言えば、思い込みや思い込まされてではなく、真実、聖霊のバプテスマを受け、絶えず御心を行おうとしていることです。新生していることです。

2022年4月10日 (日)

信じる段階Ⅱ・・・義を行う

Ⅰヨハネ2章29節   2017新改訳
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
Ⅰペテロ2章24節   2017新改訳
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 この段階は聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受け、新生したクリスチャンの段階です。何が段階Ⅰと違うかといえば、神と交わっていること(1ヨハ1:3)それゆえ御心がわかり、御心を行おうとし、その賜物を得ているクリスチャンの段階であるということです。

 この段階には、人が意志の力で努力しても到達することは無理です。なぜなら人は皆救い難い罪人であり、自分を捨てることは不可能だからです。どうしても自己正当化し、守ってしまいます。そうすると、本当の自分を救うことが不可能になります。以下はその例です。
 悪霊は騙しの専門家です。私たちはカリスマの教会ですから、悪霊に悩まされている人で、多少なりともその存在や問題に気付いた人が居て、その追い出しを本人から依頼されることがあります。引き受ける場合、まず本人が悪霊が自分の中に居ることを認識されており、自分の敵として追い出したいと願っておられることが土台になります。しかしそこまで認識できないで悪霊の追い出しを依頼されるケースです。その場合、心の王座に聖霊なる神をお迎えできないので、悪霊は再び戻って来、前より悪い状態になってしまいます。(参照マタ12:43 ルカ11:224)
 悪霊は自分の正体を隠し、宿主を騙します。いつまでも真の罪人である自分の姿を分からせず、自己弁護と高慢で終始します。またその逆に、ひどい不安と落ち込みで自分が無価値な存在として整理しなければと思わせます。こうして昂揚と転落の繰り返しに疲れ果て、最終的には宿主を重度の統合失調症や自殺に至らせようとします。
 そんな苦しさに教会の門を叩き、十字架の贖いによる赦しと悔い改めに導かれ、救われる方が多いです。但し、真の自分を知って悔い改めていることが前提になります。真でなければまさに死んでいません。心の王座は依然として肉なる自分のため、新生していませんし、実がついていません。)自分に聖霊の実が実っているかどうか、どうか吟味下さい。

 さてサタンは今も働いており、巧妙な実に容易ならざる敵です。ですから霊的なことに対しては、神に拠って立つ他ありませんし、十字架のみが勝利をもたらすのです。これら一連のことに対しては、神に選ばれた子であることがポイントになって行きます。

 信じる第2段階とは、真に自分の罪を知らされる、十字架で悔い改め、聖霊が注がれ、新生することが土台になります。もしそうでなく、肉が残っていたら、神に聞き従えず、不従順はサウル王のように、むしろ怒りを買い、裁かれてしまいます。
 神があらかじめ子にしようと選び定められた人々、その人たちは例外なく、言いようも無い世という困難と試練の中で自分に死に、今ではただ神にのみ希望を抱き、世にある限り御心を行おうとする人々こそ、真のクリスチャンです。殉教する前にすでに世で死んでいます。

2022年1月23日 (日)

新しく造られた者

Ⅱコリント 5章17節   2017新改訳

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

「神様を信じた人」と言っても、大きく三種類に分けられるかと思います。一つ目はサマリアで魔術を使っていたシモンのようなタイプです。彼はいつもピリポに付き従って信者のようにしていたのですが、それは信じたからでは無く、お金で神の賜物を買おうとしたように、自分の魔術のパワーアップのためでした。
 今日、教会側にも大きな責任がある事態が生じています。明らかに本当には信じていないのにもかかわらず、ローマ10章9−10の「口で」の意味するところを、単に形だけ、口先だけでも告白さえすれば、即時に信者(クリスチャン)だとすることです。これは偽りであり、言わばその気にさせて、なりすましの信者を強いているのです。これが今日の教会の退潮と混乱の原因ともなっています。

 後の二つは聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンと、受けているクリスチャンのことを指します。これらのクリスチャンはキリストの死による罪の赦しを受けていますので、聖霊なる神が内住しています。ただその聖霊がその人を支配しているかどうかの違いがこの両者を分けています。しかし共通して言えるのは、礼拝を決して欠かしませんし、なんとかして捧げ物をしようとすることです。
 さらに下記の聖句ように、「もはや自分のためではなく、キリストのために生きる」という信仰の実が必ずついていることです。その端的な例は、きちんと毎週毎週の礼拝出席ができることです。霊的な命がある人ならば、礼拝を欠かして、正常なこの世に逆らって神を第一にできるはずがありません。新しく造られた人は、キリストのみからだの一員として、霊的な飢えを満たす教会の礼拝を欠かすことができないのです。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 (✝Ⅱコリ5章15節)

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

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