フォト
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

ウェブページ

無料ブログはココログ

信仰

2017年2月26日 (日)

創造の目的

コロサイ人への手紙 1章18節
なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
少し前のことです。いつもの歯科医院でブラッシングの指導を受けていると、「ここ、いつも磨いていませんね」と言われた所がありました。「そんなはずはない」と思いつつ教えてもらいますと、なんと私に親知らずの歯がありました。もう少しで私に、親知らずの歯が在ったことを知らずに終わるところでした。知っていなければ、それは存在していないのと同じです。ケアされないで無視された歯は、早晩虫歯か歯槽膿漏になったでしょう。
 
人が全知全能の神を認めないのもこれに似ています。世のほとんどの人は、私の親知らずの歯のように認識せず、したがってぞんざいにして、神の恵みを無にしてしまうのです。
さて、霊的な存在には神・天使(堕天使を含む)・人があります。その中でも人は物質を伴ったハイブリッドですので、端的に言えば人のために、天地万物のあらゆるものが用意されたと言っていいでしょう。この宇宙と人を含めた天地万物は、誰が造ったのでしょうか。またそれは、何のためでしょうか。
 
ちょうど本日の聖書通読箇所であるコロサイ書の1ー2章にその答えがありました。「万物は御子によって造られ、御子のために造られた(コロ1:16)」とあるのです。ピリピ書2:10-11でも「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」とあります。実にすべてのものがイエス・キリストにあって造られ、またイエス・キリストのために存在するのです。ではそれは、いったいなぜなのでしょうか。
 
ピリピ2:6-8には「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・・」とあり、キリストは神であるにもかかわらず、卑しい人の形をとってこの世に来られ、十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださいました。
キリストは人として歩まれていた間は、小さい者、弱い者、病ある者を助け、癒やし、力を与え続けました。その最後は全き罪無き方であるのに、十字架にかかって全人類の贖いの小羊となってくださったのです。神との和解を間に立って執りなしてくださった仲介者なのです。神の全性質がキリストにあるのですから、神はこのような愛そのもののお方だということが分かります。
 
神を信じるなら、神は私たちを罪から解放してくださり、ご自身の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださいます。今もなおキリストは天で、神の右の座で、私たちのために執りなしていてくださっています。これをなんと言いましょうか。何と計りがたい神の知恵、その奥義。我らの救い主、主を崇め賛美しましょう。私たちはその恵みの証人です。

2017年2月 5日 (日)

あなたは何処へ行く

ローマ 1章16節
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

 全国の高齢者の皆さん、私もこの度お仲間に入れていただいた若輩者ですが、年金とか、各種公共料金など、いろいろお得になったことがわかりました。しかし振り返ってみれば、喜んでばかりはいられない年代でもあると思います。
 なぜなら私と妻には普通の倍の八人の親がおりましたが、誰一人この世にはおりません。気がついてみれば、順当にいけばですが、次は私たちの番なのです。人生の折り返し点をとうに曲がりきった私たち高齢者は、命というものを真剣に受け止めなければならない世代です。人は死ねばお終いで、一切は無だと思っておられる方は少ないでしょう。形ある物は必ず朽ちていきますが、見えないもの、形ないものは朽ちず滅ばず、永遠です。人間の霊・魂というものも同様です。たとえ体を失っても永遠に残ります。
 
 問題は血肉のこの体を失った後、霊、魂が何処へ行くのかということです。仏教では、仏を信じる者は皆、極楽浄土に行くんだと聞かされました。しかし私は皆ということ、それが気になりました。なぜなら、罪が消えておらず、それならこの世とあまり変わらない所のように思えたからです。この世とあまり変わらないのであれば、行きたい所ではありません。はっと気がついてみると、赤い炎がちらちらしており、すごい臭いのする所では後の祭りです。死後の選択とは生きている間だけの、たった一回だけの選択です。永遠を時間をそこで過ごすとあれば、これに失敗するわけにはいきません。
 キリスト教では、唯一にして三位一体の神だけが神です。イエス・キリストは神の子であるのに、卑しい肉の形をとって処女からお生まれになり、十字架によって全人類の罪を背負ってくださいました。身代わりになってくださった十字架を信じる者は、完全に罪が赦され、聖霊が住まわれて新生し、罪なき世界、天国に行けます。
 
 そこで皆さんによくよく考えていただきのです。先ずキリスト教は世界最大の宗教です。22億人以上、つまりこれは人類の三人の内一人はクリスチャンです。次に世界最古、何と四千年の歴史を持っていることです。最後にキリスト教は国籍、民族を問わない世界宗教であることです。例えばヒンズー教はインド、道教や儒教は中国や朝鮮半島だけという特定の民族と地域のものです。ところがキリスト教はアジア大陸の西端から発して、全ヨーロッパ、アフリカ南部、海を越えて南北アメリカ大陸、オーストラリア、最後にアジアのフィリピン、韓国へと五大陸をカバーしています。日本を除く世界の先進国が皆、キリスト教の国なのです。

 皆さんイエス・キリストを信じて、また天国でお会いしましょう。短いこの血肉の命に比べ、永遠の命の世界を、どうか選び取ってください。

2016年11月27日 (日)

奇蹟をもたらすレーマ

ローマ 10章17節
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
  ロゴスとは誰もが共有できる知識や理解を指します。ではレーマとは何でしょう。「聖霊が、聖書のある所定の聖句を用いて、有る特定の個人に適用し、それを生きたものとする」ことだと定義されています。
 
本日の聖書にある、「信仰は聞くことから」の「聞く」と言う言葉は、ただ意味がわかった、理解したというロゴスのレベルではありません。「信仰は聞くこと」とは、誰から、何を聞くのでしょうか。御言葉を読み、祈り、あるいは預言などで、普段の理解を超えて、神がみ言葉を通して語られ、開かれたことからその方に信仰が興されたことを指すのだと思われます。これがレーマです。私たち主の十字架は、信仰の書である聖書からのレーマを求めて祈っているという面が非常にあるのです。
 
多くの人は、「神の声を聞いた」と思い違いをしたことが何度もあるのではないでしょうか。信仰はレーマを聞くことから始まります。神の言葉、レーマを受けるには、サタンはもちろん、自分の肉の声から離れていなければなりません。ですから強い願いがあったとしてもそれはさて置き、感謝してすべてを神に委ね、神のみ心に従えるように心を白紙というか、中立にしておくことがその土台です。そして決定的なのは「時」です。明日まで、とか「今すぐ」のような、神の計画に制限をかけるようなことをしてはなりません。神の時が待てる忍耐も信仰の土台です。
 
レーマが無ければ私たちの霊は飢え乾きます。常にレーマを求め、交わっていることによって、神のみ心がわかり、父の声がよくわかるようになります。そしてその声を知っているので間違うことも少なくなります。
 
神は終わりの日、迫害で多くの殉教者を出したこの国を見捨てて通り過ごされることはありません。どんな時も秩序を守ろうとし、理性的に考えようとするこの民は、現在は世界で最も不信仰の民でもあります。しかし日本に対して神は、常識や理性を超えた奇蹟をもってリバイバルを起こしてくださることを私は確信しています。それは神の声に聞き従う者を通して起こされます。あり得ないことである山をも動かす信仰や奇蹟は、レーマを通して起こされるのです。
みなさん、神を求め、リバイバルの器としていただきましょう。

2016年11月20日 (日)

神がまず私たちを

 1ヨハネ4章19節
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
今年の年間主題は、要は「信仰を用いる、働かせる」でした。その土台として①教会生活をしっかりと送る、②聖書を常に読み、学ぶ、③祈ること、でした。これらの上に感謝と賛美、聞き従いという信仰の行いがあります。
 
なんだ、それなら従来とおなじ じやないかと思われることでしょう。ただそれを「具体的に働かせ、用いる実践しましょう」に力点が置かれているのです。
この実践には一つの明確な目標があります。それは「受けたと信じる信仰(マルコ11:24)」の段階に進むことです。
 
ところでこれらの信仰の土台、およびその実践において、忘れてはならないのが「愛」です。この愛はあらゆるものの、土台の中の土台です。愛はどこから来るのでしょうか? それは自分の内に、およそ愛などが全く無いと自覚した時です。その時初めて、こんな惨めな私のために十字架にまで架かってくださった、神の愛がわかるのです。
 
試練は、実はこのためにあります。逆に言えば、罪を深く認識し悔い改め、神に己を捧げることができたなら、内なる試練はその目的を達成し止むのです。
最後に皆さんにぜひ、お願いがあります。内住される聖霊様をはっきりと認識してください。サタンはよくわかりますよね。疑わせ、うらやましくなり妬む心、すぐのぼせ上がって高慢になる、それらの心です。しかしそんな方でも、聖霊というもう一つの人格が、自分の内におられることには無頓着な方が多いようです。目と耳がまだ開かれてないと言うべきなのでしょうか。
 
これは聞き従いとか、信仰の実践においては極めて問題です。なぜなら見分け、吟味が弱いということになるからです。ですから今後は、声なき声、か細いお声を求めて祈り続けてください。これには長い時間がかかるかも知れません。でもその祈りのすべては天において聞かれています。忍耐を持って祈り続けるなら、必ず答えられ、神を知ることができます。

2016年11月13日 (日)

2017年間聖句 講解

ヤコブ2章17節
それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
この御言葉の意味するところですが、英語ではworkとあるように、信仰とはそれを働かせ、用いなければそれ自体、意味のないものです。どう働くのでしょうか? 「受けたと信じる」信仰のことです。
Even so faith, if it hath not works, is dead, being alone. (James2:17)
しかし信仰を働かせるには車で言えばガソリン、燃料がなければなりません。ガソリンも無いのに、信仰を働かせることはできないのです。ではどうやってガソリンを得るのでしょうか。それは先ず教会にちゃんと出席し、教会の恵みにあずかることです。入院するとどうしても教会に行けませんが、「病院でだって礼拝できる」と一人がんばっても、教会の恵みはないのです。ですからどんな理由があろうとも教会です。教会に行かなくては神とその霊の力は、必ず衰えるのです。
 
 次に日々聖書を読むこと、御言葉を信頼し、神の言葉の力に立つことです。聖書は私たちの唯一の信仰の規範です。聖書だけが全ての吟味の土台です。三つ目は祈りです。祈りを通して私たちは「受けたと信じる」確信に至り、信仰に立つことができるのですから、特別に重要です。祈り、答えられる、「受けたと信じる」。これこそクリスチャン生活の特権であり、醍醐味です。これが有る無しではまったく異なったクリスチャン人生になります。
 
 補足しますが、この三つのガソリンを得る土台に、属している教会の信仰も大きく影響します。例えば癒しを信じていない教会では、癒しは起こりません。信仰がないからです。神は祈りに必ず答えてくださるという信仰がなければ、それは多くの場合、答えられないのです。「感謝」や「聞き従い」という信仰の用い方にも、教会の信仰がなければ、なかなか得ることができないものです。ですから自分の教会がどのような信仰を持っているのか、それがまずもって重要です。
 
 最後に信仰書を読まれることをオススメします。祈りについてはジョージ・ミューラーのもの、信仰そのものについては田中まさお師やチョー・ヨンギ師などの書物をお勧めします。信仰を奮い立たせる証に満ちたこれらの信仰書によって、信仰も大きく変えられて行くのです。

2016年11月 6日 (日)

2017ガリラヤ湖 新年礼拝

ヤコブ 2章17節           (東京アンテオケ教会 パウロ秋元牧師)
  
「それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
 
  この箇所が示されたということは、主が「信仰を実際に行いなさい、使いなさい」と強く語られたのです。信仰は使わなければ、死んだも同然です。リバイバルが始まり、世間一般の未信者に対し、神の動き、その業が現される段階に入ったということでしょう。
 
  実際、信仰を用い働かせなければ、何事も起きません。信仰を働かせなければ、神様の方も動けません。私たちが信仰を用い働かせるということは、神の計画と業を現し、その計画を大いに進めていくことになります。さてそのためには、その土台となる原則が三つあります。
第一に、祈ること。
第二に、感謝すること。
第三に、悔い改めること。
 
  祈りについてですが、何を求めてなのか、具体的にはっきりと求めましょう。祈りは、はじめは聞かれず、あたかも霧の中にいるですが、信じ祈り続けるなら、神がいかに素晴らしいことをしてくださっていることかがわかるようになります。祈りで人生が変わります。ただしそれは、1ヨハネ5:14-15にあるように、御心の祈り求めであるのが前提です。
  感謝には、表面的にでもとにかく感謝する段階から、神を崇めて心から感謝する段階があり、ついに信仰の告白をする段階があります。
  悔い改めについては、いうまでもなくこれは信仰を用いる土台であって、主はこれを喜んでくださいます。またこれは砕かれ、より聞き従うことに発展していきます。
 
  信仰の歩みは、不可能と思っても示されたことを、むやみやたらではなく、御心を確認し、聞き従った時から始まります。信仰の行いを踏み出したならば、最後まで行い続けるなら、印と不思議、リバイバルの大いなる業が現され、神の栄光となっていくのです。      Capha

2016年10月23日 (日)

永久に死を滅ぼされる

 イザヤ書25章8節
永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。が語られたのだ。

 今大河ドラマ「真田丸」は大阪冬の陣に向けて佳境に入っていますが、真田の六文銭は三途の川の渡し舟賃だとされています。一文がおよそ20円ぐらいとすると、120円です。
三途の川には地獄道、畜生道、餓鬼道の川洲があり、それに上がると大変な苦しい目に遭うそうです。六文銭があれば、船頭がちゃんと冥土まで届けてくれるので、真田の武士は死んでも大丈夫だという意味でしょう。
ところが冥土というのは暗黒の黄泉の国でして、全然良いところではありません。日本人は長寿にこだわります。生にこだわり、できるだけ死を考えないようにしていますが、死んだら冥土ですから、こらを恐れるのは当然なことです。
 
 これは聖書的にも大変正しい理解です。ただイエス・キリストの十字架の道しか、救いはないのですから。この哀れな同胞のために、私たちはリバイバルを熱心に祈らなければなりません。しかし、先に救われた私たちクリスチャンが死を恐れていたのでは、証にも話にもならないではありませんか。
 
 クリスチャンには二つの段階があります。第一の段階として、神を信じ十字架によって救われてはいますが、自分の問題や困難のために神を必要としている段階の人達です。
次に第二の段階があります。試練や困難を通され、自分の醜さに注がれた神の愛を真に知った人たちです。この人たちは、もはや自分が中心ではありません。取るに足りない我がことより、神の愛に応え、その御心を行うことが大切なのです。この段階は献身者の段階であり、血肉の体でありながら、天の御国を仰ぎ、御霊の体になることを待ち望んでいる人たちです。「死は勝利にのまれてしまった」が成就しているとも言えます。
 
この第二の段階には自分の力でなれるものではありません。試練や訓練によって知った神の愛に、押し出された人たちなのです。第一の段階だと思っている人についてですが、祈り求めていくなら、耐えられる試練の後、神はその方をちょうど良い時に引き上げてくださるでしょう。神を信じてください。神はそれがおできになる方です。 アーメンでしょうか?

2016年10月16日 (日)

確かな者は、動かない

 伝道の書 3章14節
 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
昔活躍していた人をTVで久しぶりに観ると、改めて年月を感じます。季節があり、一年や二年ではなく、自然や建物も、待ちの景色も時代と共に変わって行きます。先週ポストカプセルと言うものが来て、30年前に書いた手紙が届きました。貼られた切手も50円でして、時代を感じます。30年と言えば一世代分です。ドルカスにとって、船橋で牧会活動をしているとは、まったく想像すらできなかったことです。
 
「諸行無常」とか「有為転変」という言葉があります。仏教ではこうしてすべてが流転していくので、執着を離れて何ごとにも達観とか諦観の境地になることが素晴らしいと言っています。しかしそれではその人になぜ命が与えられ、生きたことに何の価値があったのか、さっぱり分からないではありませんか。虚無に価値を置くことはできません。
 
では変わらないものとは何でしょうか。それは神の存在です。聖書は何千年も前から変わらない真理を明らかにしてくださっています。この書によれば、人はすべて神が意図しての被造物であり、価値があり、神の作品なのです。陶器師が自分の作品を世に出すのに、作りかけや失敗作を出しませんよね。私たちは神がその独り子さえ惜しまずに愛してくださった、神の作品なのです。人それぞれに神の計画があり、それを果たす使命があります。今私たちの霊は滅ぶ体を着ていますが、この世から天の故郷に帰った時、天で新しい体を与えられ、永遠の報いが与えられます。移り変わり、滅んでいくこの世に目を留め置くのではなく、永遠の神を仰ぎ、見続けて行きましょう。
 
何年か前、パトモス派遣でトルコからパトモスへ小船で渡ったことがあります。ギリシャはアテネ近くのピレウス港から渡る時は、かなりの距離がありますが、大きなフェリーに乗りますから揺れはありません。パトモス島というのは、ほとんどトルコのそばにあるのですが、短い距離でもエーゲ海の波は高く、トルコの港を出るとすぐに小さな船はひどく揺れました。2,30度の振幅があったでしょうか、それが左右に揺れるのでとても立ってはいられません。見る見る間に酔う人目を回しはじめ、船底にバタンキューでした。で、私もその危険を感じまして、これではいけない、とドルカスと一緒に甲板に上がりました。甲板に出ると確かに目の前の船は揺れていますが、遠くの島々や太陽、水平線は揺れません。揺れないそれを見ていると、何と私たちは酔うことがなかったのです。
 
世の中がどんなに移り変わっても、神を信じる私たちは、ただ神を仰ぎ見続けましょう。そうすれば空しい世に流され、神を見失うことはありません。そして共に栄光と永遠の神の国で再会しましょう。

2016年9月25日 (日)

罪におおわれた人は幸いです

 詩篇32篇1節
幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
 
 聖書の中には様々な人物が描かれていますが、どんな偉大な人物であっても、例外なく、みな失敗をし、それを余すところなく描いています。中でも最も偉大な人物が、実は最も罪を犯し失敗した人物だと言うのは、これは普通の事ではありません。ダビデがそうです。

 少年ダビデは羊飼いでしたので、この絵は自分の羊のためImg_jpg にはライオンすら恐れず、打ち殺していた絵です。ペリシテ軍の巨人戦士ゴリアテも、ダビデによってたった一発の石投げで倒されました。その時ダビデは  「この戦いは【主】の戦いだ。」(Ⅰサム17:47)と言っていますので、ダビデは子どもの時から、油注ぎによる神の特別な力があったことがわかります。

 またダビデは長い間、サウル王から逃げ回り、最後には外国にまで逃げました。その苦労も、サウル王が宿敵ペリシテ人によって殺されてから解放されました。時にダビデが四十歳の時でした。その後七年間のユダの王を経て、三十三年間、全イスラエルの王でした。
 このダビデ王の時代に、イスラエルは史上の最大の領地や勢力範囲を持ちます。その広さはユーフラテス川からエジプト川に当たる広大な地域であって、アブラハムに神が約束された大イスラエルそのものでした。ただダビデだけがこれを実現した人物だったのです。その恵みの家系はイエス・キリストまで続き、真に祝福された王の中の王というべきでしょう。
 
 しかしダビデは十戒という律法の中の律法の内、一つでも重罪ですが、五つも犯した人物です。隣人の妻を盗み、姦淫をし、忠実な部下たちを殺しました。本来ならば神に裁かれ、打たれてもおかしくない状況でしたが、刈り取りはあったものの、基本的には赦されて、祝福は揺らぐことがありませんでした。なぜでしょうか?そうです、ダビデが即座に悔い改めて、神に赦しを請うたからです。悔い改めて、すぐにごめんなさいを言う。これに勝る祝福は絶大なものがあるのです。
この世では王という何でもまかり通る地位についても、ダビデは神の前では高慢にならず、子どものごとく謝り、赦しを請うからでした。このことは、私たちがどのような失敗や間違いをしたとしても、心から悔い改めるなら、神は必ず赦してくださり、祝福が失われることがないことをあらわしています。
 
ですので、恐れることなく、いつまでも謙遜に、子どものごとく神に赦しを求める者であり続けましょう。天の御国に帰るその時まで。

2016年8月21日 (日)

神はどんなこともできる

マタイ 19章26節
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 霊的な存在は神・天使・人間と三つあります。しかしこの霊的な存在に多くの人は気づきません。風や匂いは見えなくても分かりますが、霊の存在がわかる人は少ないのです。
 そしてこの三種類の霊にはランクがあって、力の強さもこの順です。天使の中には堕天使も含まれます。堕天使には悪いもの、つまり悪魔とかサタンと呼ばれるものがおり、その配下にたくさんの堕天使、悪霊がいるわけです。
 
 天使というものを見ますと、これは霊的な意味で力があるにも関わらず、人間のために造られた存在(ヘブル1:14)であることがわかります。すると霊的な存在の主舞台は、何と言っても人間の争奪戦、人間が舞台であることがわかります。つまりサタンは敗北することはすでに知っていても、なお神に逆らって一人でも多くの人間を虜にし、何とかして神の計画を少しでもそこねて、地獄へ落ちる仲間を増やしたいわけです。
 
 先に人間のほとんどはサタン、また悪霊に気づかない、と申し上げましたが、「気づかない」ということは、彼らの得意技、騙しにあっているのです。人が気づかないまま、世での命を尽きさせることが彼らのねらいです。また、霊的な存在に気づき、何とかしようとしても、聖書を信じ、永遠のいのちを得るクリスチャンになる、これは人の選びや努力だけではずいぶん困難です。ですから十字架のキリストを信じた人と言うのは、自分が信じられたわけではなく、神のあわれみと力によったということがお分かりだと思います。
 
 人間というもの、実に不思議な存在です。水や石と違って血肉の身体があり、血肉の命があります。血肉であるというのは「見える」という問題が生じます。なまじっか物質的に見えるため、霊的な視力が無くなるのです。この問題を本日、祈りの中で見ていきましょう。祈りは私たちクリスチャンにとって、まさに空気や水、食のように大切な、死活的なものです。祈りによって私たちの思いや煩い、願いを神に知っていただき、そして御心かどうかがわかるのです。もし御心だと知れば、それは必ず叶うことを告白するのです。特に携挙などをいつも祈って行きたいと思います。その際は携挙の3条件を神の力によって満たしていただけるよう祈りましょう。
 
 ただし、ここからが大切なのですが、思い煩いの一切捨てなければ(1ペテ5;1)なりません。このことも祈る事によって神様が助けてくださるのです。みなさん、重荷を主の下に降ろして、解放されましょう。これは御心ですから、私たちは解放されます。やがて最善の計画を用意してくださっている天の国の様子が分かるとよいね。
私たちの国籍は天にあります。天国が楽しみです。

より以前の記事一覧