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信仰

2021年3月28日 (日)

受難のメシア

ヨハネ 12章12~13節   新改訳2017

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

棕櫚の主日〜エルサレム入城の記念日
 最後の過越しの祭りにあたって、今日がイエス様がロバの子に乗ってエルサレムへの入城を果たされた日になります。この日曜日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。この日から金曜日の日没までを受難週とも言い、メシア預言の多くが成就し、多くの珠玉の御言葉が語られた日々です。

 さて棕櫚の主日の前日になりますが、土曜日イエス様はベタニヤに到着され、元ライ病人シモンの家に泊られました。そこにマルタやマリアとラザロももてなしに訪れていました。そこで葬りの備えともいうべき300デナリの高価な香油がマリアによってイエスに注がれました。多分ユダであったでしょうが、「貧しい人に施せたのに」と憤慨しました。
 このベタニアは神殿からオリーブ山越えで2マイル、約3キロ余りの所にあり、過ぎ越しの都詣でをするのに小一時間という最適な地でした。そのため蘇ったラザロを見に、大勢のユダヤ人が都から来るのにも好都合でした。ラザロを機に、「大勢のユダヤ人がイエスを信じるようになった」とヨハネ12章11節にあります。このままでは自分たちの地位も危ないと、祭司長たちは焦りに焦っていたはずです。人が世にも恐ろしいことをする最大の理由は、ただ自分を守ろうとしただけの理由であることが多いのです。
 棕櫚の主日、日曜日の朝がやって来ました。メシアはろばの子に乗ってエルサレムに入城(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)すること、月曜日には宮清め(イザヤ56:7、エレミヤ7:11)などの預言の成就がありました。しかしそれよりも、イエス様の遺言とでも言うべき多くのお話、また弟子たちの洗足、いちじくの木の呪い、聖餐、特に十字架の経緯などが重要なことは言うまでもありません。〜途中、省略〜

 最後になりますが、イエス様が十字架にお架かりになったのは、金曜日の9時から15時です。この時間帯は、過ぎ越しの子羊を屠る時間帯です。過ぎ越しのための子羊は苦しませずに、一気に屠りますが、イエス様の十字架は逆に、できるだけ長時間、死の苦しみを長引かせるためのものでした。私たち全人類の罪を贖うのに、神の御子イエスお一人では不足でしょうか。いいえ、とんでもないお釣りが来る、過分なものでした。神は宇宙を創り、地球を造り、あらゆる命を造られ、最後に人間を造られました。その神が罪の身代わりとなって下さったのですから、その贖いは全人類を贖っても贖い不足ということは全くありません。なんという愛でしょうか。この神を私たちは父と呼び、父は私たち信じる者を子としてくださっているのです。
 
 この一週間は先にお配りしたような「聖書プラン」で御言葉に専念されると、復活祭での恵みがさらに豊かなものとなると思います。御言葉とともに祈り、復活祭をお迎えしましょう。

2021年3月21日 (日)

世に打ち勝つ信仰

Ⅰヨハネ 5章4節  新改訳2017

神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

今年の年間主題であるこの「世に打ち勝つ信仰」は、単純に「ああ、私たちの(カリスマ)信仰が世に対して勝利を取るのだ」と喜んでいいものではない。この御言葉には教会員が襟を正し、自らに問いかけねばならないという根本問題がある。

 それはこの章の1節にある「イエス・キリストがキリストであると信じるものはみな、神から生まれた」と「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します」にすべて言い表されている。前者は信仰は神より来ていることを現し、恩寵を表す。これは他の多くの聖書箇所(マタイ11:27、使徒13:48など)から裏付けられることである。信仰は人の力で得たものでは無く、実に神が私たちにあわれみをもって、ご自分を現されたことにある。だから誰も自分の信仰を誇ることはできないのだ。

 後者はその神から生まれた者は、世に勝つ愛、特に世に勝る兄弟愛を共有すると述べている。主イエスや使徒たちが特に心配したのは、教会内の分裂、分派である。これは実に教会草創期から常に問題でもあった。聖霊のバプテスマを受けていない肉のクリスチャンたちと、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンたちの、信仰違いである。これによって教会内のあらゆる問題引き起こされることは、ごく初期の内に周知されていたし、イエス・キリストは初めからその警告を「互いに愛し合いなさい」と言う最高度の戒めを己を信じる者すべてに、与えていたのである。

 実際、「木はその実によって知られる=A tree is known by its fruit」という諺があるように、先ず教会の交わりそのものが聖化され、神の臨在と愛で満たされていなければならない。例えばどんなに偉大な説教者が立派で高尚な教えを垂れても、その説教者の家庭が離婚騒動や兄弟間に争いが絶えないのであれば、誰もその言説を真にを受けようとはしないであろう。それゆえ、教会の兄弟姉妹が肉親の兄弟姉妹以上に、神の愛によって互いに愛し合い(ヨハネ13:34、ロマ12:10、1ペテロ1:22、1ヨハネ4:7)、その実を実らせていること、これが聖書の主要な教えであって、4節で言っている<世に打ち勝つ>とはまさにこのことを指していると私は思う。

「世に打ち勝つ」とは弟子たちにもみられた「誰が一番偉いか」や、互いの間に世の人と同じ妬みや、自分の座を奪われないための相手を排除したり無視すること、また教会への陰口、党派心など、これら一切をなくすことである。それはまさに世の悪霊たちによるに御体への挑戦に打ち勝つことである。この戦いは聖なる戦いであって、世に福音を語り、伝道する以前の内部の問題である。私たちが主の愛によりすがり、教会に、まさに持ち込まれようとしているそのような人間的な感情や、それらを用いてくる悪霊に対し戦うならば、必ず打ち勝ち、勝利することの約束の言葉がこの御言葉なのだ。

2021年3月14日 (日)

あなたが願うとおりに

マタイ 15章28節   2017新改訳 

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 三日前にちょうど十年を迎えた大きな過去がありました。報道では、今になって次々と明るみに出される生々しい記憶があり、亡くなった人を悼み続けられています。しかし亡くなった人は、生きている人をその喪失感に囚われて生きてほしいと思っているのではなく、せっかくの命を前を向き、よりよく生きてほしいと願っておられるはずだと私は思っています。

 前を向き、よりよく生きるという点で、話は全く異なりますが、私には反省すべき点があります。2003年1月に神に触れられ、数ヶ月後にはっきりと聖霊の満たしを受けた、あの感動と熱意が戻って来ないのです。マンネリズムではありませんが、現状で私は到底満足できないのです。神が私に触れてくださった、召してくださったのは、その後間もなく与えられた使命のためでした。
 大上段にビジョンを申し上げますが、私の使命はこの国、一億二千万人の救い、エクソダス(リバイバル)にあります。そのために私は召されて立っています。それはまさに緒についたばかりで、あって、18年前の事を過去の出来事にすることはできません。

 さて聖書に話を戻しますが、イエス様はガリラヤまでやって来たパリサイ人や律法学者たちに疲れておられました。それで隣国の今でいうレバノンまで、人を避けて休養しに来ておられたのです。それをどこから聞きつけたのか、このギリシャ人にしてシドン育ちのカナン人の女、猛然とアタックを開始し始めました。この必死さはどうでしょう。

 彼女はイエス様が来られた話を聞きつけるや、この時とばかりに駆けつけ、弟子たちの制止にあってもなりふり構わず叫び続けたのです。「ダビデの子よ、あわれんでくださーい」と。弟子たちは馴れていたはずですが、ここが外国であったことに困惑したことでしょう。外国で騒ぎは対処が難しくなりがちです。おそらくそういうわけで、イエス様を休ませようとする弟子たちを強行突破した女は、次の拒まれるイエス様の三重の壁・・・1に無視、2に対象外、3に犬呼ばわりされてまでの蔑みに「パン屑は」の知恵を発揮し、ついに娘の癒しをゲットしました。
 しかし娘が悪霊から解放されることもですが、途端にカナン人の女はイエス様から「女の方」と持ち上げられ、「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように」とイエス様が褒められた二人の中でのベストの賞賛を与えられました。

 ここまで聞くと、イエス様の冷たい態度は単純な外国人差別ではなく、困難にあって女の信仰を引き上げ、また弟子たちに「信仰とはこのようなもの」と教えるためであったことがわかります。このカナン人の女の熱心さ、信仰を持ち続けて、私は使命を全うしなければなりません。今はその思いを心に熱くたぎらせながら願い、祈り続け、時が来たならば、そんなに遠い先でもなさそうですが、神に聞き従っての使命を果たさなければなりません。これが私の願いです。

2021年3月 7日 (日)

私を信じる者

ヨハネ 14章12節    2017新改訳

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです

 先週のスネルゴイキャンプがオンラインで語られた要旨を私なりの理解でお伝えします。
 先ず三日間、秋元牧師は出エジプト34:10「わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである」から語られました。」。しかし続けて「私たちは未だそのようなわざを見ていない。再臨のリバイバルが始まっているので、これから見る」と語られました。
 出エジプトとともに引用されたヨハネ14:12の「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きいなわざを行います」、及びエペソ1:19の「神の大能の働きによって、私たち信じる者に働く神の優れた力が、どれほど偉大なものであるかを知ることができるように」も取り上げられ、この両箇所に共通委する<信じる者>が今回のpointであると私は感じました。
 なぜなら、「自分が何にもできない人間であること」を神は幾度も(秋元牧師に)教えてくださった。弱さを知って、ただ主のみ言葉だけに頼り、信じ、従い、信頼したので、神は自分に奇跡を現してくださった。それゆえ今弱くされている自分を通し、これから<恐るべきこと>が起こって行くという趣旨ではなかったと推察されたのです。

 これは私自身も度々語っております、「人は自分を捨てることはできないが、神から与えられた試練によって自分に絶望し、その結果神に自分を捧げることができるようなる」と、かなり似たような趣旨だと思います。付け加えて秋元牧師は、この御言葉に従う際に、疑いや恐れ、不安が即やって来ることが多いのだが、それは不信仰から来ているので、対処するようにとも付け加えられた。恐らく、「恐るべきことなんて起こらない」という不信仰を縛って追い出し、信仰的な土台に立つように、その対応のことを言われたのではないだろうか。

 <不安や恐れに対処する>ことは、ヨシュアとカレブの引用においても明らかだ。偵察してきた事実…「乳と蜜の流れる地」「ネフィリムの末裔巨人アナク人」では皆相違は無かったが、その対応は他の十人とまったく異なるものだった。「神と共にあるので恐れることなく占領しよう」と。しかし他の十人や多くの長老たちにとって、その常識的な判断、「それはむざむざ殺されに行く」によって、危うく二人は殺されそうになったのである。結果は逆転し、二人以外のすべてのイスラエル人は生きて約束の地に入ることはかなわなかった。このことは信仰によって立つ者だけが約束の地に入る例であって、私たちもそのように、見たことや常識にとらわれるのでなく、どんな非常識なことであろうと、不安や恐れが入って来ようと、神の約束を信じ、それに立ち続けなければならないことを示している。それは神の恐るべきわざを見る人生の歩みであり、神による永遠のいのちの輝きを放つ地上での証人としての人生である。

 

2021年1月31日 (日)

神にはえこひいきは無い

✝ ローマ 2章11節   2017新改訳

 神にはえこひいきがないからです。

 一羽の雀さえも、その命を惜しまれる神。また私たちの髪の毛の数さえも数えておられる神。そのような方が、どうしてこの日本の国民をあわれんでくださらないのだろうか。天国に行けば、私の先祖たちはほとんど居ないのではなかろうか。

 これはほとんどが非キリスト教式のお葬式に行く私が、その度ごとに口惜しくて、いつも情けない思いにさせられた時の感情です。パウロは「私の心には大きな悲しみがあり、絶えず痛みがあります」(ローマ9:2)と言いましたが、それと同じような感情でしょう。確かに福音は戦後、日本を通り越して韓国で爆発的に広がり、どの町に行ってもその中心地には教会の十字架そびえています。そして今、迫害下の中国にあっては、その数は1億とも言われています。このままでは福音が日本を通り越したままで地球を一周し、終末が来てしまうのかも知れない。神は日本を見捨てられてしまわれたのだろうか。そんな焦りも出てくるのです。

 神は「あわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」(ローマ9:15)という言葉がありますが、これは一見神のえこひいきを表しているように見えて、実は神の主権を表しています。そう受け取ってしまうと「神の勝手ごと」と誤解しがちなのですが、そうではありません。神の絶対的な愛と平等が、ただ人の目には理解出来ないだけであって、「被造物である限界を受け入れなければならない」ということでしょう。神を信頼し、愛し、とことん信頼することこそが信仰です。
 神は人の心を見ていてくださるのです。神は私たちの霊と肉を造ってくださった創造主ですが、それにも関わらず、なおかつ私たちに委ねてくださっている決定的に重要な側面が人に委ねられているのです。それが、この信仰です。人に委ねられているのは、この信仰という側面です。

 結論から言えば、同胞への私の悲しみ、ある意味、神への不満は「私の思い上がり」でした。民族を超えて私たち人間には弁解の余地がないのです。被造物によって、あるいは私たちの心の中の罪によって、神が居られることがすべての人に分かる(ローマ2章)ように、人は造られているのです。神のなされることに偏りやえこひいきはなく、完全なのです。私たち日本人にはそうされる悔い改めてない理由があり、また今現在だけを見て、神がなされようとしている事を判断し断定してはならないのです。過去ははすでに終わったことであり、重要なことは、前を見て行くことです。まだこの国は終わってはいません。神がこれから私たちを用いて何をされようとしているのか、私たちは忠実な召使いのように、いつ主が来られても良いように、自分の十字架を負い、指名が果たせるように整え、整えられて行く必要があるのです。

「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」マタイ24章45~46節)

2021年1月17日 (日)

見ないで信じる者たちは幸い

✝ マルコ15章32節     新改訳2017

キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。

 この世に生を受けて、自分の命に優る価値あるものを見つけた人は幸いです。命の目的、その使い道がわかるということは、真に人として生き人生を得たからです。先ほど、佐野洋子さんというノンクリスチャンの方の絵本、「百万回生きたねこ」を読みました。百万回死んでも死にきれなかった主人公の<どら猫>も、それを最後に見出したからこそ、仏教的には成仏というのでしょうが、満足し死ぬことができたのです。

 本当の神を知らない方でも、ここまではわかるのです。ですからクリスチャンが自分の命以上の価値=十字架がわからず、自分の命を惜しんでいたのでは話になりません。宇宙も世界も人をも創造された神が、私の身代わりに死んでくださったのです。神が永遠のいのちを与えてくださるために、その命を差し出してくださった愛に対して、いったい何をもって応えるというのでしょうか。100

 本日の聖書日課はマルコ15章です。この29-32節で、十字架上で死の苦しみにあるイエス様に対し、通行人や勝ち誇った祭司長やパリサイ人たちは嘲りの言葉で追い打ちをかけています。特に「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう」の祭司長たちの言葉は、はからずもサタンの本音をさらしています。彼らには自分の命しか無く、それを超えた愛がわかりません。ラザロを蘇らせたイエス様ですから、それは簡単なことです。それなのに…イエス様の意図をはかりかねている様子が嘲りの言葉の中からうかがえます。しかし彼らには自分(地位や権威)を守ることだけであり、それを超えるものには、一切思いもよらないことなのでした。イエス様の十字架上での血肉の死は、血肉の命の死を無効にした勝利の瞬間となりました。彼らは永遠に打ち負かされたのです。まさに死は勝利にのまれてしまったのでした。

 「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです(マタイ10:39)」この言葉を、まずはじめに実践してくださったのが他ならぬご本人、イエス・キリストであったことは幾重にも感謝しきれないことです。血肉の自分の命を神に明け渡すことは自分の力では困難なことですが、「神にとって不可能なことはなにもありません(ルカ1:37)」のみ言葉通り、私たちはこころから祈っていきましょう。これを信じることが信仰であります。

2020年11月15日 (日)

奇蹟~御霊の現れ

コリント 12章5~7節   新改訳2017  

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです

 キリスト教は奇蹟の宗教です。この信仰の上に、精緻で伝統に包まれた神学と多くの神学大学があります。キリスト教最大の奇蹟はイエス・キリストが処女マリアから生まれ、十字架で死なれた三日後に復活されたことでしょう。神が直接された奇蹟です。一方、神が人間を通してされた奇蹟で最大のものは海を開き、何百万人ものイスラエルの民を、乾いた地を通らせてエジプトから脱出させたことでしょう。これはモーセの栄光ではなく、ただ神を信頼し、神に聞き従って杖を差しのべたモーセを通して起こった神の働きでした。
 最大の預言者エリヤもたくさんの奇跡を行いました。シドン人の女の息子を生き返らせ、天からの火によってバアルの預言者450人を聖絶し、数年にわたる干ばつも予告しました。エリヤは預言者でしたから、これらはただ、神の語られるままに語った結果現された神の栄光でした。
 ですからこと人うぃ通してのいかなる奇蹟も神の力そのものであり、神の栄光でした。人はその通り良き管、器に過ぎません。ただし、神と親しく交わり、謙遜と忠実さ、すべての栄光を神に帰す聞き従いが求められるのです。ほんのわずかでもそれを自分のものにするなら、サウル王のように、かえって大きな裁きを自らに招くのです。

 私たちは奇蹟を求めています。しかしそれは完全に神のみこころに従ってのものでなければなりません。肉親が病で倒れたり、または自分が信仰による迫害を受けていようとも、私たちは神の子、神のものなので、一切神が許されたことです。アブラハムの信仰、ヨセフの試練、モーセの聞き従い、これらに共通しているのは試練を通しての信頼と忍耐です。
 私たちは現状から神に癒やしや救いを求めますが、それ以上に、神は最善しか為されない信仰の土台を揺るがせてはなりません。神のみこころを求め、最後まで神への従いを全うしなければなりません。たとえどんなに奇蹟しか望めない、人間的には絶望的な状態であろうとも、奇蹟を起こされようと起こされまいと、最善であることを疑ってはいけません。失望こそ、神を自分の思い通りにしようとした最大の不信仰になるのです。
 多くの奇蹟、癒やしを行ったラインハルト・ボンケは「奇蹟は福音の真実を確証させる」為のものであると言いました。ですから彼は奇蹟を通して神が生きて働かれる真実な存在であることを実証し、信じられないほど多くの人々を救いに導くことができたのです。彼は奇蹟はすべて神のものであり、神の働きであり、イエス様がされたことを証ししました。私たちはこの奇蹟を日本に待ち望むのです。

2020年10月 4日 (日)

アバ、父よ

✝ ローマ 8章14-15節         新改約2017

14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

ガラテヤ4章5-6節   新改約2017

5 私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

 私が子どもの頃、父の役場という父の職場によく出入りし、庁舎内のどこを行こうがまったく咎められることはありませんでした。長じてこれは「不思議なことだった」と思っておりました。ところが今朝ほど、それはすべて私が父の子であることで、看過されていたんだなということがわかりました。確かに父は長く特別職である収入役でした。それだけでなく、ポイントは職場の全員が父の子としての私を知っていたということです。どうしてそんなことがあったのでしょうか。それは毎年、仕事始めが終わった一月四日の午後、私の家で役場の全職員が集まって新年宴会を開いていたことです。その宴会が興味津々で、一人混じって出ていたのでした。つまり庁舎内をうろつき回るこの怪しげな子は、全員が誰の子か即座にわかっていたのです。

私たちが天のお父様のことを「アバ、父よ」と呼び、その子どもであるということは、つまり天国は自分の家になるわけであって、子である私たちは何の臆する所もなく、すべてを享受できるのです。やがてこの地上に降りてくる栄光に包まれた天のエルサレムが天国です。今この地上では取るに足らない存在の私たちですが、それがどれほど光と栄光に満ちた恵みであることか、いくら想像しても及びつかないことだと思うのです。

 ただし、すべては「子である」という前提の話です。私たちはどのようにして自分が神の子であることを知るのでしょうか。勿論、実の子はイエス様です。わたしたちは養子ですが、しかし子としての特権は世での養子と同じように与えられるのです。養子であるなら、自分が神の子とされた、籍が天に移されたと知れるのは何によってでしょうか。「神の言葉と聖霊によって」です。
 本日の聖書箇所ローマ8:15には「子とする御霊のを受けたのです。この御霊によって私たちは『アバ、父』と叫ぶ」とあります。<※ガラテヤ4:5-6も同様> この、子としての実質はローマ8:23によると御霊の体になってからということがわかります。クリスチャンの葬儀は「ハレルヤ!」である理由でもあります。
 さて神によって世界の基が据えられる前から、私たちは御国を受け継ぐ子とされて<エペソ1:3-5>いたのですが、その保証は聖霊だと続く14節にあります。本日の聖書箇所でもそのように、父なる神は聖霊を私たちに遣わされ、その聖霊によって「アバ、父よ」と私たちが叫ぶとあります。御霊によって子とされた私たちは、地上ではその御霊に導かれ召されてそれぞれの使命を全うして行きます。聖霊に満たされれば満たされるほど、地上でのことは取るに足りないことであって、私たちは天への希望に満ちあふれて行くのです。

2020年6月28日 (日)

キリストに生きる

  ✝ピリピ 1章20~21節  【新改訳2017】

私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 誰にでもある「死ぬことへの恐れ」、サタンはこれを最大限に利用します。約80年前の太平洋戦争がこの代表で、ABCD包囲網に対し、「このまま座して死するよりは」と真珠湾に奇襲攻撃をかけました。殺人すらアメリカでは正当防衛なら無罪になるのです。
 人を支配する専門家であるサタンは、死への恐れを存分に用います。精神の病に苦しむ多くの方が、傍目には理解できない自己生存の危機を抱えています。クリスチャンにおいてすら、死への恐れが払拭できないのであれば、残念ながらサタンに支配されてしまうリスクがあり、永遠の滅びに引き釣り込まれる可能性があります。サタンの巧妙なこの策略に対し、クリスチャンは抵抗し、戦わなければなりません(2コリ2:11、エペ6:12)

  「キリストに生きる」と言う今日のテーマは、そのHow to、<どうやってサタンと戦ったらよいのか>です。悪霊と「戦え、戦え」と勇ましく進軍ラッパを聞いても、そのHow toがなければ、どうやって戦えるのでしょうか。昨夜、昨夜トマス・ア・ケンピスの「涙の谷における薔薇の園」を読んでおりますと、以下の言葉がその答えとして私に響いて来たのです。「人は、神を熱心に愛すれば愛するほど、死への恐れが少なくなり、そのためむしろこの世を去って、キリストとともに幸せに生き、天使たちとともに永遠に喜びたいと熱望するようになる」(上掲p51)
 みなさん、神さまに夢中になっておられますか? 朝ドラ「エール」は文通で結婚した夫婦ですが、私の場合、今の時代のようなSNSがあったわけではなく、90年前のエールとまったく同じ文通がその方面の青春のツールでした。ところが実際会ってみると、なんとなくイメージが違ってたみたいな、突然トーンが下がってしまった経験があります。ところが神さまは違います。実際に神さまと実際に触れられる、また体験をしますと、本当に夢中になってしまうのです。ケンピスの「熱心に愛すれば愛するほど」は、これをよく言い当てた表現だと思います。知ることで価値観が180度変わり、夢中になり、神さまが自分のすべてになります。そしてこれは覚めることのない永遠なのです。

 妙な結論ですが、人間の努力とか力で神を心から愛すること、骨の髄まで愛することはできないことであると思います。心から求めていても、自分があっては叶いません。ちょうど良い時に神に触れていただき、全てが始まります。そうすることで神を知り、自分よりも神を愛するようになれます。その時、自分の肉体の死への恐れは、失われているのです。こんなクリスチャンに対し、サタンはもう、どうすることも出来ません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益」とピリピ11:21でパウロが述べている通りです。

2020年5月24日 (日)

信じる者は永遠のいのちを持つ

ヨハネ 6章47節   新改訳2017

まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

 先ほど使徒信条を交読しましたが、私たちの東京アンテオケ教会ほか、カトリック教会まで含めて、ほとんどのキリスト教会は使徒信条を自分たちの教会の信仰告白にしています。また〇〇教団とか単立〇〇教会と、それぞれ特徴を持った教会がたくさんありますが、実際には教会は一つしかなく、このことを普遍的キリスト教会と言ったりします。

使徒信条(しとしんじょう)
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン

 ですから使徒信条は聖書ではありませんし、聖書以上のものではありえませんが、本当の教会であるかどうかのバロメーターになるものです。どうしてでしょうか。それは三位一体を明確に現しているからです。つまり、極めて初期の段階から三位一体を否定する異端は、イエス・キリストを最高度の人物のように扱いながら、どうしても人間としてしか見ようとしなかったことをあらわしています。実際、現代でも「エホバの証人」「モルモン」などは、イエスが神であることを認めません。これは二千年間も続いているサタンの攻撃なのです。

 しかし、イエス・キリストが神であることを信じることが、使徒の時代から受け継がれてきた普遍的な教会の信仰であり、それは、イエスが聖霊による処女降誕であること、十字架で死んで復活し、今もなお神の右に座しての審き主であることを信じることでした。

  1世紀、140年頃のローマ信条に使徒信条は由来があり、数百年かけて現在の形になりました。つまり使徒の信仰をもっとも表していると言う意味で使徒信条と名づけられているのです。またこれはおそらく使徒の時代直後からずっとバプテスマの前に、査問会のような信仰を問う場において投げかけられる問いでもあったとされています。

 ですからみなさん、謙遜に謙虚になりなさい、賜物の働きは、注がれば注がれるほど人を畏れさせ、謙虚にさせる。リバイバルの大いなる注ぎの前に、神のものを自分のものにしないように、心からの徹底した謙虚さが前提です。高慢さというものは最大の敵です。私たちは自分の霊、魂の状態に目を醒ましていなければなりません。

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