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信仰

2024年1月14日 (日)

恐れるな

ヨハネ 14章20節   2017新改訳

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 最近マザーテレサの手紙というものを知る機会がありました。以下、その内容です。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実でない。」・・・この手紙はごく親しい司祭に宛てたもので、本人からは非公開にしてほしいと要望されたものでした。  
 この手紙を読んでみると、彼女は神の存在を一時的にせよ、疑う時があったことがわかります。もちろん神の存在を疑うことは天的なものではありませんが、この世に肉体をもって存在している限り、惑わしは逃れられないものです。むしろ、その揺るがせの中で、堅く信仰を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。つまり、マザーテレサも弱い肉体を持った人間であった、その中でことごとく惑わしを断ち切り、打ち破ってあの偉業を成し遂げたのです。

 さて視点を聖書に戻してみますと、偉大な預言者エリヤでも死を願ったり、聖霊のバプテスマを受ける直前の弟子たちも、同じような疑いと不安の中で集まり、必死に祈っていたはずです。現代でも明らかに神を声を聞いたマザーでも、こうした疑いを抱かされるのです。私は幸い、聖霊の注ぎを受けた以後、存在を疑うことはなくなりましたが、それでも神を身近に感じたり、時に遠く感じたりします。クリスチャンには次のような段階というものが存在します。

聖化の段階
①無味乾燥の不毛状態が続く
②全ての被造物との離脱に導かれる
③その後は神の御手に適合した道具となって、純粋に私心なく神に使える
④キリストとの高い一致に到達する

 私は③や④のような段階に至るまでの、②の段階であり、かなりひいき目に見ても、③の初心段階ではないかと思います。それでもキリストや神を決して否定することなく、老化という神が導かれる恵み、肉体の衰えが肉体への希望を失わせつつあるという恵み‥‥それは全ての被造物との離脱に向けての大きな希望を抱くのです。
 それゆえ聖書には、いったい幾度神は「恐れるな」と語られているのでしょうか。疑い、恐れてはなりません。自分自身への疑いや惑わしに乗らず、③の段階である、神が用いてくださる私への使命を、神は全うさせてくださることを確信しているのです。
 神を信じ、神を追い求め続けましょう。その先にあるのはただ天への希望であり、神の光です。さあ、祈りましょう。

2023年12月24日 (日)

キリストに望みをおく者

Ⅰヨハネ 3章2~3節   2017新改訳

2:愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

使徒2章で、イエス様がご自身を信じる者は証人として「地の果てまで、わたしの証人となる」と語られました。

 一昨日の金曜日の夜、私が勤めている学校の慰労会があり、その時、同席していた同僚からいきなり「本職はなんですか?」と聞かれました。以前私が今の仕事は副業で、別に本職があると言っていたようなのです。私はすぐに「牧師です」と答えました。するとみなさん、一様に驚かれていました。牧師が珍しいのか、私が意外だったのか、どちらかでしょうけど。

 そこで「はた」と気づかされました。「今まで教室の子どものためには、あれこれ祈らされてきたが、同僚たちのことはまったく祈っていなかった」と。世の人々への証し人としては、何たるうかつなことでした。証人として私には、何の能力も資質もありませんが、それで引っ込んでしまっていては、何のための世との関わりだったのでしょうか。これからは証人として主に用いられるよう祈ることを強く示されました。力のない者であっても、神の力は祈る者を通して流されて行くからです。
 それでかなり反省し感謝もしていたのですが、今年の歌集ガラテヤ人への手紙5章22−23節で「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・・」とあります。今年の歌集にちょうどこの賛美があるように、それらはわたしにはないし、どこまでもレンタルですが、神が注いでくださるものです。自分が証し人として足りない力や、過去に打ちひしがれるのではなく、み心を行うために、上から受けるものです。それはちょうど子がお遣いに行くようなもので、神はちゃんとお金や何を買うかの商品知識を持たせてくださるのです。イエス様もこのことを「わたしは、自分からは何も行うことができません」(ヨハネ5:30)。つまりやることも、やれる力も主から来るのです。来てもいないのに無いことを悲観してはいけません。
 今回のことも、これが主の示しでしたら、私は同僚の救いのために熱心に祈ることができ、その力が与えられ、実際主が働かれて行くのを見ることでしょう。
 明日のクリスマスを迎えるにあたり、「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストがきよい方であるように、自分を清めます」とある通り、今は私はこのように、祈りたちなかったり、御霊の現れ、その証に乏しい者です。しかし、だからと言ってこのままではありません。神の時には、主が九つある御霊の必要な力を注いでくださるでしょうし、天に行く時には「望みをおいている」限り、必ず清くされて引き上げられるのです。
 今、御霊の現れがそうでなくても、真に信じている者は必ず救われ、天で清くされるのです。主に感謝しましょう。

2023年9月 3日 (日)

主は今生きておられる

黙示録 1章17~18節   2017新改訳

この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、
生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。

 本日のテーマを英語で言えば「Because He lives」です。実は同名の英語讃美に数日来ハマっておりまして、頭の中にずっと流れ続けて止まらないのです。特にBecause He lives, I can face tomorrow. Because He lives, All fear is goneの歌詞(和訳:主イエスが生きておられるから、私は明日に立ち向かえる。主が生きておられるから、すべての恐れは逃げ去る)のImg_1270 くだりが繰り返され、会場の数千人の全聴衆が立ち上がって讃美する、その圧倒的な情景に、心から感動するのでした。

この讃美は、聖霊派なら誰でも知っていそうな、かなり有名な曲のようです。日本でこのようなことが起こったなら、「リバイバルが起こった」と感動することでしょう。
 特に「主が生きておられるから‥明日に立ち向かえる‥全ての恐れは逃げ去る」に深く同感するのです。私がこれまでの人生経験から最も導き出されるのは、人の行動原理は<恐れ>だということです。むろん、かねて申し上げている通り、恐れはサタンから来ており、サタン・悪霊は恐れを支配の道具にしています。障害と精神の病は厳密には分離し難いところもありますが、以後のことは聖書から見ての見地です。 生まれつきの障害は「神の栄光」のため。逆に後天的な障害は幾分か本人の罪のせいであろうかと推察されます。しかしほとんどの精神の病については、ほぼほぼ悪霊の本質である<恐れ>が宿主に憑依した結果だというのが聖書的に見れば言えるでしょう。代表的な統合失調症など、実情は薬による寛解が治療の目的になるようです。寛解ですから治ることはあり得ません。治るのは主イエス・キリストを信じ、神の力による悪霊の追い出し以外にあり得ません。
 つまり「全ての恐れは逃げ去る」こと、真の癒やしや解放は、悪霊に対し、唯一の勝利者、聖霊による追い出しと神の支配の確立だということです。ですから真のクリスチャンは恐れに聖霊に頼って対抗し、追い出し勝利を得るのです。その結果は神の愛、平安、喜びです。
 繰り返しますが、十字架による罪の赦し、聖霊の支配によって私たちは<見えない闇の力が見え、見分けることができ、神の道を選ぶ=悪霊を追い出す>勝利を得ることができるのですから、真に神を信じていない人には、神の御心がわからず、肉のクリスチャンにあっては、いくら自分はクリスチャンだと称していても、持続的な平安はあり得ません。<肉の死>を超えて永遠のいのちへの確信も、残念ながら持てないのです。

 

 

 

 

2023年8月27日 (日)

恐れるな

創世記 15章1節   2017新改訳

これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。

イエス・キリストを信じ、霊の目が開かれて来ると、「恐れる」ということがサタン、悪霊の働きであることが見えてきます。聖書では「恐れるな」という言葉が39回出てきます。恐れは神の働きを止め、妨害します。なぜでしょうか?
 それは人間の生存し防衛する本能そのものであり、一切考える必要のない、何ものにも優る強い動機である。本来人を生かすためのものだが、逆にこれが強く働くと不安と恐れに支配され続けてしまい、正しい生き方、判断ができなくなります。
 例えていうならそれは、木に取り付いて絡みつき、最終的にはその木を弱め枯らしてしまうつる、蔦のようものに例えられるでしょう。蔦のように恐れで人を支配するものを私たちは悪霊という。
 悪霊の存在は、主なる神を信じている霊的なクリスチャンだけがわかるもので、一般の人には認識できない。神の霊、聖霊がわからなければ、真札を知らないで偽札を見分けることが困難であることと同じです。つまり原因である悪霊を見分け、その上で追い出す権威がある神に頼らなければ、恐れのあらゆる類、不安神経症からいわゆる統合失調症などの病に対して、陰で働く主因の悪霊を追い出すことはできません。つまりこの種の完全な癒やしは無いと私は思っています。ただしこれは、人の努力や意志によるものではなく、神の御心、信仰の領域になります。

私の失敗談の一つ〜広島の片田舎から献身して、東京は高円寺の単身者のアパート暮らしを始めました。献身の際に一つ心に決めていたことがありました。それは神様のために用いることにした人生なので、「世的な労働はしない」ということでした。さてなんとか献身生活も半年経った頃のことです。ある夜、不安が私を支配することになりました。退職金の蓄えが思ったより早く目減りしていくんですね。これで計算すると、あと何年保つか、十年はないんじゃないか、不安になって来たのです。なんとかこれをもっと保たせたい、そう思った時、脳裏に思い出したのは銀行がやっている外国債の投資でした。これで月々十万以上の利息が配当されると、ほとんど目減りしません。これに飛びついたわけなんです。
 そんな旨い話がこの世の中にあるはずもなく、国際情勢の急転で半年後には、逆に元金を割り込むことになりました。「神の戒めであった。これは授業料だった」と悔い改めて即解約しましたが、発端は「先行きの不安」から出た愚かな判断でした。神に委ねて献身したはずなのに、祈りもせず、自分の知恵で判断した愚かさを本当に思い知らされました。みなさん、不安に駆られてすることは、ろくなことがありません。不安なら不安を、経済なら経済を神様に委ね、とことん祈って御心を確かめ、平安が来たら決断しましょう。

 みなさん、もう一度申し上げます。不安から来るものは悪霊、もしくは悪霊的なもので、これに動かされてはなりません。クリスチャンは平安、愛、喜びなのです。

2023年7月23日 (日)

信仰とは何か

マタイ15章28節   2017新改訳

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。

 本日の聖書箇所(マタイの福音書 15章22~28節)でシドン人の女性が登場する。群衆が押し寄せることのない異教の隣国で、静かに弟子訓練を続けたかったイエス様にとって、この叫び続ける女は大迷惑の存在だった。「彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであった」とあるように、当時の国際語ギリシャ語が話せるということは、隣国ユダヤの事情にも通じており、イエス様のことをも相当聞き及んでいたと思われる。そして彼女にとって困難と絶望の中、唯一の希望の灯火はイエスによる癒やしであった。そうでなければ、ここまで叫び続けてまとわりつかなかったはずだ。彼女にとってイエスの一行の到着は、これぞ神の導きと確信したはずである。
 聖書には「汚れた霊」「悪霊に憑かれて」と表されている精神の病は、現代においてもどんな病名がつこうと、治癒が困難な病である。私の体験では、当人が苦しむだけでなく、身近な母や子、或いは伴侶も、正常であるだけに本人同様かそれ以上の苦しみがあったはずである。

 さてこの女性はイエス様に通されると、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」と真っ先に言っている。「ダビデの子よ」は、彼女の信仰が正当なものであることを告白している。娘本人は悪霊に憑かれているので信仰はない。しかし母親の信仰によって家族の癒やしを願っているのだ。
 この異邦人の女に対し、イエスは、これ以上にないほどの辛辣な試しを投げかけられた。救いや癒やしなどはイスラエルのもので、異邦人にはお門違いだと一蹴する。しかしそれでも「主よ、私をお助けください。」と引き下がらないので「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないこと」と侮辱的なまでの拒絶の言葉を投げかけられた。
 普通はこれまでである。憤然と怒りのあまり、期待外れのイエス様を罵って席を立つのが人間ではなかろうか。愛する娘が、存在の価値が極めて低い<小犬>呼ばわりされたのである。多少でもプライドがある人なら、必ずそうしたはずである。しかしこの女はそうしなかっただけでなく、「小犬でもこぼれ落ちたパン屑はいただきます」と食い下がったのである。

 聖書でイエス様から信仰をほめられた人物は二人だけで、その両方とも異邦人であった。特にこの女性に対しては「あなたの信仰は立派です」と最上級の賛辞を贈られている。もし現在において私がこの時のイエス様のような試しの言葉を言ったなら、きっとレイシストとして社会的に抹殺されるだろう。しかし神であるイエス様は、この女性の信仰を見抜いておられ、弟子たちの前で信仰とその酬いというものを鮮やかにお見せになったのである。後になってみればこれも、弟子訓練の一貫であったと言えるのである。
 どんなに彼女は拒絶され、侮蔑されても怯まなかった。神の大きな恵みの前に、一切のプライドは剥がれ落ちていて、ただ主の憐れみと恵みを信じていた。信仰は立派な行いや人品を装うものではなく、ただ追い求める必死さ懸命さ、憐れみを信じ求め続けるひたむきさの中にあることを、主は教えられたのである。私たちもそのような信仰でなければならないのだ。

 

 

 

 

 

2023年6月11日 (日)

真の祝福

コロサイ 3章1-4節  2017新改訳

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、
コロサイにいる聖徒たち、キリストにある忠実な兄弟たちへ。私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたにありますように。
私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

 世の人には、今のこの世にしか希望がありません。しかしこの世で生きることは、多くの煩いー食べることや健康など、血肉の体の必要や、社会という人間同士の関係に伴う困難なことなど、ー一つ一つが大変です。
 しかし世の人たちにとっては、今のこの世がすべてであり、ここで終わりでこの先にある世界を知りません。ですからどんなに高齢になっても、八十歳や九十歳になっても、生き続けることに執着します。また若さだけが希望そのものですから、「おばあちゃん」と呼ばれることを拒否したりします。肉体は死んで滅びることが頭ではわかっていても、その事実を受け入れられないのです。
 そういうわけで、「長寿数え歌」で喜寿では「命の七十七に迎えがきたら、せくな老の楽しみこれからだ」など、死は不吉なこととして考えないことにし、いつまでも避け続けるのです。

 このように今の命が全て生き続けることだけが希望ですから、健康に関心が非常に高いのです。私はかなり前に、市が主催する健康体操に一度だけ参加したことがあるのですが、皆さん背筋をピンとはって、とにかく健康に良いことに努めていらっしゃる。私など姿勢が悪いと何やっても酷評され続けました。私から見れば、参加する皆さんが失礼ながら、ゾンビのような健康オタクに思え、二度と参加する気にはなりませんでした。

 この世の人々と神を信じる私たちとは、決定的な違いがあります。それはいつも天を仰ぎ、天にいのちを見出し、そこに永遠のいのちと真の希望を見出しているからです。つまりこの世は仮の世、本番の生活は天にある天国人なのです。この世は私たちが神の御心を行って、天の国で誉を得るための使命を果たす場なのです。私たちは神イエスによっていのちを贖われ、買い取られて永遠のいのちに生きているのです。

 神を信じる者の使命といっても、十人十色でしょうが、世での基準がクリスチャンに適用され、大きな働きをした人が大きな報いを得るとは限りません。タラントの喩えがあるように、ただ忠実に神からの使命を果たした者に、同じ報いが与えられるのです。ですから私たちは目を天にあげ、上にあるものをひたすら思いましょう。地にあるものを思ってはなりません。

 神の計画を妨害するため、サタンは神を信じる者に狙いをつけています。目を天に向けさせまいと、肉の体と世への思い煩いや困難を、ひっきりなしに大きく取り上げさせ、刺激してきます。しかしそれに乗ってはいけません。キリストの命によって救われた私たちには、神への愛と感謝しか残っていないのですから。

 

 

 

 

2023年3月19日 (日)

神の声を聞く

Ⅰサムエル 3章10節   2017新改訳

主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 喫煙や飲酒、それが切れた時、もし不機嫌になるとしたら、その人には軽度の禁断症状が出ているのであり、霊的には世の霊、悪霊に支配されていると言えます。
 実際にはこのようなわかりやすい例だけではありません。不安とかコンプレックス、金銭への執着、いじめに限らず心に受けた傷、そのようなことがいっさいないという方はむしろ少数派でしょう。悪霊が巧妙に隠れて入り込み、その人を、世の中を支配しているのが世の姿です。今年のハリウッドでアカデミーの主要な賞を独占した映画、略称エブエブなど、その典型例です。映画ではマルチバースと聞こえはいいのですが、実際には現実逃避の変身願望と闘争に終始した子供騙しです。

 人が自分自身を、あるがままの姿をそのまま肯定し、自分を喜んで生きることはかなり困難です。欲望に支配されて満足することを知らず、その罪深い自分を、あるがままに受け入れられないのです。サタンはそうやって人間を疲れさせ、真に絶望させようとしています。この解決はただ一つ、十字架のキリストを信じ、キリストの愛によって自分と和解するしかありません。キリストに愛され赦された自分なら、受け入れることができるのです。これ以外に正しく歩める人の道はありません。もともと神は人を、エデンの園でのように、ご自分と親しく交われるために創造されているからです。イブやアダムと同様、罪がそれを妨げているのです。

 どうやって私たちは、愛してくださる神を知り、正しく導いてくださる神の声を聞くことができるのでしょうか?その第一は神のことばである聖書に聞き従うことです。聖書を神のことばと信じるなら、聖書の御ことばに聞き従い、御ことばを行なう者となるはずです。主イエスが命じておられるたった二つの命令とは、「何よりも神を愛すること」「隣人を愛すること」です。神を愛する者は、神を知り、御ことばを通して語りかけてくださる神の御心を行おうとします。ところが悲しいことに多くのクリスチャンは、口先では神を信じると言いながら、実際には信じた実が伴っていません。神を認めることだけなら、悪霊の方がはるかに優っています。そうでなく、信じた御ことばの実が実る者でなければ、真に救われているとは言えないのではないでしょうか。ポイントは聖霊の実です。

 また神は信じる者に直接語られることがあります。これは誰にでも、ではありませんが、聖書の主要な人物、アブラハム・イサク・ヤコブ・モーセなど皆、神の声を聞いています。聖書がある今の時代においても、神は変わらず語ってくださっています。これは御ことばの具体的語りかけであり、もちろんそれは聖書の範囲内で語られていることです。私たちは聖書を土台に吟味して、個人的に語られる神の声を受け取って行くのです。

 

 

 

 

2023年2月 5日 (日)

世の霊に打ち勝つ

ヤコブ2章19節  

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。 2017新改訳

 霊的な存在には大きく三つあります。そして人間は血肉の命と霊的ないのちを併せ持ったハイブリッドです。そして人間の霊をめぐってこの世は、天とサタンや悪霊という地の勢力との争奪戦、刈り場になっています。確かなことは、血肉の命のある間に、お一人お一人の行き先、勝負が決まるということです。「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と申します。ここで一度、サタン側の策略についても一考してみたいと思います。

<血肉の命>のある間でなぜ、霊の行き先が決定されるのだろうか?それはゲヘナという事実を見て判断しても、それは信仰とは言えません。聖書には「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」(ロマ1:2節)にある通りです。また「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)とも聖書は言っています。

 信仰がなければ神の国に入ることはできません。黙示録によれば、この世の見えるもの(物的な世界)は滅びます。しかし神の言葉は滅びません。見えないものに目を留め、創造主を血肉の弱さの中から求める者こそ、神の国を受け継ぐにふさわしい者とされるのです。

 しかしただ単に神を認めるだけでは、はるかに悪霊たちの方が知っていますし、彼らは震え上がっています。しかしまことに神を信じる者は、聖霊に触れられて神を知ったのであり、神を畏れてはいますが、神を敬い、愛しており、神に自分を捧げています。神の御心を行おうと、天使と同じように神の側に属しているのです。

 しかし神を信じていると言いながら、神に自分を委ねず、自分の判断や理解で突き進んでいるなら、主人は自分であって、この世の霊である悪霊たちと大きく変わりません。神を認めるのは悪霊たちですらするのです。自分が自分の主人である人たちはいったい、どちらの陣営に属していると言えるのでしょうか?しかし聖霊の体験無しに神を知り、従うことは困難です。

私たち人間は滅ばない霊を持っていますが、聖霊によらなければ自分の罪が本当には分かりませんし、十字架の赦しとその力の恵みに預かることは困難です。同時に血肉の体がある間、どうしてもその弱さが伴うので信仰を強め、支えてくださる聖霊様なしには不可能です。神に従がうことなしに、世での戦いに勝てると思うことは高慢です。ですから私たちはキリストの枝に留まり続け、その滋養を受け、豊かな実を実らして行くしかないです。

 

 

 

2022年9月 4日 (日)

You are A Warrior

ローマ 7章23節   2017新改訳

私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。

 Warriorとは戦士の意味です。日本語の武士とか兵隊より、また軍人の意味に近いSoldierよりも、今回の意図に近い言葉になります。
 なぜWarriorなのでしょうか?それは私たちクリスチャンは絶えず困難な戦いの中に置かれているからです。ローマ人への手紙 7章23節にあるように、肉体という罪の律法が私たちを虜にしているのに対して、聖書と聖霊による義の律法があり、この両者はクリスチャンである私の中で、常に激しい戦いを続けているからです。

 この戦いについて、若い時には、からだが衰える老境に入れば勝負はつくと思っていました。しかしそれは誤りでした。また、歴戦の勇士のように経験が増し加われば、た易く勝利するようになるとも思っていましたが、それも誤りでした。さらに聖霊のバプテスマを受けた直後のように、聖霊に満たされ続けて行けば楽勝だと思っていましたが、その聖霊は完全にではありませんが減衰し、戦いはかえって激しいものとなっているのでした。それは聖が引き上げられると、それまで気がつかなった悪と罪の意識も深まり、その闇もかえって深まるのでした。

 この戦いは主の霊を注がれた戦士がするものです。それ以外のクリスチャンは、聖書によって罪の状態が分かっていても、戦う術を知らず、自分が虜になっていることすら認識できていないことが多いので、本格的な戦いにはなりません。
 真の戦士は自分の弱さを試練によって徹底的に知らされているので、戦う意志はあっても、神により頼んでいます。Majesty(陛下)である神の指図に従って、その勇士、戦士として戦います。実際、これが最善な勝利、主の栄光を結果としてもたらすことを知っているのです。

  このように戦士となるには、聖霊のバプテスマの前後に、神から厳しい試練という訓練を受け、自分に死に、神に生きることを得ていることが前提になります。また戦士は世の賞賛を受けることなく、時に一見惨めに見えるラザロであったり、殉教の血を流しています。しかし戦士は目を天に向け続けており、天の報い、霊的な勝利者となっているのです。この世の目で判断してはいけません。

 この戦いの真の敵は誰でしょうか?それは肉なる自分自身です。自分自身に死に、神の所有とされた戦士には、敗北はあり得ないのです。戦いは既に終わっていると言っても過言ではありません。

2022年7月10日 (日)

神の国はどこに

ルカ17:20~21  2017新改訳
パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

「神の国はあなたがたのただ中にある」とありますが、そう聖書で語られて、単純に喜んでいるか、何だかよく分からないでキョトンとしている、そんな人たちが多いのではないでしょうか。先週私はルカ11:9での有名な「求めなさい、そうすれば与えられます」を次のようにお話ししました。「(聖霊を)求めなさい」であると。
 神に祈る時、多くの方は七夕の短冊や神社でお賽銭をあげての願掛けの類に近い祈りをしていらっしゃるようです。それはそれまでの経験上、<祈りが神に答えられた>ことはない現実があって、その確信など持ちようがないためではないでしょうか。別に親族や仕事上の祈りをしてはいけない、と申し上げてはいません。ただそれらは、私たちの弱さから来る肉的な祈りです。
 もし私たちが神のみこころを祈るならば、それは必ず成就します。神に不可能はないからです。しかし多くの方は神のみこころではなく、自分の必要、希望、欲求を祈ってしまうのです。それでは、よほどの神のあわれみで聞かれる、稀なケースでしかあり得ないでしょう。
 私たちはどんなことでも感謝します。私たちが祈る肉的なさまざまなことは、神が許されて存在していることです。ですから個々人に問題を許されている、その背後にある神のみこころを知らずに肉的な祈りをすることは、見ようによっては、神の計画に背いていると言えます。

 それでは私たちは如何にして、神のみこころを知ることができるのでしょうか。神のみこころは、同じ神である聖霊を通して意外、私たちは知る術がありません。それ故にルカ11:13で祈りに対してオンリーワンの答え「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます」と述べてあるわけです。聖霊様を与えてくださること、これこそがみこころを知る唯一の方法であり、みこころを行って私たちが天に宝を積む道です。
 ですから皆さん、聖霊を求めましょう。聖霊の満たし、バプテスマが必須です。新生した心は、もはや自分の願いや求めを祈ることは後回しで、ただただ愛する主のみこころの成就を祈り求めるのです。

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