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信仰

2022年6月12日 (日)

しかし神のことばは永遠に立つ

イザヤ 40章8節   2017新改訳

人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。(40章6節~8節)

 六月の特にこの時期、草は生命力にあふれてたくましく成長し、花は美しく咲き誇っていますが、しばらくするとそれらは、必ずしおれ枯れていきます。
 神は人をたとえて言っておられるのです。すぐにしおれ滅びるものにならないで、わたしによって生かされ、永遠のいのちの恵みに生きなさい、と。
 今私たちの教会には、主の息吹が吹いて病いが許され、弱さを覚えさせられている方が多いのではないかと推察します。私たちを祝福してくださるはず の神が、なぜなのでしょうか。これを問う前に前提にすべきことがあります。それは神は愛そのものであって、それ以外の存在ではありません。信じる者を愛されていることです。その方が許しておられるということです。
 そうならばこの病というもの、苦しい症状や治療という困難とはまったく別な神の目的、計画があり、神の御心というものがあるのです。それはお一人お一人がまったく異なるものでしょうが、あるのです。それに気づき、悔い改め、より一層その成就を願い祈ることこそ真に癒される道ではないでしょうか。 (GardenTomb) 園の墓
 イエス様が為さった癒やしはリアルに神を信じ、救われること、つまり福音が目的でした。実際に癒やしを行われる前に、「あなたの罪は許されました」とのことばこのことを語っています。
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」とはまさにこのことを指しています。肉体への希望は一時のものであって、それはすぐにしおれ、散るもの、滅ぶものです。しかしそうではなく、神のことばの信仰に立って生きる者は、たとえ肉体が滅んでも永遠なのです。肉体が病で弱くされた時こそ、この神への信仰にますます堅く立ち、神を褒め称える時なのです。

 ですからたとえ死が私たちに迫ろうとも、死よりもはるかに素晴らしい、永遠の天への喜びに躍りましょう。死んでも生きる恵みに、今一度感謝と讃美を捧げましょう。そのことを改めて教えてくれる病、肉体において弱くされても、私たちの心、魂はかえって強くされるのです。

2022年5月22日 (日)

神の国と神の義を求める

マタイ 6章33節   2017新改訳
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

 本日の聖書箇所は最近の聖書日課にあっただけでなく、常に礼拝での献金の際、歌っている聞き慣れた聖句でもあります。しかしこれに深い意味があり、非常に重要な信仰の核心部分でもあると改めて今回、思いました。
     
 まずなぜこの聖句なのかということですが、きっかけは次の挿絵にあります。
これは上田のとあるそば店の暖簾で知ったことですが、元は京都竜安寺の石庭にあるつくばいにあって「吾れ唯(ただ)足るを知る」と読むようです。つまり「(さまざまな欲望を排して)私は満ち足りていることを知っている」ということでしょうか。本日の聖書箇所も聖書で同じようなことを言っているところではないでしょうか。しかし似ていても、その意味が全く異なっています。
 竜安寺は禅宗ですから、おそらく座禅とかの修行を行なって<悟り>に達した境地のことを言っていると思われます。しかしイエス様が語られていることはそうではありません。

 では本日の聖書箇所の少し前から、その流れを見ていきましょう。このマタイ6章では、その目は常に天に向いています。

 その20節「天に宝を蓄えなさいー中略ー宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一中略ー、あなたがたは神と富とに仕えることはできません」とあります。天とその神を人生の中心にし、仕えるならば<世のことを煩うな、父は必要を知っておられる(25−30節)>と説き、33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられ」るとしているのです。
 つまり神を第一とする前提条件をクリアするならば、全ての必要は与えられて<足りる>と言われているのです。これは神をただ信じ、聖霊の力とその助けによって、御心を行おうとする者には、神は必要なその全てを与えて下さるという意味であって、個人的な<悟り>とは全く異なるものです。

2022年5月 1日 (日)

信仰と希望

ローマ 15章13節  2017新改訳

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 今日私たち目にし、耳にするニュースは戦争であり、疫病「コロナ禍」やあたかも「神の小屋」のようなおぞましい事件です。
しかし、どんなに状況が悪くなっても、いや、それだからこそ、私たちにはかえって希望があふれてくるのです。

 この聖句はちょっと抽象的でわかりにくいところかも知れません。しかし、「希望」という言葉を「天の御国への希望」と置き換えてみますと、かなりわかりやすくなります。私たちクリスチャンにとって、神のみがすべてであり、神の国に行けることがすべての希望です。まさかこの世でのことが、最大の希望だというクリスチャンはいないはずです。

 ということから考えてみますと、どんなに暗いニュースがこの地上がどんなにあふれて行く、それこそ終末が近いというあらわれですし、これから患難時代に向かって加速度的に悪くなっていくとしても、それらは「産みの苦しみ」であって、私たちは決して奪われることのない喜びで満ち足りており、近づくリバイバルの足音を聞きながら、常にHappyなのです。それを明示する二つのことがありす。
①聖書 :✝天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この御言葉は(マタイ2:35、マルコ13:31、ルカ21:33)すべての共観福音書にあって、イエス・キリスト神ご自身が確かに語られた言葉です。私たちは揺れ動き、やがて消え去っていく天地に目を向けるのではなく、旧約のメシア預言からはじまり、福音書や書簡、終末の預言書で語れられている神の言葉を信じています。
 それによれば、これから起こることはすべてあらかじめ語られていることであり、二度の再臨の後、千年王国時代を終え、天の都エルサレムがずいぶん模様替えしたこの地上に降りてくるまでの序章です。これからの患難時代でのリバイバル、それを私たちは満を持して待ち受けるのです。
②交わり:信仰によって私たちは神の子とされる特権を与えられます。しかしこの信仰は、迫害や患難時代に必ず試しを受けなければなりません。「本当に信じる」なら、血肉の自分の命以上に価値を有しているはずです。道端や岩地の上、また荊の生じる土地に生えたのはないことを証する時が来るのです。耐えて良い地の実を実らせ、栄光の主を証しする恵みに預かるのは、その本当に信じているかどうかがポイントになります。
 この「本当に」と言った時、神との直接的な交わりがあり、子としてリアルに父を知っているかどうかが決定的な力となります。これを別な言葉で言えば、思い込みや思い込まされてではなく、真実、聖霊のバプテスマを受け、絶えず御心を行おうとしていることです。新生していることです。

2022年4月10日 (日)

信じる段階Ⅱ・・・義を行う

Ⅰヨハネ2章29節   2017新改訳
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
Ⅰペテロ2章24節   2017新改訳
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた

 この段階は聖霊の油注ぎを受け、聖霊のバプテスマを受け、新生したクリスチャンの段階です。何が段階Ⅰと違うかといえば、神と交わっていること(1ヨハ1:3)それゆえ御心がわかり、御心を行おうとし、その賜物を得ているクリスチャンの段階であるということです。

 この段階には、人が意志の力で努力しても到達することは無理です。なぜなら人は皆救い難い罪人であり、自分を捨てることは不可能だからです。どうしても自己正当化し、守ってしまいます。そうすると、本当の自分を救うことが不可能になります。以下はその例です。
 悪霊は騙しの専門家です。私たちはカリスマの教会ですから、悪霊に悩まされている人で、多少なりともその存在や問題に気付いた人が居て、その追い出しを本人から依頼されることがあります。引き受ける場合、まず本人が悪霊が自分の中に居ることを認識されており、自分の敵として追い出したいと願っておられることが土台になります。しかしそこまで認識できないで悪霊の追い出しを依頼されるケースです。その場合、心の王座に聖霊なる神をお迎えできないので、悪霊は再び戻って来、前より悪い状態になってしまいます。(参照マタ12:43 ルカ11:224)
 悪霊は自分の正体を隠し、宿主を騙します。いつまでも真の罪人である自分の姿を分からせず、自己弁護と高慢で終始します。またその逆に、ひどい不安と落ち込みで自分が無価値な存在として整理しなければと思わせます。こうして昂揚と転落の繰り返しに疲れ果て、最終的には宿主を重度の統合失調症や自殺に至らせようとします。
 そんな苦しさに教会の門を叩き、十字架の贖いによる赦しと悔い改めに導かれ、救われる方が多いです。但し、真の自分を知って悔い改めていることが前提になります。真でなければまさに死んでいません。心の王座は依然として肉なる自分のため、新生していませんし、実がついていません。)自分に聖霊の実が実っているかどうか、どうか吟味下さい。

 さてサタンは今も働いており、巧妙な実に容易ならざる敵です。ですから霊的なことに対しては、神に拠って立つ他ありませんし、十字架のみが勝利をもたらすのです。これら一連のことに対しては、神に選ばれた子であることがポイントになって行きます。

 信じる第2段階とは、真に自分の罪を知らされる、十字架で悔い改め、聖霊が注がれ、新生することが土台になります。もしそうでなく、肉が残っていたら、神に聞き従えず、不従順はサウル王のように、むしろ怒りを買い、裁かれてしまいます。
 神があらかじめ子にしようと選び定められた人々、その人たちは例外なく、言いようも無い世という困難と試練の中で自分に死に、今ではただ神にのみ希望を抱き、世にある限り御心を行おうとする人々こそ、真のクリスチャンです。殉教する前にすでに世で死んでいます。

2022年1月23日 (日)

新しく造られた者

Ⅱコリント 5章17節   2017新改訳

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

「神様を信じた人」と言っても、大きく三種類に分けられるかと思います。一つ目はサマリアで魔術を使っていたシモンのようなタイプです。彼はいつもピリポに付き従って信者のようにしていたのですが、それは信じたからでは無く、お金で神の賜物を買おうとしたように、自分の魔術のパワーアップのためでした。
 今日、教会側にも大きな責任がある事態が生じています。明らかに本当には信じていないのにもかかわらず、ローマ10章9−10の「口で」の意味するところを、単に形だけ、口先だけでも告白さえすれば、即時に信者(クリスチャン)だとすることです。これは偽りであり、言わばその気にさせて、なりすましの信者を強いているのです。これが今日の教会の退潮と混乱の原因ともなっています。

 後の二つは聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンと、受けているクリスチャンのことを指します。これらのクリスチャンはキリストの死による罪の赦しを受けていますので、聖霊なる神が内住しています。ただその聖霊がその人を支配しているかどうかの違いがこの両者を分けています。しかし共通して言えるのは、礼拝を決して欠かしませんし、なんとかして捧げ物をしようとすることです。
 さらに下記の聖句ように、「もはや自分のためではなく、キリストのために生きる」という信仰の実が必ずついていることです。その端的な例は、きちんと毎週毎週の礼拝出席ができることです。霊的な命がある人ならば、礼拝を欠かして、正常なこの世に逆らって神を第一にできるはずがありません。新しく造られた人は、キリストのみからだの一員として、霊的な飢えを満たす教会の礼拝を欠かすことができないのです。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。 (✝Ⅱコリ5章15節)

2021年12月 5日 (日)

本当の自由

ヨハネ  8章34節   新改訳2017

イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」

 罪に支配され、その奴隷になっているのに、そのことを自覚しないで居る人が多い。クリスチャン以外のこの世の人々とは、そう言う人々がほとんどだ。逆にクリスチャンでなければ、芥川や太宰のように自殺するか、または精神を犯されてしまう結果になりはしないだろうか。キリスト教は、罪の自覚が無い人、または乏しい人には関わりの無い宗教である。

イエスは彼らにこう言われた。

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マル2:17】

 今一度振り返ろう。私たちはキリストを知る前に、この世で正しく生きることができていただろうか?いや却って自分自身を持て余し、理想にほど遠い現実の自分の姿に、ほとほと参ってしまっていたのではないだろうか。大人になる前、理想と高慢、繰り返す自己嫌悪のサイクルに果てしなさを覚え、不安が絶えず自分を襲って来ていたのは、私だけのことだったのだろうか。大人になると多少世界が広がって見えるようになり、そんな自分を他と比べてまだ良い方だと、変な納得をして、自分を蔵にしまい込んだだけなのではないだろうか。それはふつふつと自分の地の底でたぎっているにもかかわらず、である。私たちは本能的に知っている、このままでは自分は永遠の良い所には行けない、と言うことを。ただその解決の道を知らず、それをいいことにしてそのための努力を払いたくないだけなのです。

 ここに大きな真理、しかもパラドックス(背理)の真理があります。みな自分が唯一無二の大切なものなのですが、それを捨ててこそ解放され、真理に到達するのです。つまり自分自身の理性、自己決断、思いや望み、決めることをすべて神に捧げて、委ねる。そのように自己の主体を神に明け渡してこそ、自分を逃れた真の自由を得る・・・言ってみれば簡単なことなのですが、経験から言ってこれは本当に真実なのです。どうして神様の奴隷になることが、かえって自分自身から自由になることなのでしょうか。ましてそのように自分の主体を神に捧げ委ねる・・・ことが自分の力では、いえ人間の能力の範囲を超えていて、人にはできないことだとしたら、どうでしょう。つまり一旦キリストの神に降伏して、その十字架の愛を信じ、神のその力によってでないと、神に自分を明け渡すことは不可能なことなのです。

 ただし明け渡す相手が三位一体の真の神様でなければ、結果はもっと悲惨なことになるのですが。「神様、感謝いたします。あなたの愛とあわれみに」そのように私たちは気づかされ、思い、心からの感謝をもって祈るのです。

2021年11月28日 (日)

コミットメント(Commitment)

エレミヤ 29章11~13節   新改訳2017
 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている ーのことば─ それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

 コミットメント(Commitment)とは、一般的に関わりあいとか公的な誓約の意味です。が、本日は英語の委託、委任、引き渡し、投獄などの明け渡しの意味で用います。

 まず、私たちクリスチャンは神さまに自分自身をコミットメントしなくてはなりません。神さまは平安や未来と希望を与えるために私たち一人ひとりを創造されているのです。ですから神さまに自分自身を喜んで捧げ、明け渡し、コミットメントしなければ、その造られた真の恵みを享受できないばかりか、制御できない自分自身に苦しみ続け、とどのつまり罪に縛られ滅びの道を歩むことになるのです。

 しかしあまりにも罪の中に生き続けているので、私たちはどれほど自分がどれほど罪の中にいるのか分かっていない場合がほとんどです。つまり多くの方は次のように考えます。「自分は自分のもので、コミットメントなんて意味が分からない」とか、「大人になってようやく親などに左右されない生き方、自己実現できているのに、何を好き好んでコミットする必要があるの」とかです。

 しかし真実は真逆です。私たちはコミットメントし、神に委ねてみてはじめて罪をはらみ、産み出す欲がどんなものであるかを知ることができ、真に自分自身を解放できるのです。それは不思議なパラドックスであり、逆転です。しかしながら、信仰告白をし、バプテスマを受けたクリスチャンであっても、この世の人と何ら変わらない肉欲、物欲の世界に生きている人が何と多いことでしょうか。そのような人はコミットメントがされていないからなのです。クリスチャンの醍醐味・・・・を地上で送らずして、どうして天の国で神に喜ばれることができるでしょうか。日曜日の午前中だけ、やっと教会の礼拝に加わる、献金も十分の一に不十分で、心の中の思いは、すべてこの世のことである・・・・どうしてこのような可方が健全なクリスチャンだと言えるのでしょうか。神を信じる者は、富と神とに兼ね仕えることができないのです。

 本当に神を信じる人とは、自分の理性、思考や人間的な判断、あるいは事細かな嗜好の部類にまで、神に明け渡す決心をし、その実現を祈り続けている人に他なりません。決心と言いましたが、十分にできているかどうかは別の問題です。ただそのように志向して心から祈り求めている、それが土台ですし、そのような決心した人のことを言っています。その人はやがて、聖霊なる神の恵みに与り、その圧倒的な威光の前に、自分のすべてを差し出し、投げ出させずには居れなくなリます。この世で最も神を愛するようになるからです。少なくとも私はそのように変えられました。

 私たちの創造主だけが自分の人生の最善を知っておられ、最善を知っておられる方に自分をコミットしましょう。それはあなたを解放させ、回復させ、平安をもたらすことでしょう。

 

 

 

 

2021年10月31日 (日)

- 信じる-生きておられる神を

ヨハネ 2章23節   新改訳2017

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

 少し前の世代、私たちの祖父母たちの時代までは、ほとんどの人に何らかの信仰心があるのは当たり前でした。神が存在することを疑うことはなかったのです。自然への畏敬、超越的な存在、死後の霊的な世界が存在することは当然だったのです。その時代は神は神でも、どのような神を信じるのかが問題だったのです。つまり八百万の神々なのか、仏なのか、あるいはキリスト教の唯一神なのかが人々の関心事だったのです。キリシタンの迫害でも、信じることそのものは、当然だったのです。
 しかし科学の発展した現代は、そもそも神というものが存在するのかということが疑われています。少し前の世代からすれば、驚くべき不信仰の時代になっているのです。たとえ存在すると思っていても、多くの人は窮屈な思い、それは人を縛り、金銭を要し、自由を制約して来るかのような存在に見えるようです。ですから現代では最低限必要な冠婚葬祭時のみ、お世話になる時代になっています。そしてキリスト教のように、どんな時代であっても、毎日曜日教会に集うような緊密な宗教は、非常にごく限られた人々のものになっています。これはまさに、教会に来る人は神に選ばれた人であり、神の選びの厳粛さを表すものです。

 現代人にとっては自分の目に見える世界がすべてで、見えない世界は存在していないかのようです。つまり見える世界とは財産や金、また家族とかの絆などです。しかし事実は異なることを神が証明してくださっています。「しるしを見」たり「神からことばを受け、信じた」人々が居るからです。この時人は「神は生きておられる」「神は生きて、働いておられる」揺るがない確証を得るのです。しかしいかにもこれはごく稀なような気がします。どうしてでしょうか。求めないからです。

 聖書ではそのような人々の証しで満ちあふれています。一例を上げればペテロは長年猟師をしていて、決してあり得ない事象に遭遇しました。ナタナエルはいちじくの木の下にいたことを語られました。それぞれに不思議を見て、そして「信じた」のです。しかしこれらの決心も、ただ見て信じたようにありますが、体験し、あり得ない中に、主を信じ告白したのです。ただ頭の中だけで【主は生きておられる】とした信仰とは、根本的に土台が異なります。

 口で告白して私たちは信仰を持ちました。しかし耳学問ではなく、体験したのですから、これは揺るぎない確信になります。私はここはカリスマの教会ですから、このような神と直接交わり、神からの召命をもって、一つのみ体を形作って参りたいと思うのです。すべてを捨ててイエス・キリストに従う、一騎当千の信仰の強者となって参りましょう。

2021年10月10日 (日)

主は生きておられる

Ⅱ列王記 4章30節   2017新改訳

その子の母親は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

 この上記の告白はシュネムの女がエリシャに、わが子を生き返らせるよう懇願した際の言葉です。「主は生きておられる」、この言葉は、神、主をリアルに実際に体験しなければ言えない言葉です。神を体験する、これは神の一方的な主権による顕現であって、これを受けた人にとって、それまでの自分の人生観や価値観が、その瞬間、決定的に変容せざるを得ないのです。しかしこのような体験は「聖霊のバプテスマ」は聞き及んでも、現代では余り聞くことがありません。果たしてそれでいいのでしょうか。

 聖書ではどのように描かれているのでしょうか。先ずこのシュネムの女ですが、夫がすでに高齢で、子を持つことをあきらめていたようです。しかしエリシャは「来年の今頃、あなたは男の子を抱くようになる」と預言し、実際それは成就しました。まるでアブラハムの妻、サラの事例のようです。この女性は「主は生きておられる」ことを体験しているのです。この言葉はエリヤやエリシァだけでなく、ギデオン、サウル王、ダビデ、エレミヤなど旧約では多くの人物が口にしました。彼らは皆、神の生きておられることを体験し、主に用いられた人生を歩んだのでした。

 「主は生きておられる」ことを体験するなら、それまで神は自分の思いやイメージ、観念の中にボヤーッと知識の中にあったのですが、その瞬間に現実の神とは、力ある唯一の権威と圧倒的な力、創造者にして真に贖い主であることが分かるのです。現れ方や伝え方はそれぞれに適応したものとなるでしょうが、最終的には一人ひとりに神の愛のメッセージが注がれるはずです。少なくとも私はそうでした。その愛の渦の中で呆然としながら、ただ強い感動で涙が止まらないのです。
 これを強いて言えば少し異なりますが、今はもう古い話、中国残留孤児が日本に来て、実の親にはじめて対面できたような感じでしょうか。

 「主は生きておられる」体験をした人は、マタイ 13章44節のようです。隠された宝を畑の中に見つけ、喜びのあまり、持っている物すべてを売り払い、その畑を買うようなものです。自分の持っているもの全部を売り払って、神に捧げたくなってしかたがありません。それほどのこの体験は余りにも恵みであり、今自分が生きている意味とその目的をも知る事になるのです。信仰の確信が持てない、クリスチャンとして本当に自分は実をつけて、良い地なのだろうか。そう悩んでいる方は真剣に、深い悔い改めの中から、神のあわれみによってこの恵みを受けていただきたいと思います。

2021年9月12日 (日)

今の時は

✝ ローマ 10章18節   2017新改訳

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。

  今年の9・11までに20年になる長い戦いを避けようと撤退したアメリカは、アフガニスタンにおいて敗北したも同然です。再びテロ国家が世界の一国として登場することになったのです。これは20年近くも続けたベトナム戦争を思い出させます。圧倒的な軍事力を持っていたアメリカは、共産主義と今回は、イスラム原理主義に勝てなかったわけです。聖書的に見るならばこれ以後の世界は、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」(マルコ13:8)となるでしょう。人類普遍かと謳われたキリスト教的価値観は、明らかに行き詰まりを呈しているのです。

 私たちはこれまでマタイ24:14の「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」をそのまま受け取り、全世界がキリスト教化して終わりが来ると思っていました。しかしそうではないことが明らかになっています。世界の宗教分布図を見てください。キリスト教はアジアの西部と中央部を除いて、ほぼ世界を覆っています。共産主義の国では迫害されていますが、今も地下教会はしぶとく福音を伝えています。イスラム教国でもクリスチャンは迫害されていますが、その比率は日本より高いのです。

 聖書をよく読んでみると、ローマ書10:18には『その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた』とあります。これは福音が届くということであって、世界中がキリスト教国になるという意味でないことに気づきます。共産国には地下教会を通して、イスラム教国にはSNSや教会を通して、福音は伝わり届いていれば良いのです。

 つまり福音はすでに全世界に伝わっており、終末の全世界に福音がほぼ伝わっているという印象を持ちます。つまりキリスト教国かどうかはすでに関係なく、世界の終わり、終末の舞台のお膳立てがほぼほぼ整ったと見れるのです。

 とするならばすでに信じた私たちは黙示録3:3の「思い起こし、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、私は盗人のように来る」とあるように、<悔い改め、(聖霊の満たしを受けて)目を覚まさ>なければならないのです。そうすれば「戸の外に立ってたたいている」主が入って来られ、「ともに食事をする」という主との交わりの恵みの中に入るのです。ですから自分の深刻な罪に目を覚まし、<永遠のいのち>なる主と生きることの命に勝る価値に目覚めて気がつかねばなりません。そのような人は、それまでの暮らしてきた世のすべてを喜んで捨てることでしょう。むしろ邪魔物なのです。先ほどの証しのように、その類いのしるしが伴うのです。
 永遠のいのち、ただそれだけに目を覚まし、神と交わって生きる、それが目を覚ますことです。

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