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信仰

2019年5月26日 (日)

信仰の真価が試されるわけ

エペソ 6章12節   

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。   【新改訳2017】

 私たちの体は、神による万物の創造の最後に、ご自分の似姿に人を造り、すべての被造物の上に立つものとして置いてくださったものです。人は被造物という「物質」であり、それに「命」を与えられたものですが、さらに唯一「霊」をも併せ持つ究極のハイブリッドの存在です。霊的な被造物では他に天使がいます。しかし天使は物質と命を持たず、従って人間に及ばず、第1に神、次に人間に仕える存在なのです。
 そんな人間が本来の神のみ心通りに救われるために、神は独り子イエス様を受肉させ、十字架と復活の救いの道を開いてくださいました。愛の極まりを人間は受けています。

 人が神の子の十字架と復活を信じるとはどういうことでしょうか。このままでは必ずゲヘナに行くしかない自分の罪を認めるということ。つまり第1の死である肉体の滅びの後、残された永遠の霊の行く先がわかって、十字架の愛と救いに自分を信じ委ねる・・クリスチャンになることです。これは霊魂の不滅という真理に気づいていることがすべて前提のことです。そうでなく、教会の中には、まるで何かの保険のように、あるいは御利益的な自己目的のために表面的に信じた人たちもいます。その人たちもそこから脱皮して、真の信仰を持つことも多いのですが、その真価は第1の死で黒か白か、実質が現れることになります。霊魂の不滅と深刻な自分の罪の覚醒、これが信仰の土台です。

 繰り返しますが人に必ず訪れる第1の死、その時こそ信仰の真価が試される時となります。死を恐れる人は、自分の第2の死を予感するからではないでしょうか。信仰があれば真逆です。「これで自分はこの肉の縄目を脱ぐことができて、天の父の御許にいける」という解放の喜び、天への凱旋で喜びが湧くのです。ですからクリスチャンの葬儀は、一時的な別れで悲しむことはあっても、本来、天国とやがてそこで再会する喜びがあります。「聖者の行進」は埋葬を終えて帰る時の曲ですが、悲しい曲だとは誰も思わないでしょう?
 クリスチャンの死、これは信仰の真価が試される時です。どんなに篤信の信徒、教会での奉仕者、長老であろうと、その臨終に当たって死を恐れるか、または喜んで行くかは、命をかけたこれほど明確な証しはありません。私たちの戦いは血肉に対するものです。

 ここで一つお勧めをします。初代では当たり前であった聖霊のバプテスマを、クリスチャン全員が受けてほしいと私は願っています。もちろんこれはみ心しだいであり、そのためのHow-Toなどあるわけがありません。しかしこころから願い、求め続けてください。神はすべてこころをご存じです。信仰の真価に対し、明確なアドバンテージが聖霊のバプテスマにはあります。このことを次回さらにお証しできたらと思います。

2019年2月10日 (日)

闇から光に

使徒 26章18節     【新改訳2017】

それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。

闇とはサタン、またはサタンの支配下にある状態を指します。日が沈んでいく時、徐々に光を失って行きます。どっぷりと日が沈んだ世界は色や形を失い、何がどうだったのかさっぱり分からなくなります。闇は存在が認められない混沌の世界です。そこではどうなるか恐れと不安に包まれ、うごめきしかありません。罪を隠し、わからなくさせるのも闇です。神とは全く関わりの無い世界です。

これに対し、光の世界はどうでしょうか。日が昇って光が射すと世界は色を取り戻し、ハッキリと形が見えて、認識ができるようになります。光は植物を育て、植物はすべての動物たちのいのちを支えます。光はいのちそのものであるとも言えます。天地万物の被造物には秩序があり、それによって神がおられ、世界は神によって成ったものであることがわかるのです。ですから光とは神、または神の栄光そのものであることがわかります。

神を信じない人は未だ闇の中に居り、神を信じた人は光の中にいます。しかし神を信じた人であっても、闇と光の間を行ったり来たりしている人がいるのも確かです。その人たちは自分が果たして光の子なのかどうかすら、確信が持てなくなっているかも知れません。これら試みられている人たちは、神から見捨てられているのではなく、むしろ「神から祝福のチャレンジを受けている」と理解すべきだというのが、私の考えです。

クリスチャンは一旦罪を告白し、赦されたのですから、揺るぎない天国の相続権があります。しかし世で光の子として証しするには、愛、喜び、平安の実を結んでいる必要があります。神はその恵みを私たちに等しく与えようとしてくださっているのであって、それはまず自分自身を全部神に捧げ、神のものとされる必要があります。どっちつかずは本人にも苦しいわけです。

自分を捨てる、つまりルカ 9章23節にあるように、己の内にある肉なるものを明け渡し、それを負ってキリストに従って来なさいという明確なメッセージがあります。握っている肉なるものが、神と一つになる障りとなっている、それに気づかせ、確かに神のものとされるようにと、主は語っておられます。富める若人には財産を、父の葬ることは死人たちに、と主はこの世よりも、神の国を第一とする者に変えていただきましょう。

私たちはそれを聖化と言ったり、新しく生まれた者と言っているのです。心から悔い改め、神のものとして自分を捧げましょう。神の光によって私たちは変えられていくのです。

2019年1月27日 (日)

神のものとされる

エペソ 1章14節     【新改訳2017】

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

エペソ1:14節で聖霊が保証とか、別な言葉では証印と言われています。しかし多くのクリスチャンにとって聖霊が内住されているはずなのに、自分は本当に御国に行けるのだろうか確信が持てない人が多いようです。聖霊の実どころか、自分の心の中は相変わらず罪深い性質であるからです。

人はサタンと神との間にあって、どちらかに所属しています。問題なのは、サタン側は常Photoに人間を支配しようと不安や恐れの霊を送り、絶えず攻勢に出ていることです。神様側はそうでなく、慎しみと控えめで愛に満ち、私たちが神に悔い改めて心を向ける時まで、常に忍耐しておられることです。私たちはその草刈り場であることを決して忘れてはいけません。私たちが愛、喜び、平安を日頃感じていなければ、それはサタン側の攻撃を受けていると理解すべきです。

ではどうして神を信じ、聖霊が内住してくださっているはずなのに、そのようになるのでしょうか。答えは明解です。それはその人が完全に神のものになっていないからです。一つ、その例を取り上げてみたいと思います。

マタイ・マルコ・ルカにある、永遠のいのちを求める富める若人は財産を捧げられず、悲しんでイエス様の前から去って行きました。しかし弟子たちやペンテコステで信じた人々は財産をすべて捧げ、一人も乏しい人はいませんでした。どうして捧げることができたのでしょう。それは神を知り、永遠のいのちに比べれば、この世が取るに足りないことを知ったからでした。完全に神のものとなったこれらの人々は、大牧者の神のものである羊とされ、全能なる神が守ってくださるわけで、愛、喜び、平安の内に居続けるのです。

ですからみなさん、祈り求めて下さい。自分のすべてを捧げる祈りができれば、それは「み心」ですから成就します。時が来れば必ず受け取っていただけます。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われています(マルコ28:34)。自分を捨てるとは、神に己を捧げることです。今の自分を見てはいけません。神の助けによってその祈りは成就するのですから。

2019年1月20日 (日)

忍耐

✝使徒5:29 「忍耐」     【新改訳2017】

しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。」

弟子たちの豹変ぶりは、驚くほどでした。50日前には、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」とまで言ったペテロたちでした。が、ご承知のように命惜しさに三度も否定した挙げ句に逃げ出し、それからは恐れのあまり閉じ籠もって祈っていた人たちだったのです。

しかし聖霊のバプテスマを受けてからは一変しました。二度も居並ぶ最高法院の権威者たちを前にし、どんなに脅されようと鞭打たれようと、ペテロたちは死を恐れずに神を選び主イエスの証しをしました。ガリラヤの猟師という無学なはずの田舎育ちが、全くの堂々とした逆転の姿でした。ルカ12:11-12で「言うべきことは、その時に聖霊が教えてくださる」ので心配しなくて良いとイエス様が語られた通りの姿でした。これは彼らが別人になったわけではなく、彼らはただ聖霊に従っていただけなのです。

弟子たちを豹変させた聖霊のバプテスマですがImg_0072_2
聖霊のバプテスマは大きな誤解を生んでいる可能性があります。これは100%神から来るものですから、周りにいる人はせいぜいその執り成ししかできません。聖霊のバプテスマはみこころの時に、みこころの方法で起こりますが、受けた本人に神の実在と愛と恵みが激しく望み、人生の生き方が全く変わる新生を体験します。そのことは受けた人が一番鮮烈にわかることです。

つまり、それまでの自己中心で御利益的な存在=ドラえもんのポケットのように、自分中心に生きていたはずだったのが、逆に神のみこころのみに従う存在になるのからです。

そのような恵みを受けるまで、私たちは忍耐しているように思っていますが、実は神さまの方が、私たちよりももっと忍耐をして待って下さっていたのです。それまでの人生の中で、自分を捨てるという事とは、試練や困難を通して一つ一つ自分への希望を失い、そこに神が愛を持って守って下さり、歩んできたもので、皆さん全員がそこに神の手を見られるはずです。神は忍耐して私たちを長い期間をかけて導き、私たちの信仰告白という実を実らせて喜んで下さいました。神こそ一番に忍耐してくださったお方なのです。このわが神、主をほめたたえましょう。

2018年11月18日 (日)

助けて

マタイ 15章23-25節     【新改訳2017】

しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」 
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」

 今年の主題は今月四日の日曜日に初めて聞いたのですが、その四日前の火曜日、オリーブ山ではじめて祈った時、個人的に明確に示されたのはこの「助けて」でした。
 
マタイ15章21節以降のこのカナン人の女の記事は共観福音書のすべて記されています。イエス様達が行かれたシドンという所は、今のレバノンであり、バールやアシュタロテという偶像崇拝の地です。その異教の地においても、イエス様のことを「主よ、ダビデの子よ」と叫んでつきまとって弟子たちを困らせる女がいました。娘の癒やしをなんとしてでも得たい一心であったのでしょう。

イエス様はこのカナン人の女に対して、びっくりするような厳しい言葉を浴びせています。「わたしはイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」→イスラエル人に遣わされているので、外国人のあなたは関係ないです。
 「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」→神の子であるイスラエル人への恵みをカナン人のあなたに分けてあげることはできません。
 その上、イエス様から「小犬」と呼ばれる屈辱的な言葉も浴びせられました。しかし女はひるまなかったのです。おそらく女は、シドンからガリラヤのイエス様の所へ癒やしていただきに行った人たちが、みな癒やされて帰ってきた、その証しを聞いていたのでしょう。そして悪霊につかれた自分の娘が助かる方策は、もうこのイエス様だけが唯一希望であったのかも知れません。女はイエスのことばを受けて「食卓から落ちるパンくずでも」ください、とイエスにさらに願ったのでした。

似た話があります。最後の大士師サムエルを得ようと、神さまはハンナの胎を閉ざし、エルカナに第二夫人をとらせて多くの子を得さえ、ハンナを苦しめられました。それがエリの前に心を注ぎ出す祈りとなりました。神に捧げられた人サムエルの誕生はハンナの祈りの実でした。その祈りを引き出されたのは神だったのです。

このプライドも何もかも捨てて、ただ神のあわれみを必死に求め続ける・・・・・・これを今、神さまが私たちに求めておられるのです。心からの神への願いを神がご自身の計画のために用いてくださり、大きな祝福が結果として与えられます。確かに今現在、私たちの教会は経済的な面などで、困難に直面しており、教会の成長を心から祈っています。これこそみ心であり、必ず祝福されるとわたしは信じます。100倍、60倍と実を結んで行く、今年の年間主題がそのことを保障しているのです。

2018年9月 2日 (日)

感謝

エペソ5章20節     新改訳2017

いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。

「感謝する」
信仰との関係 神様は私たちを愛し、私たちと交わりたいがために、十字架と復活、そして信じる者に聖霊を与えてくださいました。聖霊は私たち人に送られますが、それは神なる聖霊様を通して、私たちが交わるためなのです。ですからCaki
交わりが神様の究極的な目的なのです。

表裏一体 ではその交わりは信じる信仰から始まります。分かり易くするために、いささか乱暴ですが、ケーキに喩えてみましょう。ケーキはスポンジと呼ばれる台と、その上に生クリーム、最上層にイチゴなどのデコレーションが乗ってケーキになります。差し詰めスポンジ部が信仰、生クリーム部が感謝、デコレーションは賛美でしょうか。信仰と感謝は表裏一体のものですし、賛美はそれを高らかに歌いあげるものです。

ただ感謝する このように見ていった場合、信仰が一切無報酬で、人間の努力も清さも必要とされなかったように、感謝もこれをしたら何か恵みを得られるだろうというような下心があってはならないのです。ただし、信仰は「ただ信じる」ということが唯一の条件でした。感謝も、自分自身に希望を失う絶望的なことになれば、それこそ神にのみ希望を持て生きる決心のチャンスです。
 「人間的な判断はせず、神様が許されたことのゆえにすべてを感謝する」、この絶対的な肯定が感謝のポイントです。例外は一切ありません。この上に立つ賛美は、ですから感謝の麗しいシンボル、デコレーションだと言えるでしょう。

神を確信する 神の愛は無償の愛~道徳の教科書「お母さんの請求書」(※子どもがお使いなどをお金に換算し母に代金を請求し、それを読んだお母さんが子どもに代金とお母さんの請求書を渡した話)を朗読。人間の親ですら我が子を愛します。まして神は、さらにすぐれた愛を私たち信じる子にくださっています。自分の感覚からではなく、聖書に書いてある神のことばと約束を信じましょう。そして約束を大いに声高らかに感謝しましょう。

2018年8月19日 (日)

信じる

✝️エペソ 2章8節    【新改訳2017】

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

  この聖書箇所を見ますと、「恵みのゆえに、信仰によって」「あなたがたから出たことではなく」とあります。バプテスマを受ける時、私たちは自分が信じる決心をしたように思っていますが、実はその裏面で、恵み深い神が私たちを選び、神が信じられるように、ずっと導いてくださっていたのだと言っているのです。ですから「自分の力で神を信じる決心をした」などと誇ってはいけないのです。ただ神のあわれみによって信じる者とされ、救ってくださったと感謝しましょう。永遠のいのちを受けたのです。

 ところが「信じる」ということも、運動会の「パン食い競走のように、ただ飛びついて食った」で終わりにはなりません。信仰にはピンからキリまであるのが実際です。神は「エレミヤ。あなたは何を見ているのか(エレミヤ1:11)」と神はエレミヤの見ている景色をすべてご存知でした。私たちの神は、サタンと異なって人の心を支配しようとはされませんが、私たちが神を信じ、内住されたこの聖霊様に、自ら進んで自分を明け渡し、神のしもべとして世を歩もうとするなら、大きな祝福を用意してくださっているお方でもあります。
 その大きな祝福とはなんでしょうか。私たちの血肉での時間は、天のエルサレムに住む永遠の時間に比べれば、ホンの一瞬に過ぎません。どんなことよりも大切な天での永遠の時間、世での賜物や働きの大小は関係なく、「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ(マタ25:23)」と仰っていただけます。つまり天の王座の近くに行けるのです。
 この反対に、神が恐ろしいからと、せっかくの機会を生かさず、地に埋もれさたままにするなら、お叱りを受け、持っているものまで取り上げられてしまうのです。これは大きな違いですが、それはホンの一瞬に過ぎない地上でしたことについての結果、酬いなのです。

 では人は如何にして神の器、しもべとなるのでしょうか。祈り、願うことです。神様を愛し、交われるように、そしてみ心を行えるようにと。愛する、と言うことと、交わる、と言うことはほぼ同じことですから、マルコ12:35でイエス様がパリサイ人にお答えになったお答えと同じになります。

 「信じる」ということは「悔い改める」がその土台です。信じることにピンキリがあるなら、悔い改めにもそうなのです。神様に自分を明け渡すためには、少しでも自分に希望や誇りがあっては不十分です。しかし人間には自分の力でもって、自分を打ち砕くことはできません。ただ試練を通してのみそれは可能となります。ですから神は愛する者に、恵もうとする者に試練を許しになられるのです。
 こうして自分を明け渡す者とされ、献身するもの、神に聞き従う者とされることは、なんという祝福でしょうか

2018年8月 5日 (日)

聖霊の力

使徒の働き 1章8節   【新改訳2017】

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。

 「聖霊の力」を受ける、とはこの場合、聖霊のバプテスマのことです。しかしこの聖霊のバプテスマはかなり誤解されているのが実状です。どう誤解されているかと言えば、まず第一に多くの教会で異端視されていることです。聖霊のバプテスマや賜物は初代教会の建て上げ時に必要であったもので、聖書と教会が確立している現在ではもはや不要なものであるとしているのです。また、そのように否定していなくても、「聖霊の内住」と「聖霊のバプテスマ」を同一視する教派・教団もあります。これらはともに聖書をよく調べれば誤った理解であることがわかりますが、今回は触れません。

 今回の問題は第二の、カリスマを求める人たちの間での誤解です。確かに聖霊のバプテスマは聖霊の賜物の土台であり、神との交わりを開くすばらしいものです。その恵みの体験を聞けば皆、「私も受けたい、ほしい」と思われるのはA自然です。

クリスチャン生活が三十年近くなっていた私も同様でした。私も聖霊のバプテスマを受けるために、必死になって求めていた4、5年がありました。まどか牧師も6年も経っていたと書いておられます。秋元牧師も、求めたらすぐに与えられたのではありません。かつてアメリカでは、多くのクリスチャンが悲痛な顔をして、「(得られないのは)私のどこが悪いのでしょうか。弱い人間だからでしょうか」と思い詰めていたとマーリンさんはその著書「賛美の力」で述べています。

 ここで「賛美の力」から少し引用させていただきます。「聖霊のバプテスマについての共通した誤った考えがあります。それは聖霊のバプテスマがとにかく私たちに力を与え、私たちの神のために働く力と才能を増し加え、私たちを霊的な巨人にするという考えです。これほど真実からかけ離れたことはないでしょう。それでは何の為に聖霊のバプテスマは必要なのでしょうか。聖霊のバプテスマは私たちを弱くするためなのです。その結果、神の臨在と力がより多く私たちのうちに内在し、また流れ出すのです(p96)。」

 またもう少し説明するために言葉を変えて、
「ですから聖霊のバプテスマとは神の霊に満たされて、自分自身を神に明け渡す器としてのきよめであり、その器に神の力が満たされることである(p98)」と述べられています。

 ですから、聖霊のバプテスマとは弱くされ、自分に希望を失って悔い改め、自分を神に完全に明け渡すという<弱くされる>ことなのです。これは考えてみれば、その人の主が己れなのか、神なのか、はっきりしていなければ、高ぶってサタン化する可能性すらあるからです。しかし、自分を明け渡すということは、自分の力ではできないことです。ですから聖霊のバプテスマには祈り求め、神の計画と時に自分を委ね、試練や困難を通されての、神の時があるのです。

 付け加えますが、聖霊のバプテスマは「聖霊の満たしの最初の現象」と言われている通り、その後も繰り返し繰り返し、満たしを受けていく、最初の第一歩に過ぎないのです。聖霊のバプテスマを受けたことが曖昧な方は、ハッキリと証できるよう、明確な満たしを受けてください。神は喜んで惜しみなく満たしてくださることでしょう。

2018年7月 8日 (日)

要塞を打ち倒す力

Ⅱコリント10章4節     【新改訳2017】
私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです

 要塞とは前線基地でして、いったん作られてしまうと、なかなか打ち破れない強固な陣地のことです。通常要塞は敵との境や敵のただ中に築かれ、精強な軍が派遣されています。領地をパトロールして守り、時に攻めるために要塞から出撃し、危うくなれば要塞に逃げ帰って軍を立て直します。聖書のこの箇所でいう要塞とは、サタンが私たちの中に築いている要塞であり、なかなか打ち壊せないもの・・・・・罪深い性質、ねたむ心、物欲や肉欲、なかなか直せない弱い性質や消えない古傷などが該当するのではないでしょうか。

 そこで二日前のⅡコリ7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」とあります。

 私たちが要塞と戦う時、自分の力の弱さを知ります。そこで戦う力の無いことがわかってはじめて、悔い改めて神様に自分を完全に明け渡し、自分の代わりに神様に戦ってもらうようになります。これが「救いに至る悔い改め」です。この戦いは、神の勝利となります。なぜならサタンは神に勝てないからです。Photo_3

これは兄妹げんかで、体格で負けそうな妹が父親に助けを呼ぶようなものだと言えばよいでしょうか。             

 神の側に立ったクリスチャンに対し、サタンは奪い返そうと激しく攻撃します。ですから神に逆らう闇の力、サタンとの戦いは、世にある限り、クリスチャンにとって常に続くことを覚悟しなければなりません。この霊的な戦いを自分の力で肉的に行うなら、常に深手を負うことでしょう。しかし悔い改めて、常に神に自分を委ね、捧げて、代わりに神様に戦っていただくなら、私たちは必ず勝利を得るのです。このことを「要塞を打ち倒す力」と言っているのです。

私たちに希望はなくとも、心の希望が神にあることを特に学びました。

2018年7月 1日 (日)

私たちの天のかたち

Ⅰコリント15章49節            【新改訳2017】

 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。

 私たち一般的なクリスチャンに、天国への希望、そこに行ける喜びという現実感が、あまりにも希薄な人が多過ぎる、そういう思いがしてなりません。

 たとえ現状がどうあろうとも、本来私たちはすべての罪許され、天国人として希望に溢れてスマイルの存在なのです。私自身も辛かった試練の中で、呻き苦しみ、希望の無い暗い表情をしていた者だったからこそ申し上げます。それでは、いけません。証人としての使命が果たせていません。

 しかし現実には、「天国人なんてこと言ってるの、現実が見えてないお気楽な人たち」とか「地に足が着いてないから言えている」と批判するクリスチャンたちの声が聞こえるようです。また福音派の教会の祈祷会では、ドラえもんのポケットばりに、神様への願い事や要求を呟くように唱えるばかりです。生ける神の臨在の中、感謝や心からの悔い改め、賛美という、祈りの土台がすっぽり抜け落ちているのです。祈りが聞かれる、そんな希望も信仰も無いようです。

 それがハッキリわかるのは、告別式、召天式という教会のお葬式において、まるで永遠の別れのように、式においてひどく嘆く悲しんで悼んでいる光景を目にする時です。出棺では泣き叫ぶ人すら出る始末です。今の世は永遠の世界に比べれば、ホンの一瞬のようなものです。この世での使命を終え、天国に凱旋して行った兄弟とは、私たちはすぐに再会します。ですから一時の別れは惜しんでも、あまりに悲しむのは、世の人と変わらず、復活を実際には信じていないというようにも見受けられます。

昨日、同じ群れの若い兄弟のブログに、次のような文面がありました。
日本で新しい人に出会うといつも、名前のせいで、外国人だと間違えられる。でも、くそまじめに、外国人だと、答えたい自分がいる。天国から来ましたと、天国のことを話すと多くのクリスチャンがしらけるし、笑う。天国の話をできないクリスチャンが多すぎる。けっこう悲しい現実。でも、イエス様はいつも天の御国は、と言って天の国の話をした。この世で成功するお話でもなく この世の政治の話でもなく、イエスさまはいつも御国の話をした。天国人として天の国のサムライとして、天の国の文化の中で生きて行きたいなぁと心から思う。

全くの同感ですし、今日私が皆さんにお伝えしようしたテーマは、完全に読み取られていました。付け加えますが、私たちにはすばらしい「御霊の体」が与えられます。鳥や魚の肉には、同じ肉でもそれぞれ違うように、天国には朽ちも老いもしない御霊の体が与えられます。その御霊の体をもって、罪も苦しみも無いすばらしい天国で私たちは永遠に暮らすのです。天国ではアダムとイブが堕落する前の、実にすばらしい世界が復活すると私は思っています。

どうか皆さん、この世のことを心配する世の霊に支配されないように、心がけていきましょう。不安や心配事が先ず頭に浮かぶ人が居ますが、それは悪霊です。肯定的、積極的な人間になれるよう祈り求めましょう。

 み心の使命が果たせるよう、神に祈り求めて行きましょう。自分の使命を知らずして、それを果たすことはできません。ですからまだわかっていない人は、ぜひそれを得られるよう、熱心に祈り求めてください。これはみ心ですから、必ず答えられます。天の国の文化をこの地上で明らかにできるよう、祈り求めましょう。そして神様に感謝して捧げられた人生、証人としてのスマイル、笑顔、喜んで人生を神様に捧げて参りましょう。

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